Giulio Caccini、彼のLe nuove musiche:新音楽(1602)は新しいスタイルの独唱曲の宣言書である、彼は2つの声区をvoce piena e naturare (大きく自然な声)、そして voce testa (作られた声またはファルセット) と言いました。彼は、ファルセットはその気高さの欠如、息の多さ、大きな声と小さな声とのコントラストを生み出す事ができないので嫌いであると明言しました(Caccini 1970, 56)。カッチーニ自身の音楽作品は、テノールが通常の胸声の限界を超えて引き伸ばされることが滅多に無いような音域で書かれています。カッチーニはまた、楽な胸声の音域に声を保つために移調を奨励しています。彼は、どうやら、ファルセットを避け、カバーされた歌唱など全く知らない1声区歌手であったようだ。彼の見解は、歌手に完全なフル・ヴォイスで歌うことを強く求めた Praetoriusによって(Praetorius 1619,2:29)、そして、ファルセットを『半ば強引な声a half and forced voice)』と考えた Herbst によって繰返されました(Herbst 1642, 3)。[James Stark, Bel Canto 59]

 

カッチーニの前半生についてはほとんど知られていないが、ローマかティボリのどちらかで生まれた。ローマで彼はリュート、ヴィオール、ハープを習い、歌手としての名声を博しはじめた。1560年代、コジモ・デ・メディチが彼の才能に感銘を受け、若きカッチーニを更なる勉学のためにフィレンツェへ招いた。

1579年には、カッチーニはメディチ家の宮廷で歌手をしていた。彼の声域はテノールであり、また自分自身でヴィオールの伴奏を付けることができた。彼は婚礼や国事など様々な宴会で歌い、当時の壮麗なインテルメディオ(オペラの先駆の一つとされる、精密な音楽・劇・映像的見せ物)で役目を果たした。またこの時期に、彼は人文学者、作家、音楽家、考古学者達の活動に加わった。彼らはジョバンニ・デ・バルディ(Giovanni de’Bardi)伯爵の邸宅に集まり、失われたと思われている古代ギリシャの劇音楽の栄光を復活させようとする団体、「カメラ-タ」を結成した。カッチーニの歌手、楽器奏者、作曲家としての才能によって、カメラータはモノディ様式を確立し、それはルネッサンス末期のポリフォニー音楽の慣習からの革命的な新発展となった。

スタイル・レチタティーヴォstile recitativo)と呼ばれた新たに生み出されたモノディー形式は、フィレンツェだけでなく、イタリアの他の地方でも評判になった。フィレンツェとヴェネツィアは、16世紀末には最も先進的な音楽の発信地であり、それぞれの地における音楽的発明の融合が、結果としてバロック様式として知られるものを発展させた。カッチーニの功績は、演説などで簡単に理解可能となる直接的な音楽の表現様式の考案である。この表現様式は後にオペラのレチタティーヴォに発展し、その他多くのバロック音楽の様式的あるいは本文的要素に影響を与えた。

カッチーニの最も影響を及ぼした作品は、1602年に出版された『新しい音楽』と題する、マドリガーレや単声と通奏低音のための音楽などの曲集である。この書物の導入部は、当時のモノディ様式の趣旨、目的および正しい演奏法について最も明確に書かれた描写かも知れない。それには装飾の音楽的実例が含まれている—たとえば、歌手達が説明してほしがっている素直な感情に基づいた、特定の楽節を異なった目的に装飾する方法など—。

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