[217] 共鳴  Resonanz   [マルティーンセン=ローマン、歌唱芸術のすべて、荘智世恵、中澤英雄 共訳 p.289]

いかなる物理学者も音声学者もこれまでのところ、歌手声の共鳴の本質を余すところなく科学的に解明することに成功しなかった。かつて生理学の陣営(ギースヴァイン博士)からは、声の共鳴という観念は矛盾したものである、と論証しようとする試みがなされた。 もっとも、声楽的過程を知りもしないし、理解もしない人は、頭部共鳴という概念に対しては、ローエングリーンはボール紙の兜をかぶっているではないか、いわゆる胸部共鳴に対しては、肺は海綿状の組織なんですよ、などと皮肉を言って反論しようとするかもしれない。
しかし残念至極にも、医学がその病原体を知らなくとも、癌はちゃんと存在する。そして声楽的共鳴は、共鳴を準備してととのえるだけで、発声機能と音響形態全体に、驚くべき程の、そして決定的な影響を及ぼすのであるが—これはありがたいことに、その起源を科学的研究によって解明することができなくとも、断固として存在するのである。

共鳴(Resonanz)という語はresonare、すなわち〈音が戻って鳴る〉、反響するという意味のラテン語に由来する。物理学で理解される共鳴とは、弾力のある物体の同時響鳴、たとえば閉鎖された、もしくは半分開いた空洞内における空気の共振のことである。良いヴァイオリンの秘密も、良い声の秘密も、われわれが共鳴と呼ぶ事象の中にある。

人間〈ヴァイオリン〉は2つ(あるいは本来は3つ)の身体的共鳴部位を有している。それは胸部もしくは身体共鳴と、頭部共鳴である—後者は頭蓋前面共鳴〔148〕と、もっと後方のクッペル〔128〕共鳴(これは口腔後方部、それとつながっている鼻咽腔〔173〕、声唇〔252〕より上方の喉奥の部分を含む)の2つとして知覚される。

〈 i はテノールの母音であり、u はソプラノの母音である〉という昔のイタリア人の卓越した言葉は、共鳴の問題を解明してくれる。それは、すべてのテノールはもっぱら i を、すべてのソプラノは u を訓練すべきだ、とでもいうようなことを意味しているのではない。この言葉は、この2つの高い声種の高音部共鳴の核心的問題を端的に語っている。テノールの高音部の5度はとりわけ輝きを必要とし、頭蓋前面の共鳴部位、すなわちマスク〔148〕を必要とするのであるが—典型的に〈明るい〉特性を持つ母音 i が、この共鳴特徴を最も見事に代表する。これに対してソプラノの高音部は、鋭くならないために、柔らかさのほうをはるかに必要としている。それが要求しているのは頭蓋後方の共鳴部位で、これはクッペル音響と同一であり—そしてそれは母音 u に〈象徴される〉。しかし、その背後には必ず a がなければならない!
この事実を逆転して、テノールの高音域をもっぱら u で訓練しようとでもすると(つまり i 音のメタル〔148〕も、広い張り〔29〕も、口腔前方部発音〔299〕の強調もなしに)、高音域はたいがいの場合、救いようもなく鈍い音になるか狭くなり、テノールとしての性格を喪失するであろう。これとは逆に、ソプラノの高音域を、マスクを強調して、基本的にはもっぱら i 音で訓練するならば(それはテノールが必要とする広い張りをしているのと同じことである)、ごくまれに存在する過度に頭声的な声ではうまくいくかもしれないが、他の人々は頭部後方音響をないがしろにしたために、決して柔らかく丸みのある高音域を出せず、かん高い金切り声になって身を滅ぼすのが関の山であろう。もっとも、経験を積んだ発声指導家は、顕著な u 音の訓練をあまりに文字どうり行ってしまうと、今度は広く拡がっていゆく女声の高音部を危うくしかねない、ということも知っている。通常の高音域が〈笛声的な〉 u 音の性格〔194〕を持つと、女声を狭めてしまう危険性がある。(そのような u 音の性格は本来の笛声区、すなわち3点オクターヴでのみゆるされる。)

共鳴訓練によって声を洗練してゆくための大きな課題は以下のことである—すべての共鳴部位はたえず関連付けられ、音響を生み出すべく常に準備状態に置かなければならない。すべての空間は分断されることなく振動を受け取り、それを伝播しようとしなければならない。最も低音域の力強い音〔123〕でも、高い頭部共鳴のクッペルがともに響いていることが感じられる。最も高い輝く音響でも、共鳴の基盤である気管の振動部位の共振が、確固として参加しているのが感知される。共鳴に対するこのような準備を整えれば、喉は自動的に〈正しい位置に置かれる〉のである〔111〕。
このような正しい訓練と対照的なのが、数多くいる一面的な共鳴の囚われ人たちである。彼らはもっぱら唯一の〈共鳴点〉を得ようと努力し、たとえばいわゆる〈音流〉もしくは—もっと悪い表現では—〈空気流〉を特定の個所に〈導き〉、すべての音域に対して共鳴をその部分に局所化し、固定化しようとする。このような原始的な共鳴努力によって、彼らは一方では、空気を浪費する、かの有名な通気共鳴を起こし、鈍い鼻音性 〔172〕を作り出す。これは空気摩擦を惹起し、声全体から核〔116〕と実質を奪い取る。他方、彼らは喉圧力や口蓋性〔81〕の形を借りて、典型的な代用共鳴を行おうとする。これは喉を固定化し、自由に浮動する音響やヴィブラート〔282〕を不可能にする。
唯一絶対的な、それだけですべてが解決するという、孤立した共鳴ドグマというもには存在しえない。
歌手に共鳴を意識させるのに定評ある補助手段は、m, n, ng という鳴音を用い、その振動をそれに接続する母音に伝播させることである。非常に多くの学校では、すでに最初のレッスンで、〈m〉の振動音を母音につらえることが試みられている—それも、何らかの形の m 音自体の弛緩練習も訓練もなしに行われることが多い。何のコントロールもなされていない m を、気管の内側を開くことなく歌うならば、練習のこのような開始方法は危険なこともある。それは喉の開きをしばしば驚くほど狭めてしまうからである。鳴音を用いての訓練が有意義なのは、そのすぐ後に母音の余地が残されており、鳴音と母音との間の次のような関係に対する明確な知識が、その練習を導いているときだけである。
それは、m は母音の丸みづけを支援する口部鳴音である、という知識である。これに対し、n は音響を最も確実に顔面に導いてゆく〈顔面鳴音〉である〔148〕。そして第3の鳴音 ng は正しく用いれば、開母音のアーティキュレーションを申し分なく促進する。共鳴を開発してゆく際のこのように繊細ではあるが、きわめて精確な音声学的法則〔196〕を、歌手は実践の中で、簡単にして自明なものとして応用することができる。たとえそれが、理論的に取り組んだだけでは、奇異で複雑に思われるとしても。
共鳴の存在を否定しようとするすべての試みには、数世紀にわたる次のような経験的事実が反論を加える。共鳴のために空間を整える—意識的にせよ無意識的にせよ—ことによって、全発声器官は最も自由で自然な機能を発揮することができる。 この最後の点こそ決定的に重要なのである。