この章でヒクソンは呼吸一般について述べています。まず、呼吸を周期性呼吸と特殊な呼吸作用の2つに分類して、『歌唱とは特殊な呼吸作用である。』と結論づけています。
しかし、我々が日常で何の意識もなく行っている日常呼吸である周期性呼吸をそのメカニズムと共に理解することは、話し声と歌声の呼吸法の違いが判るだけではなく、歌唱のための特殊な呼吸作用を理解するための基本ともなります。
例えば、わたしは、声を出す前に体を動かしたり、過剰な息の量で声を出そうとする生徒に対して、まず、「声を出す前に息をとらないで、そのまま声を出しなさい」とお願いします。するとたいていの生徒は、なんて無茶な注文をする先生だろうと抵抗します。その時私は「あなたは、朝、友達に会った時にブレスをしてから『おはよー』と言いますか?」と質問します。人はしゃべる前に息をとりません。その時の呼吸がこの章でのテーマとなる周期性呼吸です。でも、舞台でのセリフや大きな声で歌うときの呼吸は?それは、後の章のテーマとなる特殊な呼吸作用です。

Respiratory Function in Singing

chapter 6
respiration
呼吸

INTRODUCTION
序説

生命維持のための呼吸、すなわち周期性呼吸 (tidal respiration)は、主に換気(肺器官への空気の出し入れ)の必要性によって駆動されてる。しかしながら、時には、呼吸器の作用が一時的に調整されるような、特殊な呼吸作用 (special acts of respiration)が優先されることがある。

VENTILATION 
換気

換気は、酸素を体内に送り込み、二酸化炭素を体外に排出するガス交換という生命維持のためのプロセスである。ガス交換は、肺胞レベル(いわゆる外呼吸)と、組織または細胞レベル(いわゆる内呼吸)で行われる。

空気(ほぼ21%の酸素を含んでいる)は肺胞に送られ、そこで酸素が血流に入り全身を通じて組織に運ばれる。組織は、血液から酸素を吸収し、代謝の副産物である二酸化炭素を血液に戻す。二酸化炭素を多く含んでいる血液は、最終的に肺胞に達し、そこで過剰な二酸化炭素は放出されて、新たな酸素が取り入れられ、このサイクルが繰り返される。ガス交換が生じる割合は、体の代謝要求によって決まる。代謝要求が高くなると、より多くの酸素が必要とされ、より多くの二酸化炭素が発生する。代謝要求は、エクササイズ、摂食と精神活動など多くの可変部分によって増加する。

p. 65

 

AEROMECHANICAL EVENTS 
空気力学現象

安静時周期性呼吸 (Resting tidal respiration)は、比較的規則的な吸気-呼気パターンとなる。吸気は、呼吸器の安静時レベルから始まる。続いて空気は呼吸器官に流れ込み、肺気量は増加する。呼気は周期性吸気終末 【訳注:吸い終わったところ】から始まり、肺の圧縮と肺胞内圧の上昇によって生じる。その後、空気が流出し、 肺気量は肺胞内圧の減少に伴い減少する。


<新生児のように吸ってはいけない>

私は、歌唱教師が生徒に「新生児のように息を吸いなさい」と教えるのを聞いたことがあります。 後天的な悪い習慣に染まらない「自然な」呼吸が、歌手のあるべき姿だと言いたいのでしょう。歌い手に言ってはいけないことベスト10を作るとしたら、「新生児のように息を吸って」はその中に入るでしょう。新生児は寝転がって呼吸していますが、直立しているときには全く異なる呼吸をします。新生児の仰向け姿勢での観察は、成人の直立姿勢での力学的環境とは関係がありません。実際、直立姿勢で呼吸器が最もよく働く方法とは逆になっています。だから、先生から「新生児のように息を吸いなさい」と言われても、丁寧に微笑んで無視しましょう。


安静時周期性吸気は、横隔膜の筋力によって駆動される。横隔膜を収縮させると胸郭壁が広がり、胸郭の底部が下がる(腹壁が外側に変位する)。胸郭壁筋や腹壁筋の一部は吸気時に活動することがあるが、その活動は吸気に直接寄与しない。むしろ、横隔膜が胸膜圧を下げるときに肋骨間隙が内側に吸い込まれないように、胸郭壁の活動で胸郭壁を硬化させる。腹壁活動は一般に高められた位置で横隔膜を保持する。腹壁の活動は横隔膜を全体的に高い位置に維持し、それによってその繊維を伸ばし、より効果的に収縮させる(長さ-力特性のより有利な部分にあるため)。これらの胸郭壁と腹壁の活動は、横隔膜の機能を最大限に発揮させるために働いていると考えることができる。【太線強調は山本による】

安静時周期的呼気は、呼吸器の弛緩圧【吸気後の元に戻ろうとする反動力】によって駆動する。胸郭壁と腹壁の内側への動きは、主として受動的な力の結果として起こる。しかしながら、安静時周期性呼気は、純粋に受動的なものではない。腹壁筋は、安静時周期性呼吸の全サイクルの間、活動的なままである。このような活動は吸気のために横隔膜を「整える」目的で維持されている。

PATTERNS OF RESTING TIDAL RESPIRATION 
安静時周期性呼吸の諸パターン

一般的な安静時周期性呼吸パターンは上記の通りであるが、その具体的な内容は人によって様々である。人によって、一回換気量、呼吸数そして吸気と呼気のテンポのさまざまな傾向をもっている。それにもかかわらず、これらのパターンは、成人の一生を通じて驚くほど安定している。


<生きるためのコスト>

あなたが行うすべての呼吸は、エネルギーを消費します。あなたは一日中、容量、圧力、形状を変化させており、これを行うにはカロリーを消費します。アーモンド入りのレギラーサイズのチョコレート・バーのエネルギー量は、おおよそ穏やかな呼吸で過ごした1日のエネルギーに匹敵します。今すぐにでも1つ食べてみたいと思いませんか?このようなお楽しみがペンシルバニア州のアリキッパのブランソーバーのマーケットで5セントで売られていたのを私は思い出しました。現在の値段は、ニューメキシコ州のリトルウオーターのナバホ・スーパー・マーケットで70セントです(今、中のアーモンドはすごく小さくなったと思います)。想像してみてください。呼吸にかかるコストは14倍になったのです。幼い頃、私は年間18.25ドルほどで呼吸ができたのです。しかも、老後のことを考えると、今の物価では同じ燃料でも年間255.50ドルもかかるのです。


PATTERNS OF SPECIAL ACTS OF RESPIRATION 
呼吸の特別法の諸パターン

一日を通してほとんどの呼吸活動は、安静時周期性呼吸で、脳幹と横隔膜が担っている。呼吸を止めたい、リズムを変えたい、タイミングを変えたい、深さを変えたい、方向を変えたいなど、通常の安静時周期性呼吸パターンとは異なるパターンを要求する場合、他の脳の組織や 他の筋肉が作用してくるのである。5章で述べたとおり、動脈血ガスの恒常性維持を主目的としない変化が課されるとき、それらは呼吸の特殊作用と呼ばれる。歌うことは、そのような呼吸の特殊作用の一つであり、それを実現するための変化については、この後の章で詳しく説明される。

REVIEW
復習

生命維持のための呼吸は、主に換気(肺組織への空気の出し入れ)する必要性によって起動される。

換気は、酸素を体内に送り込み、二酸化炭素を体外に排出するガス交換という生命維持のためのプロセスである。

安静時周期性吸気は、横隔膜の筋力によって行われ、胸郭壁と腹壁は横隔膜の機能を最大限に発揮させる役割を担っている。

安静時周期性呼気は、呼吸器の弛緩圧によって駆動されるが、腹壁は主に吸気のために横隔膜を「整える」ために作動しつづける。

安静時周期性呼吸のパターンは、個別的で、経時的に安定している。

呼吸器には様々な呼吸に関する特殊作用があり、そのコントロールは脳幹にある低次脳中枢をオーバーライドするかバイパスする高次脳中枢に委ねられている。

歌唱とは、呼吸の特殊作用であり、この本の中枢である。

 

2022/08/25 訳:山本隆則