II Vocal Pedagogy
声楽教育学
定義。ウェブスター辞典は「教育学」を、教えるという職業または機能、教えるという技術または学問、特に教授法の指導と定義している。
美学と科学から引き出された概念の洗練された手法は、それぞれが複数の意味を内包する用語である。
この章では、1777年から1927年にかけて、各著者が歌声の発達に向けた正しい規則とその適用法を模索する中で生まれた様々な概念を紹介する。
理論:基本概念
声の定義
この調査で対象とした100人の作家のうち、わずか6人だけが「声」を定義する必要性を感じているという事実は驚くべきことだ。
さらに、これらのうち引用できるほど簡明な定義を提供しているのはわずか二つである:
「声の定義は非常に単純な問題だ。我々は皆、声が音であることを認めねばならない。声に関して言えば、音とは空気の波によって聴覚器官を通じて生み出される感覚である。したがって声は空気の波であり、それ以外の何物でもないのだ。」[M372. Muckey, 1915, pp. 26-27]
「人間の声は二つの器官から成り立っている。 発声器官、すなわち音声を発生させる器官と、調音器官、すなわち音を言語へと形作る器官である」 [ M379. Myer, 1886, p. 7 ]。
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表2.声楽教育法の概念の要約
I. 声楽教育の理論
A, 導入概念 —–52
B.予備的考察
1. 声楽学習の利点 —– 6
2. 声楽学習の前提条件 —–60
3. 発声練習期間 —–44
C. ボーカル・トレーニングの目的 —–18
D. ボーカル・トレーニングの連携作用 —–3
E. ボーカルト・レーニングの標準化
1. ボーカル・トレーニングは標準化できる —–4
2. ボーカル・トレーニングは標準化できない —–16
II. 声楽教育法の方法
A、心理学的アプローチ
1. 心理学的アプローチの重要性 —–26
2. 習慣形成としてのボイス・トレーニング —–22
3. 歌うことは自然な機能である
a) 発声行為は無意識的かつ不随意的である —–18
b) 自発性と自然さが特徴 —–22
4. 発声メカニズムの解放
a) ボーカル・トレーニングにおけるリラックスの重要性 —–22
b) 労力の節約の原則 —–29
c) 抑制や恐れを克服する —–11
5. 自己表現としての歌唱 —–5
6. 歌うことと話すことの比較 —–25
B. 技術的アプローチ
1. 技術的原則と目的 —–22
2. 筋肉の干渉を取り除く —–12
3. 初心者の扱い
a) 声の分類 —–27
b) 最初のレッスン —–16
4. 歌で教える
a) 歌は技術的な練習として有用である —–6
b) ヴォーカリーズは技術的に好ましい —–16
5. 練習に用いる原則と手順
a) 発声練習の原則 —–55
b) 練習の監督 —–4
c) デバイスとしてのサイレント練習 —–7
d) ピアノ伴奏 —–9
e) 様々な要因 —–46
6. 健康 —–33
ステートメント合計 —–636
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歌の定義
「歌とは、人間の声によって生み出される楽音によってテキストを解釈することである」[M236. Henderson, 1906, p. 1]。
「歌唱とは、声を楽器として感情や心情を表現する芸術と定義できる。それは特定の種類の行為である。」[M133. Drew, 1924, p.10]。
「歌唱の技法は、ある程度において音響学、生理学、算術、形而上学、詩学、正読法、そして音楽の原理を包含している。これは作曲においても演奏においても同様である。」[M105. Costa, 1838, p. 1]。
歌とは、一般的に理解されているように、音階に合わせて訓練された人間の声の音と説明できる。そしてそれは通常、話し言葉と結びついている。 しかしより高い意味において、歌唱とは旋律と言葉を組み合わせる技術と見なすべきである。すなわち、意図した音程で豊かに純粋に音を響かせ、言葉を伸ばしながらも最も表現豊かな話し言葉のように自然であり、あらゆる旋律が歌い手が望む感情を伝えるものである[ M490. Shakespeare, 1910, p. 7 ]。
誰でも歌える
「一般的に言って、時宜を得て始め、練習を続ければ、誰もが歌うことを学べるという原則に対して、おそらく五百人に一人も例外はいないだろう」[M119. Day, 1839, 序文]。
すべての声は本来美しいものだ。声音における醜さは、すべて、話し言葉における声の使い方によって身につけた習慣が移った結果である。[M315. Lunn, 1880, p. 7]
自然な声への理論の適用
「自分の芸術を極めるということは、まず第一に、自分自身を極めることである」[ M451. Rogers 1910, p. 9]。
器官の優れた性質は、ごく稀ではあるが、自然の賜物である場合もある。しかし…不都合な性質が見られる場合(これは決して珍しくない)、技術はその膨大な資源を展開し、多くの事例において見事に欠陥を補うことができるのだ」 [Costa, 1838, p. 2] 。
歌唱に関して『科学』という用語を使う場合、その具体的な意味内容を定義することは非常に困難である。この用語が誰もが当然のように使われている状況は、人々が陥りやすい悪習、すなわち言葉の意味を十分に吟味せず、正確な定義も与えないまま無造作に採用してしまうという傾向の典型例を示している。
歌手の『科学』という言葉は誰の口にも上るが、その言葉で何を表現しようとしているのかを真剣に考えたことのある人はほとんどいない。私の考えでは、科学とは次のようなものを意味する:趣味(美的感覚)と知識(理論的理解)の完璧な融合、様式(スタイル)と態度(実践的アプローチ)の完全な結合、芸術の諸規則を隅々まで知り尽くしていること、そしてそれらすべてを最高レベルの実践へと変換できる能力である[M22. Bacon, 1824, p. 86]。
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方法論の多様性
本研究の調査結果は、声に関する書籍の数だけ方法論が存在することを証明している。しかし、ほとんどの方法は、デイヴィッド・テイラーが述べたように、以下の三つの大きなカテゴリーに分類できる。
模範的声楽指導の主題についての検討が、三つの明確に異なる種類の教材を扱っていたことが想起されるであろう。第一に、純粋に機械的な理論であり、これは一般に声楽修養の唯一の厳密に科学的な原理とみなされている。これらは、呼吸の管理、声区の管理、喉頭動作の管理、共鳴腔の管理についての規則であり、また音のアタックと前方への発出についての指示である。第二の種類の教材は、科学的概念の厳格な支持者たちによって純粋に経験的なものとみなされている。この種類には、古いイタリア派の伝統的教訓、および歌手の感覚に基づくすべての指導項目が含まれる。第三の種類の教材は、声楽動作の科学的分析の観点から経験的理論を解釈しようとする試みの中に見出される[M525. Davit Taylor[1917, p. 97]。
科学的手法。ミラーの『発声技法と科学およびその応用』へのコッベによる序文は、著者が「技法も科学も単独では不十分であり、技法は科学的規則の厳格な遵守を通じて達成されねばならない」と主張していると述べている[M357. Miller, 1917, vii]。「あらゆる技術は、程度の差こそあれ、何らかの科学に起源を持つ。発声器官が機能しなければ声は生まれない。その生理的活動は声を生み出すだけでなく、その正しい発声メカニズムを確立し、それが歌唱の科学的基盤となるのだ」[M 329+Marafioti, 1925, p. 14]。「生理学の研究は声楽教師にとって不可欠である」[M276. Kofler, 1897, p.20]。声の形成メカニズムの主題は、筋肉のコントロールに関するものである[M459. Russell, 1912, p. 7]。
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ここで引用するには長すぎて複雑だが、生理学的手法に対する最も初期かつ最も効果的な論拠の一つは、ブラウンとベーンケの『声、発声、および歌』(1883年)の9~13ページに見られるものだ。
経験的、反生理学的方法。歌唱の芸術は審美的な芸術であって、解剖学的研究ではない。それは理想的な住処として、音の美しさという概念の領域に宿るものであり、筋肉の正しい動きの領域に宿るものではない[ M236. Henderson, 1906, p. 69]。
「私は…生理学の知識は、歌手にとってそれ自体としては実際的な価値がほとんどないと考えています。いや、それ以上に、そのような知識は、その限界が十分に理解されていない限り、欺瞞的であり、しばしば誤解を招くものです。ピアノ工場の職長が、ピアノフォルテの全機構を、細部において、全体として、そしてそれが音質に及ぼす関係を徹底的に熟知していたとしても、それにもかかわらず、ハンマーとダンパーの違いも知らない未熟な若者よりもピアニストとして優れた準備ができているわけではありません[M452. Rogers, 1895, p. 68]。
「発声という行為の全体を通じて、理想的な音色のイメージこそが唯一の道しるべとなる……教師の仕事で最も重要なのは、生徒の音の質に対する感覚を形作ることだ……根本的に重要なものであり……その音がどのように聞こえるかということが、生徒が最も気にかけるべきことなのだ」[M95. Clippinger, 1910, p. 7]。
結合的方法。「声の生成に関する総合的な方法を提示すると主張するいかなる書籍においても、自然、生理学、心理学の三つを組み合わせて扱わねばならない」[M360. Miller, 1910, p. 5]
声調の発達における感覚の活用を定義するにあたり、テイラーは次のように述べている。「歌唱における筋肉のプロセスを理解するだけでは、完全な指導法を提供するには不十分である」[M525. Taylor 1917, p. 67 ]。
教育システムについてのその他の考え。良い結果をもたらす方法こそが良き方法である。方法の名など取るに足らない――我々が求めるのは結果だ。[M432. Proschowsky, 1923, p. 3]
「声楽訓練の全般的問題は、論争により混濁させられてきた。諸々の体系の熱烈な支持者たちは、各々が『唯一の正統な方法』であると主張し、その論争において無関係な多くの事柄で主題を覆い、かくしてその本質的単純性を曖昧にしてきたのである。」
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「片方の極端では、『科学的』と自称する教師たちが、声を出すメカニズムだけに過度に集中し、他の重要な側面を無視してきた。もう一方の極端では、『経験主義者』と呼ばれる教師たちが、音響学、生理学、心理学といった科学的な基礎知識を完全に排除してきた。しかし真実はこうである。人間の持つ機能、とりわけ歌唱のような微妙で繊細なものは、機械のように扱って発達させることは不可能である。同時に、科学的根拠もなく『私がこう言うのだから正しい』という教師の独断的な主張も、現代の知的要求には応えられないのだ[M171. Fillebrown, 1911, p. 4]。
理論:予備的考察
発声練習のメリット
多くの著者は、読者がプロの歌手としてのキャリアに興味を持っていると想定している。ごく少数の著者は、非プロとしての利点について考察している:
発声訓練は…健康増進、身体的・知的発達を促す傾向がある…歌唱は道徳的感情を洗練させる効果を持つ。身体の健康と精神の活力を促進し、労働で疲弊したり勉強で疲れた時に心地よい休息をもたらすのだ[M119. Day, 1839, p. 13]。
声楽を早期から継続的に学ぶ利点。
I. 声に滑らかさ、声量、音色の多様性を与えることで、話すときや読むときの声を改善する。
II. 声楽は健康に役立つ…
IV. 声楽は、家庭に秩序と幸福をもたらす傾向がある。
V. この手引書で採用されている教育方針は、知的かつ規律的なものである [M341. Mason, 1847, p. 18]。
Miller[M357. 1917, p. 196]は衛生上の理由で歌うことを推奨している。またビシェンデンは、歌が健康[M44. Bishenden1876年、序文]と同様にユーモアにも有益だと述べている[M45. 1875, p. 28]。
声楽学習の前提条件
多くの身体的・精神的資質が、歌唱における成功に重要あるいは不可欠と見なされている。多くの著者たちは、数多くの技能や才能を挙げている:
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しかし、単に人の気に入ることを目的とする勉学と勤勉さは、比較的短期間で十分な習熟をもたらす可能性がある。そのための条件は以下の通りだ:第一に、正しい耳を持つこと。第二に、そこそこの良い声を持つこと。第三に、言語の知識を持つこと。第四に、感情に敏感であること。第五に、ピアノの基礎知識を持つこと。
しかし一流の歌手を目指す者は、上記の条件に加え、次の六つの資質を備えていなければならない。第一に、単に美しい声であるだけでなく、確固たる力強さと広がりを兼ね備え、個々の声質に合わせて作曲されたあらゆる楽曲を繊細かつ正確に演奏できる十分な技術を有していること。第二に、最良のイタリア式に則った長期間にわたる訓練である。第三に、音楽的デクラメーションの知識である… 第四に、作曲家や詩人の最も壮大で輝かしい構想を正確に歌い上げ、演じるべき人物と自らを同一視する能力。第五に、与えられた主題を変化させ装飾する創造的才能。第六に、和声理論の知識である[M10. Anfossi, 180-, p. 8]。
この書物によって学びを志す者は、既にピアノフォルテの演奏者であり、良好な聴覚と十分な声の感覚を備えていると想定される。それゆえ声楽の練習課程を受けるに足る者である[M100. Cooke, 1828, 序文]。
単に正しい歌唱者であるべき資質とは、――正確な音程、銀のように澄んだか笛のような性質の声、……音楽が定める時間における厳密な正確さ、――各母音にそれぞれ相応しい口と喉の正確な形で作られる母音の発音、――規則正しい…… 子音の明瞭な発音、そして最後に、口の対称的で好ましい形と動きである。
優れた歌手は、以下の要素を称賛されるべきだ–独創的で高尚な歌唱法、あるいは歌唱様式であり、自然な表現の活気に結びついていること。そして最後に、最も重要な要件が来る–才能だ–才能だ–才能だ![M105. Costa, 1838, p. 30]
歌うには三つのものが必要だ。声、声、声だ。—ロッシーニ
ロバにも声はある。—サイモン・マイヤー
利子で歌い、声という元本を温存せよ。—ルビーニ…
ロッシーニは、歌手になるには天性の声質が不可欠だと主張する。マイアーは知性も同等に重要だと断言する。ルビーニは、ある種の節度をもって芸術的資質を育む練習と研究を勧める――これは声帯を過度の負担(無理な発声)に晒さないようにする過程である [Wronski, 1921, xv, xviii]。
声。ヴロンスキーはロッシーニの有名な格言を引用する数多の人物の一人に過ぎない。ランペルティは原語のイタリア語を用いている:「声、声、そして声」[M288. Lamp. 1883, p. 18]。しかしマラフィオティは1925年に、ただ「声、声、そしてさらに声」だけが求められた時代はもはや永遠に過ぎ去ったと警告している[M329+. p. 10]。アンフォッシのこの主題に関する長文の引用(前掲参照)にもかかわらず、声は歌手の主要な基準であったようだ。それにより、19世紀末から20世紀初頭にかけて必要とされた多くの資質が排除されたのである。例えばドービニーは「偉大な歌手の天賦の才は第一に声である」と述べている[M117. D’Aubigny1803, p. 123]。一方フルタードは、著名なテノール歌手ライナの言葉を引き合いに出してこう主張する:『私は音楽についてほとんど知らない… 歌いたいなら、和声やピアノを学ぶことではない。声の力と柔軟性こそが主な目標だ」[M182. Furtado 18–, p. 4]。
音楽的な耳とイントネーション。「聴覚」は、この研究で扱われる初期段階において、「声」と並ぶ唯一のライバルであり、歌手になるための第一の条件である:
要するに、良い声を妨げるあらゆる生まれつきの欠点も、勤勉さと練習と忍耐によって改善できる。ただし、音楽的耳が全く欠けている者を除く。[M247. Hiller, 1780, p. 4]
歌手は良い耳を持つべきだ。これは最も重要で、欠かすことのできない条件である。[M103. Corri, 1811, p. 1]
耳が損なわれている、つまり音楽家が音程を正しく取れない場合、その見通しは暗く、絶望的である[M93. Clifton, 1846, p. 4]
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バッシーニ[M30. 1857, p. 9]とミノヤ[M369. 1815, p. 15]は共に、イントネーションが最も重要であり、その欠如が最大の欠点であると認めている。
コルフェは両方の条件を認めている:
この最も望ましい目的[歌うことを学ぶこと]を達成するための規則が存在する点は疑いようがない。トージが引用した古い諺にあるように、優れた歌手には百の完璧さが求められるが、美しい声を持つ者はその九十九を既に備えているのだ。音程を正しく取り、良い音程と表現で歌い、リズムと言葉の出し方に注意を払うこと、これらが歌の良き趣味の主要な構成要素である[M101. Colfe 18–, p. 3]。
後年、音楽的な耳を第一の必要条件と認めた人物には、ダニエル [M115. Daniell 1873, p. 97] やルッツ [M463. Rutz 1908, p. 151] がいる。
耳のトレーニング。ロジャース[M451. 1910年、18ページ]とテイラーは、全ての学生が聴覚の感覚を向上させる努力をしなければならないと考えている。
「音楽的な耳を訓練する方法はただ一つ、音楽の音を注意深く聴くことである」 [M526. Taylor, 1914, p. 7] 。
初見視唱。ビシェンデンは著書の中で、ドイツで当時行われていたのと同じように、イングランドの「全ての私立・公立学校」に初見演奏の授業を導入するよう訴えている。彼は、これがイギリスの初級歌手たちに対してドイツの歌手たちに明らかな優位性をもたらしたと考える[M 45 Bishenden 1875, p. 24]。
健康。ベーコンは、この芸術において健全な身体の必要性をいち早く認識した人物である。「プロの歌手となる能力の主要な試金石の一つは、必要不可欠な練習による絶え間ない負荷に耐えうる、声帯器官の自然な構造にあると私は考える」[M22. Bacon 1824, p. 96]。
音楽の勉強。音楽の知識なしに歌う者は、絵画の勉強を『二本のクレヨンによる習作』の模写だけに限定する画家と全く同じようなものだろう [M70. Browne, 1887, p. 7]。歌手の訓練には、あらゆる音楽家の訓練を構成するのと同一の科目が含まれなければならない[M525. Taylor, 1917, p. 5]。ヘンダーソンは、ピアノ、外国語、初見演奏、そして音楽分析の原理を学ぶことを提案している[M235. 1906, pp. 258-268]。ダッフもまた、ピアノと和声の勉強も勧めている[M135. 1919, p. 3]。
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音楽以外の知識。野心ある若い声楽の生徒が心に留めておくべき最も重要なことは、偉大な歌の芸術の根底には、音楽以外のあらゆる分野における可能な限り広範な知識が基盤とされているということだ。文化的な視野が広ければ広いほど、精神的な発達が進んでいればいるほど、人間的・知的関心の輪が広ければ広いほど、歌はうまくなる」[M336. Sophie Braslau in Martens, 1923, p.31]。【Sophie Braslau (1892-1935)アメリカのコントラルト(メゾソプラノ)歌手、ニューヨーク生まれ、20世紀初頭のアメリカを代表する歌手の一人。】
合唱は避けなさい。なぜなら「隣で歌っている人よりも大きな声を出そうという競争心が働いてしまう傾向があり、さらに自分の左右にいる歌手たちの悪い発声習慣に自分自身も慣れてしまい、それを身につけてしまうことになるから」 [M109. Crowest, 1900, p. 69].
発声練習の期間
トレーニングは早めに始めるべき。声楽の早期訓練に関する記述は、1811年にコッリが「歌手は人生の非常に早い時期に指導を受けるべきであり、その練習は段階的に進められるべきだ」[M103. p. 2]と記したことから、1923年にプロショウスキーが「あらゆる芸術の中で、これほど早期の開始に依存するものは他にない」[M432. pp. 2-3]と記したことに至るまで多岐にわたる。中間に位置するブラウンは、生徒が「読み書きを覚えたらすぐに」始めるべきだと提言している。「指導を早く始めれば始めるほど、技術的な成功は大きくなる」[M70. Brown 1887, p. 47]。一方ザイラーは、9歳か10歳が適切な開始年齢だと考えている[M486. 1871, pp. 174-180]。またクリフトンは、女子は10歳か11歳で始められると示唆している[M92. 1846, p. 4]。
初期の訓練を認める者もいるが、変声期の少年への訓練には警告を発している:「子供たちは早すぎることはないが…成人男性は変声期に歌うことを避けるべきだ」[M383. Nathan, 1836, p. 111]。ラブラーシュはまた、変声期中の学習中断を提案している[M282. 184-, p.3]。一方、ファイファーとネーゲリは、女子は15歳か16歳で始めるべきだが、男子は変声期が完全に終わるまで始めるべきではないと勧告している[M418. 1830, p. 7]。
トレーニングは早く始めるべきでない。ヴィエックは「このような誤った子供の歌唱指導」に反対しており、レッスンは子供にデリケートな声を強いる原因になると述べている [M571 1875, p. 104]。
コフラーは、男子は19歳か20歳より前、女子は17歳か18歳より前に始めるべきでないと考えている。 しかし、35歳を超えると「遅すぎると言うべきだろう」[M276. 1897, p. 104]。
歌はすぐにマスターできるものではない。バッハは、完全な学習課程には「師匠のもとで数年」が必要だと警告している[M20. 1880, p. 11]。ボトゥームは「4年から7年」という数字を挙げている[M52. 1897, p. 7]。ヘンダーソンは単に「長い年月」と言うだけだ[M236. 1906, p. 19]。
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他の者はもっと多くを語っている:
もし個人が短期間で声を鍛え、声楽の徹底した実践的知識を習得しようと望むなら、それはこれまで誰にも成し遂げられなかったことを期待していると断言できるだろう[M119. Day, 1839, pp. 7-8]。
仮に声楽が数ヶ月で教えられるとしたら。これは致命的な過ちであり、正しい実行を台無しにする。積極的で粘り強い、長期間にわたる努力なしに歌を学ぶことは誰にもできないのである[M341. Mason, 1847, p. 24; 26ページでは、これには6年から8年かかるとしている]。
エマ・カルヴェは「ピアニストやヴァイオリニストを三ヶ月で完璧に育て上げることはできず、ましてや声楽家ならなおさらだ」と述べている[M336. Martens, 1923, p. 38]。シェイクスピアも同じ論法を用いている[M490. 1910, p. 177]。ヴロンスキーはルビーニの言葉を引用している。「我々の芸術を学ぶには、人生は短すぎる。若い頃は声はあるが訓練が足りない。年を取れば訓練は積めるが、声は失われる」[M589. 1921, p. 70]。「見事な歌唱は一生の仕事である。それは、あらゆる職人の見習いがその技術を習得し追求するように、学び鍛錬を積まねばならない職業なのだ」[M22. Bacon, 1824, p. 50]マッケンジーとランデガーは共に、急ぎ足の方法の結果を嘆いている。「現在広く嘆かれている優れた声の著しい欠如は、疑いなく主に現代生活の焦燥と忍耐のなさによるものだ。それは生徒も教師も同様に、たとえそれが一時的であっても、即座の成功をより強く求めるようにさせる」[M318. Mackenzie, 1891, p. 124; ランデガーの引用はM436. 1912年、序文にある]。
一般的な目標
この章の表では「発声訓練の目的」の見出しの下に18の項目が挙げられているが、調査した資料には方法論的アプローチの数とほぼ同数の目的が記載されており、文字通り数十に及ぶ。ほとんどの場合、目的は複雑すぎて、本全体に散らばっているため、引用することは不可能だ。例えば、ブラウンとベーンケの『声、発話と歌』をほんの数ページ読むだけで、この本の目的が声の改善に生理的連携を応用することだと読者に示される。フフラグソン=デービスの『未来の歌』の目的は、「リラックス」と要約できる。
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この研究期間を通じて広く支持された目標を代表する九つの声明が選ばれた:
何よりも、歌を学ぶにあたっては、自然を無理に押し付けることはできず、むしろ慎重に考え抜かれた節度ある努力によって、すべてを徐々に自然から得なければならないという原則を、教師と生徒に強く勧めるべきである[M247. Hiller, 1780, p. 8]。
声は可能な限り心地よい音で形成され、鼻を通さず、喉にこもらず、安定して明瞭に発せられるべきである。これらは歌手が犯しうる最も重大な欠陥の二つである[M101. Corfe, 18–, p. 3]。
人間は自然に響きに左右される。言葉に付随する意味と無関係に、様々な情熱や感情が聴覚を通じて喚起されるのだ。バーク氏は、大きく、あるいは突然、あるいは震えるような音が崇高な感情を生み出すと指摘している。そして彼は、音楽における柔らかく甘い音が美の源となる効果を例に挙げている。これらの音の効果と言語が伝えるイメージを結びつけ、その相乗効果によってイメージを高めることこそが、歌唱芸術の第一の目的である[M22. Bacon, 1824, p. 18]。
1838年、コスタは声楽訓練の目的を次の通り列挙している:声の真の特性を育むこと、声区を統合すること、母音と子音を組み合わせること、そしてメッサ・ディ・ヴォーチェとポルタメントを完成させることである[M105. p. 35]
良い発声の条件は、第一に口を正しく保持する方法を知ること、第二に正しく呼吸すること、第三に様々な声区の音を作り出し送ること、第四に一つの声区の音から別の声区の音へ無意識に移行すること、第五に音の連なりを形成するために音を始めることとつなぐことである[M282. Lablache, 184-, p. 4]。
『声と歌唱芸術』[M394. 1856年]の序文で、サビラ・ノヴェッロは練習の目的を、息の管理、正しい音程、音域の拡大、そして音色の美しさとして挙げている。
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ガルシアは、彼特有の対話形式で次のように記している。
Q. 声楽研究の目的は何か?
A. 声の抑揚を完璧にし、声を堅固で力強く、柔軟で広範囲に響かせ、欠点を修正することである。
Q. それだけですか?
A. 生徒にフレーズ付けの技術を教え、様々な様式に慣れさせ、表現力を養うことだ[M191. 1894年、p. 1]。
歌声の育成には、同時に二つの明白だが異なる課題が存在する:
1. 世界を代表する芸術家の水準に現れる本質的な要件。
2. 野心ある歌手の持つ個々の特性、すなわち声(生理的)と精神的な側面である。
教師と生徒が最初に直面する課題は、生徒の個性を芸術の要求に適応させる方法と手段を見出すことである[M589. Wronski, 1921, p. 3]。
連携作用という主要な生理的要因
多くの研究者が指摘するように、歌唱とは三つの要素から成るシステムの連携作用である。すなわち「1)動的要素、2)振動要素、3)共鳴要素」である[M318. Mackenzie, 1891, p. 26; M251. Holmes, 1879, p. 79]。ウィザースプーン[M580. 1925, p. 67]によれば、総合的な連携作用は局所的な取り組みの対極にあると認識されている:発声器官の正しい連携作用は、第一に正しい呼吸に、第二に正しい発音に依存する。そして、いずれか一部や「局所的」な部分に過度の注意を払ったり、固執したり、重点を置いたりすることは、その連携作用を妨げる。マイヤーにとって、連携作用とは圧力と抵抗のバランスを取る能力を意味する:
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「声の訓練においては、常に二つの力を考慮しなければならない。圧力と抵抗、すなわち駆動力と抵抗力あるいは制御力である。正しい声の訓練とは、この二つの力を発達させるだけでなく、それらを均等にし、バランスをとり、調和させるための探求である」[M377. Myer, 1897, p. 16]。
ボーカル・トレーニングの標準化
標準化は可能だ。この時代の文献で、声楽訓練の標準化について論じたものはわずか四つしか発見されなかった。標準化を支持する議論は、一つの教科書や方法論が存在しうるという主張ではなく、むしろ「あらゆる生徒に適用可能な基本原理が存在する」という概念に依拠している。その原理を教え込む方法論は問わないという立場だ:
ほとんどすべての著名な教師は、自分だけが持つ独自の教授法を持っていると信じている。理論的にも実践的にも、すべての点で意見が一致する二人の教師を見つけるのは容易ではない。しかしこの教授法の混乱は表面的なものに過ぎない。すべての教師は、教授法の材料を同じ源から引き出しているのだ[M525. Taylor, 1917, xi]。
声楽教育という問題について、音の生成に関して各声に良いことや悪いことについて、二十人もの人間が一致する意見をまとめるのはなぜそんなに難しいのか?この意見の一致が見られないのは、音そのものがどのように生成されるかについての見解が大きく分かれていることに大きく起因しているのではないだろうか?…私の考えでは、何千もの個別事例を提示し、最も広範な観察の余地を与えることが不可欠である。そうすることで、我々全員が足場を築ける確固たる事実の基盤が提供され、各自が独自の路線で働きながらも、概ね調和を保ちつつ共通の目標に向かって進むことができるのだ[M357. Miller, 1917, p. 6]。
標準化は不可能だ。歌唱法の標準化に対する主な反論は、各歌手が持つ個性にある。「声の個性を踏まえて訓練することは、教師の責務であり、その技術である」[M232. Heinrich, 1910, pp. 21-22]
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まず最初に、二つの点を心に留めておく必要がある:
1. それぞれの声と考え方は、すべて個別のものである。
2. 芸術家はもはや独自の法則を持つようになり、他者に対して規則を定めることは不可能である[M69. Brower, 1920, pp. 266-267]
声の発達に関する実践的な総合体系を構築するにあたり、最初に明確に指摘しておくべきは、いかなる二つの声も全く同じ方法で訓練することは不可能だということである。その理由は、全ての声には異なる欠陥があるか、あるいは同じ欠陥であってもその程度が異なるからである。…歌手と教師は、個々のケースの要求に応えるために方法を適用しなければならない[M492. Shaw, 1914, p. 157]。
プロの歌手たちは決まった方法を特に嫌っている。このグループの中でカローゾだけがこう認めた:
つまり、実際には歌い手一人ひとりにとって異なる方法が存在するのだ。たとえ正確に示された特定の手法であっても、それを試した者にとっては役に立たないかもしれない…しかし、声について一般的に語られる興味深く価値あることは数多く存在するのだ[M81. 1909, pp. 50-51]。
すべての声楽訓練法は個人に合わせるべきだと思う。私は方法論を嫌悪する[M336. 1928,マーテンス著、268ページに引用されたアーネスティン・シューマン=ハインクの言葉]。
歌唱理論について何年も妄想にふける必要があるのでしょうか? 歌唱理論が何世紀にもわたり無数の才能ある著述家たちにとって論争の場となってきたことは周知の事実ではありませんか? 今でさえ、声楽の著者たちの見解を調和させることは明らかに不可能です。彼らが皆、謙虚に「真の古イタリア派を再発見した」と認める点以外ではね[M99. Clara Butt in Cooke, 1921, p. 62]。
理論:心理学的アプローチ
心理学的アプローチの重要性
26人の著者たちが、体系的な方法における心理学の重要性を指摘したが、1900年以前に活躍した著者はそのうち2人だけである:「歌手は意志と知性で声を導く」[M401. Panofka, 1859, p. 7]
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心の力、あるいは意志の力は、声の訓練において大きな制御力、あるいは影響力となる。それは正しく用いられれば善の力となり、誤って用いられれば悪の力となる。教師や生徒が正しく考えることを学んでいない場合、意志の力が誤った方向に向かうのは容易に想像できるだろう」[M381. Myer, 1891, p. 97]。
主な仕事は脳で行われる。「声を出す前に脳を働かせなさい」[M135. Duff, 1919, p.75]。
「結局のところ、歌うことは精神的な態度なのだ」[M589. Wronski, 1921, p.21]。
音とはまず第一に精神的な産物であり、その高さ、強さ、質は明らかに精神的な実体である [M94. Clippinger, 1917, p.6]。
歌い手についてクリッピンガーは、「彼は自分が思っているより良い音色を歌うことはない」 [M94. 1917, p.43]と言っている。
もちろん、多くの研究や真剣な努力が必要だが、その主たる部分は精神的なものだ。つまり、適切な理想の確立、音質の正しい評価、声の調和を熟知した者に明白に伝える微妙な感覚の真の理解、今日ではほとんど失われつつある貴重な要素である歌におけるレガートな発声の明確な理解、 フレーズ分け、力強さと音のニュアンスである[M459. Russell, 1912, p. 3]。
生理学的な知識に関連する心理的な感覚。
現代の解剖学的研究の結果と、高度な心理学的研究の推論は、その繊細で美しいもの、すなわち人間の声の使用において認識されるべきである。その究極的な質的現象において[M360. Miller, 1910, p. 3]。
声という器官は本質的に意志に従順であり、心が形成するあらゆるものを表現するように適応している。ゆえに心こそが支配的な要素となる…しかし多くの場合、我々は器官だけを訓練するか、少なくともそれを主たる関心事とすることばかりに終始する。それは、声の機構に特定の効果を生み出させる真の動機である歌手そのものを訓練する代わりに、器官を訓練することに他ならないのだ[M451. Rogers, 1910, p. 3]。
その下に感情が伴わなければ、つまり意味がなければ、行為は身体的に完全に正しいとは言えない。したがって、なされた行為と意識はすべて一つの身体でなければならないことがわかる。
歌手は自らの内面を感じ取り表現しなければならない。そして内面に宿る感情や雰囲気、心理的な力が強ければ強いほど、声は身体的制約から解放され、より自由で緩やかなものとなる。最終的には、意識全体が身体であるだけでなく、表現そのものでなければならないという事実に行き着くのである[M503. Stanley, 1916, p.3]。
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発声訓練における習慣形成
習慣形成には二つの主要な考え方が関連している。習慣には良いものと悪いものがあり、良い習慣は「第二の天性」と呼ばれるものによって、発声行為の自然な容易さを回復させるというものである。マイヤーは最初の概念についてこう述べている。「絶えず繰り返される動作は、それが正しいか間違っているかに応じて望まれるものか恐ろしいものか、いずれにせよ自動的な動作を発達させる。生徒の目標は、発声器官の全部分において正しい自動的動作を発達させるべきである。それは正しい考察の結果として生じる動作である」[M377. 1891, p. 97]。ラッセル、フィルブラウン、ミラーもまた、習慣は良いものにも悪いものにもなり得ると述べている。
13人の著者と歌手は「習慣は第二の天性である」と信じているフロサール[Frossard, 1914, p. 4]。 このグループにはマッキー[Muckey, 1915, p. 9]、フィルブラウン[Fillebrown, 1911, p. 77]、パリソッティ[Parisotti, 1911, p. 130]、マイヤー[Myer, 1886, p. 8, p. 18]、モーガン・キングストン[Brown, 1920, p. 215で引用] が挙げられる。紙面の都合上、数ある貴重な発言の中から三つだけ紹介する。最初と三番目の発言は、習慣形成の二つの概念を共に論じる派の立場を表している。
「解放する」とは、身体をその思考に委ねることであり、それは肉体的な自然を動かそうとする問題ではない。その過程が自動的な行動へと移行することを許すことだ。正しい習慣は、自然の基本的な素材と法則の上に非常に確固として確立されている。だから今や、正しく行うことは少なくとも第二の天性だと言える。これは心と体のあらゆる定着した習慣について言えることで、それが正しいか間違っているかは関係ないのだ[M459. Russell, 1912, p. 23]。
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芸術実践における自然さを求める声は誤りだ。なぜならそれは真実のほんの一部しか語らないからだ。自然は芸術作品のための材料を提供するだけで、方法を提供するのではない。 これらの材料の使用は文化の問題であり、習慣を生み出す…心はその後、正しい活動の継続または連続を導き、やがて正しい習慣が確立される。これを我々は時に…「第二の天性」と呼ぶのである[M458. Russell, 1904, p.7]。
発声法における第一の原則は、発声器官の正しい使用法を確立し、この点において自然が第二の自然となるようにすることである。発声器官の正しい作用は、歌手が自動的にそれに従うほど完全に身についた習慣へと発展しうる。一方、不適切な指導の最も悲惨な結果は、悪い習慣もまた第二の自然となり、それを根絶することはほぼ不可能となることである[M360. Miller, 1910, p.6]。
歌うことは自然な機能である
発声行為は無意識的であり、かつ意識的に行われる。
フランソン=デイヴィスは、練習の目的は無意識の技術の達成にあると宣言している[M169. 1904, p. 67]。
シェイクスピアが喉頭コントロールの理論に反対する時、こう書いている。「歌う時に胸郭を開き、息を下腹部でコントロールすれば、声帯は無意識に機能する。そして声帯が音程に間違いなく反応することで、その動作が妨げられていないと分かるのだ」[M491. 1924, p. 19]
歌手たちは…なぜ自分たちの声がこんなにも早く消耗してしまうのか、やがて疑問に思うようになる。答えはすぐに見つかる。彼らは自然の摂理を無視しようとし…発声器官に筋肉の力を使って何か特定のことをさせようとしたからだ。本来なら自然に任せるべきことを、無理に操作させようとしたのだ。[M460. Russell, 1904, p. 5]
自発性と自然さが第一の要素だ。「自発性は、歌唱における感情の最高の表現にとって必要不可欠です……[そして]表現の自発性を達成することは、歌唱芸術において理想を追求する者にとって、第一かつ主要な目標でなければななりません」[M452. Rogers, 1895, p. 40]
この複雑で素晴らしい楽器である人間の声の育成において、最も大きな過ちは、自然が自らに意図したものを自然の手から奪い取ろうとすることである」[M492. Shaw, 1914, p. 104]。
「歌唱の技法はあらゆる芸術の中で最も複雑でありながら、同時に最も単純である。言い換えれば、洗練された芸術家は自らの知性と長年の教養を存分に活用するが、その成果は自然さに近づくほどに真に偉大になるという事実もまた真実だ」[M589. Wronski, 1921, p. 3]。
正しく歌う方法はただ一つ、自然に、楽に、心地よく歌うことだけです。歌唱芸術の極みは、目に見える方法を全く用いず、声域の端から端まで完璧な軽やかさで歌えるようになることです」[M529. Tetrazzini, 1909, p. 10]。
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発声メカニズムの解放
ボイストレーニングの要因としてのリラクゼーション。「リラクゼーション」は、歌う際に身体から不必要な力を抜くことを目指すいくつかの考え方を包含している。リラクゼーションは、フランコン=デービスの『未来の歌唱法』[M169. 1904年]の主要なテーマである。1785年、テンドゥッチはこの概念に名前を付けずに、それを自身の「規則X」とした。彼はこう記している。「歌唱の練習において、口元の歪みやいかなる種類のしかめ面によっても、苦痛や困難を決して表してはならない」
シュライオックにとって、この用語は「open(開放)」を意味する。「開放された音で歌え」[M493. Shryock 1856, p.1]。一方、エミー・デスティンはベルカント時代の原則を繰り返している。「歌う時、喉がないかのように感じる」[M329. Marafiotiによる引用、1922, p. 79]。「リラックス」は二十世紀に流行した言葉の一つだ。「アレッサンドロ・ボンチ氏は言う:『声の生成における最大の秘訣はリラックスである。あらゆる音は、努力なく、筋肉の明らかな緊張もなく生成されるべきだ』」[M569. White, 1909, p. 73]「全身を完全にリラックスさせることが第一の原則です」[M135. Duff, 1919, p. 10]。
1900年代初頭の別の用語は「自由」だ:
正しい歌唱の基本的な感覚は、一般的に説明される通り、全身の完璧な均衡と調和の感覚である。これには喉や顎の自由さ、そして呼気筋の確かな掌握とコントロールが伴う… 喉における「局所的な努力の欠如」という感覚、あるいは「声帯筋肉の完全なリラクゼーション」はよく語られるものである[M525. Taylor, 1917, p.79]。
唇、舌、下顎、喉頭は、一切の硬直から解放されていなければならない。これは、それらが無気力でたるんでいることを意味するのではなく、一つの位置に硬直して固定されてはならないということだ。それらは歌手の意思に即座に応答する準備ができていなければならない。そして、それらが緊張から解放されていなければ、この要求は満たされないのだ[M95. Clippinger, 1910, p. 11]。
労力の節約という要素。これは150年間で最も普遍的な概念の一つと思われる。「正しい道こそが最も楽な道であることは喜ばしい事実であり、正しい努力は正しい思考の結果であることは根本的な真理だ」[M171. Fillebrown, 1911, p. 56]。
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1780年という早い時期に、ヒラーは声を緊張させるよりも、優しく導くことでより多くの成果が得られると気づいていた[M247. Hiller p. 8]。19世紀において、ベーコンはこう記している。「声域を広げ、声量を大きくするには、常に一定の努力が必要である。しかしその際に最大限の注意を払わねばならない」[M22. 1824, pp. 95-96]強い声や力強い声が好まれるという考えに惑わされるな。大声で歌う者は多いが、美しく歌う者は少ないことを知るべきだ[M100. Cooke, 1828, 序文]。「健全な緊張状態を生み出すには、身体の完全な安らぎとリラクゼーション、そして努力の完全な欠如が必要である」[M397. Oliver, 186-, p.4]。
サルヴァトーレ・マルケージは、ルビーニの格言「元本ではなく利子で歌え」を引用している。出典明記なし[M334. 1902, p. 10]。この主題に関する二十世紀の文献におけるその他の貴重な考察は、ロジャース[1910, p. 67]、 フィルブラウン[1911, p. 5]、ブラウアー[1920, p. 54]、ヴロンスキー[1921, p. 69]、フチート[1922, p. 122]にも見られる。加えて、以下に引用した三つの記述がある:
声楽を学ぶ者にとって最大の災いは「無理に力を入れる」という考えだ。彼は、根本的な条件が正しく整えば歌手の技は極めて単純であることを信じられない。 我々は常に喉や口、唇に何かをさせようとする。しかし実際には、より強い部分、つまり身体の筋肉が自然が意図し要求する通りに力を発揮するならば、歌うという行為は熱意を込めた話し言葉と同じくらいシンプルなのだ[M461. Russell, 1904, p. 9]。
低い音を重く丸く歌おうとする誘惑は常にある。この誘惑に負けると、声は喉にこもり、本来の音の広がりを失うだけだ。低い音程で歌うほど、筋肉の力は必要ないのだ[M526. Taylor, 1914, p. 55]。
声の自然な音域を完全に伸ばすには、声帯の緊張を最小限に抑え、各音に必要な息も最小限にすることだ……自由こそが声の生成における根本的な支柱である[M329. Marafioti, 1922, p. 50]
抑制や恐れを克服する。
11人の著者たちが、公の場でパフォーマンスを行うことに関連する恐怖や抑圧を認めている。
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「恐れや疑念、不安は成功を阻む致命傷となります」[M451. Rogers, 1910, p. 71]。
歌う際に襲うかもしれない不安を、社会の普遍的な善意と、公衆が常に優れた才能に与える温かい歓迎を思い出すことで克服せよ。また、聴衆の全員が批評家ではないことも覚えておきなさい[M22. Bacon, 1824, p.51]。
結局のところ、我々が最高の芸術と捉えるあの自意識の欠如、あの気楽さと自然さは…方法と訓練の結果である…一度身につけた方法は習慣に溶け込み、習慣は一見本能のように見える… 正しい指導法によって創出されたこうした好条件のもとでは、デビューに付き物の緊張は……訓練された歌手の落ち着きと風格が自然に醸し出す平静さという仮装によって覆い隠されるのだ[M360. Miller 1910, pp. 29-30]。
フィルブラウンは、神経質になった時の一時的な対処法として、静かで深い呼吸という方法を提案している[M171. 1911, p. 27]。
クララ・ロジャースは演奏における恐怖への対処法について、9ページにわたる章を割いている。彼女は練習における十分な準備と「歌っている曲に集中すること」を強調している[M453. 1925, pp. 83-91]。
自己表現としての歌
5人の著者たちは、読者に歌を自己表現の手段として使えると指摘している。
いかなる場合においても、個人の表現が声ほど効果的な媒体を見いだすことはありえない。それは俳優による偉大な劇作家の解釈であれ、歌手による輝かしい楽曲の演奏であれ、演説者による道徳律の宣言であれ、あるいは日常生活における交流であれ、同様である[M357. Miller, 1917, p. 5]。
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歌うことと話すことの比較
この研究の限られた範囲において、ベーコンは歌唱と発話を比較した最初の人物である。彼はこう記している。「ある者は…歌唱における声が、発話における感情のトーンを模倣すると考える。そして確かにそこには何らかの類似性がある」[M22. 1824, p.30]。
ダニエルは四人の著者を代表してこう述べている。「歌うことと話しことは同一である(あるいは同一であるべきだ)」[M115. Daniell,1873, p. 16]。
この考えには他のバリエーションもある:「正しい話し方は正しい歌い方につながる。話し声と歌声は同じ機能の変調だからだ」[M589. Wronski, 1921, p. 39]あるいは「歌とは強化された話し声である。熱意ある話し言葉と同様に、口や顔、肩などに過度な力を入れるべきではない」[M460 Russell, 『アメリカ人歌手との率直な対話』, 1904, p. 12]。
3人の著者は、喋ることと歌うことの違いを観察している:
話者の発話において、我々は声を脳の作用として、精神活動の外的表現として聞く。それは心の働きを理解可能にする。 ここでは音は二次的な役割を果たす…しかし歌手の声には、主に身体的影響のもとで生み出される音響原理としての声を聴き取る。ここでは音がその身体的性質と、無限のピッチの質によって我々を引きつけ、…脳の感情的感受性を呼び起こすのだ[M252. Holmes, 1879, p. 51]。
喋る時に使う音のタイプは、歌う時に使うものとは違う…
話す時は、肺の空気を補充する必要がある度に、特に意識せずに息を吸う。歌う時は、歌っているメロディーの流れを乱さずに、どこで都合よく息を吸えるかを先読みして把握することが不可欠だ。また話す時は、音の質を特に気にせず、喉から自然に発せられる音色をそのまま出す。
歌うとき、我々は喉が作り出せる最も美しい音を生み出すことを目指す。しかし…肺と喉の通常の働きは話すときに自然であり、歌うことは高度に洗練された自然の営みに他ならない[M236. Henderson, 1906, pp, 67-58]
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歌う際には、音の流れは言葉の間で途切れないが、話す際には途切れる。歌う際には、音は持続し、明確な音程差によって広い音域で変化する。この音域には、話し言葉では試みられない音も含まれる。話す際には、音は持続せず、音程は明確でなく、狭い音域に限定される。また、音の長さは音楽の拍子に支配されない。
これらの違いにもかかわらず、歌唱と発話の音は声帯器官によって同じ方法で生成され、まったく同様に焦点が合わせられ、同じ共鳴を持ち、同じ方法で発せられる……。発話は声の prose(散文体)と呼べ、歌は声の poetry(詩)と呼べるのだ[M171. Fillebrown, 1911, p. 17]。
理論:技術的アプローチ
技術的原則と目的及びその防衛
この章で既に述べたように、諸目標のレベルにおける多くの考え方は、著者自身が明示しているわけではない。むしろ、美学と科学、生理学と心理学のどちらに重点を置くべきかについて、大多数の著者から共通の哲学を導き出さねばならない。しかしながら、技術的原理と目標を簡潔に表現した22の声明を特定することができた。
絶対的な技術こそが、声楽家にあらゆる音に命を吹き込み、精神的・身体的な表現を与えることを可能にします。声楽芸術は他のあらゆる芸術と同様、目的を達成するための手段として、その固有の技術性を必要とするのです[M294. Lankow, 1903, p. 7]。
一部の人々はこの分野[発声生理学]の知識が、ピアニストにとって手の解剖学が何の助けににもならないのと同様に、声楽家にとって何の役にも立たない、と嘲笑している。 しかしこの例えは適切ではない。なぜならピアニストは完成された楽器を手に入れ、それを消耗したり損傷させても別のものを購入できるが、声楽家は自らの声を形成しなければならず、誤った使い方をすればその声は永久に失われる可能性があるからだ[M71. Browne and Behnke, 1883, pp. 1-3]。
局所的な努力を避けることは、高度な訓練の結果である。初心者は結果を求めるにあたり、まず努力を局所化せねばならない[M459. Russell, 1912, p. 8; Fillebrownも同意見、M171. 1911, p. 51]。
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それは(歌うこと)ただ単にやってくるものではない。歌うことに偶然は存在しない。自分が何をしているのか、なぜそうするのかを知らなければならない。それは不変の法則に基づいており、その法則を習得しなければならない[M135. Duff, 1919, p. 7; この点についてはレーマンとテトラッツィーニも同意している]。
昔のイタリア人は美しい音を非常に重視していたため、それを得るために6年もの間、真面目に努力することを厭わなかった。美しい音に加え、彼らは完璧な技術を身につけたのである[M95. Clippinger, 1916, p. 2]。
学生は、歌うことをネガティブな作業と捉えることで助けになるかもしれない。つまり、必要な作業とは、筋肉をコントロールして、一つたりとも動いたり震えたりしないようにすることだけだ[M569. White, 1927, p. 50]。
… よく歌われた音は、たとえ無意識であっても十分だと言われるだろう。しかしそれは真実ではない。わずかな不都合な状態、過度の努力、慣れない状況、あらゆるものが「無意識」の灯を吹き消すか、少なくともひどく揺らめかせるのだ[M303. Lehmann, 1924, p. 30]。
筋肉の干渉を除去する。
筋肉の干渉を除去する筋肉の適切な協調がなければ、何事も成し遂げることは不可能である[M216. Guttmann, 1882, p. 16]。マイヤーは『実践的観点からの声』において、筋肉を局所的にコントロールしようとする努力が大きければ大きいほど、硬直性も増すと記している[M382. 1886年、89ページ]。『声楽家にとって重要な真実』の中で、マイヤーはこう書いている:
歌い手が自らの声を高い音域に置く能力、すなわち高い音を無理や負担なく、押し上げたり届かせたりすることなく生み出す特異な動きは、あらゆる声にとって極めて重要である[M399. 1883, p. 68]。
声帯の直接的な発声補助に関わる筋肉以外は、可能な限り動作を最小限に抑えねばならない。顔や首の醜い筋肉の歪みや、それらの部位の静脈の膨張は、時に歌唱中に見られるが、これは悪い習慣の結果であり、本来持つ力が過度に緊張している証拠である[M318. Mackenzie, 1891, p. 122]。
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初心者への対応
初心者に特に重要な二つのポイントは、生徒の声のタイプの分類と、最初のレッスンで何を学ぶべきかということだ。
声の分類。何よりもまず、真の声質を確実に特定することが不可欠である。これがアーチの礎石となる…しかし、特定の声が属する自然な秩序を見極めるのは、必ずしも容易なことではない…単なる声の高さだけでは、確かな指針とはならない」[M318. Mackenzie, 1886, pp. 160-161]。
しかし、マッケンジーの著作以前の時代のほとんどの著者は、音域(あるいは声域)を主要な決定要因と考えていた。 バッシーニ[M30. Bassini, 1857, p. 7]もイヴェレスト[Everest, 1861, p. 28]も、男女それぞれを三つの声種に分類し、図表で示された特定の音域で最も良く歌える者が自動的にその声種に属すると示唆している。
後年、一般的な決定要因は音色へと変化した。「声の特性は音域や音程の範囲ではなく、音質、すなわち音の厚みや響きによって決まることを常に心に留めよ」[M109. Crowest, 1900, p. 29]。 音色を声種の決定において最も重要視する他の著者には、バッハ[M20. 1880, p. 63]、ラン[M314, 1904, p. 28]、プロショフスキー[M432. 1923, p. 20]がいる。
多くの研究者は分類において音域と音色を共に考慮する。このグループに属する著者には、ホームズ[M252. 1879, p. 134]、ミラー[M360. 1910, pp. 119-120]、ランデッガー[M436. 1912, p.5]、ザイラー[M486. 1871, p. 67]、そしてここでは典型的な見解から選ばれたベーコンとテトラッツィーニがいる:
声は四つの異なる種類に分けられ、それらはさらにいくつかの種に細分される。その区別は音域、すなわち各声が発せ得る音の高さの範囲だけでなく、声量や音質に由来するものである[M22. Bacon, 1824, p. 88]。
声の質がバス、バリトン、テノール、コントラルト、メゾソプラノ、ソプラノのいずれに属するか、またそれらの声域の正確な特徴を見極めるという重要な作業は、非常に繊細な問題であり、一度の聴取で判断できるものではない。これは主に個人の特性によるものであり、時には健康状態や環境要因にも左右されるのである。
それは単に音域の問題ではなく、音域に加えて声の個性的特徴と質の問題である。ランペルティの慣行は、発声可能な音域だけでなく、同時にその音域で言葉を明瞭に発声できる容易さによっても判断することだった[M530. Tetrazzini, 1923, pp. 39, 40]。
(上記で)テトラッツィーニは声の性格をゆっくりと慎重に決定すべきだと考えている。スタンレーとマイヤーもこれに同意する:
声をソプラノやコントラルトなど特定の声種として訓練するものではない。単に声を形作り、その音色と身体の調和を図り始めるだけだ。そうすると声は自らを現し、個々の特性に応じて高くなったり低くなったり、より深く豊かになったり、あるいはより輝かしくなるのである[M503. Stanley, 1916, pp. 20-21]。
声のスタイルや自然な発声状態を、学習の初期段階で確実に知ることは重要ではない。訓練されていない声は通常不自然な状態にあり、その質や音域は、声のスタイルや自然な発声状態を確実に正しく判断する根拠とはならない。学習は、声の音域の中間付近、あるいは最も良い音質で発声できる範囲から始めるのが望ましい… 声が力と活動性を増すにつれて…最終的に自らの適切なレベルと質を求め、見出すことになる[M381. Myer, 1891, pp. 227-228]。
カルーソ[M82. 1909, p. 51]とコフラー[M276. 1897, p. 122]も、声の中音域から始めることを提案している。
音域と音色に加え、ヴロンスキーは声の質感を加えた[M589. 1921, pp. 8-13]。一方サルヴァトーレ・マルケージは音量と強度を含めた[M334. 1902, pp. 31-34]。
ブラウンとベーンケは声帯靭帯の大きさと厚さに基づき、その構造によって声を独自に分類している[M71. 1883, pp. 74-77]。
ダニエルによる最終的な警告を付け加えよう(同様の引用は第六章「音域」の「声の平均的な音域」の項にも見られる):
歌手は、本来あるべき声を歪めようとしてはならない。つまり、コントラルトの声をソプラノにしようとしてはならず、テノールの声をバスに鍛え上げようとしてはならないのだ[M115. Daniell, 1873, p. 59]。
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最初のレッスン。様々な考えがまとめられて「最初のレッスン」という見出しの下に分類される。より一般的な概念を引用する:
平均的な学生は教師に頼りすぎており、教師に引っ張ってもらうことを期待しがちだ。 学生への私の助言は「考えることを学べ」であり、自らその作業を行わねばならないという現実を直ちに理解するよう促すものである[M461. ラッセル『歌手のための心理的考察』1904, p. 4; 同様の考えはマルテンス編 M336. 1923, p. 3におけるルクレツィア・ボリも述べている]。
初心者にはどんな教師でも十分だという考えは誤りである。たとえ費用がかさむとしても、経験豊富で有能な師匠の指導のもとで始めることがはるかに重要だ[M288. F・ランペルティ、1883, p. 18; M333. マルケージ、1901,p. 11 および M109. クロウエスト、1900,p. 50 も同意見である]。
最初のレッスンから、音の美しさには最大限の注意を払わねばならない[M401. Panofka, 1859, p. 7]。
初歩的な学習においては、感情表現に色彩の幅広い対比を必要とするフレーズや歌曲を選ぶべきである[Kirkland, 1916, p. 74]。
歌を使って教える
歌は役に立つ。この期間において、歌が声の発達に寄与すると考える著者はわずか6名である。この概念は近年になってより広く受け入れられるようになり、バーギンとフィールズの研究でそれぞれ9件と24件の言及が確認されている。
テイラーはこう述べている。「歌曲やアリアの毎日の練習は、技術的練習と同様に歌手の教育において極めて重要な要素である。歌曲の研究において、学生は芸術的喜びを見出すことができ、それが声楽を飽きることのない興味の対象とするのだ」[M526. 1914, p. 18]
カークランドは表現力を養う最も実用的な方法として、「特定の表現手段をより良く理解し、より完全に制御するために、誇張された使用を必要とする感情を示すフレーズが現れる歌曲の研究」を推奨している[M272. 1916, p. 132]。
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フラグソン・デービスによれば、歌の一部は、発声練習と完全な歌の間のギャップを埋めるために使用することができる。「それら(言葉)を練習する最善の方法は、歌詞やアリア(カンティレーネ)から一節を取り出し、それをエクササイズのように扱うことだ」[M169. 1904, p. 85]。モーガン・キングストンもまた、自身が使用する楽曲から技術的な研究を行っている。[M69. Brower, p.197]デイヴィッド・ビスファムも同様である[p. 216]。
ボーカル練習は技術的な練習として好ましい。著しい数の著者が、歌に取り組む前に生徒を相当な期間、発声練習に専念させることを推奨している。この見解は少なくともコッリにまで遡り、彼はこう記している「歌の基礎を習得する前に歌を学び歌うことは、我々の芸術に付きまとう不幸である」[M103. 1811, p.2]。
ランは1856年に著書を出版したサビラ・ノヴェッロの言葉を引用し、「純粋な母音は純粋な音を呼び起こす」と記している[M314. 1904, p.23]。マイヤーは「誤った努力は、言葉の早すぎる使用によって十倍に増幅される」と主張している[M382. 1886, p. 17]
ジュリア・クラウソンとマラフィオティは、歌の初期使用に反対した後の論者である:
アメリカにおける大きな問題の一つは、教師と生徒双方の抑えきれない野心だ。…ある教師は、最初のレッスンか二回目のレッスンで早速歌を教え始めるという。そうしなければ、歌を安売りする他所の教師に生徒を奪われるかもしれないという悲しい現実を知っているからだ。四、五ヶ月後、私はオペラのアリアを与えられた。当然、私はそれを歌った。 音階練習やソルフェージュを一年間続けていれば、はるかに時間を節約できていただろう[M99. Julia Clausson in Cooke, 1921, p. 96]。
私がマエストロに曲を習いたいと言った時、彼は笑って言った。「お前の父親は外科医だ。数日勉強しただけで、手術ができると思うか、と彼に聞いてみろ」[M329+. Marafioti, 1925, p. 251]。
実践において用いられる原則と手順
理論化の後には実践が必要だ。歌唱のこの側面について、著者たちも多くを語っている。
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実践の原則。実行とは実践であり、実践以外の何物でもない。しかし、それが良いか悪いかは、基本原理の徹底的な習得にかかっているのだ[M22. Bacon, 1824, p. 50]。同様の見解は他の者からも述べられている。「『練習は完璧を生む』という古い格言がある。確かにその通りだが、それは正しい練習でなければならない」[M382. Myer, 1886, p. 17]。声は必ずしも「練習すれば上達する」という法に当てはまるわけではない。…技術的な練習曲をただ歌うだけでは不十分であり、その練習曲をある特定の方法で行うことが極めて重要である」[M525. Taylor, 1917, pp. 5-6]。ネイサン[M383. 1836, p. 113]は、歌唱を他の運動競技と同様のものと見なしている。つまり、毎日の身体訓練が求められるのだ。
声は繊細な楽器であることは多くの著者が指摘している。オリバーは「一度に長時間の練習は有害である」と述べている[M397. 186-, p. 4]。ビシェンデンは声の疲労を防ぐため、頻繁に休憩を取るよう生徒に指導している[M44. 1876, p. 17]。
ヴロンスキーは、休息の必要性は進捗状況によって決まると考えている:「声楽練習における休息の必要性は、主に力の消耗に左右される。危険なく長時間練習することは可能だが、その場合は短い休憩を挟む必要がある。人間の声は、音が自由な状態であれば、毎日数時間の練習に容易に耐えられる」[M589. 1921, p. 80]。
ルイス・アーサー・ラッセルは、練習時間に関して厳格な規則を定めてはならない理由を次のように述べている:
時計による練習を完全に否定するわけではないが、それは非常に悪い判断基準となりうる。なぜなら、時間は常に頭脳によって割り引かれるものであり、ある者が一時間で成し遂げられることを、別の者ははるかに長い時間を要するからだ。したがって、時間単位の練習に関する絶対的な規則を安全な形で示すことはできない……しかし、持久力を得ようとする試みにおいて、声を無理に酷使してはならない[『アメリカ人歌手との率直な対話』M460. 1904, p.4]。
とはいえ、ほぼ40人近い著者が練習時間の間隔と休憩の長さを提案している。まったく同じ意見を持つ著者は二人といない。考え方のわずかな違いが、どの著者を典型として引用することも不可能にしている。十数個の意見を引き合いに出しても、わずかに異なる見解が十二個得られるだけだ。しかし、意見の平均値に基づく一般的な考え方は存在する。そんな平均的な考え方は、次のように表現できるだろう。初心者の場合、毎日二、三回の練習を、それぞれ十五分から三十分の長さで行うことだ。
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30分から数時間の休息間隔を保つべきだ。上級者には、1回あたり1時間を超えない範囲で、徐々に長さを増す2、3回の断続的な練習が適している。プロは数時間歌い続けても疲れないことが求められる。
実習の監督。ベーコンは、トージが次のように記したと引用している。「もし学習者に鼻や喉、耳に欠陥があるならば、師匠やその専門を理解する者がそばにいる時以外は決して歌ってはならない。そうしなければ、修正不可能な悪い癖がついてしまうからだ」[M22. 1824, p. 99]。
二人の著者は、声の訓練の初期段階において監督が最も重要だと考えている:
新入生は、最初は教師が呼吸法や声の置き方、声区の定義などについて行う説明の全てを明確に理解できない。したがって数週間は、教師が新入生に毎日10分から15分間、指導のもとで歌わせるのが望ましい。ただし自宅での独学は禁じるべきである[M334. S. Marchesi, 1902, p. 44]
我々は、まず呼吸法の実践を試み、その後に音の出し方に取り組むのが望ましいと考えている。ただし、これらは必ず指導者の直接の監督下で行うべきだ。なぜなら、この段階では後で取り返しのつかない大きな害を及ぼす恐れがあるからだ[M290. G. B. Lamperti, 1905, p. 9]。
ブッツィ=ペッチアは、しばらく経てばそれほど厳重な監視は必要ないはずだと主張する:
一つ重要な点は、学校は生徒が「アイデア」を得る場所であり、それを自宅で独力で練り上げる必要があるということだ。向上は自らの思考から生まれるのだ! 生徒たちは理解していないようだ。教師は要点を示す導き手であり、生徒自身がそれを考え抜き、自ら発展させねばならないのだということを[M77. 1925, p. 24]。
無言の練習。無言の練習は、準備と維持という二つの理由から価値があると認められている。
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第一の点について、ビシェンデンはこう記している。「『沈黙の準備』と呼ばれる声に影響を与える方法がある。これは、音楽の一節の旋律を心の中で練習し、心の目でその効果を考察することから成る」[M44. 1876, p. 28]。
多くの練習問題で、パリゾッティは記号「S. pr.」を用いる。これは無音の準備音の使用を示すものである[1911, pp. 142-152]。
他の著者たちは、声を休める無声練習が声の維持に良いと考えている。メルバは、歌手が風邪をひいた時は無声で練習すべきだと書いている[M348. 1926, p. 14]。「過度の練習は声を疲弊させる」とランペルティは言う。「ゆえに、音を軽くマークするだけで十分だ……しかし、メッツァ・ヴォーチェで歌う練習は初心者を疲れさせる。声を使わず、頭で学ぶことがより重要だ」[M290. 1905, p. 34]。
シェイクスピアはトージがこう書いたと引用している。「歌唱はこれほど集中を要する行為であるため、声で練習できなくなった時は、頭の中で練習しなければならない」[M491. 1924, p. 75]。
ピアノ伴奏。ピアノ伴奏のレッスンにおける三つの主要な考え方が存在する。第一に、教師による伴奏の過剰使用に反対する立場だ。ピアノと声楽の両方を教えたフリードリヒ・ヴィークはこう記している:
教師が伴奏を演奏する際、まるで歌手の生死をかけた闘いに身を投じるかのように激しく弾くのはよくあることだ。 レッスン開始時、女性歌手は極めてピアノで始めるべきだ。最初は単旋律のオクターブで…それなのに君は、まるで太鼓やトランペットの伴奏をしなければならないかのように、鍵盤を叩きつける。 [君は]生徒に声を張り上げさせ、無理に力を込めさせるのだ[M571. 1875, p. 118]。
レーマンは、「レッスン中に教師がピアノで単音やコードを絶えず弾くのは間違っている。…教師は生徒の音を聞くことができるが、生徒は自分の音を聞くことができない…しかし、生徒が自分の音を聞くことを学ぶことは最も重要である」と断言している[M303. 1924, p. 210]。
ランペルティはこう述べている。「生徒が不安を感じた時だけ、教師は彼女に歌って聞かせながら、ピアノでユニゾンを伴奏すべきだ」[M290. 1905, p. 11]。
第二のアイデアは実践における伴奏を扱うものだ。教師たちは着席したまま歌うことに反対している:
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立った姿勢でこそ、自由に深く息を吸い込むことができ、心身を次の動作や歌に適切に備えることができるのです[M303. Lehmann, 1924, p. 210]。
発声練習は全て立った状態で行うべきだ。曲の練習も大抵はこの方が良い。たとえピアノで伴奏ができる場合でも、音程を保つために歌の練習は多くを立った状態で行うこと[M526. Taylor, 1914, p. 32]。
クロウエストもまた、練習中は立つことを信条としている。彼は「各パッセージの最初の音をそこで鳴らし、伴奏なしでそれを習得する方がはるかに良い」と述べ、さらに「ピアノと声の間に注意が分散されることはなく、歌手は芸術的に歌おうとしている音の生成に全注意と配慮を注ぐ自由を得られる」と主張している[M109. 1900, p. 55]。
第三の考えは、生徒が伴奏に慣れるためにピアノを弾けるべきだというものだ。 「ピアノを一度も習ったことのない歌手志望の少女は、声楽の勉強を始めた時点で最初から大きなハンディキャップを負っている。ピアノの知識が全くないため、全てを伴奏者に弾いてもらわねばならず――伴奏者から決して独立できないのだ」[フローレンス・イーストン、M69. Brower, 1920, pp. 131-132より引用]
これに同意する他の者としては、ダウニング[M132. Downing1927, p. 17]とソフィー・ブラスロー[ブラウアー, 1920, p. 190]がいる。
様々な要因。すでに間接的に言及した 3 つの概念を改めて繰り返す価値がある。「ゆっくり歌い、ゆっくり聴く練習をせよ」[M303. Lehmann, 1924, p. 189]。 「歌手は常に立った状態で練習すべきだ」[M380. Myer, 1913, p. 9] 「疲れているときや、自信がないときは練習するな」[M589. Wronski, 1921, p. 69]
もう一つ言及に値する概念は、練習に鏡を用いることだ。調査の過程で、36の言及が発見された。
この概念は本研究より以前から存在していた。コーフは自身の著作[M101. 1800, p. 13]でトージの考案を認めており、テンドゥッチ[M528. 1785, 規則X]はこう記している。「歌唱の練習において、口元の歪みやいかなる種類のしかめ面によっても苦痛や困難を露呈してはならない。鏡で表情を確認することでこれを最も効果的に回避できる」と。ガルシアは、唇を突き出す、アゴを突き出す、眉をひそめる、口を大きく開けすぎる、あるいは小さく閉じすぎるといった習慣を直すために鏡を使うことを勧めている[M191. 1894, p. 13]。
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G. B. ランペルティは歌手に「鏡で口を開ける様子と顔の表情を観察せよ」と指示するが、「壁に向かって歌うのではなく、部屋に向かって歌わねばならない」と警告している[M290. 1905, p. 11]
健康。フィールズやバーギンの著作では健康の問題は扱われていないが、本研究の対象期間においては重大な関心事であった。33人の著者たちが健康と一般的身体教育について論じており、そのうち数名はこれらの分野に章全体を割いている。
議論は多岐に渡るため効果的に要約することは難しいが、二つの主要な考えが浮かび上がる。第一に、歌手は歌唱以外でも運動をしなければならないこと。第二に、喫煙は歌手に推奨されないことである。健康問題についてさらに知りたい読者は、特にドービニー、フェラーリ、パノフカ、ブラウンとベーンケ、サントリー、カルーソ、クロウエスト、ウォロンスキーらの著作を調べるべきである。
ANALYSIS AND COMMENTS
分析とコメント
この研究は150年にわたるため、教育思想の進化が予想される。特に方法論の分野ではその傾向が顕著だ。
この時代は伝統的な学派の継続だけでなく、科学的学派の台頭、反動的な心理的手法、そして対立する見解を調和させようとする統合的アプローチの出現を目の当たりにしている。したがって当然ながら、発声訓練を標準化できるという概念に反対する著者のグループは、その考えを支持するグループよりも四倍も大きいことがわかる。
フィールズの研究では、標準化を支持する者が13人、反対する者が18人である。一方、バーギンの研究では、その比率が逆転し、支持7人、反対4人となっている。これは、標準化が実際に始まっているとは言えなくとも、少なくとも現代の著者たちの間で許容度が高まっていることを示唆している。1860年から1920年にかけての時代の著者たちは、声楽教育史の他の時期と比べて、他の教師や教授法に対する言葉による批判をはるかに多く展開している可能性が高い。
この研究期間において、二つの概念が変化を遂げた。声の分類は、単なる音域という決定要素から、音色、気質、音量、中音域の使用といった複数の基準へと移行した。声楽訓練の時期に関しては、ヴィークの著書(1875年)から現代に至る傾向の始まりが確認でき、10代後半に学習を開始する方が望ましいことを示唆している。
男性の声変わりに伴う問題のため、大半の研究者はこの過程が終わってから勉強を始めることを提案している。
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しかし、声楽教育の基本原則の多くは変わっていない。本章で述べられた考え方は、1777年以前(デューイ参照)と1927年以降(フィールズとバーギン参照)の両方の時代と一致している。 良い声と良い耳の必要条件、歌唱が短期間で習得できない事実、弛緩と力の節約が不可欠であること、そして歌うことは話すことに類似してると言う点は、いずれも一見明白な声楽の「真実」に分類される。
また、この章で取り上げた概念の中には、単に記述の数を数えただけではわからないほど、広く受け入れられているものもあることに留意すべきだ。声楽学習の利点、自己表現としての歌唱、筋肉の干渉を取り除くことの重要性といった概念は、多くの著者にとって自明のこととみなされているに違いない。
19世紀後半に現れた対立する方法論は、著者たちに自らの概念や技術を詳細に説明し正当化する必要性を生み出した。その結果、最も鋭い観察の多くは1900年以降に書かれた書籍に見られる。
この傾向は、この時代からの引用割合が高いことにも表れている。ただし、読者がこのことから、ある特定の概念が18世紀や19世紀にはまだ流行していなかったと直ちに結論づけるべきではない。
2026/01/26 訳:山本隆則