THE PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱の哲学

by Clara Kathleen Rogers
Part 1

第2章
THE  EMOTION IN SINGING
歌唱に於ける感情

歌という芸術を目的達成のための手段以外の何ものでもないと考えている人たちは、その芸術の真の目的を理解していないし、ましてやその目的を果たすことなど望むべくもありません。歌うことの真の目的は、他の方法では適切に表現できない、私たちの本性に隠されたある奥深さを発声することなのです。声は、この目的に完璧に適応した唯一の手段なので、私たちの心の奥底にある感情を明らかにすることができるのです。どんな言語よりも、どんな表現手段よりも、声が私たち自身の隠された深みを明らかにし、その深みを他の人々の魂に伝えることができるとすれば、それは声がその本来の使命を果たすとき、声そのものが感情そのものに直接振動するからなのです。本来の使命を果たすというのは、人為的な音作りの方法(その方法には、自発性にとって致命的なある種の心的プロセスが含まれる)によって、声がフィーリングに合わせて振動するのを妨げられることはない、ということを意味します。歌うということは、常に表現したい明確な感情がなければなりません。愛であれ憎しみであれ、恍惚であれ絶望であれ、聴き手にメッセージを伝えるためでないのならば、決して音を発してはなりません。

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もしそれが魂から魂へメッセージを伝えるものでないのならば、他のすべての場当たり的な表現と同じように、実に退屈で何の魅力もないものになってしまいます。感情は声の真の原動力であるだけでなく、声の生命そのものなのです。それがなければ、音色の成長も変化も、美しい音波も振動もありえません。本当の気持ちを表現する声と、そうでない声との間には、成長中の植物に芽生えた新鮮でさわやかな葉と、ずっと以前に集められ、本のページの間に挟まれた葉との間にあるような違いがあります。乾燥した葉は、実際、生きた感情の泉を持たない音によく似ています。

音を発する技術とは、それ自体、演奏するための楽器を作ること、準備することにほかなりません。完全な歌唱技術とは、あらゆる楽器の中で最も素晴らしいものである声を演奏することによって身につけた技術にほかなりません。従って、これはテクニックとしてしか正しく分類することができません。

声をコントロールする力とは、どんな困難にも対応できる能力を身につけること、 歌い手にとっては、詩人や演説家にとっての修辞の技巧と同じようなものであり、画家にとってはキャンバスに描かれた物の形を再現する技巧、ピアニストにとってはピアノの指や鍵盤を完璧に使いこなす技巧と同じようなもので、数え上げればきりがありません。そして、この技術に、目的を達成するための手段以外にどんな価値があるの でしょうか? 単なる技巧は低俗な人々にしかアピールできません。

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いわゆる 『力技』は、確かに大衆から拍手喝采を浴びますが、芸術の殿堂にはふさわしくありません。 真の信奉者たちは、そんなものには見向きもしません。芸術とは、私たち自身の本性の奥底に潜む神の力の息吹であり、内なる神を外界に表現するものであり、待ち望み耳を傾ける人々に永遠の真理を表現するものです。もしそれが永遠の真理の源からのメッセージを私たちに伝えないのであれば、それは不滅のものではなく、その目的においては完全に失敗しています。そのような芸術は単なるメカニズムに堕落し、それを生み出す機械より長生きすることはできません。シェイクスピア作品が今日の地位を築いたのは、彼の劇作家としての手腕の賜物なの でしょうか? 私たちが『変容』やシスティーナの『聖母像』を見て感動するのは、ラファエロの画家としての技量なの でしょうか? ベートーヴェンの交響曲が今日まで生き続け、私たちにインスピレーションを与え続けているのは、ベートーヴェンの音楽家としての技量のおかげなの でしょうか? いいえ。それは、演劇が証言する生きた真実であり、絵画を照らし出す神からの約束であり、交響曲が私たちの耳に吹き込む宇宙の魂からのささやきのようなメッセージであり、真理が宿る私たちの本性の奥底で反応を見出し、計り知れない息吹の展望を私たちに切り開いてくれるものなのです。これこそがまさに芸術の目的を果たすことなのです。芸術とは神の使いのことなのです。そして、彼への道を塞ぐ不敬虔な者たちに災いを! 私たちの魂へのまっすぐな道から彼を引き止め、説得しようとするエゴイストに災いあれ!

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そして、もしメッセンジャーがそのような説得に屈したら、メッセンジャー自身に災いが起こるでしょう!彼は神聖な信頼を裏切り、彼の到来を待ち望む者たちがパンを求めるときに石をもたらすからです。

本当の感情を自分の意志で呼び起こすことはできない、という反論は間違いなくあるでしょう; 本当の感情は、うまく誘導したり強制したりすることはできません。したがって、芸術には本当の感情などないのです、 見せかけでしかないのです。そして、最高の芸術とは、感情そのものを人工的に見事に再現したものであり、それが聴く者に本当の感情を想起させ、そうすることによって、その擬似的なものが巧みに表現された本当の感情に相当する感動を呼び起こすことにあるのです。しかし私は、本当の感情そのものは、その源から直接、声によって伝えられると確信しています。どのような種類の、どのような程度の感情の波でも、すべての感情の大海原である魂そのものにある心の反射作用によってかき立てられるのです。さらに私は、魂そのものからのこの感情は、声を通して聴衆に直接伝わり、聴衆が反応する感情は、想像力の助けを借りることなく、声の表情に即座に同調すると確信しています。一例として: あなたは、シューマンの曲をハイネの言葉に沿って歌うことになったとします。あなたならどっちの解釈をしようとするでしょうか? 言葉の真の意味か、音楽の真の感情か、あるいはその両方か? そして、その感情はどこから来るのでしょうか?

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彼はハイネの詩を読み、その詩がもたらす感情に感銘を受け、彼自身の感情を音楽の中でかき立て表現するようになりました。言い換えれば、ハイネを詩の表現へと駆り立てた無意識の感情は、反射的な作用によってシューマンにも同じ感情を呼び起こし、シューマンは再び音楽で表現したのでしよう。歌手は今、何を声に出したいと思っているのでしょうか?音楽だけでしょうか?それとも、言葉と音楽?もちろん、それだけではないでしょう。なぜなら、これらはハイネとシューマンがそれぞれ、内面に無意識に湧き上がる感情を表現するために採用した形式に過ぎないからです。歌い手は、今度は、ハイネとシューマンを表現へと駆り立てたのと同じ感情によってかき立てられなければなりません。彼は、詩や音楽といった単なる表現形式の背後に潜り込み、感情そのものにまっすぐ向かわなければなりません。その時、歌手は、ハイネとシューマンの二人の心を揺さぶり、今度は彼をも揺さぶった感情を声に出すのです。

作曲家が詩人の言葉に合わせて音楽を書くだけで、感情を揺さぶることがなければ、このような三位一体の感動はもちろん不可能です。しかし、詩人が自分の感情に忠実であり、音楽家が詩人の感情にも自分の感情にも忠実である場合、歌い手は、音楽か詩、あるいはその両方に対して適切な感受性を持っていれば、それに倣って真の表現をせずにはいられなくなるのです。

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だから、自分が感じない音楽を歌ってはいけません。歌い手が詩人と作曲家の根底にある感情に鈍感なままでは、どこかに不調和が生じているに違いありません。

このような感情の直接的な表現は、一般的に『感情的な歌唱 』と呼ばれているものと混同してはなりません。一般的に理解されているように、感情的な歌唱とは、非常に意識的で、非常に外的なプロセスの結果なのです。それは、それ自体が本物ではない感情表現のための目だった努力や、歪みとして現れ、常に聴衆の感動を得ることはできません。これは人為的に表に押し出された見せかけの感情であり、本来の衝動によって作用する真の感情とは全く異なります。このような人工的な感情の効果は、常に露骨で、下品で、落ち着きがなく、不穏なものになってしまいます。 一方、静寂な魂から直接突き動かされ、意識的な心的・肉体的プロセスによって揺さぶられることのない感情はすべて、その表現が静かで控えめであり、決して過剰ではなく、常に安らかな効果をもたらしてくれると同時に、最も鋭く、本質を探究するものとなります。いわゆる感情的な歌唱と、感情を原動力とする歌唱の間には、努力とエネルギーの違いと同じような違いがあります。努力は常に妨げになり、邪魔になり、疲労を引き起越しますが、エネルギーの効力は常に爽快で、霊感をもたらします。真の感動は、その源から直接伝わってくるものであり、その効果は非常に強力で、その感動に突き動かされる声の一つの音が、私たちの心の奥底まで動かすことができるのです。

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感情を表現するために言葉は必要ありません;喜びを表現しようとする熱狂的な気持ちから生まれるシンプルな一つの音は、それ自体がジュビラーテ(歓喜)なのです。優しい憐れみを表現したいという積極的な欲求に突き動かされたシンプルな一つの音は、私たちを涙で溶かしてしまいます。

もしそうでないのであれば、それは生み出すことはできません。しかし、感情とはそういうものであり、あらゆる感情が魂に潜在しているものなの です。 魂は、質においても大きさにおいても、私たちが求めるものはどのようなものでも、その感情を与えてくれます: 熱意、怒り、優しさ、悲しみ、そしてこれらとその他すべての感情のあらゆる変化、そしてそれはまさに私たちが要求する通りの大きさで、それ以上でもそれ以下でもありません。貯水池から一滴の水を求めることもあれば、街全体に行き渡るほどの水を求めることもあるように、魂は心が求めるものであれば、どんなものでもその感情をもたらしてくれます。さらに、その感情は強い意志の衝動によってもたらされます、 なぜなら、力の本質的な法則は自己顕現であり、感情は力の一形態だからでする。心が魂にその力を要求し、それが肉体によって表現され、その要求に対する熱烈な反応が即座に続きます。この熱心な反応は意志であり、魂からの直接的なものであり、魂の感情を帯びたものである。意志は、感情によって駆り立てられるとき、すでに述べたように、声の真の原動力となるので、声は魂のメッセージを外界に伝えるという正当な、あるいは当然の使命を果たすのです。

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以前、声の持つ本来の使命を果たすためには、危険な障害が存在する可能性があるという事実に触れたことがあります。その障害とは何なののでしょうか? それは不必要で誤った方向への心的な活動であり、身体の側ではそれに対応する障害をもたらします。身体におけるこの障害は、余計な緊張や不自然な緊張という形になって現れ、身体の不自然な緊張は表現の自由を消滅させてしまうのです。この不必要で悪質な心的な活動がどのようなものであるかを定義してみましょう。 それは第一に、心が独立した意識的な意志を確立し、その意志で身体に直接作用することで 成り立っています、そして、心的なエネルギーは、現実の、真の原動力である心的な、あるいは本質的な意志と対立することになります、 そして、心的エネルギーは、表現という目的のために魂に奉仕して身体を支配するだけであるべきなのに、自分自身のエゴイズムに没頭してしまうのです。第二に、身体が本来の機能を発揮できるよう活力を与えるために魂から託されたエネルギーを、(身体に受動的かつ忠実に伝えるのではなく)自らのエネルギーとして活用するのです。そして、この信頼の乱用の結果、何が起こるのでしょうか? 精神の独立した努力の完全な敗北; なぜなら、魂と身体の間に障害物としての心が介在することによって、魂のエネルギーの流れが断ち切られ、身体は今や、心的意志の決意を実行するための活力源を欠いてしまうからです。

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繰り返しになりますが、自然法則に従って、表現すべき感情の形を選択し、直接作用または反作用によって身体に印象づけるのは、心の機能です。そして自然法は、その解釈者たちの違反にもかかわらず、不変のものであり続けます。だから、本質的な感情そのものは心によって断ち切られ妨げられるものの、心が身体に与える印象そのものは依然として残り続けます。それゆえ、身体は心自身のエゴイズムと自己充足に印象づけられ、今度は自らの意志を表現するようになります。この『自分の意志』は、過度の緊張という形で表れ、その緊張は、心が決めた感情の形そのものを表出させることへの抵抗となります。

この心的なエゴイズムは、さらに別の方法で敗北を助長します:第一に、心は自らの目的を身体に課すだけでは満足せず、音を出す過程で行われる筋肉的、機械的な動きのいくつかを自分勝手に決定してしまうのです。これは表現の自発性にとって致命的なことです。このように、意識的で独立した心的活動は、魂の無意識の力が外界に到達するのを妨げるだけでなく、自らの意識を表現しようとするエゴイスティックな努力に負けてしまうのです。エマーソンはこう言っています。『知性の盲目は、知性がそれ自身の何かになろうとするときに始まる。意志の弱さは、個人が自分自身の何かになろうとするときに始まる。』

芸術は非人間的なものです。それは、その表現の形となった個人よりも高く、偉大なものなのです。

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芸術家は、彼に託された真実の力を表現し、保存するための最も適した対象として、あらゆるところに存在する創造的エネルギーによって選ばれた媒体にすぎません。芸術家という個人は、それ自体では何ものでもありません。彼は、ある種の鳥や魚のように、進化の過程で、その種を代表し、維持するために最も適したものとして自然によって選ばれた、口利き(マウスピース)として選ばれたことによる存在にほかなりません。この芸術家は、自然淘汰の法則と「適者生存」をより高い次元で表しているに過ぎず、下等な、あるいはより初歩的な哺乳類のひとつではなく、人間に当てはめているのです。芸術家は、その無意識の深みにおいて、後世のために、そして自分自身の指導のために、真実を預かり保持しているのです。彼にはそれを見届けてもらいましょう、 したがって、真理にのみ関心を持ち、自分自身や自分の栄誉に関心を持たないようにしなければなりません。神の目的を達成するための進化の過程を、美しい無意識と受動性で完璧に行なわれている自然を見習いなさい。エゴイズムは捨て去り、高慢な意見も捨て去り、真実と美に出会うところならどこでも、受動的に、そして大らかに受け入れられるようにしなさい。あれやこれやと好条件の場所を探して自分を縛るのはやめましょう、 真実と美は、しばしば思いがけない場所で見つかるものだからです。薄汚れて形のない牡蠣の中に真珠を探そうなんて、誰が思い付いたのでしょう?

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魂の静かな力に対する心の受動性、自然や他の人々の忠実な仕事の中に表現されている真実と美に対する自由かつ無制限の受容性、表現するために私たちに与えられた真理の発声において、私たち自身が忠実で非人格的でありたいという熱烈な願望–これらは、私たちが魂の感情を最高の完全性で表現することを容易にする条件です。

この理想に到達する方法、つまり無意識の感情を意識的な発声に接ぎ木する方法について、正確な公式を与えたり定義したりすることはできません。この点では、どの歌手も自分なりの方法を見つけなければなりません。私がここで指摘できるのは、心的、肉体的な安息と自由を得ることが必要だということくらいです。

この安らぎと自由をもたらすのに、三位一体の有機体の性質とその各部分の適切な関係を明確に理解することほど効果的な助けはありません。私たちの感覚は常に先頭に立っていなければなりません、 なぜなら、私たちが本当に真実だと感じることは、私たちにとって常に真実だからです。我々の理性が頼りになるのは、それが感覚と結びついているときだけです。魂は決して間違いを犯さず、魂こそがすべての直感的な感情や無意識の衝動を感じさせてくれるのです。ならば魂を待ちましょう。こうして心は受動的になり、必要とされることだけをするようになります。こうして、エゴイスティックな 心的意志は静まり、やがて衰え、肉体は、魂を反映する代わりに心的エゴイズムを表出させる致命的なオートマティズムの束縛から解放されるのです。

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私たちの最高で真の部分は、私たちが無意識のうちに持っているものだということを心に留めておきましょう。私たちの最高で最大の力とは、それが発現するまで意識されないものなのです 。力の表現は、その表現過程が無意識のうちに行われ、私たち自身がその効果に驚き、感銘を受けるようなものでなければ、完璧なものとはなりません。また、芸術において私たちの感情は、劇的な状況そのものによって心を動かされるのではないことも肝に銘じておきましょう、 なぜなら、劇的な状況は、表現されるべき感情の性質を示しているにすぎないからです。私たちの感情は、心の働きによって表現され、その表現が反射的に感情を動かすのです。例えるなら、真に感化された女優が激しく感情的な役を演じて本当に涙するのを見るとき、彼女を感動させるのは表現している感情そのものではなく、その感情を表現している彼女自身なのです、 それが観客に与えるのと同じように、彼女自身にも影響を与えるの です。彼女はしばらくの間、彼女自身の監査役となり、彼女自身の芸術を堪能し、彼女自身の真実を認識する者となるのです。これこそ完璧な表現の勝利なのです。これは劇的な芸術が到達しうる最高点です。それは、描かれたサクランボをついばむ鳥のようなものであり、描いたカーテンを脇に引こうとする画家のようなものなのです。芸術家自身が、自らの芸術の中にある生きた真実に惑わされるとき、それがまさに芸術なの です!

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この崇高な表現は、無意識のうちにしか到達できないものなのです。その過程には計画も策略もなく、結果には自己満足もありません。それどころではありません! 何か素晴らしく不可解なこと、神秘的なことが起こったような、深い畏敬の念が生まれるのです。どんな声が私を通して語られたのか、と芸術家は叫びます、なぜなら誓って、語ったのは私ではないからです。しかし、私は耳を傾け、そして喜んでいます!

 

2023/07/21 訳 山本隆則