THE PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱の哲学

by Clara Kathleen Rogers
Part 1

第4章

THE BODY IN SINGING
歌唱における身体

身体は魂を制限するものではなく、むしろ魂の表現の道具と見なされなくてはなりません。

完全なものへと成長する過程において、身体は魂にとって表現の道具として必要であり、魂は身体にとって命を支えるものとして必要なものなのです。無機物である魂は、その潜在的な力を発声するために器官を必要とします。なぜなら、表現がなければ認識することもできないからであり、潜在的な力を認識することこそ、すべての表現の目的であり目標ではないでしょうか? 表現することの必要性は、その種類や程度が何であれ、我々の潜在的な力を顕在化させることを本能的なものとしています。

私たちの存在の基調である表現への自然な衝動は、他者が私たちの力を認めるためではなく、何よりもまず、私たち自身がそれを認めるためなのです; なぜなら、私たちが所有しているものは、それを所有していることを知らなければ、まったく所有していないのと同じことになってしまうからです。顕在化していない、つまり表現されていない力は、実質的に存在しません。それゆえ、潜在的な力の衝動が表現されるのであり、それは意志と呼ばれるのです。

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意志は魂から直接発生したものであり、魂の願望や表現衝動の最初の能動的な現れなのです。天地創造の歴史において、神が「光あれ」と望まれたとき、そこに光があった。光は、神の潜在的な力の最初の現れです。その同じ力を、神はその後、他の無機的な形態に、それぞれの適切なタイミングで表わされたのです。これらの無機的な形態は、その相関的な総体として宇宙と呼ばれ、宇宙こそが組織化された表現の道具として創造主に仕えているのです。

つまり、人間にとっての身体は、神にとっての宇宙と同じように、組織化された表現の道具なのです。私たちは宇宙を、神(スピリット)に対する制限とみなしているでしょうか? もちろん、そうではありません。私たちは、身体を魂の制限と見なしたり、私たち一人一人が天啓の中で占める割合を制限するものと見なしたりしてはなりません。むしろ身体の中に、私たちの最高の願望、最高の可能性、そして最も深い感情を浮き彫りにする手段があることを認識しなくてはなりません。身体がなければ、魂は自らの知恵を知ることができず、身体がなければ、魂は自らの愛を享受することができず、身体がなければ、魂はすべてを意識することができず、普遍的な魂と一体化することができません。欠くことのできない要素です;ですから、私たちはそれを尊重し、大切にすべきなのです; 私たちはそれを開発し、教育し、強靭で活力に満ちたものとし、いつでも、どの部分においても、その要求に応えられるようにしなければなりません。

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魂は思考-マシーン(thinking-machine)を必要とするのでしょうか? 脳は道を譲ることなく、緊張に耐えて応えることができなければなりません。魂は労働-マシーン(working-machine)を必要とするのでしょうか? そのためには、筋肉と靭帯が硬く、しなやかでなければなりません。魂の奥底にある神聖な感情を歌い上げ、他の人々の魂に届けるために、魂は歌唱-マシーン(singing-machine)を必要とするのでしょうか? 肺と喉が健康で、意志の命令に対して閃光のような速さで反応できる状態でなければならず、感情的な衝動が声を出す過程で生命力を失うことは決してありません。

身体の機能とは、何とこの上なく重要なものなのでしょう! それは、私たちを約束の地へと激流を運ぶ船なのです。しかし、船長の舵取りの下で、風に受け身になる船のように、身体もまた意志に対して受け身でなければなりません。

私は、身体の本当の姿、言い換えれば、神が偉大な目的のために創造した姿について語ってきました。しかし、身体を人間が作り出したものという観点から考える人は、私が身体を理想的な側面から説明したことに異議を唱えることでしょう。残念なことに、現代の人間の身体は、いつも私が描いてきたようなものではありません! 確かに、魂の牢獄とよく言われますが、それは十分すぎるくらい正しい表現です!そして、その光が私たちの手によって厳しく不適切な扱いを受けていることを考えれば、光を反射するどころか、光を隠すという評価を受けても不思議ではありません。

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衛生やモラルの問題に立ち入ることがこの論考の目的ではないし、今日の数多くの弱く、調整不足で、非効率的な人間機械について論じることもありません。このような現象が起こるのは、私たちの三重の本性、すなわち人間の三位一体に対する理解が不完全であるためであり、また、自然法則に従って、魂とその器官、心と身体との間に存在するはずの真の関係を、私が本論とその前の論考で表現しようと試みたように、認識できなかったためだと私は考えざるを得ません。今、私たちに突きつけられている重要な問題は、乱れた相対的均衡を回復させることによって、いかにして悪を正すかということなのです。私たちの魂、心、肉体の三位一体の相対的な均衡とは何かを考えてみましょう。それは完璧な作用と反作用であり、魂とその器官の間の完璧な作用と反作用は、次のように説明することができます:魂が発想し、心がそれを知覚して表現形式を構築し、身体がそれを表現するのです。これが作用の順序です。表現されたものは感覚によって心に伝わり、心はその印象を魂に伝えます、 そして魂はそこから受けた印象から、自らの力を認識するのです。これが反作用の順序です。魂が認識されるたびに、意識は成長します、 そして、さらなる表現への衝動は、表現するたびに高まっていくのです。言い換えれば、本質的な力を表現すればするほど、さらに表現したくなるのです、 意識を高めたいという欲求は、それを糧に成長するのです。

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これらはすべて、表現という自然な衝動に関係しています。しかし、定型的な表現がすでに決まっている劇的な表現では、順序が逆になります。この場合、最初のアクションは外側からであり、内部からではないのです。劇的な定型表現は感覚を通して心に伝わり、その定型表現がどのような特定の感情を要求しているのかを知覚し、あるいは決定します。こうして、意志に具現化された自己顕現の原初的な衝動を常に準備している魂の感情に、明確な表現経路が開かれるのです。言い換えれば、外界からの刺激が内界からの表現に先行しなければなりません。

上述のように、魂と肉体の間に作用と反作用の法則が最初に達成されることが、私たちの身体組織の複雑さ全体を通して、その法則が秩序正しく働くための基調となります。それは自然のハーモニーのキーノートを打つだけでなく、自然のリズムの振り子を振り動かすのです。

私たちの三重の有機体の全領域を支配する、素晴らしい順序の法則があります。感情と心の関係において、魂と心の間の作用と反作用の法則が完璧に行なわれると、身体は作用と反作用の身体的表現において、それに従って、心臓、肺、そして身体的有機体全体で、同様に完璧な作用と反作用のプロセスが引き起こされるのです。

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魂の感情が受動的な心を通して秩序正しくモーターとして働くなら、肺もまた、そうあるべきように、音の物理的なモーターとして働き、さらに他の発声プロセスも秩序正しくそれに続いて働くことになるでしょう。一方、心が魂の感情とは無関係に身体に作用する場合、肺はその役割のすべてを果たすことはできません。そして、喉の筋肉の一部は、歌唱に使用される部分の正しいオートマティズムが歌い手によってすでにしっかりと確立されていない限り、何の役にも立たず、無駄に救いの手を差し伸べることになるでしょう。

この三位一体の有機体における順序の法則は、何の訓練も受けておらず、発声のプロセスに関して完全に無知な状態にある人たちから、最も完璧な音の出し方をよく耳にするという事実の説明になるでしょう。

しかし、自由で無意識的な音の出し方に関しては、個人指導を受けていない者の方が、入門者よりもはるかに進んでいることが少なくありません。それは、教育を受けていない人たちがまだ自然法則の影響下にあり、心的なプロセスがまだ干渉し始めていないためです。しかし、彼らが意識する時は必ず訪れます; それはすべての歌手が通過しなければならない試練であり、避けることも逃れることもできません。それを克服することによってのみ到達することができるのです。私たちは、何が正しいかを意識的に知ることで、無知であることによって始まった無意識のプロセスを達成する力を身につけなければなりません。

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言い換えると、音を出す過程で求められるさまざまな動作をすべて完璧にこなせるように、意識的に身体を鍛えなければなりません。さらに、これらの発声プロセスがすべて自動的に、つまり、意識的な心的指示や指導なしに行われるように訓練しなければならないのです。こうして発声器官は、私たちのメッセージを伝えるための電線がバッテリーに反応するのと同じように、意志に瞬時に反応するようになるのです。また、われわれの意志は、バッテリーが電話のオペレーターと同じように、魂の欲求と同じ関係にあるのです。発声器官だけでなく、全身のこの可塑性あるいは受動性は、完全に自由な音作りに不可欠なものなのです。身体は作用に対しても不作用に対しても受動的でなければなりません。常に行動する準備ができていなければなりませんが、決して意志を先行させてはならないのです。それは、針が磁石に向かうように、意志に向かうものでなければなりません。

これこそが意志と肉体の適切な相対的均衡であり、身体が魂の限界となるのではなく、その力と感情の深みをあらゆる力とあらゆる真実で表現し、それによって人間に対する神の無意識の解釈者という真の使命を果たすために、私たちが努力しなければならないことなのです。

2023/07/26 訳:山本隆則