ミラノの上位中流階級に生まれ、早くからピアノを学ぶ。祖父の影響で声楽を始め、ピエトロ・マスカーニからも歌手として活動するよう激励される。他人のソプラノ歌手の歌唱を傾聴したり、発声法の書かれた古い教本に目を通したり、歌いながらピアノを練習したりすることで、自らの選択でほとんど独学で声楽を習得した。
1906年、トラーニにおいて《リゴレット》のジルダ役でオペラ歌手としてデビューし、たちまちイタリア全土にその評判を広めた。1908年にルイージ・クルチ侯爵と結婚し、現行の姓に変更した。だが結局は離婚して、1921年に伴奏者のホーマー・サミュエルズと結婚することになった。
ヨーロッパや南アメリカにおいて広く演奏旅行を行なう。1915年にエンリコ・カルーソーとの共演で、《ランメルモールのルチア》のブエノスアイレス公演に2度出演したが、これは彼女が伝説のテノールと共演した唯一の機会となった。1916年にアメリカ合衆国に上陸する。ただし事実上の無名歌手としてであり、したがって滞米期間は短期間の予定であったが、シカゴで《リゴレット》のジルダ役で絶賛され、あまりのその熱狂的な評判に、シカゴ・オペラ・カンパニーに留まることを決心し、1924年まで共演を続けた。やはり1916年には、ビクターとの契約書に署名して、1930年まで同社に積極的な録音を行なった。1921年にメットにデビューし、1930年にオペラ界から引退するまでその後も同歌劇場に出演を続けた。
1930年1月に、オペラは死に行く芸術であると確信して舞台上から引退し、その代わりに演奏会場での活動に専念することにする。長年、咽頭の問題に悩まされ、1935年には甲状腺腫を摘出してもらうために外科手術を受けている。非常に細心の手術が行われ、術中には局部麻酔が行われた。それでも手術後も声の悩みは尽きなかった。結果的に高音域を歌う能力が喪われたことから、喉頭の神経の一つが、すなわち上喉頭神経の迷走神経が疵付いたと考えられている。この神経は、それ以来「ガリ=クルチの神経」として知られるようになった。2001年にクルックスとレカベレンが、手術後の当時の報道記事を再検証し、担当医の同僚ならびに近親者にインタビューした結果、ガリ=クルチの声の衰えは手術の結果によるものではなかったという可能性が非常に高いことを報告している。
1936年に、間違った助言によって、《ラ・ボエーム》のミミ役でシカゴの舞台に復帰するも、歌手生命が終わったことが痛々しいほど明らかとなり、その後いくつかのリサイタルを終えると、完全な引退に追い込まれた。その後は没年までカリフォルニアで過ごし、82歳の誕生日から1週間後に息を引き取った。wikipediaより引用
【発言】
わたしは、歌唱に関する限り、事実上独学です。そして声で何かをしようと考える前に、コンサートピアニストになることをすでに決めて、Appianiの下で勉強し、Milan音楽学校で最初の賞をとりました。
Mascani(我々の家族の大変親しい友人)は私が歌うのを聞いて-わたしが16歳ぐらいでした ― そして、声を訓練しないことは私にとってほとんど犯罪的なことであるかもしれないと強調しました。
しかし、歌唱の勉強を始めたとき、わたしは自分自身を頼みにしようと決めた。もしわたしが欠点を持っているならば、それらを、教師が私に与えるかもしれないものよりもむしろ私自身の弱点であるようにするために。
これは、わたしがよい教師がいないと考えたからではありません、単に自分自身でその方法を選んだだけです。
わたしは、歌唱と声の技巧についてたくさん読み、それを使って勉強しました。 ; Garciaと特にLilli Lehmann。
私にとって、後者の本は歌唱についてのこれまでに書かれた最も重要なものに思えます、それはどのような細かい説明に於いても全く完璧です。
彼女は声を知るためのすべてを実際に理解する偉大な芸術家です。もっとも時々、訓練された歌手のみが彼女を完全に理解することができ、彼女のレッスンから最も豊かな利益を引き寄せることができると思います。
また、自分の声のレコードを持っていました、それらは私の誤っていた所を私に教えてくれました。
細心の注意でレコードを聞き、そして、耳(それは非常に鋭敏です)が少しでも欠点を捕らえれると、直ちにそれらを修正することができました。
Galli-Curciは、実際に『Milanの2人の教師のもとへ行ったが、彼らや彼らの生徒から聞いたものに、非常に不満だった』ので、彼女のやり方でやっていこうと決めた。彼女は『幼年期から音楽的な伝統に満たされていた』という自分の恵まれた立場を良く認識していた。しかし、彼女はまた、偉大な歌手は、『彼の脳と、魂で』他の誰も彼を与えることができない何か ― 『音声、イントネーション(音高)、濃淡、鮮明度と共鳴の性質がそれらが最も高い芸術的な結果を保証するためにそうでなければならないかどうかにかかわらず、彼自身で判断する力 』ーを必要とするとも言った。 [Anderson, We Sang Better, Vol.1 p.315]
全ては、煎じ詰めれば声を強制することなく歌うということです…決して[呼吸]を前へ押さないこと。
これは、音声生成の普遍的な原則です。
あなたは、フルートが保つことができるより多くの空気をフルートへ吹きつけるならば、喘鳴音とヒューヒュー音がする音声を得るだけです。
バイオリンで音を押しつけるならば、あなたはこすり始めることになります。
あなたがBarrereに従うならば、あなたは豊かな、軽い音質を聞くだろう;それを強制することはない。
それはKreislerまたはHeifetzと同じです;あなたはまじりけのない、美しい共鳴を持つ、弦の(振動の)気配がしない;それは声もそうでなければならない。 [Anderson, We Sang Better, Vol.1 p.97]
彼女は、私の『指導原理』は以下の通りであると言った:
できるだけ喉での努力の意識が小さくなければならない。
歌唱の喜びが、常になければならない。
私の口、私の喉において、私が正しいと感じるかどうかにかかわらず、成功は感覚に基づく、それは私にはわかるが他の誰も私に言うことができない。
また、彼女の家庭には常に歌があった:私は覚えています、75歳で「Una voce poco fa」を歌った祖母は、常に一つの音を決して押してはいけないと注意した。…彼女は常に最も楽に歌って、非常に多くの歌手の努力を耐えられないものにする喉の束縛を強制しなかったので、75の年齢でさえ、彼女の声は素晴らしく若々しく聞こえた…
Galli- Curciは、彼女自身の勉強のほとんどの時間をゆっくりしたエクササイズ(彼女の『弱い箇所』の勉強のために)に充てた。 [Anderson, We Sang Better, Vol.1 p.118]
カヴァーされた歌唱は、実際にその名前に値する唯一の歌唱である。それは、閉ざされた喉によって生成されない、そして、まさに音声の適切な、母音の明るい音質と、暗い音質の混合がなければならない。そして、美しい『カバーされた』声は、鋭どすぎる声より遙かに多くのものを伝える。そして、それは非常に表現力豊かであり;悲哀のような美しい音質を持っている。 [Anderson, We Sang Better, Vol.2 p.29]
我々は、発声教師によって多くの誤った考えを吹き込まれる。1つは、音に支えを与えるために横隔膜を堅く保持しなければならないということである。これは深刻な間違いであると思われる。私は、横隔膜をリラックスしたままにします。このように、私の場合、音生成は、常に楽に行われます;決していかなる緊張もありません。
”若い歌手達は、何の母音を使って稽古なさいますかという質問をします。私は練習で全ての母音を使いますが、勿論いくつかの母音は有効です。「O」は良く、「E」は十分な注意を要します;全ての中で「A」は、最も難しい母音です。これは、一般的な考えに反していることは承知しています。” [Galli-curci in Brower, 1920, p.54]