THE PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱の哲学

by Clara Kathleen Rogers
Part 1

第6章
AUTOMATISM
自動作用

芸術における自発的な表現には、技法、つまり表現のプロセスに関わるすべてのものを徹底的に習得し、服従させることが絶対不可欠であり、そうすることで、表現のプロセスも、そのプロセスで使用される各部分も、表現中に出しゃばったり、意識に入り込んだりすることがなくなります。歌は特にそうです。歌い手は、雄弁家が雄弁な唇から流れ出る言葉を形成するアルファベットを意識しないのと同じように、歌うという行為の間の肉体的なプロセスを意識してはなりません。その理由は、歌唱において完全に自発的な発声を得るためには、意識の分裂があってはならないからです;全意識は原動力あるいは意志に集中していなければならないのです。従って、歌唱に使われるすべての各部分に正しいオートマティズムを確立することが絶対に必要なのです。では、正しいオートマティスムとはどういう意味でしょうか? それは、知性の指示なしに、すべての身体的プロセスが、個別に、相対的に、全体として、完全かつ自発的に作用することを意味します。

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この正しいオートマティズムがしっかりと確立されることで、使用される各部分や 身体的プロセスは、完全に装備され、絶妙なバランスが保たれ、うまく調整された機械となり、動力を加えることで瞬時に要求されるあらゆる動作のバリエーションを実行することができ、その準備が整うようになるのです。

身体的な機械は知性とは無関係に行動するだけでなく、意志からの意識的な指示なしでも行動できなければなりません。なぜなら、意志は機械自身ではなく、機械によって生み出される仕事だけに関係しているからです。言い換えれば、意志は表現することを要求しているのであって、それがどのように表現されるのか、あるいは何がそれを表現するのかには無関心だということです。正しいオートマティズムを一度身体に定着させ、それを永久に維持し、そこから後戻りすることがないようにする必要性は、自発性と表現の真実にとって極めて重要であり、あまりに積極的に述べたり、あまりに頻繁に繰り返したり、あまりに切実に強調したりすることはできません。歌の中で自分を直接的に、そして正直に表現しようとする者は、オートマティズムを自分のために役立てることに時間をかけてはなりません。彼はそれを友とし、進んでその奴隷とならなければなりません。 そうでなければ、それは強力で執拗な敵であり続けることになるからです。知性のない敵であることは事実ですが、その強さは残忍で、その頑固さは狂暴です; あらゆる善良な衝動と美しい願望を否定し、挫折させる敵なのです。

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オートマティズムは『習慣の力』というおなじみの名前でより一般的に知られており、人生で一度でも、この力が危険な敵であることを個人的な経験によって実感したことのない人はいないでしょう。

何らかの習慣、マナーの欠点、話し方や歩き方、態度の不作法、気性の不親切さやせっかちさなどを改めようとしたことのない人がいるでしょうか。改めたいと願い、改めようと決意したにもかかわらず、習慣の容赦ない力によって自分の目的から引き離されてしまうことに気づく人がいるでしょうか?しかし、彼の理性は改革が必要だと信じていたし、さらに、正直なところ、古い習慣を打ち破りたいと望んでいたにもかかわらずできなかったのです。古い習慣は強く、彼は弱かった。戦いは対等なものではありませんでした。なぜでしょう?なぜならば、人間の城塞内に安全に設置されて以来、日に日に強くなり、より専制的になり、より無敵になり、強大で無慈悲な敵であり、まさしく怪物であるオートマティズムという、いまだ征服されていない敵に対して彼の意志は無力だったからなのです。そして、この自動的な怪物はどうやって私たちに侵入し、油断している私たちの能力を掌握するのか、そして 意志そのものさえも支配してしまうのか!敵は、笛や ドラムやトランペットに先導されてやってくるわけでもなければ、正装して門前に現れるわけでもありません。 しかし、他の多くの敵と同じように、ひそかに、あるいは友人の衣をまとって姿を現すことすらあるのです。この敵、つまり正しくないオートマティズムが、私たちの身体的プロセスにどのように定着しているのか、実践的な例証を探しましょう。

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私たちはまず、無知、無頓着、模倣、あるいは一時的な身体的弱点や初期的欠陥のために、好ましくないこと、悪趣味なこと、自然法則に調和しないことを許すことから始めます。例えば、特定の単語の発音間違い、甲高く、音楽的でない、下品な声のトーン、鼻にかかった話し方、猫背など、数え上げればきりがありません。このようなことを続けていると、すぐに習慣となってしまい、 そして、その習慣を長く続ければ続けるほど、その習慣はより強固なものとなり、ついには無意識のうちに、言い換えれば自動的なものとなってしまいます。その行為によってもたらされる身体的プロセスは、今や知性からの指示なしに作動するだけでなく、意志なしでも作動するのです。言い換えれば、彼らはこれまで習慣としてきたことをやり続け、巻き上げられた時計のように自ら進んでいくのです。第一に、そのような習慣が存在することに気づかせるのは困難です。なぜなら、そのような習慣は無意識的なものになってしまっているからです;しかし、ようやくその存在に気づいたとき、私たちはすぐにそれを止めたいと思うようになり、むしろ熱心になりますが、最も落胆する結果になるでしょう; なぜなら、その行為を繰り返したくないというのが私たちの意図であり、切実な願いであるにもかかわらず、禁じられた行為が私たちの意志や知識なしに繰り返され、私たちの善良な決意にもかかわらず、それがまだ何度も何度も延々と繰り返され続けていることに、私たちは悔しさを覚えるからです。ここには、明確に定義された、日常的によく見られるオートマティズムのケースがあります。さて、これはなぜなのでしょうか?

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というのも、身体的なプロセスが知性の指示なしに勝手に作動するだけではなく、心的な意志もまた、本質的な意志からの衝動なしに無意識に、あるいは自動的に作動するからなのです。つまり、背後に欲望がないのです。というのも、もし心的な意志そのものもオートマティズムに関与していなければ、どんなに長い間続いている習慣であっても、そうしたいという真の欲求が目覚めさえすれば、すぐにその習慣を捨てることを妨げるものは何もないからです。このように、習慣を変えたいと願うことは、意志から心へ、主人から召使いへ の命令であり、従わなければなりませんが、召使いはすでに敵の捕虜となっ ており、専制君主の中の専制君主であるオートマティズムの束縛下にあるため、主人である 意志に仕えることはできません。つまり、その表現手段である身体が、悪い習慣を捨て、良い習慣を確立することなのです。意志を持ち、命令することしかできない主人は、行動する器官なしには行動できないのですが、行動する器官は、抵抗するオートマティズムのせいで、不具になり、機能しなくなり、まったく無力で、まったく役に立たないのです。

この状態は、パウロがローマの信徒への手紙の中で述べている『わたしが望むことは、わたしにはできず、わたしが嫌うことを、わたしはする』という表現を非常に鮮やかに思い起こさせます。

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そしてまた、『私の心の法則と戦い、私の身の内にある罪の法則の囚われの身にさせる、もう一つの法則が私の身の内にあるのが見える。』パウロは、新しく生まれた善と美への願望が、肉と『肉なる心』の中にすでに確立された古い習慣によって挫折させられたと述べているのではないのでしょうか? パウロがその遠い昔に観察したことは、善と真に向かうのに遅々として進まない衝動がそれに打ち勝つことができないほど、このオートマティズムの法則が身体と心にしっかりと定着していることにほかならなかったのです。

このオートマティズムの法則は、私たちの道徳的、心的、そして身体的な器官において、千差万別の形で示されています。過去に悩みや苦難に見舞われたせいか、現在の状態は申し分なく楽で満ち足りているにもかかわらず、気遣いや不安の表情が常態化している人をよく見かけないでしょうか?彼らは幸せだが、みじめにみえる。自分たちを苦しめるものは何もないのに、まるで全宇宙の福祉に責任があるかのようにみえます。私たちはここに、肉体的・心的器官の両方に現れるオートマティズムのもうひとつの例を見ることができます。不安の線は肉体に定着しているだけでなく、人生をつらいものとする習慣が心にも定着している、 その結果、気遣いや不満の表情は、楽で幸せな現実の状態を裏切ることになるのです。

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このオートマティズムの法則は、無意識の自然においても現れています。われわれの身体には、われわれの身体組織では何の働きもしませんが、かつての進化の低次段階の残存物にすぎない、ある種の術が存在することが証明されているのではないでしょうか? 腸の袋、盲腸はその一例であり、私たちの器官にとって何の役にも立たないばかりか、その存在は危険な状態を引き起こしやすく、しばしば死にいたります。手には伸筋靭帯という靭帯もあり、これは現在私たちの手が役立っているのと同じように、より原始的な先祖に役立っていた前足の生き残りだと言われています。ここでもまた、この生き残りが第4指の自由な使用を妨げているのです。人間という種族は、そのような表現が生き物の他の部分と調和するレベルを超えて自らを高めてきたにもかかわらず、自然がまだ捨てていない表現の癖にほかならないのです。

オートマティズムは個人だけでなく、世代を超えて確立されていきます。それが世代を経て、父から子へ、そしてまた孫へと、何らかの形質や傷や病気の形で受け継がれていくとき、私たちはそれを遺伝の法則と呼びますが、実際には、先祖の家系に定着し、何らかの新しい血の融合や、知的で強力な反作用がもたらされるまで持続し、再生産されるオートマティズムにほかなりません。

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ここまで、オートマティズムを敵という性格でのみ説明してきましたが、それは私たち全員がオートマティズムを最もよく知っているからです; というのも、私たちは誰でも、教育を受け始めたとき、多かれ少なかれ、先天的あるいは後天的な悪習慣によってハンディキャップを負っているからです。遺伝性の習慣をわれわれは先天性と呼び、後天性で長く定着した習慣をわれわれは第二本性と呼びます; しかし、遺伝、第二の天性、習慣の力と呼ばれるものは、程度や長さの違いはあっても、すべて同じもの、オートマティスムなのです。オートマティズムは、それが遺伝であれ、第二の天性であれ、習慣の力であれ、我々の意識や 意志とは無関係に働く力なのです。

オートマティズムがさまざまな形で現れている興味深い例をたくさん挙げることができますあが、それでは歌の芸術から遠ざかりすぎてしまうので差し控えましょう。私の目的は、読者がどこでオートマティズムに出会っても、それを識別できるようにすることです。

しかし、オートマティズムは、その本質的な性質によって、必然的に意志とは無関係に行動しなくてはなりませんが、意志に逆らって行動する必要はなく、許されるものでもありません; したがって、意志はそれを征服しなければならず、訓練しなければなりません、そして、訓練されたとき意志はそれを信頼しなければなりません。

オートマティズムを味方につけることができれば歌において何ができるかを考えてみましょう。第一に、発声プロセスの全責任を私たちから取り除いてくれます。

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一旦、発声器官とそれを制御する筋肉、そして身体的なモーターである肺とそれをコントロールする筋肉に正しいオートマティズムが確立されれば、すべての部分が指導も注意も必要なく、それ自体で完全に機能するという事実が、意識を自由にしてくれるのです。

その感情が集中した意識全体によってエネルギー化されたとき、『私は求める』に続いて『私は意志する』となる感情に、どれほどとてつもない力があるかを理解している人はほとんどいないでしょう。この集中した意識の上に、表現の自発性が生まれるのです。このような集中がなければ、完璧な自発性は得られず、その結果、真の感情表現もありえません。

完璧なオートマティズムは、意識を解放することで私たちを助けてくれるだけでなく、ある種の緊急事態において私たちを失敗から救ってくれます。たとえば、記憶のオートマティズムが一瞬停止したり、妨げられたりした場合(俳優が人前で演技をしているときによく起こる)、声や発声の身体的器官は、それまで習慣的に行っていたことを継続し、その結果、記憶が再び正常な働きを取り戻すまで、記憶の喪失を乗り切ることができるのです。上記の例は、身体的オートマティズムが心的オートマティズムに反応したものです。

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一つの例を挙げて説明しましょう。舞台から引退して久しく、その歌声は紛れもなく過去のものとなっていたある老練なオペラ歌手が、ある事情から、昔彼が好んで演じていた役柄の代役を務めることになりました。以前のような状況、以前のような環境のステージに再び立つと、彼の声は、ステージを去る前とまったく同じように、求められた要求にしっかりと答えました、 しかし、もし彼が客間でオペラのアリアを歌おうとしても、うまく歌えなかったことでしょう。彼の場合、慣れ親しんだコンディションが、発声プロセスの効率的な作動と結びついていました。それゆえ、心は意志と同時に身体にも働きかけ、かつてのオートマティズムを再び呼び起こしたのでしよう。友人、それも忠実な友人としての振る舞いが、まさにオートマティスムであるという例でしよう!

オートマティスムの多岐にわたる例を数え上げる必要はありません、 読者は間違いなく、自分の経験の中に他の多くの例を思い浮かべるでしょうから。歌い手にとって、発声過程の正しいオートマティズムを養い、確立することが望ましいだけでなく、必要であることを示すのに十分なことはすでに述べました。では、どうすればそれが可能になるのかを考えてみましょう。

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まず、私たちが教育を受け始めたときに多かれ少なかれ持っている悪い癖を取り除くにはどうしたらいいか。というのも、私のこれまでの経験で、勉強を始めてから克服すべき悪い癖を持たなかった歌手に会ったことも聞いたこともないからです。ひどい折り目や不揃いな折り目のついた布に新しい折り目をつけたい場合、まずどうすれば良いのでしょうか?平らなアイロンで布の表面が滑らかになるまでプレスして折り目を消し、それから新しい折り目をつけます。私たちは、体に刻まれた皺や悪い癖を、その悪い部分を支配する筋肉が意志に受動的に従うようになるまで弛緩させることで、取り除かなければなりません、 なぜなら、発声過程の受動性は、布が新しく折り畳まれる前に必要とされる滑らかさを表しているからです。そうするためには、抵抗する筋肉を弛緩させることに全意識を使わなければなりません、 したがって、最初は歌とは関係なく行う必要があります、 なぜなら、発声のための各部分、あるいは発声の各プロセスが完璧に受動的になるまで、それらの各部分に正しい習慣を確立することはできないからです。さらに、この身体への全意識の集中の必要性は、意志の背後にある運動や表現への欲求に全意識を集中させるという、歌唱に必要なこととは逆のことであるため、このリラックスのプロセスを追求している間は、歌唱はありえないということになります。*


*この問題については、第2部でより実践的かつ詳細に扱う。また、特別な練習も行われ、その練習方法についても詳しく説明される。

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したがって、既存の悪い癖がどのようなものであるかは、ほとんど、あるいはまったく重要ではないのです。例外なく、すべての悪い癖は、自然法則の抵抗として感じられるだけであり、したがって、抵抗するすべての筋肉を全体的にリラックスさせることによって、歌い手は自然で適切な出発点に導かれ、そこからすぐに、表現において自分の個性を主張することができるようになるのです。もし、あなたがスレートに詩を書きたいと思っても、誰かがその上に落書きをしたために読めなくなってしまったとしたら、どうしますか?あなたはスレートをきれいに拭き取り、それから自分の詩を読みやすく書き進めます。スレートをきれいにする前に何が書かれていたかは重要ですか?冒涜的な文章や醜悪な写真で覆われていたかどうかは問題ではないのですか?確かにそうではありません。いったんスレートがきれいになれば、そこに書かれたことは跡形もなく消えてしまいます。不自然な緊張をほぐし、身体を受動的な状態に導くことは、白紙の状態に戻すことでもあるのです。そうすれば、歌い手にとってあらゆることが可能になり、意志に活力を与える表現に対する魂の欲求を全面的に信頼することができるようになります。意志は今度は、心によって指示された方式に従って、その道具である身体に作用し、身体から完璧な自発性をもって表現を引き出し、その表現や音そのものが、その起点である魂から新鮮で純粋な、生命と真理を帯びていくことになるのです。

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このような音を出しつづけることで、やがて意志、心、身体が自動的に作用と反作用を起こすようになり、互いに整然とした関係になるのです。こうして意識は自由になり、それゆえ自然と運動や表現欲求に完全に集中するようになります。こうして、表現の自発性が絶対的なものとなり、どんな話し言葉でも語ることのできなかった本質的な生命や不滅の真理を、声が語り始めるようになるでしょう。

 

2023/08/03 訳:山本隆則