THE PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱の哲学
by Clara Kathleen Rogers
Part 1
第3章
THE MIND IN SINGING
歌唱に於ける心
歌は感情(emotion)の表現であり、知性(intellec)の表現ではありません、言い換えれば、魂(soul)の表現であり、心(mind)の表現ではありません。歌唱において、心(mind)は確かにその正当な機能を持っています、 しかし、その機能が明確に理解され、心がその機能だけを果たすよに訓練されない限り、心は歌い手にとって重大な足かせとなります。表現の自発性にとって、不必要な心的活動や、その正当な機能の適切な遂行に必要なものから切り離された、あるいは必要以上の心的活動ほど妨げになるものはありません。そして、歌における心の正当な機能とはいったい何なのでしょうか? 魂の感情、つまり意志衝動を形にすることです。心とは魂の器官であり、魂の感情を解釈し、それを表現する身体に形を与えるものなのです。
それゆえ、心は他のものとの仲立ちをする仲介者のようなものであり、精神(spirit)と物質とを結びつけるものなのです。
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したがって、もし心が魂を待ち受けて、その感情の衝動を、それを表現する身体に伝えるという機能を果たすには、心が正しく中心に置かれていなければならず、そうでなければ、その感情のインパルスを身体に正しく、明確に読み伝えることはできません。しかし、これがまさに難しいところなのです。現代の人間の組織体においては、心というものが非常に大きな独立した働きをするようになり、その本来の役割から外れた多くのことに心を費やしているため、魂の忠実な下僕、あるいは本質的な意志衝動の解釈者ではなくなってしまっているのです。さらに、この独立した過剰な心的活動において、心は音作りのプロセスを指示することに参加していますが、これは余分な活動であるだけではなく、表現の自発性を積極的な形で阻害するものでもあります。『歌における感情』と題した前回のエッセイで、私は、感情を自然に発声する妨げとなる心について詳しく述べました。心はプロセスではなく、目的によって満たされるべきなのです。どのように(how)、どんな方法で(what way)、ではなく、何(what)をすべきかを明らかにしなければなりません。音の真の原動力は心ではなく、魂が働きかける意志なのです;そして、心が歌のプロセスを指示するとき、それは心には属さない機能を乗っ取ってしまうのです。言い換えれば、自然の最高の衝動、発声を可能にする魂の感情を邪魔していることになるのです。また、表現器官としての身体は自分自身で完結しており、機械的なプロセスを指示する必要はまったくありません。
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私たちは身体を、自然が生み出した素晴らしい完全な機械であり、意志に瞬時に反応し、あらゆる感情をあらゆる程度に変化させて表現することができるものだと考えることができます。この発言を説明するために、幼児の顔と全身に現れる素晴らしい雄弁な表情について考えてみましょう。痛みに耐えている小さな子供のかわいそうな表情以上に雄弁なものがあるでしょうか? それとも、何かを求めて手を伸ばすときの熱心な表情? このような場合、確かに、心は表現の過程に何ら指示を与えることはできません、 というのも、幼児の心的能力はまだ未発達で、休止状態だからです;また、表現される感情以外の何ものかを意識することもできません。幼児の場合、身体は感情に瞬時に自動的に反応し、そうすることで感情を完璧に表現することができるのです。表現するための能力と準備は身体の中で完成しており、その過程で指示したり、注視したりする必要はありません。ということは、心は、本物の感情とその表現器官である身体との間の侵入者であることは明らかであり、本来、その表現には何の役割も果たしていません。しかし、感情を選択によって表現する芸術の場合は違ってきます。ここで、心には2つの役割があります。
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第一に、表現しようとする対象にどのような感情が適合するかを知覚すること、第二に、すべての感情の大いなる貯蔵庫である魂からその感情を選択することです。したがって、外界からの影響と魂の感情の刺激を受け取るという2つの機能を持つ心は、私たちの有機体の大きな交差点、あるいは中枢なのです。それは作用と反作用の中枢であり、自然の電信システムである神経の大きなバッテリーであるので、その繊維に沿って魂の定型化されたインパルスを外界に伝えるのです;そして、その衝動が表現されたとき、その衝動が元の源である魂に持ち帰る感動を、お返しとして受け取ることになるのです。このようにして、魂は表現することによって意識的になり、その潜在的な力を認識できるようになるのです。したがって、もし心が魂と肉体の間の作用と反作用の法則の秩序ある働きをコントロールするのであれば、魂のメッセンジャーとしての二重の機能を果たす上で、その適切な集中力、目的の単一性を確保することがどれほど重要になることでしょう。この集中力、目的の単一性をどうやって確保するの でしょうか? 心を感情と密接な関係に保つこと、思考を常に感情に関連づけること、感情から独立して考えることは決してしないこと、思考を表現の目的(つまり、表現すべき感情)から逸脱させることは決してせず、表現のプロセスの効果を受動的に予測し、強制的に休ませること、などです。これは、一方の例では心的熟慮が必要であり、他方の例では心的抑制が必要であるという考えを読者に与えるかもしれませんが、そうではありません。
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原初的な感情の蓄積からの心的選択は、心の意図的な行為ではなく、むしろ、その作用の閃光のような速さにおいて、感情そのものに対する共振のようなものであると言えます。ここでもまた、表現された音の効果に対する受容の心的状態は、活動の後に受動性が続き、心の安息、あるいはリラックスの瞬間のようなものなのです。心は文字通り、すでに身体に与えた命令の結果や効果を待たなければなりません、 ピストルを撃つとき、引き金を引いてその発射音を待つように。待たなければならないのは一瞬ですが、その一瞬は完全に受動的なものです。これはまさに、歌うときの心構えです。心は、表現されるべきものの形を提供した後、受動的にそれが声になるのを待つだけなのです。私たちは常に、心的能力も身体的能力も、単に意志、つまり表現したいという魂の欲求の器官、あるいは下僕であり、それゆえそれらは、行動する意志に対して常に受動的でなければならないことを忘れてはなりません。この受動性なしには、器官間の調和のとれた関係はありえません。器官同士は必ず衝突し、その結果、魂の感情を何も伝えず、硬く乾いた、生命も色彩もない、歌い手にも聴き手にも喜びを与えない音が表現されることになります。
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一方、心的・肉体的能力と意志との関係を支配する法則を完全に理解し、それらに従うことが確立されれば、三位一体の有機体全体を通じて大きな安らぎと自由がもたらされ、歌における感情の発声は、歌い手にとって偉大で素晴らしい喜びとなり、 その発声は、歌で表現された真理以外の何ものでもない、最も内奥にある自己の表現であることを即座に認識するようになるでしょう。
2023/07/23 訳:山本隆則