1555Lodvico Zacconi ~1627  歌手、ヴェニスの教会合唱団の指揮者、と同時に作曲家、著作者、司祭、そして発明家という真のルネッサンス人。Zacconi は音楽史に於いて、ソロの歌が多声声楽曲(poliphonic song)が、当世風の音楽(the art a la modo)に取って代わり、ソロ・シンガーの名手が合唱団や無伴奏合唱曲(part-song)の歌手の階級から出現し始めた時代に生きていた。 1592年の彼の著書 Prattica di musica 〈音楽の実習〉の中の「よき音楽を作るために選ばれるべき声のタイプについて」というタイトルを持つ章でキアロスクーロに相当する記述をしている。

1602 :  Giulio Caccini“Le nuove musiche” (1602) は、拡張された序文が付いており、その中で、新しい独唱曲に使われるために多くの詳細な歌唱技術を取り上げている。(Caccini 1602, 1970)カッチーニは、「豊かで自然な声 (voce piena 〈豊富な〉e naturale) で歌うべきであり、ファルセット(le voci finta, 偽りの声)をさけなさい…彼自身を他の人に合わせることなく。」(Caccini 1970, 56)独唱に対する指示。

1654  : Pier Francesco Tosi ~1732 ソプラノ・カストラート、 作曲家、”Observations on the Florid Song or Sentiments on the Ancient and Modernaliano”の著者。”messa di voce”の命名者。

1705 :  Farinelli (Carlo Broschi, 1705-82)生まれる、Manciniは、彼の息の精通した技巧を称賛して言いました。『何事にも目立つことなく、適切さと蓄えられた息をどのように維持し取り入れるかという知の技巧は、彼を持って始まり、そして彼を持って終わる。』

1741: 実験的な声の生理学は、1741年に、Antoine Ferreinによって、摘出された犬の喉頭の公開実験を通じて始められた。Ferreinは、生きている人でのピッチの上昇が主に声帯のさらなる緊張と伸長によって達成されることをはっきり確認した。輪状軟骨と甲状軟骨の前方の接近によって、声帯が長くされて声のピッチが上昇することを、彼ははっきりと記述した。

1755 L’art du chant (歌唱芸術) の1755年版に歌手であり著者の Jan-Baptiste Bérar は次のように書いています『声について考えられる歌唱技巧のすべては、喉頭の正しい上げ下げと、良き吸気と呼気作用から成る』(Bérard 1969, 76)彼のメソッド本の中で、垂直の喉頭の位置についての記述が多く、彼はピッチと母音に合わせて、絶えず変化すべきであると感じていた。

1762 : Girolamo Crescentini~ 1846 クレッシェンティーニは、Raccolta di escercisi per il canto: 歌の練習曲集(1810)のフランス版でvoix éclante (鳴り響く声)と voix sourde (こもった声)に言及した。

1774: Chiaroscuro という語が初めて、Gimbattista Mancini(1714-1800)“Pensieri e riflessioni patiche sopra il canto figurato”で使われた。その中で、マンチーニは、ゆっくりした音階をいかに練習するかという教えを与え、そして次のように言いました。「このエクササイズは歌唱のためのどのようなスタイルにも必要なキアロスクーロによって色づけされたカンティレーナ(叙情的旋律)を形づくる真の表現で、いかなるパッセージも自由に色づけすることを[生徒に]マスターさせるだろう。」(Mancini 1967, 42)
また、声区の問題に関して、「歌手の卓越した技巧は、彼が胸と頭の2つの異なる声区を合わせる多少の困難さを、聴衆や批評家に気づかれないようにすることである。これは限りない改良によってのみ獲得することができる:しかし、これは単純で自然なやり方では容易に習得することはできない。器官の強さの大小によって生まれる欠陥を修正するための研究と努力が必要である。そして声をむらなく一様に響かせ、喜びに満ちたものにする操作能力と効率的使用を手に入れる。これはほんのわずかな生徒だけが達成し、ほんのわずかな教師だけが、実際的な規則、或いは、実行の仕方を理解しているにすぎない。」

また、Mancini は、呼吸の節約とメッサ・ディ・ヴォ―チェの問題に触れています。彼は次のよう言いました、『成功のために最も必要なことは、息をいかに維持するか、そしてそれをいかに取り扱うかを知ることである』(Mancini 1967, 62)。彼が主張するメッサ・ディ・ヴォ―チェは、ブレス・マネージメントにおいて高度な訓練を必要とします;『私は繰り返す、生徒は、次に述べる事柄を少しも習得できないならば、メッサ・ディ・ヴォ―チェを実行できると思い込んではならない。それは息を維持し強化し、そして息を取り戻す技である:これはひとえに、声の正しい、そして必須のグラデーションの天賦の才能に左右される』(45)。マンチーニはメッサ・ディ・ヴォ―チェの重要性を繰り返し述べ、それは『歌に重要な美点を与える』そして歌手に『いかなる欠点もなく保持し、グラデーションする』ことを可能にする。その中には、美しい歌唱の『技巧以上の秘密』がよこたわっている。

 

1775 :  Vincenzo Manfredini (1737-1799)  Regole armonich (1775)

1779Alexis de Garaude ~1852

1803 :  コンセルヴァトワールは歌唱にける包括的なメトードの著作で有名でした。éは、コンセルヴァトワールの発声メトードのための資料を編纂しましたが、この計画が完成する前に亡くなってしまいました。この著作はHonoré Langlé によって編纂され1803年にMethode de chant du Conservatoire de musique として出版されました。メンゴッツィは、イタリアの伝統的、特に有名なカストラートAntonio Bernacchiの教えに基づいたメトードはすべてに時代の音楽に適応されると主張しました。1830年代になって、メンゴッツィの本はAlexis de Garaudé(1779-1852)によって改定、捕捉され、Méthode complète de chant と改名されました。Garaudéは、ぱりのゆうめいなかすとらーとGirolamo Crescentiniの弟子で1816年から1841年までコンセルヴァトワールで教えていました。

1805 : Garcia II (Manuel Patricio Rdriguez Garcia)~ 1906

1825 :  ガルシア一家は何人かの他の歌手たちとともに、ロッシーニとモーツアルトのオペラで、新世界へ最初のイタリアオペラの訪問団として、ニューヨークとメキシコシティーを訪れる。

1830 :  Garudéは書いています、『テノールの声にいつも用いられた頭の声は無限の魅力を持っていた。人は、強さと純粋性でそれを始めなければならない、そして、気づかれない程度にそれを胸声と結合しなければならない。』彼の音楽的実例は、これらの変換音はE4からF#4、すなわち、passaggio(変換調節区間)の音であることを示しています。彼は言いました、胸声を少し上に広げる、或いは胸と頭の声を結合するためにテノールはvoix mixte を使い、それによって『1つの声区が他の声区に少し加わる』。知的なテノールは『声区を変えることなく』或いは『ハードタイプの変換』(それによって声区間のあからさまなブレイクを予想できるようなタイプ)をさけて特定のフレーズを歌うために、このテクニックを上手く使うことができます。彼の音楽上の実例において、ミックス・ヴォイスはBb4まで上昇します(Garude 1830, 22)

1835 :  ガルシア、パリコンセルヴァトワールの歌唱教授に任命される。

1837: テノールDuprezがParis Opera の『ウイリアム・テル」で、胸のハイCによって新しいイタリア流歌唱スタイルをもたらす。

1837:  Johann Müllerによって着手された実験を通して、大きな前進が成し遂げられた。彼は切除された死体の喉頭をフレームの中につるし、声帯の位置、緊張と振動、と同時に、さまざまな空気圧力の使用の測定可能な変更ができるようにした。Müllerは、それで以下の結論に達した。
(1) 気管気流によって動かされるとき、内転した声帯は人間の声の音と全く同様の豊かで純粋な音を生成する。
(2) 仮声帯と喉頭蓋の喉頭の準備(laryngeal preparation)があるかないかで、有意な差を作る。それらが存在するとき、音はより大きくてより豊かな音を生成した。
(3) 声のピッチは声帯の緊張を増やすことによって上昇する。Müllerは、一方の声帯間の振動と、他方の音楽的な弦またはきちんとはりつめた膜との間の振動の差に気づいた。
(4) 2つの主要な声区(胸声とファルセット)の差は、はっきり見られた。Lehfeldt(1835)が、最初にストロボスコープで、これらの2つの声区で特徴的な振動パターンを観察したあと、Müllerは以下の方法で振動差を記述した。胸音の場合、声帯は活発な方法で、全ての息にわたって広い可動域で振動する;ファルセット音の生成において、振動は声帯内の縁に変わる。
(5) 声帯の緊張が取付けられた重しによって等しくて保たれたとき、増加した空気圧は声の音程を約5度上げた。
(6) 喉頭蓋の下降は、音をより暗くて少し低く聞こえさせた。

1840 : Diday and Petrequin, “Memoires sur une Nouvelle Espece de Voix Chantee,” Gazette Medical Paris, 8, 305.
1840年に、DidayとPetrequinは、上行音階での開いた歌唱は、喉頭の上昇と共鳴管の短縮を伴なうことを実証することができた。対照的に、カヴァーされた歌唱は、深い吸気に伴う喉頭の低い位置によって、特徴づけられる…この共鳴管を長くすることによって、カヴァーされた歌唱は開いた歌唱より、音をより豊かにする。[Luchsinger & Arnold 1965 p.103]

1840 :  Garciaは、Mémoir: 記録の中で、振動の仕方によってもたらされる各々の変更は、異なる音質を生み出す、そして、伝達管が受けた各々の変更は元の音質を変更する。』(Garcia 1847, 1:16; 1984, 29; イタリック体はGarciaによる)彼は、Traité (論文)の第2部で繰り返して言った、『音質は、管がよく響く波に与える変更によって決まるだけではなく、これらの振動が生まれる場所によっても決まる;つまり、声は、声門でその第1の性質を受け入れ、それから咽頭と口腔の数多くの変更を受け入れる。』

1841 :  ガルシアは、1841年4月12日に、彼の Mémoire を科学アカデミーに提出したとき、声区の違いを説明するために何人かの生徒に実演させた。

1846 : 喉頭発声の起源への更なる研究はDodart(1706)とLiskovius(1814-1846を見よ)によって着手された。これらの著者は、人間の声がフルートの音のように生成されると信じていた。彼らは、声のピッチは開きのサイズと推進気流の強さで決まるということを発見した。開きがより小さくなるとき、そして、空気圧力が増加するとき、音程は上昇する。

1847 :  ガルシアは、喉頭鏡の発明以前の1847年版 Traitéにおいてすでに書いています: 『声門唇は、後端が合わせられるとき(披裂軟骨の突起の内側を合わせることによって)も、あるいはこれらの端が離れているときも、同じように振動することができる。最初の場合では、音はすべての輝きでもって発せられ;後の場合は、声は鈍い音質になる』

1855 : この年にガルシアは喉頭鏡で始めて発声中の喉頭を見たとされる。ガルシアの独創的なローヤルソサエティへの研究発表 ‘Observation on the Human Voice’《人間の声の観察》(1855年のローヤルソサエティ会報の中に発表された)において、ガルシアは喉頭の観察と解剖を通じて明らかとなった、喉頭筋の繊維の綿密な観察に基づいて、喉頭の生理学に際立った詳説を提示した。

1861 :  Emma Seiler の所見は最初1861年にドイツで出版されました;英語の翻訳、The Voice in Singing (1868)は何版かを重ね、Curwen(1875)、Lunn (1878)、Mackenzie (1890)、そしてCurtis (1909)などによって引用されました。

1862 :  音響理論の基礎はHerman Helmholtz の記念碑的書物、On the Sensations of Tone によって築かれたこの本の初版は1862年のドイツで、1885年に Alexander J. Ellis によって英語に翻訳された。(日本では、2014年に「音感覚論」として銀河書籍から辻伸浩のすぐれた翻訳で出版された:山本)その中で、シンガーズ・フォルマントに当たる声の響きを「小さな鐘の澄んだチリンチリンと鳴る音(clear tinkling of little bell’s )」と言った。

1863: Dutroche(1806、Merkelの引用(1863))とMagendie(1816、Merkelの引用(1863))は、ピッチの変化に於ける声帯筋の重要性を発見した。これらの筋肉が収縮するにつれて、声帯の伸縮性は増やされ、高音の生成に寄与する。

1872 : Traitéの1872年版における声帯の記述は、はっきりと声帯の軟骨状部分と膜状部分の違いを指摘しています: 『今後注意しよう、声帯は全体の長さを通じて同質ではない:後部2/5は、軟骨の延長によって、そして前部3/5は県によって形成されている』

1876Dr. Louis Mandl はHygine de la Voix (1876)の中で、歌唱における良い呼吸コントロールのための新しい用語を示しました。マンデルはパリの生理学者で、彼の著作はランペルティ派によって彼らの歌唱手引書に取り込まれ引用されました。彼は、呼気筋と吸気筋との『声の闘争(vocal struggle)』を表すlutte vocale という用語を作り出しました。

1877 :  Allexander J. Ellis (彼れはヘルムホルツの弟子であり翻訳者)は、影響力のある Pronunciation for Singers (1877) など、何冊かの重要な本を書いた。この著書で、彼はヘルムホルツの声の共鳴の記述を、発声音源と声道の相互作用によって起こる音響現象あることを確認した:『すべての楽音とすべて歌われた母音は、それらが歌われる音の単一の部分音群の相対的な音量によって決定される音質を持つ。そして、この相対的な音量は、空気が直接振動本体で刺激されることによって、部分的に決定され、そして、振動本体によって刺激された空気の振動が、外気に達する前に伝えられる腔の空気の共鳴によって、部分的に決定される』(Ellis 1877, 9)

1880 : Julius Stockhausenは1880年フランクフルトアイマンに彼自身の流派を創設しました、そして、ガルシアを基にした重要な歌の論文は1884年にドイツとイギリスの両国で出版されました。

1885 :  Mathilde Marches coupde la glotte の主要な擁護者の1人、はガルシアを称賛して言いました、『女声における彼の考えとその発展の結果は私にとって啓示でした、そしてそれは私自身の将来のキャリアの基礎となりました…たとえいかなる方法であってもガルシアの教授法に近づけるイタリアの教師はいません』(M. Marchesi 1887, 25, 29)。彼女自身の発声マニュアル、Méthod de chant théorique et pratique:理論的実践的歌唱法(Ecole Marchesi: マルケージ楽派)、初版は1885年パリ、後に重版される。

1890 :  Sir Morrell Mackenzieは喉頭医、ヴィクトリア女王の臨床医『bedside baronet』で、同時にロンドンの有名なHarley Streetの最初の個人開業医でもあった。彼の有名な著書、The Hygiene of the Vocal Organs《発声器官の衛生学》は7版を重ね、初版は1886年、第7版(1890)はガルシアの批判に対するマッケンジーの答えを含み特に重要。coup de la glotte を『喉頭への空気の到達とそれを受け取る声帯の調節との正確な一致』と述べた。同時アタックを背景にする、マンデルとベーンケの権威によってガルシアのcoup de la glotte の最も重要な意味は失われた。ガルシアによって説かれた、短い声門は、Mackenzieによって『stop-closure』とよばれ、その現象は高い音だけで起こるという。(Mackenzie 1890, 56-7,257-77)。

1894Manuel Garcia II, Hints On Singing 出版

1897 :  『local-effort(局所努力)』と『no-effort(努力なし)』の2つの陣営が知られるようになりました。1897年にニューヨークの発声教師で著者のEdmund Myerは、19世紀の歌唱法は科学者から育ったもので、歌い手からではないと言い、歌唱の『新ローカル・エフォート派』をリードしました(Myer 1897 1897, 20)。かれは、このような局所の活動は『野蛮な行為の名残である、それゆえ声の使用のすべての原則に反して有害である』と主張しました。彼は『発声器官の自然で自動的な調節は良い発声の結果であると信じられる、そして発声器官においては干渉しないこと、または、局部のコントロールしないこと』であるべだと言いました。

1899Gaetano Nava, Practical Method of Vocalization for Bass, or Baritone 出版

1909 :  ガルシアのcoup de la glotteをめぐる大論争戦線ははっきりと、堅固な正門閉鎖によるcoup de la glotteが良き歌唱の鍵であると考えるGarcia-Marchesi派と、誤用と言われるcoup de la glotteに対する防御手段としての、ゆるいオンセットとリラックスした喉頭を擁護するCurtis, Lunnその他との間にひかれた。

1910 :  no-effort楽派は世紀の変わり目の後まで隆盛をきわめた。David Alva Clippinger,シカゴの歌手であり合唱指揮者、は言いました、『最も重要な身体感覚は、いかなる努力も存在しないことだ』(Clippinger 1910, 4; Monahan 1978, 181)New Light on the Old Italian Methodにおいて、David C. Taylorはlocal effortのすべての形について語りました。『喉のつかみを緩めることによる間違った行為をやめなさい、そうすれば自らそれ自身が調和し明瞭になります』

1911  :   Dr. Schilling,  “The Mechanism of Covering The Tone” (1911) カヴァーされた歌唱に於ける喉頭の下げられた位置に関する証言。「さらに、カヴァーされた歌唱の本質は、喉頭蓋の上昇、そして、舌根と喉頭蓋の間の…空間を広げることからなることが明らかとなった。」

1912 : 「開いた」母音と「カバーされた」(または閉じた)母音のPielkaの研究(1912)を引用する;「c1の下で、男性歌手はすべての母音を完全な純度によって歌うことができる。発声器官はその場合、主に喉頭の上昇によって、開いたポジションである。c1のこのニュートラル・ポイントより上で、カヴァリングのテクニックが、純粋な母音を生成するために必要とされる。カバリング・テクニックを通して母音音色をより暗いタイプへ移すことは、主に喉頭を降ろすことによって達成される…」
Pielkeは、開いた歌唱時に、第2倍音が優勢になることを観察した、一方で、カバーされた歌唱は弱い第2倍音を示した。反対に、カヴァーされた歌唱は、強い基音と豊かなスペクトラムのより高い倍音によって特徴づけられた。[ Luchsinger & Arnold  1965  p. 103]

1916 :  David C. Taylorはlocal effortのすべての形について語りました。『喉のつかみを緩めることによる間違った行為をやめなさい、そうすれば自らそれ自身が調和し明瞭になります』(Taylor 1916, 84-5)。彼は声の科学を全く認めませんでした、そしていうには『声の訓練の科学的な方法は全く失敗している。この事実は証明なしで立証されなければならない。この問題は、実際に関係するすべての人にとって良く知られていることだ』(70)。むしろ彼は良き体と心の耳だけを要求する『ナチュラル』な歌唱を擁護しました。

1934Bartholemew は上手なオペラ歌手は3000Hz近傍にエネルギーを集めることが必要であることに気づいた。(後に、シンガーズ・フォルマントと呼ばれるもの)

1942 :  声門圧搾は1942年にJoel Pressmanによって調査され、彼は高音の歌唱において声帯振動は声門の前方2/3に限定されることを発見した。これはよく『Pressman’s damping factor』と呼ばれる。

1942 : 千葉勉、梶山正登 共著 ”The Vowel” 初版(英語)。日本語の翻訳、「母音 その性質と構造」訳:杉藤美代子、本多清志は、2003年に岩波書店から出版される。

1949 : William Vennard,Singing 初版 第2版1950年、第3版1964年、第4版1967年

1950 :  Franklin Kelsey, “The Foundations of Singing” Flanklyn Kelseyはガルシアが広く誤解されていることに対して『声帯の完全な閉鎖の確立と維持は歌におけるカギとなる問題である…それを教えられない者は真の歌を教えることはできない、なぜならば、それは、歌手が思い通りに、有害な音にならない空気を含まない音声で歌い始めるための唯一の手段であるからだ(Kelsey 1950, 14 強調はKelseyによる)。『それほど多くの偉大な歌手がcoup de la glotteを練習し、推薦したからには、答えはきっと、すべてはどのように成されたかに掛かっているに違いない』と、彼は主張しました

1952 :  1952年、歌手と俳優の治療を専門に研究する高名なイギリスの喉頭医Norman PuntHenry Holbrook Curtiscoup de la glotteに対する拒絶に共鳴し、それは声帯上に、通常左右相称の小さな良性腫瘍の小結節の原因になると信じていました。かれの治療法はリラクゼーションでした:『我々は再び強く訴えます、もしあなたが高音を静かに歌えのであれば、あなたはそれを決して歌ってはならない、あるいは、このような音は多くて週に2~3回にとどめるべきである。もちろん、実際このアドバイスに厳密に従えば、オペラのレパートリーにいくらかの不都合が生じるのは十分理解しています。しかし、我々はこれを助けてあげることはできない。我々は助けるために努力し、そして助言します。天は彼らが必要とするものを知る!』(Punt 1952, 54)

1954 :  Franklin Kelseyは書いています、『もし、Manuel Garcia が、coup de la glotteの呼び名を考える際にcaresse(軽く触れる)de la glotteをあてていれば、その後の多くの誤解は防げていただろう』(Kelsey 1954, 56)

1958 :  Janwillem van den Bergはベルヌーイ効果は発声の間にも働いていると説明しました。Van den Bergは発声の『筋弾力線維性空気力学』理論を提案し、声帯振動は筋肉と空気力学の組み合わせとして説明されている。

1960 Gunnar Fant, “Acoustic Theory of Speech Production” 初版。線形音源フィルター理論の先駆けとなる。

1964 :  William Vennardは、息によって発声を始める手段として『イメージのh』を用いるとき、『この研究に於ける他のいかなるアタックよりもガルシアによって述べられたcoup de la glotteに最も近づく。音が始まる前に1/4秒の間息の流れが存在するが、その息の音を耳は感知できない、何故なら量が少なく流れがスムーズだから。この瞬間的な息の流れは声帯を素早く吸い上げるので、息がそれらを打つ感覚がする…これは、ガルシアがcoup de glotteについて話すとき、彼が心の中に抱いていたアタックであると著者たちは確信している』(17-18)

1965 :  『[リラクゼーション]とは通俗的な考えであり、正常な生理的機能の誤った理解に基づいており、それが広く誤用されている…「リラックス」すること…は一般的に活動性の不在を意味する。』といい、歌唱に於ける声の機能は…はるかに複雑であると指摘し…『実際には心と体とよく調節された筋肉の緊張などを、注意ぶかく待機することは、通常の機能的な体のための特徴であり…使用中であろうと停止中であろうと、筋肉はすべて正常な状態にある;完全なリラックスとはただ死以外にはない』(Brodnitz 1965, 90)。

1967 : D. Ralph Appelman, “The Science of Vocal Pedagogy” 初版

1968:『声帯が可能な限り緊張させられ長く引き伸ばされたとき、音程のさらなる拡張は異なるメカニズム、すなわちダンピング(制振)によって成し遂げられなければならない。声帯後部は非常に堅く閉鎖され、振動には参加しない。その結果振動する声門の長さはかなり短くなる』(Zemlin 1968, 195)。

1973 :  Morton Cooper は『伝統的な視点は、リラクゼイションは声のリハビリに優先しなければならないか、伴わなければならない。』しかしながら『正しい音程、声の焦点、音質、音量などを定め、維持するプロセス、そして息の支え自体は緊張のプロセスである』(Cooper 1973, 71)

1994 :  Ingo Titzeは、彼の自立振動(self-sustained vibrations)の最近の分析法において、ベルヌーリ力が声帯の内側と外側への動きを区別することができないこと、そして、『気流から組織への継続的なエネルギー転換のためのメカニズムにおいて、ベルヌーイ力単独より多くのものが関与する』ことを指摘した。(Titze 1994, 80-2)