[Pleasants The Great Singers]
3. GILBERT-LOUIS DUPREZ
ベルリオーズの「オーケストラの夕べ」の中でも特に魅力的なのが、”The Tenor’s Revolution Around the Public, an Astronomical Study(市民を巡るテノールの革命、天文学的な試み)”という作品です。
その主人公は、当初は良い学校生活を送った後、早々にパリでデビューし、その後イタリアに向かった。そこで彼の声と技巧は成長し、良くなり、あらゆる人に喧伝され、フランスに戻り、そこで再び契約することになります。彼のデビューの夜に:
「ある曲で、大胆不敵なアーティストは、一音一音にアクセントをつけながら、これまで誰も予期しなかった共鳴と胸を締め付けるような悲しみの表現、そして音色の美しさで、高い胸の音を発しました。茫然自失の劇場には沈黙が支配し、人々は息を止め、恐れました。実際、この驚異的なフレーズが終わりに達するまで、恐れるに足る理由がありました。しかし、それが見事に終わったときには嵐のような熱狂が推測されるでしょう….。そして、2,000人の喘ぐ胸からは、芸術家が一生のうちに2度か3度しか聞かないような歓声が聞こえてきます。」
これらはすべてはGilbert-Louis Duprez(1806-1896)の若年期と最終的なパリの勝利のかなり正確な報告である。ベルリオーズは、このテノール歌手の出世と衰退について、お世辞にも良いとは言えない話をしています。成功している間は、作曲家に対しては恩着せがましい態度をとる一方で、オペラの経営を損なうような法外な料金を請求しました。衰えたときには、「すべてのフレーズを断ち切らなければならず、中声区でしか歌えなかった。彼は古い楽譜に恐ろしく破壊的で、新しい楽譜にはその存在の条件として耐えがたい単調さを課しました。」最終的には「ウィリアム・テル」で別れを告げ、むしろ同情的に語られ、王冠は新たな英雄に引き継がれます…
デュプレは1838年にベルリオーズの『ベンヴェヌート・チェッリーニ』でタイトルロールを歌っており、ベルリオーズは『回想録』の中でこう記しています:「デュプレはいかなる激しいシーンでも非常に良かったが、彼の声はすでに、柔らかい曲や長く伸びる音、穏やかで幻想的な音楽には向かなくなっていた。例えば、『Sur les monts les plus sauvages』という曲では、『Je chanterais gaiment』というフレーズの最後にある高いG音を維持することができず、本来3小節間、音を保持しなければならないにもかかわらず、一瞬しか保てず、効果を失ってしまった。」
ベルリオーズは、デュプレが『ウィリアム・テル』のアリア「Asil hereditaire」で、いつもG♭(異名同音のF-sharp)ではなくFを歌うので、その理由を彼に聞いたことがある。「わからない」とデュプレは言った。「あの音は私を追い詰める。気になって仕方がないんだ。」Duprezは、Berliozを喜ばせるために、一度正しくそれを歌ってみると約束したが、決してそうしなかった。ベルリオーズは「私のためにも、彼自身のためにも、ロッシーニのためにも、常識のためにも、デュプレは『ウィリアム・テル』のいかなる演奏でもG♭を演奏しなかった。聖人も悪魔も彼に忌まわしいFを諦めさせることはできなかった。彼は改悛しないまま死ぬだろう」と書いた。
ベルリオーズがデュプレの最高の状態を頻繁に聴いていたとは思えない。1837年4月17日、『ウィリアム・テル』のアーノルド役でオペラ座にセンセーショナルなデビューを果たしたとき、このテノールはまだ30歳だったが、すでに10年近くイタリアで歌っていたのである。彼は1835年にナポリで『ルチア』のエドガルド役を演じており、『ルチア』の最後の場面を見れば、当時の彼がどのような歌手であったかがわかるだろう。 また、1831年にルッカで行われた『ウィリアム・テル』のイタリア初演ではアーノルドを歌っている。
ドラマティックなテノールとしての可能性を見出したのは、後者の機会であった。その時までは、彼はありきたりのリリック・テノールで、しかも、声が小さかった。彼が1825年にパリのOdeonで最初に歌ったとき、プロンプターのボックスに座らなければ聞こえないと言われた。ウィリアム・テルの大舞台に抜擢された彼は、『ウィリアム・テルの大舞台に抜擢された彼は、『Souvenirs d’un Chanteur(歌手の思い出)』に記された本人の言葉を借りれば、「意志の力と体力のあらゆる資源を集中させる必要があった。私は自分に言い聞かせていた。「自分の命が尽きるかもしれないが、なんとかやってみよう」と。そうして、後にパリで大成功を収めることになるハイCも見い出した。
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デュプレはここで、第4幕の「Asile hereditaire」に続くストレッタの中で、GからA、B♭、Bナチュラルを経てCの高音を持続させるという、2度にわたる異常なパッセージを指している。パリでの成功と覇権を確実なものにし、胸からハイCを歌った最初のテノール歌手としての地位を確立したのは、デュプレのこのパッセージの力強く、衝撃的な表現だった。
ロッシーニはそれを好まなかった。彼はよく、「あの音は、耳に心地よく響くことはない。 ヌリ Nourrit はヘッドボイスで歌ったが、それが本来の歌い方だ」と言っていた。Rossiniは彼の自宅で初めてDuprezのハイCを聞いたとき、大切なベネチアングラスが粉々に割れていないかを見ることによって、彼の意見を表明した。イタリア人の彼の耳には、「まるで喉を切られた去勢した雄鶏の鳴き声のようだ」と述べたそうです。
デュプレは、ヌリと比較して、著しく限界のある歌手であったにちがいない。彼のvoix sombree(暗い音色)に頼ることで、遅れる癖があった。あるパリの辛辣な批評家は、この第4幕のストレッタの中の「Suivezmoi!」という一節について、デュプレが彼のペースについていくのは難しいことではなかっただろうと述べている。そして、ハイCは、彼の極限のトップノートであったようで、第2幕の二重唱では、ヌリがヘッドボイスでなんなくこなしていたCシャープをあっさり省略してしまいました。
もちろん、デュプレはこの比較を別の角度から評価している。彼は、ヌリが「上手くデクラメイトしている」ことを認めていた、「しかし、私にはいつも、彼の歌は、衝動的で熱狂的なものというよりも、比較的印象の薄いものと感じられました。彼の声は、かつてカウンターテナー(haute-contre)と呼ばれていた声質で、混合された声区で非常に高い声を出すことができました。運命的に私が彼のライバルになることになったとき、その白くて少しガタガタした声の出し方は、私が自分のために開発した方法とは全く相容れないことをよく知っていました。また、私のレチタティーヴォへのアプローチは、彼のものとは全く異なり、彼や私に先立つ他の歌手たちのものとも全く異なるものであることを知っていました。 というのも、彼らは歌うよりも朗読することを習慣としていたからです。彼らは、レチタティーヴォを1つのナンバーからもう一つへの橋渡しと考えていました。一方、私はレチタティーヴォの中に、動きと表現に欠かせない作品の重要な要素を見出し、続くアリアの土台とし、、メロディー、ハーモニーとリズムは必然的に言葉よりも優先されると考えました。」
デュプレは、ある種の重い役の解釈者として独自の地位を得たことについて、ハイCと暗い声(voix sombree)に感謝していたが、ハイCは彼の声の寿命を縮め、ソンブリーは、同じレパートリーを歌うヌリの歌唱を際立たせていたニュアンスや声色の多様性を奪ってしまったのである。デュプレは、自分の体の小ささを補うために、無意識のうちにこの方向に向かったのかもしれない。彼がパリで最初のWilliam Tellのドレス・リハーサルに現れたとき、女性バレエダンサーは「えっ~」と叫んだ。「あんなヒキガエルが?ありえな~い!」
しかし、彼の歌唱の強さには説得力があり、そして、彼は、多く歌手が行ったように、雄弁術、発声とアクション(Berliozにとって間違いなく不愉快だったそれらのいくつか)のいろいろな手段によって、もはや扱いにくい声を補うことを学んだのである。このような力でさえ終わりがある。1849年、マイヤベーアは『Le Prophete』のライデンのジョン役にデュプレではなくギュスターヴ・ロジェ(Gustave Roger,1815-1879)を選び、デュプレの時代は終わりを告げた。彼はまだ43歳だが、声の新鮮さ、輝き、柔軟性が失われ、若さの資源の中で力強さだけが残っていることを彼自身が認めていた。
ベルリオーズのあら捜しをするような観察にもかかわらず、デュプレは生真面目過ぎるほどの誠実さを持っていたようだ。 しかし、貴重な楽譜を無視されている作曲家にとっては、そのようなことは感じられないかもしれない。Chorleyは、1845年に彼の『メサイア』(英語版)を聴き、「この偉大なフランス人テノールは、演劇的な真実性と適正さ、そして(何よりも)ベストを尽くさずには自分を出せないという強い気持ちで、声が半分になっても歌うことができた」と回想している。
Rogerは1849年にOtelloを聞いて、以下のように日記に記した:「Duprezは、今日、我々すべてを感動させた。何という大胆さだろう!恐ろしい年老いたライオン!いかに、聴衆の顔面に勇気を投げつけたのだろう!なぜならば、それらはもはや人が耳にする声ではない。それらは、象の足によって押しつぶされた胸の爆発音である。ローマ人が瀕死の剣闘士を称えた『Bravo!』の叫び声を聴衆から誘うために費やす彼自身の血液、彼の自身の命である。そこにはある種の気高さがある。時間よりも情熱によって傷つけられた声の不完全さにもかかわらず、彼の優れた訓練は勝り、彼は自分の欠陥の中にもスタイルを維持する手段を見出しているのである。この男がいなくなったら、世界は彼のような声を再び聞くことはないだろう。ホワイエで評論家やマイナーなミュージシャンが彼について話していたのが面白かった。ある人は、彼が引っぱり過ぎていると言い、ある人は口を大きく開けすぎていると言い、その他のことは神のみぞ知るだと言う。そして、それが何を意味するのか。彼があの幅広のリズムに注ぐのは溶けた鉱石であり、口を大きく開けるのは彼の心を見せるためなのだ!」。
デュプレは89歳まで生き、教師として成功し、作曲家としては不成功に終わった。その弟子の一人が、グノーの最初のマルグリットであり、最初のジュリエットであるマリー・ミオラン=カルヴァロ(Marie Miolan-Carvalho,1827-1895)である。晩年の彼の楽しみは、居間の片隅に置かれた小さなマリオネット劇場で、息子と娘がオペラのシーンを、人形を操り、音楽を歌うことでした。元々は家族や友人の娯楽のために作られたものでしたが、ナポレオン3世に特別公演を命じられるほどの名声を得ました。パドヴァの人形劇場の裏でオルフェウスを歌っていたグァダーニ*を思い出させる。
*Gaetano Guadagni(1728年2月16日?1792年11月11日)イタリアのメゾソプラノのカストラート歌手(1762年にグルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』の初演でオルフェオ役を歌ったことで有名)。
2021/09/04 訳:山本隆則
[John Potter: TENOR HISTORY OF A VOICE 50]
Durez and the death of the capon
デュプレとカポンの死
この方向で最も有名な動きとしては、ジルベール=ルイ・デュプレがロッシーニの『ギョーム・テル』で胸からCへの音を達成したことが挙げられる。おそらく彼が最初に試みたのは1831年のルッカでのイタリア初演で、1837年にはパリ・オペラ座の聴衆を驚愕させた。問題のアリアには、跳躍によってアプローチされるハイCがいくつかあるが、大騒ぎになったのは半音階的なステップによるアプローチであるため、やはり伝統的な方法で歌われたものと思われる。作曲者はこのパッセージを(ヌリが歌ったように)頭声で歌うことを意図しており、デュプレの激しい声によるヴァージョンを嫌って、「喉が切られる時のカポン(去勢された雄鶏)の鳴き声のようだ」と述べている(22)。ロッシーニは機知に富んでいたことで知られ、この皮肉な発言は、おそらく、かつての去勢に影響された歌唱が今や必然的に消滅していることへの言及として意図されたものであることを、彼は十分に認識していた可能性がある。
例10 ギョーム・テル(1829年)のデュプレの胸のトップC
これはテノールにとって後戻りできないポイントであり、声の性質そのものを変えるものであり、それ以来、最高の(そして最悪の)テノール歌唱の決定的な特徴となっている。デュプレは早熟な子供で、9歳までに何でも初見でソルフェージュできるようになり、まだ声がボーイソプラノのうちからコメディ・フランセーズに出演していた。(23)幼少期から10代の10年間をアレクサンドル・ショロンの学校で歌と作曲を学んだが、彼は少年の声に心を動かされ、自然に涙を流すこともあった。あまりの歌唱の美しさに、作曲家ペールはジルベール=ルイを「システィーナ礼拝堂のソプラニサー」に推薦した。デュプレの父親はその考えを拒否し、少年は1823年4月17日、声がブレイクしたときのことをホッとしながら記録したのかもしれない。(24)ショロン自身は “テール・モワエンヌ”(中級テノール)であったが、若い生徒たちに伝統的な原理を徹底的に教え込んだであろう。デュプレは彼の指導を受け、リリカルなテノール・ディ・グラツィアを歌い、オデオンで歌うことになった。1828年に劇場が閉鎖された後、彼はイタリアに渡り、外国語で歌う際には訛りを抑えるのがかなり難しかったが、イタリア語のディクションは並外れてうまく、地元の新聞からは「vero Toscano」、「vero Napoitano」、「vero Romano」と賞賛されることが多かった。1845年には、高齢のデュプレが『メサイア』の「Thy rebuke(汝の叱責)」を演奏したことに有頂天になっているChorleyコーリーがいる:
私は、ブラームスの時代以来、シム・リーブス氏が現れるまで、デュプレほど完璧に歌い、語る偉大なテノール・ソロを聴いたことがない。彼は彼の英語の一言一句のために戦わなければならなかった。一方、我々のイギリス人歌手は…自分の言語と戦っているように見える…。この偉大なフランス人テノールは、劇的な真実、礼儀正しさ、そして(何よりも)自分のベストを尽くさずに自分を見せることはないという決意の強さによって、馴染みのない音楽スタイルと野蛮な言語をマスターすることができた……そして声が半分枯れても歌うことができた……(26)。
若き日のデュプレは、妻であるソプラノ歌手アレクサンドリーヌ・デュプロン Alexandrine Duperron にキャストの座を確保するため、しばしば厳しい交渉を行っていた。イタリアでの旅で彼は声楽的に疲れてしまった。これは、彼が自分を追い込んで多くの公演をこなしたためかもしれないし、あるいは、暗い声での実験のためかもしれない。(27)喉頭を下げてさらなる共鳴を生み出すことは、胸声区で特に効果的である:その結果、より安定した音と大きなボリュームが得られ、近代の歌手が余分な努力をすることなく、オーケストラの上でも聴こえるようにするのに十分である。決定的に重要なのは、音色にこだわることが前提となっていることだ;テキストを最も伝わりやすい方法で伝えるだけでは、もはや十分ではない。テノールにとっても、新しい歌唱は胸声区の上方への拡張を伴うものだった。劇場が大きくなり、オーケストレーションが充実し、おそらくパワーが増したのだろう。通常のテノールの音域は、ミドルCの下のDからその上のGまでであり、このスペクトルの上端が、歌手も、あるいは少なからず作曲家も興奮させたのである。デュプレはこの声を見つけた最初の歌手ではない: マイケル・ケリーは豊かな胸声区で知られていた。そして、1825年にドメニコ・ドンゼッリは、デュプレがパリでハードなロッシーニを歌ったフランス人テノールのイタリア時代の師匠のような役割を果たした。
デュプレはテノーレ・ディ・フォルツァとしてパリに凱旋し、胸のハイCの第一人者となった。オペラ座と契約し、ロッシーニ、ハレヴィ、ベルリオーズ、ドニゼッティ、ヴェルディなどの作品を初演した。彼の力強い高音は、歌唱においてまったく新しいものであり、聴衆を驚かせた。エルワートは、1837年のギョーム・テル公演について、「オペラ座のあらゆるものを、この上なく興奮させた……。すべてが感嘆の発作の中で消滅した」(28)デュプレは「ウト・ド・ポワトリーヌ」(胸のトップC)を発見した自分をtenorino d’hier(昨日にテノール?)と呼んでいた。(29)彼の声はやがて暗くなり、バリトンの役にも挑戦するようになり、同じ舞台で両方の声を使うこともしばしばあった。
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彼はユーモアのセンスがなかったわけではなく、エンリコ・タンベルリック Enrico Tamberlik が初めてフランス語で歌い、胸のハイCシャープに挑戦しようとしていると噂されたとき、行列ができ、デュプレは「私のレシートより半音高いレシートがここにある」と言ったと言われている(30)。これは、今日まで続いているテノールのハイチェスティング競争の始まりであった。ロッシーニは、デュプレ以上にタンバーリクの力強いトップが好きではなかった:
今度はタンバーリックだ。あのふざけた男は、デュプレのCを打ち砕こうと熱望し、胸音のCシャープを作り出し、私に押し付けたのだ。実際、私の『オテロ』のフィナーレには、私が強調したAがある。私は、それ自体で、肺をフルに使って発せられるこの音は、テノールのアムール・プロプレ(うぬぼれ)を永遠に満足させるに十分な獰猛さを備えていると思ったのだ。しかし、Cシャープに変えたタンバーリクをみて、スノッブたちは皆狂喜乱舞した!…私は、デュプレの暴挙の第二弾が起こることを恐れて、タンバーリクに注意した…彼のCシャープをホールの木に預け、彼が去るときに、無傷であることを証明したそれを再び拾い上げるように。(31)
しかし、タンベルリックはイギリスでもフランスでも(後にロシアやスペインでも)大成功を収めた。1850年にロンドンでデビューし、ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、マイヤベーアなどの役を歌った。彼はカリスマ性があり、力強く、たくましい演奏家であり、ヘンリー・コーリーは彼の才能を認めつつも、ルビーニやデュプレのようなトップクラスの演奏家とは認めなかったが、彼の歌を生涯聴くことのない人々のために、彼の歌の分析を「時の読者による」文章として残している:
どんなに効果的で、高音では大きな力を発揮する声であっても、魅力的な声とは言い難く──南部では温かい声だとしても──文句のつけようのない方法で調整された声ではないことを、未来の人々に伝えることができるだろう。(32)
コーリーは、彼の『震える癖』や『時間を計る感覚』も好ましくなかったが、彼が『これまで舞台で見た中で最もハンサムな男の一人』であることは認めていた(33)。
この新しいテクニックに関する言及は教育的な文献にも見られ、伝統的な方法と並んでその使用が増加していることを裏付けている。デュプレは、ハインリヒ・パノフカの『L’Arte de chanter』(1854年)に、フラスキーニ、マリオ、ロジェ、タンベルリック、そして(不思議なことに)ルビーニと並んで、CからCまでの2オクターブの胸声域を持つテノール・ド・フォースまたはロブストとして引用されている(最高3音をファルセットで歌うテノール・レガーtenors legers とは対照的である)。(34)
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デュプレ自身、1846年に歌唱マニュアルを出版している。それは、彼の読者が、新しいフルヴォイスのテノールの高音で演奏をする歌手に期待する現代的な著作である。それはカストラートによって書かれることはあり得なかった。彼は自分自身の業績については不思議なほど寡黙で、実例が必要なときにはヌリ、ルヴァスール、ダモローを引き合いに出すことを好み、歌の科学についても何も語っていない。彼は2つのスタイルを識別しているようだ:大きな表現と力によるスタイルと、優雅さとアジリティによるスタイルである。力強いスタイルでは、ハイ・テナーは全音域でチェスト・ヴォイスを使うことができる(本人は稀だと言っているが)。彼は最大限の力を出すために胸声区をできるだけ高くすることを提唱しているが、声区を統一することで男性の力強さと女性の甘美さと魅力が組み合わされると考えている。声は、’ame’, のように暗いAでフルボイスで歌う。(36)これらの練習によって、言葉とは無関係に存在しうるフレージング、アクセント、スタイルに基づいた解釈が可能になるはずであり、発声練習を通じて、歌手は発声テクニックの新しい展開を常に把握することができる。
優雅さと敏捷性(de Grace et d’agilite)のスタイルは重い声には難しいので、最初はメッツァ・ヴォーチェで練習すべきだが、それでも胸音をできるだけ高く取ることでより大きな力を得ようとする。彼は、2オクターブC~Cの音域をカバーする、この第2のスタイルのための、より精巧な練習曲集を提供し、リリカルなディクションに関するセクションの後に、適切なスタイルに関する簡単な注釈とともに、名前のある作曲家のアリアを多数提供している。
最も充実しているのはロッシーニに関するページで、彼はロッシーニがオペラ作曲家としてのキャリアをスタートさせた1814年以前の退廃的な歌唱を改革したと評価している。ロッシーニは、一緒に仕事をしたすべてのテノール歌手と自然な親和性を持っていたようで、お互いの創造性が生涯の友情につながることも多かった。彼はプライベートでも歌っていた。ヒラーは、ロッシーニ夫妻がダヴィデとノッツァーリを昼食に招き、そのあと4人でサリエリの大砲を歌ったときのことを語っている。音楽は少々退屈なものだったが、歌手たちは『なかなか満足のいくヴォーカル・カルテット』を成していた(37)。
ロッシーニが長い間作曲を中断していたこと(その間、彼は人生を満喫していたが、作曲はできなかったし、したくなかった)については、完全には説明されていない。その要因のひとつは、彼の演奏家たち、ひいては彼らの嗜好が、彼の作曲本能としばしば対立していたことだろう。デュプレによれば、ロッシーニは、今世紀の最初の10年間にあらゆる歌手が施した横暴な装飾は、ヴェルッティ、ダヴィデ、クリヴェッリの手にかかれば問題ないが、三流や四流の歌手がオリジナルの構成を聴き取れなくすることは、作曲家の評判を危うくすると考えていた。デュプレは、ロッシーニは作曲家であると同時に歌手でもあったのだから、自分の音楽にふさわしい趣味を持っているはずだ。このことがロッシーニに自分の楽譜をより精巧なものにするというアイデアを与えたのだろうと指摘するこの改革運動は、ウェーバーの『ドレスデンのフライシュッツ』(1820年頃)、ベッリーニの『イル・ピラータ』(1826年ミラノ)、ロッシーニ自身の『ギヨーム・テル』(1826年)と続き、メロディの中で言葉がより重要視されるようになった。
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ロッシーニのデュプレに対する評価は複雑だった。コロンの指導から生まれたテノール・ディ・グラツィアは、まさに作曲家が高く評価していたものだった。デュプレはドニゼッティやドンゼッリとの出会いによって、より深く暗い声を持つようになり、相対的に軽快で俊敏なロッシーニには非常に警戒された。両作曲家ともこの歌手とは意気投合したが、ドニゼッティはデュプレがイタリアで学んだドラマティックな力を、ロッシーニよりもむしろ高く評価していたのかもしれない。(38)
デュプレは歌手、作曲家として長いキャリアを持ち、後に2冊の自伝と教則本の著者となった。1842年から1850年までパリ音楽院で教鞭をとり、その3年後に自身の歌唱スクールを設立した。彼のキャリアの軌跡は、『管弦楽の夕べ』の第6章「テノールはいかにして大衆の周りを回るのか」の中でベルリオーズによって風刺されている。(39)この作曲家は、当時のこのスター・パフォーマーについて、かなり不名誉な描写をしているが、2人はお互いに尊敬し合っており、しばしば一緒に活動することもあった。批評家のベルリオーズは、デュプレが年をとるにつれて声が粗くなっていることをたびたび指摘し、長い音を維持できなくなったと苦言を呈した。彼はデュプレの作曲を粗雑なメロドラマだと考えており、テノールが『ギョーム・テル』のアリアの一節で、デュプレが常にG♭ではなくFを歌うという、多少の作曲の変更を執拗に要求したことに困惑していた。かつて二人が列車で一緒に旅行したとき、ベルリオーズはなぜそんなことをしたのかとデュプレに尋ねたことがある。デュプレはよくわかっていなかったが、ベルリオーズのために一度だけ正しく歌うことを約束した。それは、彼が守れなかった約束だった。
ベルリオーズの『管弦楽との夕べ』の第21章には、1851年にセント・ポール大聖堂で開かれたチャリティ・チルドレンの年次総会を2人の音楽家が訪れたときの感動的なエピソードが書かれている。ベルリオーズはチケットを手に入れるのが遅すぎたが、セント・ポール教会のオルガニスト、ジョン・ゴスが彼をオルガン・ロフトに招き、カソックと聖職服を着て聖歌隊員のふりをした。ベルリオーズは、6.5千人の子供たちが「地上に住むすべての人々」という賛美歌を「巨大なユニゾンで」歌う姿に深く感動し、ほとんど歌うことができなかったため、隣の歌手は自分の場所がどんどん失われていくと思い、困惑していた。大聖堂を後にしたベルリオーズは、感極まった様子で同じく感激していたデュプレとばったり会った:
その輝かしいキャリアの過程で、多くの人々の心を揺さぶった偉大な芸術家は、その日、多くの未返済の借金が彼に返されたことを知った──フランスが彼に負わせた借金を、このイギリスの子供たちが彼に支払ったのだ。私は、デュプレがこのような状態であるのを見たことがない;彼は口ごもり、涙を流し、わめき散らし、その一方で… (40)
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新しい歌い方での肉体的な努力はデュプレに負担をかけ、パフォーマンスを続けたものの、彼のスタミナと信頼性には疑問が生じた。1849年、マイヤベーアは『ル・プロフェット』のライデンのヨハネ役にギュスターヴ=ヒュポリット・ロジェを抜擢した。ロジェは軽い声で(コーリーは彼を「フランス人テノールの中で最も明晰で礼儀正しい」(41)と評した)、ハレヴィ、オーベール、トマのオペラでその名を知らしめた。デュプレは実は、作曲者がこの役のテノールとして2番目に選んだ人物ですらなかった。このオペラには長い準備期間があり、その間にデュプレに対するマイヤベーアの信頼は薄れ、ロジェの前にフラスキーニとマリオを検討した。マリオは使えず、フラスキーニはフランス語を学ばなければならなかったので、作曲家はロジャーを選び、彼はロジャーのためにその役を書き直した。(42)その年、ロジェはデュプレが歌う『オテロ』を聴いたが、その時、「恐ろしい老いたライオン」(ロジェはデュプレのことをこう呼んだ)はパリの聴衆に衝撃を与え、感動を与えた:
聴衆の顔に向かって、いかに内臓をぶつけたか!それはもはや、人が耳にする音ではない。それは象の足に潰された胸の爆発なのだ!それは彼自身の血であり、彼自身の人生であり、大衆から「ブラボー!」という叫びを誘うために浪費しているのだ……。そして、彼が口を大きく開くのは、私たちに彼の心を見せるためなのだ!(43)
ロジャーは大らかな性格の持ち主で、銃撃事故で右腕を失ったものの生き延びた。 彼は機械仕掛けの腕でステージに立って歌い続けた。
22. Edmond Michotte, Rossini’s Visit to Beau Sejour(ロッシーニのボー・セジュール訪問)を参照のこと。98
23. Antoine Elwart, Duprez: sa vie artistique avec une biopraphie authentique de son maitre Alexandre Choron(デュプレ:彼の芸術的生涯と、師アレクサンドル・ショロンによる真の伝記) (Paris, 1838): 6.
24. Gilbert-Louis Duprez, Souvenirs d’un chanteur (Paris, 1880):31. ボーイソプラノの去勢手術は、今では非常に珍しい(フランスでは一度も行われたことがなかった)。 しかし、この手術が発声の歴史をどのように変えたのか、あるいは変えなかったのかを推測するのは興味深い。ロッシーニもまた、ナイフを免れた有能なボーイソプラノの一人であった。彼の叔父は、手術は長期的な経済的投資になると提案したが、彼の母はその機会を断った(Michotte, Rossini’s Visit: 109-10参照)。もしこの2人が実際に去勢されていたら、おそらくカストラートの伝統は後期に開花し(ロッシーニは自分のためにカストラートのパート譜を書き、彼とデュプレはヴェッルーティの重大なライバルとなった)、「ウト・ド・ポワトリーヌ(胸のハイC)」が登場するのは今世紀後半になってからだっただろう(その結果はおそらく初期の録音機によって捉えられた)。
25. Elwart, Duprez. 84.
26. Chorley, Musica Recollections: 168
27. テノール歌手のフランソワ・ワルテルは、ヌリの教え子であったが、パッシーニに師事するためにフランスを離れ、イタリアに留学し、ハイ・バリトンになって帰国した。
28. Elwart, Duprez: 212.
29. 文字通り「昨日のテノリーノ」、つまりもはやテノリーノではなく、もっと力強いものを意味している。Souvenirs: 75.
30. 彼は1858年に『リゴレット』の一部に挑戦し、同じ年にタンベルリックを聴いた。T.J. Walsh, Second Empire Opera(第二帝政期のオペラ): Theatre Lyique Paris 1851-1870 (London, 1981)を参照のこと。
31. Michotte, Rossini’ Visit: 99
32. Chorley Musical Recollections: 183-4.
33.同上284-5
34. Heinrich Panofka, L’Art de chanter (Paris, 1854, , facs Methodes & treate, serie II/II Paris, 2005)
36. 『サウンドを暗くすること』
37. Edmon Michotte, Richard Wagner’s Visit to Rossini (Paris 1860), trans. Herbert Weinstock (Chicago, 1968): 39-40.
38. ウィリアム・アッシュブルック「ドニゼッティ的テノール・ペルソナ」『季刊オペラ』14/3号(1998年春号)24-32、デュプレがドニゼッティに与えた影響とその逆の影響の要約を参照。
39. Hector Berlioz, Evenings with the Orchestra, trans. Jacques Barzun (Chicago, 1973): 64-75.
40. Evening with the Orchestra: 232.
41. Chorly, Musical Recollections: 222.
42.『 予言者』の作曲は、マイヤベーアが考えていた歌手に大きな影響を受けた。作曲家と歌手の関係や、デュプレの音楽をロジェのためにどのように再構成したかについては、Alan Armstrong, ‘Gilbert-Louis Duprez and Gustave Roger in the composition of Meyerbeer’s Le Prophete, Cambridge Opera Journal, 8/2: 147-65を参照のこと。
43. Pleasants, Great Singers: 169-70.
2021/09/14 訳:山本隆則