THE PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱の哲学
Part 3
APPLICATION AND ELUCIDATION OF THE PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱哲学の応用と解明
第1章
DRAMATIC EXPRESSION, AND ITS RELATION TO THE EMOTIONS
劇的な表現と感情との関係
ドラマティックな表現とは、実際の出来事や状況によって呼び起こされるのではなく、出来事や状況がもたらす感情的な影響を心に描いた結果としての情動を表現することです。
さまざまな出来事や条件が、さまざまな自然に及ぼすさまざまな影響を、画家がより忠実に、より真実に理解し、再現すればするほど、彼の芸術はより繊細で、より高尚なものとなります。人間の本性に対する絶対的な真実と、そこにある神的なものをすべて知覚することが、あらゆる表現と同様に、この芸術においても、到達すべき主な目的なのです。
したがって、解釈者としての劇的芸術家は、その複雑な感情の可能性のすべてにおいて、まず人間の本性を理解できなければなりません。
知性だけではこれは不可能です。人間の感情を解釈する芸術家は、少なくとも自分が表現する感情を追体験することができなければなりません(実際に経験したことがあるとは限りませんが)、 なぜならば、本当の感情をかき立てられない者に真の劇的表現はありえませんから。
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このような人は、確かに、教師によって、感情そのものが生み出す音、抑揚、身振りの多くを再現できるようにトレーニングする ことができますが;それは、耳の聞こえない人に話すことを教えるのと同じ原理です; しかし、私たちの多くは、そのような表現が空虚で人工的であることを感じ、また認識しているので、そのようないわゆる劇的表現についてあれこれ考える必要はありません。
しかし、劇的な表現は、たとえ人間の感情を独自に解釈できるほど優れた知覚を持たない者であっても、彼自身の感情をたやすく呼び起こすことができれば、最も忠実で効果的なものになるかもしれません。言い換えれば、教師は未熟な知性に対して、感情表現における原因と結果のさまざまな関係を指摘して、もし生徒の中に感情を表現する可能性があれば、それを目覚めさせ、適切に導くことができ、表現するだけでなく解釈する芸術家と同じような良い結果をもたらすことができます。
したがって、優れた知的能力や分析力は、優れた演技者にとって絶対的な必要な要素というわけではありません; しかし、感情的な性質、表現力、そして何よりも想像力を持っていなければならず、想像力は劇芸術において最も重要な要素だといえます。
ここで問が生じます、 芸術家によって表現された感情は、現実の、生きた感情なのか、そうでないのか? それは単に心や想像力が肉体に作用した結果なのでしょうか、それとも感情そのものにまず心が反応した結果なのでしょうか? 私たちは、感情はとりあえず現実のものであり、心の反射的な働きによって表現されるものだと言います。このことを示すために、私たちの中で本当の感情がどのように目覚めるのかを自然に従って定義してみましょう。
どのような場合でも、感情はまず、出来事から受けた印象や、思考やイメージなど、感情そのものとは無関係なものによって起こされるはずですが、感情が起きると直ちに、それは表現に必要不可欠な原動力となります。
出来事から受けた印象によって喚起される感情の例として、あなたはある暴挙を目にします;残酷な一撃が加えられ、無力で罪のない人が傷つけられます; 憤りや怒りや哀れみが、あなたの中に呼び起こされ、その感情はあなたの表情や態度や口調、あるいは何らかの無意識の行為にすぐに表れます。あるいは、あなた自身が怒りや侮辱の対象になっているかもしれません。同じ感情が呼び起こされ、程度の差こそあれ、同じ種類の表現が結果としてもたらされるでしょう。
また、あなたは母親や夫、一人っ子など、とても大切な人と別れることを経験します。別れの時、あなたの声は嗚咽で詰まり、目からは涙があふれ出ます。別れという行為そのものが、このような効果を生み出しているのでしょうか?とんでもない。あなたの感情は、別れという出来事が連想によってあなたの心に呼び起こす思いの結果なのです。
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別れの前触れである長い不在、親愛なる存在を切望する孤独な時間、不在の人に付きまとうかもしれない危険や 危機を案じるでしょう、 もしかしたら、その愛しい顔を再び見ることは許されないかもしれません。感情を呼び起こし、涙や嗚咽で表現するのは、このような考えや想像であって、単なる別れの行為によるものではありません、 別れという行為は、それ自体、また想像力とは無関係に、何の感情的効果も生み出しません。
では、本の中で哀れで感動的な場面を読んだとき、それがどのようなものだったか思い出してみなさい–たとえば、『アンクル・トムの小屋』に出てくる小さなエヴァの死や、『古い好奇心店』に出てくる小さなネルの死、あるいはドンビー坊やの臨終の場面など。あなたの目は涙でいっぱいになり、喉が詰まるような感覚を覚えなかったでしょうか?あなたの感情はすぐそばにありましたか、そしてその感情は現実のものではなかったのですか? その感情を呼び起こしたものは現実のものではありませんでした。あなたを悲しませるようなことは何も起こっていないのに、あなたの感情は、その悲しみがあなた自身のものであった場合と同じようにかき乱されました; ただその瞬間だけだがそうであって、 本を閉じて別のことを考えると、涙は止まり、いつもの平静さが戻ってくるのです。
つまり、私たちの本当の感情が思考に即座に反応するというのは、実際ののところ本当です;それは永続的なものではなく一時的なもので、十分に表現の原動力となるものなのです。
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何か悲しいことを思い浮かべるということは、その思いが続く限り悲しいということであり、その悲しみは表情や 声、ポーズに直接現れます。何か楽しいことを思い浮かべることは、その思いが維持されている限り楽しいということなのです; だから私たちは、自分で選んだどのような感情的な状態にもなれるのです 。さらに、感情的な状態は一時的なはかないものではあるとしても、見せかけではなく本物であり、表現への原動力としては万全なものです;なぜなら、いったん目覚めた感情は表現を求め、そのために意志を表現器官に作用させるからなのです。このように、思考とは、反射的な行動によって、劇的な表現における感情を呼び覚まし、コントロールする力となるのです。思考や想像の力によって、人間の魂が持つあらゆる感情を呼び覚まし、生み出すことができるのです、 これに対して、まず感情そのものに反応することなく、身体に直接作用する心によって表現される感情は、死んだ人工的なものとなります。
つまり、心が感情とは無関係に行動し、その表現を意識的に身体で調整することは、空虚さと不誠実さという不快な効果を生み出すということを、私たちは皆知っています。私たちが誠意を示そうとするときに、ただ音や 仕草、微笑みだけでは、友人は私たちの挨拶に偽りの響きを感じるに違いありません。
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もし友人に親愛の情を感じさせたいのであれば、自分自身がまだ親愛の情を抱いていないのであれば、自分自身が親愛の情を抱くように思わなければならないし、その気持ちを声や表情、一般的な態度に無意識のうちに表現させなければなりません。
私たちは日常生活の中で、礼儀作法の原則によって、劇的な表現を役立てるよう常に求められています。なぜなら、真の礼儀正しさや完璧な親切心が、他人に対する態度に求めるような心境に、いつも自然になれるとは限らないからです。もし私たちが行動するのであれば、上手に行動しましょう。私たちの善意が台無しにならないように、少なくともそれが持続する間は、私たちの表現は本物でありつづけなければなりません。
劇的な表現において、感情は偽物であり、心が身体に対して独自に作用した産物であるという一般的な考え方は、感情が本物であったなら、これほど急速に変化したり止んだりすることはありえないという考え方に起因しているに違いないと私は思っています。しかしながら、思考と感情の結びつきはきわめて緊密で完璧であることは否定できない事実であり、 一方がもう一方と同じくらい素早く変化することができるということです。 涙が止まらない間に、おかしみのあるひと言が微笑みを生み、おそらくは笑いさえも生み出すかもしれません。しかし、このようなことが起こるのは、涙の原因が本当の深い悲しみではない場合に限られます、 というのも、悲しみのあまり思考がその悲しみに没頭してしまい、そこからすぐに離れることができないからです。そしてここに、感情に本質的な原因がある場合と、心的な選択の結果である場合の唯一の違いがあるのです。
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後者は短命であり、表現とともに消えてしまい、表現されて初めて認識されるものです。それがあなたを行動や表現へと駆り立てる一方で、あなたがそれに反応したり感動したりできるのは、それがなくなった後だけなのです。一方、本質的な原因による感情は、思考と感情の間の絶え間ない作用と反作用によって、多かれ少なかれ永続し、何らかの独立した要因によってその流れやリズムが途切れるまで生き続けます。
私の願いは、芸術においても人生においても、常に純粋であることです;そして、 あなたがなりたいと望むものになること、そしてそのように見えるものを装わないことです。私はまた、劇的な芸術―演技と劇的な歌唱の両方を含む―は、人間の埋もれた豊かな感情の唯一の完璧なはけ口であると強く主張します。
私たちの日常生活の中で、強い感情が発揮されることは比較的限られています;そして私たちの多くは、ドラマチックな歌や演技という、魂を満足させる輝かしい表現がなければ、自分の感情に関する能力を知ることもなく、自分の中にある優しさや哀れみ、愛の深さを疑うこともなく、人生を過ごしているのではないのでしょうか。
すべての真の劇的な芸術家が私たちを引きつける奇妙で独特な魅力とは何なのか自問してください。これらのものが、なぜこれほどまでに私たちを魅了し、夢中にさせ、私たちの心の中で歌い、演じ、私たちの想像力の中に君臨し、私たちにあらゆる種類の高貴な考えや高貴な行為へと駆り立てることができるのでしょうか?
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それは、他の何よりも、表現の機会がないために私たち自身の魂に眠っている、素晴らしい美の富を私たちに見せてくれるからではないのでしょうか?もし私たちが、彼らの情熱や苦痛、愛や喜びの響きにどん欲にすがりつき、想像の中で彼らを後光で囲んで崇拝するとしたら、それは、彼らが私たちに見せてくれる彼ら自身の一部が、ありふれた生活習慣によって抑圧されてきたか、あるいはありふれた、軽薄な、刺激のない環境の中で目覚めさせることのできなかった私たちの一部と共鳴するからではないのでしょうか?
つまり、芸術家がその芸術の最高の目的と一体となったときに歌うものとは、真の自己の無意識的な表現なのであり、芸術はこうして、自分自身にも他人にも自己を明らかにする媒体となるのです。
そうである以上、劇的ではない歌は、魂の感情のはけ口という最高の目的を完全に果たすことはできません。そしてこの結論は、単なる音生成のメカニズム、そして歌のテクニックをマスターしたならば、歌い手に関係するのは劇的な表現だけである、という事を指し示しています。言い換えれば、現実の感情を、それをまとうべき詩的で音楽的な形式にいかに適合させるか、ということです。ここでは、このことを実践的な観点から、歌唱に適用して考えてみることにしましょう。しかし、私が述べていることは、基本的には演じること、デクラメーション、レシテーション、そして弁論にも当てはまりますが、 異なる表現形式によって要求される修正はごくわずかです。
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歌い手が自分自身に投げかけるべき最初の心的な問いは、私はなぜ歌うのか?そして、もし彼の内なる意識からの答えが、『歌うのが好きだから』『歌いたいから』でないなら、彼は歌うべきではありません。 なぜなら、歌いたいという欲求は、心によって選択された感情の背後にある本質的な衝動だからです。その一方で、内なる意識が『歌いたいから』と答えたとしたら、次に自問すべきは『何を歌うか?』ということです。答えは、『私自身の何か、私の一部、私が本当に感じている何か、私が本当に存在している何か』です。
次の問いは、『この自分の何かをどのような形で形にするか?』です。
それは喜びだろうか、愛だろうか、恍惚だろうか、感謝だろうか、優しさだろうか、悲しみだろうか、怒りだろうか、憤りだろう、軽蔑だろうか、哀れみだろうか、それとも何か?
この選択は、私が歌おうとしている歌やレチタティーヴォの音楽とテキストから、詩人の気分がどのように読み取れるかによって決めなければなりません。言い換えれば、私の感情を決定するのは、私が解釈する詩人の感情なので、私の感情がどのようなものであるのか、いや、私の感情がどのような形で表現されるのかを決定することになるのです。
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そしてその形は、詩人の求める形式によって変化しつづけます。こうして私は、詩人や作曲家の釘にかけられながらも、自分の心の中に湧き上がる感情を常に表現することになるのです。
ここで疑問が生じます、もし私の心が、詩人の気分が示す感情を想像することに占められているとしたら、私のどの部分が式そのものをコントロールするのでしょうか?というのも、私はすでにパート1の第五章『エネルギーの集中による自発性』において、私たちの意識は表現の背後にある原動力や感情に集中しなければならないと述べたからです。私が『夏の名残の薔薇』の代わりに『美しいトゥーン川の岸辺』を歌うことを、何が妨げるのでしょうか?
この疑問は、身体的過程と同様に心的過程についても解剖学的な研究が可能になるまでは、完全な答えを出すことはできません。また、仮にそのような答えが出たとしても、身体的過程の解剖学的な定義ができること以上に、アーティストの表現に役立つことはないでしょう。
【太線強調は山本による。】
2023/08/12 訳:山本隆則