THE PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱の哲学

by Clara Kathleen Rogers
Part 2

Chapter II
BREATHING
呼吸

よく、『完璧な呼吸は自然な呼吸』と言われますが、まさにその通りです。しかし、自然な呼吸とはどういうことなのでしょうか? 意識することなく行う習慣のような呼吸のことでしょうか? もちろん、そうではありません、 なぜなら、それはほとんど普遍的に、私たちが子供の頃から様々な誤用や 曲解によって身につけた習慣の数々に従って呼吸することであり、自然や自然法則の単純な実現に従って呼吸することではないからです。

私たちが自然法則に従って生活していないことを証明するための議論は必要ないと思います、 というのも、その事実はあまりにも長く、あまりにもしっかりと立証されているので、これ以上の証明は必要ないからです。もし私たちが本当に自然であるならば、呼吸の過程に一切注意を払わず、その行為を無意識のうちに行うようにすれば十分でしょう。無意識であれば、それは自然であり、自然であれば、自然が自らの意思に任せて完全に働くように、完璧であるはずです。

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しかし、残念ながらそうではありません。私たちは、実は常に自然法則と対立しているのです。それは、私たちの生活のあらゆる行為において、どんなに簡単なことであれ、不必要な緊張を与えているからです。この緊張は、間違いなく私たちが生きている高い圧力下の身体的表現と言えるでしょう。この緊張は、それ自体、呼吸という行為だけでなく、他のあらゆる身体的プロセスを支配している作用と反作用の自然法則を否定するものなのです。緊張は、この法則に対する抵抗として、その規則性や美しいリズムを破壊し、生命の法則を身体で表現する呼吸という行為を、苦しく困難なものにしてしまうのです。不自然な緊張の習慣は、今や私たちの生体内にしっかりと定着し、自動的なものとなっているのです。私たちはほとんどの時間、ほとんど意識することなく、神経と筋肉の両方に過度の緊張を与えています。
私たちは無意識のうちに横隔膜を固定したまま考え事や読書、書き物をしているため、一度に15秒、20秒という規則的でリズミカルな伸縮の動作が妨げられています。これは当然、健康に悪い影響を与えるに違いありません; 血液が正常に酸素化されないので、体力や気力が失われるのです。つまり、どのような経緯であれ、私たちは今日、不必要な緊張の習慣によって、無意識のうちに不自然な呼吸をしていることに気づかされるのです。
したがって、呼吸の技術は、自然に、つまり、簡単に、自由に、リズミカルに肺を膨らませる能力を取り戻すことにあります。*
* パートIII.の162頁、『リズミカルな呼吸』を参照。

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この能力を取り戻すことは、今日の歌手の間で普遍的に行われている人工的な呼吸方法と混同してはならないし、それは従来からの誤りの結果です;つまり、横隔膜を意図的に、意識的に、伸縮させる行為に取り組む練習のことです。これは、最も明確に避けるべきことです。呼吸において必要とされることは、不必要な緊張のない拡大です。
肺は、息が尽きるとそれに比例して満たされるものであり、肺自身の法則である作用と反作用のもとで、歌い手の側で意識的に横隔膜を調節することはありません、 なぜなら、それは必然的に、機械的で自発的でない音の生成につながるからです。

歌い手の方々は、『どこを押さえつけてもいけない』『どこを締め付けてもいけない』『身体の骨格は、息を吸ったり吐いたりする自然な行為に対して可塑的、受動的でなければならない』と言えば、よく理解してもらえるでしょう。音の生成に費やされる息の量は、音質そのものによって調節されなければなりません。また、音質は歌い手の意志の衝動によって調節されますが、この衝動は、心的でも身体的でもなく、感情的であることを忘れてはなりません。もし、意志の衝動が力強い発声を求めるものであれば、その音は充実し、共鳴し、息は自由に、惜しみなく音に注ぎ込まれるでしょう。もし、ソフトで優しい音を発しようとするのであれば、呼吸はよりゆっくりとしたものになり、結果的に長く続くことになります。【太線強調:山本】

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どちらの場合も、横隔膜は自動調節器として働きますが、それは歌唱行為中の音と、吸うときの息にのみ従うもので、歌手の意志は音を通してのみ(間接的に)作用し、直接的にも意識的にも働くべきではありません。横隔膜は、息を吸い込むときには呼吸に対して可塑的または受動的でなければならず、歌うときには音に対して同様に受動的でなければなりません。この受動的な状態を得るためには、全身が不必要な緊張のない、適切な平衡状態にあることが必要です。胸の骨格はもちろん、腹部全体が楽であること、つまり、完全に自由であることが必要です。誤解を避けるために、この同じ法則を別の言葉で述べたいと思います。横隔膜は拡大のプロセスにおいて主導権を握ってはならず、肺が空気で満たされるときの拡大に従うか、同時に行動しなければなりません。横隔膜を先に働かせることは、自然のプロセスを急がせ、強制することであり、硬さと音色の制限、そして安息感の欠如を生み出します。

息が切れるタイミングで発声・打弦すれば、ピアノを鋭く打弦したときのような、澄んだ、鐘のような、能動的なアタックが得られ、心地よく、快適な効果が得られます。さらに、その音は拡大し、移動し、最大のオーディトリアムを満たすだけでなく、さらに良いことに、観客をも満たすことになるのです。

 

もし身体が適切な平衡状態にあり、不自然な緊張が全くなければ、身体に入った息は、当然のことながら、真空状態を作り出した肺の部分を求め、空気の流入そのものが、息を吸うことの自然な結果として、横隔膜の下降、浮肋骨の拡大、その後、上肋骨の拡大を、何の助けもなく引き起こします。原因と結果を混同しないように気をつけましょう。
横隔膜は、拡大する過程で、肺に入る空気のために、またそれに対応して自然に作用するもので、横隔膜の作用で空気が肺に入るわけではありません。【訳注:科学的に言うと少し誤解を招く。空気は自分の力で肺に入ってくるわけではない。横隔膜の積極的な活動で息を吸ってはいけないということが要点。】
また、歌唱時に息をせき止めたり、あるいは横隔膜で息を制御しなければ、息は過度に自由に、そして急速に消費されると考えるのは、よくある誤りである。しかし、どうしてそんなことが可能なのでしょうか?
声帯はシャンパンボトルのサイフォンのようなものですから、声帯が音を発する行為に近づいている間は、息をあまり自由に逃がすことはできません。
シャンパンを抽出する量は、ボトル自体の中身で決まるのではなく、単にサイフォンで調整するのです、 しかし、サイフォンの栓がシャンパンの流出を防ぐように、私たちの近接した声帯は、息が音波振動に変換されるまで、息の流出を抑制し、その形でしか出口を作れないのです。

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このように、空気の柱は、その固有の衝動によって抵抗する靭帯を振動させ、その機能を果たすために自由な範囲が与えられ、拘束されることはないことは理にかなっています。

しかし、歌い手たちは、息が一度に全部出てしまわないように、息を節約して少しずつ出すことが必要だと考え、この間違いに陥ってしまうのです。

歌い手が息を切らしているように見えても、半分以上はまだ十分な息があるのです; しかし、意識的に筋肉をコントロールすることによって、息が声帯に自由かつ正常に作用することを妨げています。そのため、音が衰えたり、弱まったり、早々に消えてしまうのです。これは、息が使い果たされたからではなく、単に体から出ようとする自然の衝動が不適切に抑制されたためなのです。

では、私が他の権威と異なる点は何かというと、ズバリこれです: 私は、息を吸うときの拡張と吐くときの収縮の度合いは、歌い手が意識的に調節すべきではないと主張します; 腹部は、息が体に入るときに、その息に合わせて膨らみます、 ちょうど、マウスピースを装着したゴム球が、真空を作り出した後、放っておくと膨らむのと同じように。ゴム球から空気を抜くには、もちろん人工的な圧力が必要であり、そうでなければゴム球はいつまでも満杯のままである、つまりゴムは、弾性はあっても死んだ物質であるのです。

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しかし、体はそうではありません。弾力性があるだけでなく、生命を持ち、その結果、生命の息吹に合わせて伸縮する自然な衝動が規則正しく出入りしているのです。

私の訴えは、生命の法則が作用と反作用、この場合は拡張と収縮で表現されるのに対して、身体が絶対的に受動的であること、器官の自然なプロセスに一切干渉しないこと、自然が助けなくても達成できることを助けようとしないこと、振り子を揺らして時計を助けようと考えるのと同じように、自然を助けようとしないことです。

私は、自然のプロセスを調整しようとすることは、音を発しようとする意志の衝動(あるいは音の衝動と言った方がいいかもしれません)に完全に集中すべきエネルギーを浪費していると主張します。このようなエネルギーの集中がなければ、音は正しく生命化されず、その結果、機械的で聴者を感動させたり興奮させる力のないものになってしまうでしょう。意識的な機械的プロセスでは、感情の自発的な発声はあり得ません。そして、最上級の立場から見た歌唱の望ましい姿は、まさにこの自発的な発声なのです。

それでも、呼吸を意識的に調整することに熟達すれば、多かれ少なかれ受け入れられる音を奏でることができると、私は大いに認めてもいいと思っています; しかし、私が言いたいのは、魂の感情を最高かつ最も忠実に表現するためには、そのような方法では到底到達できないということです。

2023/06/12 訳:山本隆則