VIII. 

調音器官の仕事

調音器官の機能は、母音の形を作ること、子音の動きをすることである、そして、歌唱におけるこの部門は主に歌手の技巧の巧みさに負っている。歌手がただ純音(pure tones)を生み出さなければならないだけならば、声のトレーニングは概ね他のあらゆる楽器の教育と同じくらい単純だろう。それがそうではない理由は単純である。母音に課される肉体的な要求は、喉頭が自由に活動するための要求と基本的に矛盾する。
調音器官メカニズムのさまざまな役割はすでに記述されたし、これらのメカニカルな構成部分の全てが口の中にあると言う点を強調する必要もない。
にもかかわらず、生徒が最初に理解することを教えられなければならない事は、適切な歌唱において、アーティキュレーションの活動的な仕事が、主に喉以外で、口腔で起こっていることを歌手が感じていないということである。(読者がここで私の本を投げ捨てたいと思うならば、私は、彼がそうする前にさらに先を読まれることを忠告する。)

母音は、科学的に「口腔を通過する空気の動きの産物」と定義される、そして、母音再生器は幾多の母音形態の一連の工作用粘土の鋳型から構成され、そして、各々は風の胸(wind-chest)*に結合される。*(オルガンで、管またはリードに吹き込む前に、ふいごからの空気が加圧されて保存される箱、ここでは、加圧された空気袋か)  空気の流れがどれかの型を通ることが許されるたびに、各々の型はさきの声の母音を生み出す。同様に、「ああ」という音をささやくとき、たとえば、口腔はそれを通って動く空気によってエネルギーを与えられる、そして、それにエネルギーを与えるための音波-システムを必要としない。「それを通って動いている空気。(The air moving through it.)」それらの5つのイタリック体にされた言葉に、歌手の最も大きな問題のまさしくその核心がある。音は、基本的に、空気の動きを絶対的最小値に下げた結果である:母音は、動きの継続を必要とする。

イタリア語は、あらゆる他の言語に比べ幅広い開母音に富んでいるので、「歌うための」言語で、母音の「開放性」が一般に歌手の主要な目的の一つであるとたびたび考えられている。しかし、母音の「開放性」には2つの側面があると考えられる。母音は、それを発する歌手にとって、開いていると感じるかもしれない、そして、それは聞く人にとっても開いているように聞こえるかもしれない-そして、これらの2つの概念は必ずしも同じ事でない。開きの感覚は1つの事である、そして、開きの効果はまったく別の事である、そして、一方を他と区別することは重要である。母音が開いていると感じられる度合いを決定する要因は、口腔を循環している空気の量以外の何ものでもない、そして、開きの最大の感覚を生む母音はささやかれた母音である。同様に、口腔の中を通る息の量は、母音を「置く」(私は母音がそれ自体を集中させると思われる場所を意味する)ことを主に決定する要因となる。読者は、まったく単純にこれをテストすることができる。最初に、歯切れの良い母音空洞と息の自由な動きで、「ああ」とささやいてみましょう。その次に気づくことは、「ああ」が、完全に開いている感じだけではなく、可能な限り前方に、前歯のちょうど上にそれが現れるのを感じるだろう。では、(i),「ああ」が、もはや前と同じくらい開いたとまったく感じない、そして、(ii),それが口腔からかなり後ろを移動したように思えるとき、彼に、比較的明らかな音声を得るように、母音を「声に出す」ことによって空気の流を減らしてみましょう。

今や、声にされない息が確実に通らないようにするために十分効率的に声門唇を使う効力は2つの要素がある。第1には、それは母音が非常により閉ざされた感じになる、あるいは、それを優先させねばならないとき、それに一点に集める。第2には、それは母音を声門自体に正しく引き寄せるので、喉頭が調音器官になったかのように思える。いわゆる、母音の「前に置くこと」は、口腔の中を流れる空気のおびただしい流れのために、喉を非常に不健康な状態に追い込む、それによって声門のメカニズムの自由な機能をさまたげとても有害である。考えてみれば、口の中を流れている空気の量が音の高さと強さ、更には、声門唇の接近の度合いに依存しなければならないことは明らかである。それを普通の英語スピーチの「開いた」母音に求められる空気量に頼ることは、喉頭を口のなすがままにすることだ。

我々の日常英語スピーチでは、声門唇をきわめてゆるんだ閉鎖で使っていると同時に、普通に話すとき、音の高低の範囲をあまり越えないという単純な理由のための母音の開きのある一定の基準に、我々は慣れている。我々のスピーチ習慣によって引き起こされる正常な息の消費量は、通常, 母音をよく開き、そして、口の一番前にそれを「置く」ことを感じさせぐらい多い。このため、楽器を自然に使う結果として「開放性」と「前方に置く」ことを認識し始める、ところが実際は、それらは単に非常に誤った発声プロセスの習慣的徴候でしかない。同様に、母音の大きさは声がよく聞こえる要因であると信じがちである、ところが、真実はこれとは正反対である。大きい「開いた」母音(すなわち、口を開ける)は聞こえ度にとって極めて有害である、なぜならば、それはすべてのものから最も多量の息を要求するからだ。この結論に反対する読者は昔の歌手のいくつかのレコード録音を入手し、声の上昇に伴い次第に母音を狭くする彼らの実践に注意することを勧めます。歌手の真の目的は、広がった母音でなく、集中した母音である。

母音の「開き」の感覚が口腔を通過する息の量に完全に依存するという事実は、途方もなく重要なことである、なぜならば、それは、歌手が徹底的に理解しなければならない2つの互いに補い合う事実を確立する。発声の作用は、音階を上がる際に口腔の中を進む空気が徐々に少なくなるので、音程の上昇に伴い、少しずつ「閉鎖」または母音の狭小化も引き起こす。第2に、上昇する音階を歌う際に、同じ母音濃淡を保とうとする歌手側の労力は、口腔中により多くの息が必要となる、それ故、声門唇の縁を強引に引き離そうとする力が働く。開いた母音を、ピッチのある高さを越えて保とうとするならば、音声は急速に耳障りな叫びに変質する、そして、喉頭に多大な障害が加えられる。
この事は多くの歌手や教師にはよく知られているが、母音が完全に開いて保たれ、それを越えると「カヴァーされ」なければならない、つまり、意図的にゆがめられなければならない一定のピッチ-ポイントがあると過度に信じられている。この考えは、我々が見たように、完全に事実と相違する。
たとえば、歌手が上のCで長いmessa di voceするならば、クレッシェンドにつれて、母音は開いて、ディミヌエンドでもう一度徐々に閉まって感じられる。したがって、正常な英語スピーチ・テクニック(それは通常非常に息のロスが多い)によって確立されて、音のアーティキュレーションが広範囲にそれと異なることが、見る、そして、必然的な口-共鳴、そしてそれはただ母音が正しく明瞭に表現されるとき、完全に消える、しかし、歌手がそれを了解して、そして、歌手が十分に歌うためにアーティキュレーションの新しいテクニックを学ばなければならないと言うことが誇張でないまで、誰の失踪が母音の全部の性質を変えるか。

音の調音は、標準的な英語スピーチ・テクニックによって確立されたものから、詳細にわたって異なるように認められる、そしてそれ(標準的な英語スピーチ・テクニック)は、普通非常に大きな息のロスをもたらし、結果として口-共鳴になる、それは、正しく調音された場合、完全に消えてしまうだけではなく、その失踪が、歌手がそれを知覚し、そして、上手く歌うために調音の新しいテクニックを学ばなければならないと言っても過言でないまで、その母音の全体の性質を変えてしまう。正しい歌唱の効果は音声-母音を、喉頭にその起点を持つ単一体にすると言う点については、セクションIIですでにのべられた、そして今、その単一体がどのようにもたらされ、知覚されるかについて説明することが残っている。実際的な例として、「ああ」母音を、音Gの上で歌って見よう(ソプラノ譜表の第2線、またはバス譜表の第4間)。
歌手は、(息を取った後に)、「母音鋳造」機として、舌の背部、軟口蓋の背部、と喉のチューブを用って母音空洞をつくる事から始める。その次に、セクションVで記述されたピンと引き入れられた腹筋に対して胸筋の制御された圧搾を実行するのと同時に、気管で母音を明瞭に発音する。アタックが適切であるならば、母音は、喉の一番下から、上方向へ頭の背部に拡大しているように感じられる。そこから、それは口から反響されるようにおもえる。アーティキュレーションの行為は、歌たっている間、継続的でなければならず、決して中断してはならない。母音がそれ自体を口に置くようならば、歌手は息を通し過ぎている、そして母音の「開き」のために聞こえ度を犠牲にしている。他方、母音が正しく一点に集められるならば、輝いた声門の鳴り(a bright glottal ring)で、暗い、狭い母音(a dark, narrow vowel )を生み出すだろう。そして、結果として生じる音声は、その完全な豊かさと聞こえ度を達成する。

この個々の母音に適用されるものは、言語の全範囲で、すべての他の単一母音に等しく適用される。あらゆる場合に、あるピッチで歌うとき、母音は喉の背部壁の上に広がるように思える。そして、ピッチが上がるにつれて、次第に、さらに後ろに、そして、より低く下の方に移動する、そして、歌手にとってすべての母音は、普通のスピーチにおいてより、より長く、より狭く感じる。声を輝かせ、それをリスナーの耳に開いたように聞こえさせる音の響きは、純粋に厳密な接近のたまものである、そして、これは、ひいては、喉頭アーティキュレーションのたまものである。音が喉頭の上を超えて出し始められるならば、母音は締めつけられ、干し葡萄のように、あるいは、それが咽頭全体の中に広げられたように ― 喉音で「羊声」のように聞こえるだろう。声門のアーティキュレーションが、気管以外の、どこかほかでのアタックを伴うときはいつでも、歌手が実際にしていることは、通常口腔で現れる母音のもととなる息消失を引き起こすことである。そのような場合、母音は腔を締めつけて喉頭腔に現れることしかできないので、音が喉音に聞こえる。母音は、喉で形作られるからではなく、喉に包まれるので、喉音である。
歌手がこのように音を生み出すときはいつでも、彼はCrescentiniの金言が本当に意味することに従っている:-「イタリア楽派(歌唱の)は、息より上の声の楽派である」、なぜならば、彼はその時、声は口ではなく、息が「息」であることを終えて声になる喉の下のどこかで、作られていることを知っているからだ。音は口から流れ出る息の流れに浮いていると感じられなければならないと言う、いくぶんデルフォイの神託のような現代の考えは意味をなさない、なぜなら、声門を通るすべての空気が音声に変えられるならば、それが炎を揺らすことや、鏡の表面を曇らせるには不十分な小さな流れる息でなければならず、そして、流れる息の感覚は全くないだろう。正しい歌唱において、歌手は息を吐いているようには感じない;彼は、それを保持しているのを感じる、そして、より弱い音ほど、息の保持の感覚は、はっきりする。多くのイタリアの歌手がフレーズを終了するための喉頭筋反射の説明で;音をカットするために、喉の底の堅い閉塞は即座に解放される。(この現象についての私自身の見解は、声門唇を別々にはじくことによってではなく、気管の収縮性の労力の突然の解放によって生じられるということである。)

イタリア語を「歌の」言語とするものは、それが豊富にあると思われている名高い「幅広い開母音」ではなく、それを明瞭に発音するイタリア人の方法であることは十分に明らかにされてきた。イタリア人は、口のいちばん前で母音をはっきり発音しない;もしそうするならば、彼は英語のアクセントをすぐに習得するだろう。もしその口腔中を動いている空気の量の減少が、母音を暗くすることになるならば、そして、もし母音を前方に置くことが、ただ空気-動きを増やすことによってのみ獲得されるのなら、その時、聞こえ度は、声門のアーティキュレーションに影響を受けるだけでなく、さらに強調されると言うことは明らかである。喉で調音することが出来るようにならない限り、イタリア人のように、正しいイタリア語のアクセントを習得することはできない-そして、イタリア語に適用されるものは等しくフランス語とドイツ語に、そして、本当に、すべての他の大陸の言語に、そして、同様にウェールズ語に適用される。
任意のウェールズの読者に、普通のやり方で英語の文を彼が言葉をどこでアーティキュレーションしているかに注意しながら話してもらい、その次に、ウェールズのセンテンスで、それを続けてもらいなさい。調音のプロセスの違いは彼を驚かし-おまけに、歌唱について大くのことを彼に教えるでしょう。

スピーチ・トレーニングの現在の英国のシステムはばかげたシステムである-いかなる言い方でもそれを正しく評価することはできない。それは、持続的に、そして、気ままに彼女の頭上の母なる自然にある「William神父」(ルイス・キャロル)システムである。それは、ゆっくりとスピーチ-音からすべての豊かさと深さを奪う方法である;スピーチ-音が完全に浅くなり、最短時間で喉頭の筋肉組織を消耗する方法である。生徒がスピーチをする習慣で、このいくぶんびっくりするような反転をしなければならない、という提言への通常の反応が抗議の形をとることは承知している。「いや、喉から作られる音声は、喉音(guttural)である。あなたは、私が喉音で話すことを望まないでしょ?」答えは、「喉頭音」が決してそのような物ではないことを意味するということである;我々がそれが好きであるかどうかにかかわらず、すべての声音は喉で作られる。「喉音」ものは喉で閉じ込められる響きを指す;収縮は、それが外へ出ることを妨いでくれるものの前で行われる。声は喉で保持されるので、喉音に聞こえる:声は、前方へ置かれるからではなく、そこに着くことを妨げる妨害がないから、前で響く。

すべて息が音に変えられるような性質の声門唇の接近を確立する作用は、正しく母音を喉頭に引き下げることである、そして、それが、テンションの高い発声音域の上部でなされるのと同じように、テンションの低い話すピッチでも行われる。Manuel Garciaが、歌手の真の口は、咽頭(すなわち、喉)であると考えなければならないと書いたとき、歌手のために書いた;にもかかわらず、その考えは等しく十分にスピーチにもあてはまる。この実践から生じる変化は、話者が母音を調音し始め、以前よりも、子音がそれに伴って非常にはっきりし、その結果として母音がはっきりする。一旦母音が言葉のプロセスで優先されるならば、言葉全体は喉ではっきり発音されるのは明らかでである。試みがそれをそこで保持し続けない限り、スピーチは音楽的で、響き渡って、そして、喉頭に非常に心地よい。このように話せば、疲れた喉で苦しむことはない。

現在、すべて国の学校や大学で用いられているトレーニングの方法、そして、そのために教育分野の権威によって今認定されている教師は、弟子達から彼らの話し声を奪い、残念ながらしばしば彼らの喉に損傷を与えている。「ポイントの上で話すこと」についてのうわべだけのたわごとを話すのを止て、我々がもっともらしく使う用語について少し真剣に考えて見よう。
現在のトレーニング方法は、自然であることによってでなく、上品ぶるために考え出されたものによって決定されている;自然に健康的で強健なスピーチ音は、どういうわけか、がさつで行儀が悪いことであるという、ビクトリア朝風信仰の英国の習慣の結果である。その結果は喉頭筋を弛緩させることである、そして、持続的に弛緩させられた筋肉はつかえなくなる。

ヴォイス・トレーナーがこのひどいトレーニングシステムの生成物の一つで行わなければならない最初の事は、アーティキュレーションの全プロセスを逆にして、その自然な基礎に基づいて話させることである。生徒が1日に1、2時間も歌の練習に充てることはまったく無駄である、もし、彼(あるいは、彼女)が起きている残りの時間、練習によって確立しようとしている事の全く反対のことをやっているならば。話すときはいつでも、彼は重要な作業に専念しなければならない、なぜならば、スピーチはブレークにとって最も難しい、そして、それをブレークするためにますます注意深い持続を必要とする言葉の感覚の潜在的な基準を確立するからだ。外国の生徒は個人指導を英語の話者以上に有利に始める、何故なら、すでに喉ではっきり発音していて、それを獲得するために特別なトレーニングをする必要がないからだ。これは、英語がより歌うことに向かない言語である、あるいは、英語人の喉頭が外国人のそれと異なっていて、より完璧でないということではない。英語を話す学生は、ただ正しい発声を確実にするだけでなく、喉頭筋の音も回復させるために、そして、外国人に追いつくために、ただ彼の練習時間の間にだけでなく常に、調音のプロセスでよりしっかり学ばなければならないということだ。結局、声は筋肉の集合から成る。