PART V
THE MAKING OF PROGRAMMES
プログラムの作成
(紙幅の都合上、ここではリサイタル・プログラムのみを取り上げる。大は小を兼ねるからである。)
プログラムを作成するにあたって、歌手はまず一つの利点を持っている。歌手と聴衆とは、同じ目的を共有しているのである――すなわち、精神的にも肉体的にも最小限の疲労で、最大限の興味を与え、あるいは受け取ること。では、それはどうすれば実現できるのだろうか。
絶えず変化を与えることによってである。
歌手はただ一つの声しか持たない。その声は多彩な色合いを帯び、さまざまな強弱の度合いを備えているかもしれない。生き生きとした想像力に裏打ちされ、強靭な意志に支えられているかもしれない。しかしそれは、あくまでも一つの、同じ声であることに変わりはない。変化は、プログラムの側で補われなければならないのである。
リサイタル・プログラムを作成するにあたり、歌手は次の十の要点を心に留めておかねばならない。
(1)言語の多様性。
(2)作曲家の交替(ただし一つのグループを成す場合を除く)。
(3)年代順。
(4)調性の変化。
(5)拍子の変化。
(6)歌曲の分類。
(7)技巧の様式。
(8)テンポ(速度)の変化。
(9)感情の漸強と漸弱。
(10)雰囲気とムード。
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(1) 言語の変更は、双方にとって間違いなく救いととなる。これとは別に、どんなに優れた翻訳であっても、作曲家にインスピレーションを与えた条件を満たすことはできない。ハンガリーの歌曲など、言語そのものが音楽のリズム的アクセントを決定づけている場合、たとえ歌われる言葉が英語であっても、その言語はハンガリー語として捉えられなければならない。
(2)雑多な構成によるプログラムにおいては、変化そのもののために作曲家を交替させることが望ましい。ただしこれは、意図的に組まれた歌曲のグループや、連作歌曲(ソング・サイクル)には当てはまらない。
(3)年代順の価値は、実質的なものというより情緒的なものである。それは歌曲というものの発展の縮図(ミニアチュア)を示してくれる。この点は、第九項(感情の線)と併せて考察されるべきであろう。歌曲が感情的な面で紛れもなく進歩を遂げてきたことは疑いなく、年代順に並べることによって、それらを事物の体系のうちしかるべき位置に収めることができる。これは、個々の作曲家における作品番号(オーパス・ナンバー)が全体として歌曲というものに対して持つのと、ほぼ同様の関係を担っており、その発展の跡を記録する助けとなる。
(4)調性の変化はこの上なく重要である。同じ調が続けて並ぶことほど退屈で、いわば「胃にもたれる」ものはない。もし歌手が不注意から、プログラム中に同じ調の曲を三曲続けて並べてしまった場合には、伴奏者に頼んで、その真ん中の一曲を移調してもらうがよい。移調によって失われる響きの美しさなど、調性の単調さがもたらす効果の損失に比べれば、はるかに軽微なものである。
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ただし短調のあとに、同じ主音を持つ長調が続く場合は例外であり、これは常に許される。実際、それはむしろ然るべきことのように感じられる。p. 230のプログラムを見れば分かるように、「影法師(ドッペルゲンガー)」に続けて「彼処、柳の茂みに(ドルト・イン・デン・ヴァイデン)」が置かれている。なるほど前者はト長調で終わってはいるものの、曲全体を通じて短調の色合いが強く、悲劇的な陰鬱さに満ちているため、聴く者はこれをト短調の曲として思い浮かべるのである。
(5)拍子の変化もまた、きわめて重要である。とはいえこれを確保するのは難しい。というのも、変化をつけるべき拍子の種類がそれほど多くあるわけではなく、また実に多くの歌曲が四分の四拍子か四分の三拍子で書かれているため、選択の幅が狭められてしまうからである。豊富なレパートリーを持つ者こそ幸いなるかな! とはいえ拍子の変化は、調性の変化ほどにはプログラムにとって不可欠のものではない。
(6)歌曲の分類については、前章で扱った通りである。「重なり合う(オーヴァーラッピング)」歌曲を含めれば、歌手が選択できる分類の幅は十分に広いことが分かるだろう。
(7)技巧の様式についても、すでに前(一四五ページ)で論じた通りである。歌われる歌曲はすべて、技巧という点ではベル・カントに属する。朗誦(デクラメーション)はおもに劇的な効果を要する場合に用いられ、発音(ディクション)は発語の純粋さと敏捷さとを要する歌曲に用いられる。後者(発音を主とする歌曲)は、その性質上、深く人の心を動かすことはまずなく、その感情の高まりも、通常はせいぜい「幸福感」の域にとどまるものである。
(8)テンポの変化は、許容されるだけでなく、不可欠なものでもある。急激な速度の対比は聴衆を驚かせるかもしれないが(それ自体は結構なことである)、感情の激しい対比のように害を及ぼすことはない。この点は、次のように説明すればより分かりやすいだろう――
(9)感情の線(Emotional Line)(これより適切な語がないため、便宜上そう呼ぶ)。歌手は、聴き手を、また自分自身をも、あまり長く緊張状態に置き続けてはならない。聴衆はそれに精神的に耐えられないし、歌手自身も精神的・肉体的に耐えられないのである。
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疲労の原因となるのは、実際に用いられる声量の大小や、立てられる音の大小そのものではない。精神的な緊張から解放されないこと、それこそが疲労を招くのである。シューベルトの《竪琴弾きの歌》三曲を続けて歌うと、それらは(情感の均一さゆえに)、適切に配列されたリサイタル・プログラムの半分を歌うよりも、歌手にとっても聴衆にとっても、はるかに疲れるものとなる。
感情の線という原則とは、プログラムを構成する個々の歌曲を、感情のクレッシェンドとデクレッシェンドとが連なる一連の流れとして配列することにほかならない。
先に挙げたプログラム(p. 230)の前半部を見れば分かる通り、感情のクレッシェンドの頂点は
「影法師(デア・ドッペルゲンガー)」、
「盃に寄す(アウフ・ダス・トリンクグラス)」、
「静かなる真昼(サイレント・ヌーン)」
の各曲に置かれており、また
「タップ・オ・ザ・ヒル(Tap o’ th’ Hill.)」にも、それより幾分か低い頂点が置かれている。
グッドハート作曲の「メアリー」は、それ自体としては愛らしい小品であるが、もしこれを「影法師」の直後に置いたなら、あらゆる神経を逆撫でしてしまうことだろう。いささかなりとも判断力を備えた歌手であれば、「対比」という口実のもとにこのような曲順を犯すことなど、決してあり得まい。一方、「彼処、柳の茂みに(ドルト・イン・デン・ヴァイデン)」は、「影法師」によって打ち砕かれた神経に対し、歌手にとっても聴衆にとっても、まさにうってつけの強壮剤(トニック)を与えてくれるのである。
単純で楽天的な小旋律であり、まさに前曲とは対極をなすこの曲は、あたかも一月にわたるロンドンの曇天のあとに顔を出した太陽のように現れる。続くヴォルフの「鼠捕り男(デア・ラッテンフェンガー)」は、これに先立つ、深く内面的な「盃に寄す(アウフ・ダス・トリンクグラス)」よりもはるかに大きな音を立てはするものの、感情的な深みという点ではまったく興味を引くところがなく、情感の面ではむしろ明確なデクレッシェンド(漸弱)をもたらすのである。
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そこから感情の線はふたたび上昇し、「静かなる真昼(サイレント・ヌーン)」に至る。「メアリー」もまた、この「静かなる真昼」の直後に置いては、耳障りな衝撃を与えずには済まないだろう。また「タップ・オ・ザ・ヒル」の直後にも、本来なら置くことはできないはずである――というのも、この曲の結びに漂う深い情感が、それを「静かなる真昼」と調和させているからである。ただし、「タップ・オ・ザ・ヒル」という曲の大部分は、あくまで陽気で、いくぶん諧謔味を帯びた小さな物語にすぎないという事情がなければ、の話だが。
「コリンナの五月祭詣で(コリンナズ・ゴーイング・ア・メイイング)」には、これといった大きな感情の起伏はない。それはあるべき姿の通り、ひたすら若々しさと快活さに満ちているのである。プログラム中のその位置におけるこの曲の役割は、もしそこまで聴き通してなお歌手と聴衆とが取っ組み合いの喧嘩にならずに済んでいたならば、両者を上機嫌なままに送り出すことにある。
(10)最後に、雰囲気について。この点はすでに十分に論じてきた通りである。これは「メインルールII」と密接に結びついている。すなわち、その歌曲の分類に従って、曲を全体として一つのまとまりをもって歌い上げること、それがここで求められているのである。
《詩人の恋(ディヒターリーベ)》(十六曲)のような歌曲連作の場合、歌手はプログラムの半分をすでに出来合いの、いわば型にはまったものとして与えられていることになる。この場合、聴衆はあらかじめ「最悪の事態」を覚悟したうえでその場に臨み、歌手ともども、それを一つのまとまりとして丸ごと受け入れ、細部における変化以外には何の変化も求めようとはしない。このような前半部を経たあとでは、プログラムの後半部は、どれほど軽やかであっても軽すぎるということはあり得ない。
(ここで括弧に入れて一言申し添えておくならば、連作歌曲という本格的な仕事に取りかかる前に、遅れて来る聴衆のために、二、三曲からなる小さなグループを用意しておくのが賢明である。たった一人の遅刻者であっても、歌手と聴衆双方の気分を台無しにし、個々の曲どころか、連作全体をも損ないかねないのだから。また歌手としては、プログラム売りの少年たちがうろつき回ることのないよう、あらかじめ手を打っておくのも賢明であろう。そして聴衆の側も、連作全体が終わるまで拍手を控えるならば、それこそが歌曲と歌手の双方に対する最高の賛辞となるであろう。)
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スタンフォードの《アイリッシュ・アイディル》*1(六曲)のような短い歌曲連作は、第一部の終わりに置かれるべきであり、その様式は、プログラムのそれに先立つ部分を作成する際にも念頭に置かれねばならない。この小さな連作は、多様性に富んではいるものの、国土に対する、あるいは個人に対する深い愛情の雰囲気に、全体として貫かれているのである。
*1 「スタンフォードの《アイリッシュ・アイディル》」(Stanford’s “Irish Idyll”):チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード(アイルランド出身の作曲家)による歌曲集《An Irish Idyll in Six Miniatures》(六つの小品からなるアイルランドの牧歌)を指す。アイルランドの風土や人情を題材とした、比較的親しみやすい性格の連作歌曲。
したがって、それに先立つ諸曲は、朗誦的(デクラメトリー)であるとか、不吉な、あるいは技巧的な、律動的な、その他何であれ、それとは異質な様式を際立たせておくべきである。そうすることで、やがて登場する歌曲連作の純粋な情感が、あたかも一陣の新鮮な風のごとくに訪れ、その特定の領域を、他の何ものとも分かち合うことなく独占できるようにするのである。
あらゆるプログラムにおいて、疲労こそが最大の敵である。それゆえプログラムは、むしろ軽さの側を選んで安全策をとるべきである。これはとりわけ第二部について言えることであり、そこでは精神的な緊張の漸弱(ディミヌエンド)が、徐々に進行していかなければならない。この目的のためには、民謡や伝承歌が実に好適である。古今の、荘重なものと快活なものとが入り混じった、ドイツ語・フランス語・イタリア語・英語による、朗誦的なものからベル・カント的なものまでを含む、古典歌曲や芸術歌曲によって構成され、あるいは一つか二つの連作歌曲をも織り込んだ、長大な第一部を経たのちには、第二部において、歌手にはその緊張を緩め、聴衆にはその知的な警戒心を緩めることを可能にしてくれる何かが必要とされる。民謡は、まさにこの条件を満たしてくれるのである。単純明快で、本質的にリズミカルであり――旋律は純粋そのもの、直接的な感情の訴えかけを持つ――それは長い一日の仕事を終えたあとの、食後の一服のパイプ煙草のようにやってくる。歌手にとって、これらの曲は声楽的に決して息抜きになるわけではない――というのも、これらは音楽の中でも、美しく歌い上げることが最も難しいものの一つだからである――しかし、それらは疲れた脳に対して、あたかも魔法のごとくに働きかける。そして、常に恵まれた体力を備えている職業歌手にとっては、それこそがすべてなのである。民謡の場合にも、第一部と同様のプログラム編成上の条件が当てはまるが、感情の面ではいくぶん、その度合いが小さくなる。
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リサイタル・プログラムの第二部を、いわば無理やり民謡に充てるべきだと言いたいのではない。ただ、数ある選択肢の中でも、民謡はこの役割に「うってつけ」だということである。このような第二部にとって唯一真に不可欠な条件は、それが軽やかであること、それだけなのである。
うわべだけを見る者の目には、これらすべてが、われわれのかねてよりの敵である過度の作り込みや自意識過剰の匂いを漂わせているように映るかもしれない。しかし、事実はそうではない。老練な歌手は、こうしたプログラムを本能的に作り上げてしまうものなのだ! 十分な手腕と必要な経験さえ備えていれば、どの歌手であっても、ひと朝のうちに半ダースほどのプログラムを作り出すことができるだろう。そしてまた事実として残るのは、こうした周到な工夫を欠いたがゆえに、通常のプログラムというものが「うまく行かない」のである。
プログラムを作成するにあたっては、まずプログラムそのものを、しかも自然な形で作り上げ、そのうえで、諸条件に適合するよう手を加えていかなければならない。もし次ページに掲げたプログラムの曲名がすべて失われてしまったとしたら、途方もない労力をかければ、あるいはその分析に見合うような別のプログラムを組み立てることも不可能ではないかもしれない。しかしその結果として出来上がるのは、人為性の極みとでも言うべきものになるであろう。プログラムはまず、主要な諸条件以外には特に意を払うことなく作り上げられねばならず、それを「かたちに整える」のは、そのあとの作業なのである。
〔ここに掲げるプログラムは、(リサイタル・プログラムの一例として)第一部における二箇所のごく些細な変更と、第二部における一箇所の変更とを除けば、実際にあった通りのままに書き記したものである。これはまったく自然な形で成立したプログラムであり、それ自体が、おのずとここでの分析へと展開していったのである。加えられた変更はいずれも本質的なものではまったくなく、ひとえに本章で示した諸条件に適合させるためだけになされたものである。〕
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EMOTIONAL LINE 1
さまざまな感情の強さは、クレッシェンド記号の実際の大きさによって表現される。
記号「1」は、そのような感情の強さがないことを示す。
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明らかなことだが、興味深いプログラムを作り上げ、それらの条件を満たしていくためには、多才さだけでなく、何にもまして、豊富なレパートリーが求められるのである。天使を歌った歌、あるいはオルガンを、東洋の沼沢地を、あるいは「パットと豚」を歌った歌が十二曲ばかり「人気」だからといって、それだけで歌手はさほど遠くまで進んでいくことはできない。一方、お決まりの装飾的なアリアというものは、聴き手にあくびを催させること、クラブで聞かされる最新のとっておきの話が自動的にあくびを誘うのと、まったく同じことなのである。レパートリーというものは、たゆまぬ努力なくしては手に入らないものであり、そしてたゆまぬ努力こそは、命の息吹そのものである。優れたプログラムには、探求と研鑽、そして音楽の巨匠たちとの親密な交わりが求められる。それらはまさしく解釈の真の友であり、というのも、それらは個性へと至る扉を開いてくれるからである。偉大なレパートリーの全体を、誰かの模倣によって身につけることなど、いかなる者にもできはしない。
本章の意図は、上述の諸規則の遵守を、いたずらに強いることにあるのではない。それらは、経験に照らして目指す価値があると分かった、いわば「完全なるものへの助言」を、細部にわたって述べたものにすぎないのである。
2026/08/20

