THE PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱の哲学

by Clara Kathleen Rogers
Part 1

第5章

SPONTANEITY THROUGH CONCENTRATION OF ENERGY
エネルギーの集中による自発性

歌において最高の感情を表現するには、自発性が必要です。それゆえ、表現の自発性を獲得することは、歌唱芸術において理想を達成しようと望む者の、最初の、そして主要な目標であらねばなりません。

人間の声には独特の言語があり、それをどんな話し言葉にも翻訳することは出来きません、しかし、どんな話し言葉よりもはるかに直接的に、高次の、精神的な理解に到達することができるのです。しかしそれは、その声が新鮮で、純粋で、あらゆる感情 (自然発生的で、真実で、その子孫である魂そのもののように自由で、無制限である)の生きた泉から直接、外界に届くときだけである。

どんな人間にも、その人の人生のどの時期においても、何らかの潜在的な表現の可能性が備わっています。この可能性は、身長が伸びたり縮んだりするのと同じように、どんなときでも量や質を増やしたり減らしたりすることはできません。

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したがって、どんな瞬間でもその可能性のすべてを完全に表現することが、できることのすべてであり、求められることのすべてなのです。もちろん、この可能性は同じ人の人生において常に同じということではありません。例えば、若者の感情は、成熟した人間のそれとは種類も程度も異なるにちがいありませんが、その感情の自発的な表現は、種類や程度がどうであれ、当面の間は、彼にとって最高の表現の可能性なのです。この可能性のスライド式尺度は、自分自身の潜在的な力の尺度を認識する個人の既存の能力によって調整されるのです。力そのものは人類共通の遺産であり、ある者にだけ偏って配分されるものではありません。私たちには共通の原始的な力が存在し、そこから各人が自分のために好きなだけ自由に引き出すことができると言えるかもしれません。高い志を抱いている者は、無意識のうちに共同基金から多額の資金を引き出そうとするのに対し、低い志しか抱いていない者は、わずかな資金しか引き出そうとしません。人は自分の理想以上のものにはなれません。彼の理想は、当分の間、潜在的な力という共通の基金から彼自身が充当することを示しています。そして、それがどのようなものであれ、その充当を表現させるのです。言い換えれば、その瞬間に彼の中にある表現すべきものをすべて表現させるのです、 そして、表現するたびに、もっと何か、もっと素晴らしいものを表現したいと思うようになるでしょう。この思いは、潜在的な力という共通の基金に新たな手形をつけることであり、より高い志であり、あらゆる善の源から受け継いだ遺産を認識することになるのです。

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これは彼の成長の機会であり、より高い発展の機会なのです。志を抱く勇気のある者、あるいはどれだけのものを手にすることができるかを認識する者であれば、誰も最高の可能性から締め出されることはありません。。その一方で、前にも言ったように、彼が今できることは、今の自分を表現すること、それ以上でもそれ以下でもなく、その一時的な現実を絶対的に率直に表現することです。他の誰かの可能性を表現しようとしてはなりません; なぜなら、それは偽りの願望であり、単なる野心に堕した願望であり、自分のものでもなく、自分のものにもなりえないものを追い求める、苦痛に満ちた、意識的で、むなしい努力につながるからです。表現における絶対的な自発性は、いかなる可能性によっても、その瞬間、自分以上の存在になることはできないし、その瞬間に表現できる以上のものを表現することはできないという確信を得るまでは、決して到達することはできません。 もし、歌唱において自発的な表現が望まれるとすれば、それを妨げるものは何なのかを次に考えてみましょう。この世で最も自然に思えることを妨げているものは何でしょうか?いったいどんな障壁があるというのでしょうか? 芸術という最高の感情表現を可能にするために、取り除かなければならない障害物とは何でしょうか? まず第一に、私たちの心的プロセスの一部、例えば、どのようにすればよいかを認識する部分が、私たちと実行することの間に介在していると言います。このことをさらに説明すると、私たちは実行しようとする意志に裏付けられた力を持っており、その力は実行されるまで自分では意識することができないのです。言い換えれば、この力の表出はその認識にとって必要不可欠なものであり、意志は力そのものの自然な衝動によって働くのです。

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その力とは、前にも述べたように、自然がもたらすものであり、個人の中に存在する可能性なのです。すべての自然の力と同様に、その力は出口を求めます。意志を強く働かせることで、今度は心と身体の機械が働かなければならなくなります。これこそ完璧な表現なのです。なぜなら、それは無意識のうちに、本来の源から直接生み出されるものだからなのです。

私たちはまた、自分が何をしたいのかだけではなく、どのようにそれをするのかを意識的に考えて実行することを認識する力も持っています。言い換えれば、心にはそれ自身の意志があり、この意志は意識的なもので、しばしば無意識的な意志や本質的な意志とは無関係に作用するのです。つまり、私たちの無意識の意志とその発現の間に、この意識的な心的定式(mental formula)が入り込み、本質的な意志や魂の意志の発現、あるいは外面的な発現を妨害しているのです。

では、どうすればこの障害、つまり私たちと無意識や潜在的な力の自発的な表現との間にある、意識的な心的プロセスの干渉を取り除くことができるのでしょうか?これに対して私たちは次のように言います。 まず第一に、受動性の習慣、つまり身体の可塑性を身につけなければなりません。私たちは、心が無目的にさまよったり、単に邪魔にしかならない領域に不用意に入り込むことを禁じ、心を本来の領域に閉じこめておかなければなりません。私たちは、意志の背後にある無意識の力の衝動を待つという態度を取らざるを得ないのです。『これらのことをしなさい』と言うだけでは十分とはいえないのです。

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それらは最初、ただの言葉の言い回しに過ぎないように思われることでしょう; そこで、われわれの原則を適用して、心と体の受動性がどのようにして獲得されるかを考えてみましょう。その答えは、エネルギーの集中によってです。では、エネルギーの集中とは何を意味するでしょうか? それは、私たちのエネルギーや 意識の全体が、ある部分やあるものに集中しているということを意味しています。そして、エネルギーや意識をどこに集中さ せるべきでしょうか?  発話を可能にする欲求や感情的衝動そのものである運動においてです。 私たちの心的な意識は、一度にひとつのことにしか適切に作用させることができません。それを分割しようとするあらゆる試みは、原動力のエネルギーを弱めることになるので注意が必要で、 すべてのエネルギーは動力として利用できるように集中されなければなりません。私たちはこのことを、肉体面における物理的な力やエネルギーのあらゆる形態に見ることができます。雷の形をした電気は何の役に立つのでしょうか?何もありません; それどころか、集中力も方向性もない危険で破壊的な力なのです。しかし、電力が集中し、適切な方向に向けられると、あらゆる物理的モーターの中で最も強力なものになります。水や蒸気などにも同じルールが適用さ れます。そして、これらの無意識の物理的な力について言えることは、人間の高次のエネルギーや意識についても言えることです。エネルギーの完全な集中とは、すなわち、精神的意識と意志の奥にある欲望との同一化であり、心的意志と本質的意志との一体化なのです。

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予感、予期、想像、観察など、その他の意識的な心的プロセスはすべて休止状態でなければなりません。活動状態では、これらすべてのプロセスが、原動力に属するはずのエネルギーを吸収してしまうからなのです。例えば、歌うという行為において、喉の筋肉的、機械的な動きや、身体の他の部位の動きを定義してはなりません; 声がどのように響くかという事前観念があってはならないし、音程を意識的に予感することさえあってはならないとされています。ピッチの事前予測、あるいは響きの概念が潜在意識に存在するかどうかは、どうやら確かめる術がなさそうです;しかし、それが存在すると推論することは理にかなっています; そうでなければ、受動的な発声器官が、音程や音質が絶えず変化するような場面で、確実に従わなければならない明確な指示を出せるはずがないからです。声による自発的な音の発声には、明らかに一切の心的な意識が伴っていないことは、何ら疑いのない事実なのです。実際、声が意志の命令を実行する速さは非常に測り知れないものであるため、感覚は神経線維を通じて、感情を表現する公式を、心を介さずに意志に伝えるのではないかという疑問が絶えず私たちの前に立ちはだかっているのです。この2つの推論のどちらをとっても、意志を行動へと駆り立てる表現欲求を肯定したにすぎません。この肯定は、心と意志との間の目的の一致を意味し、同様に、身体もまた受動的であるところでのエネルギーの集中を意味します。

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この集中という用語は、生徒をしばしば誤解させて、集中を行為とみなしがちですが、集中はむしろ状態なのです。意識やエネルギーを集中させるということは、散らばった力を引き寄せたり集めたりして、ひとつのことに集中させるということではありません。この場合、集中するという行為だけで、多くのエネルギーが吸収されてしまい、集中の対象にはほとんどエネルギーが残らなくなってしまうのです。集中とは、一度にひとつのこと、ひとつの考え、ひとつの行為、ひとつの衝動に集中することであり、それ以外のものを排除することです。しかし、邪魔な考えはすべて、心的な決意によって否定しなければなりません。そしてこの決意には、今書いている紙からハエを払い落とす行為以上のエネルギーは必要ありません。我々はその時、その場所にハエがいてほしくないからハエを払い除けようとします。もし、また飛んでくれば、また追い払い、 他のハエが飛べば、それもまた取り除きます。これこそが、侵入してくる心的プロセスに対する心的意志の態度です。侵入してくる心的プロセスは、無口な魂の器官としての親と交わり、行動している親を邪魔するときの厄介でせっかちな心の子供のようなものです。集中することで、心は邪魔な子供たち(その名前は「先入観」「予期」「想像」「観察」)に静かにするよう命じます。この心の意志が話し言葉で自分自身を表現することができれば、押し寄せる考えに対してこう言うでしょう、 『邪魔をするな;私は今、おまえを必要としていない、 私は最愛の主人の命令を行なわなければならないのだ; だから安心して、静かにしていなさい!』

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集中は、そのように解釈しなければ、かえって邪魔になるのです、 なぜなら、たとえそれが願望や 魂の衝動であったとしても、意識的に心を一つのことに集中させることによって集中力を身につけようとする努力は、高度な精神的緊張を生み出し、その精神的緊張は肉体に影響を与え、肉体はかえって過緊張になるからです。そうすることで、モーターに注がれるべきエネルギーは心と体の両方に吸収されることになります。エネルギーの集中とは、心と魂、知性と願望の完璧かつ完全な結合なのです。魂が『私は自分自身を表現したい』と言い、同時に心が『私はあなたを表現したい』と魂に言い、身体が『私は命令を待っている』と言うようなものです。

これは、エネルギーの集中を構成する統一性、目的の単一性、そしてその集中には、魂の衝動や意志に対する心身両面の受動的従順が含まれることを、できる限り言葉で表現したものです。

しかし、異論があるかもしれませんが、私がここで宣言した法則は、単純な音を自然に発声する場合にのみ適用できるもので、表現すべき感情が詩的・音楽的な手法によって示唆されたり示されたりするような、劇的な歌唱には当てはまりません。

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これに対して私は次のように言います。 人間の声によって発声される楽音はすべて、それが言葉に付随するものであろうとなかろうと、またその楽音が音楽のフレーズの一部であろうと単音であろうと、歌い手の何らかの感情を外界に伝えるものでなければなりません。

前章で述べたように、感情という大きな貯蔵庫の中から、表現すべき特定の感情を形にしたり、切り分けたりするのは、心の働きです。さて、孤立した音が歌われるとき、その背後にある感情は純粋に心的な選択によって定められます。しかし、劇音楽のように感情があらかじめ定められている場合、その定式は感覚を通して心に伝わり、心は瞬時にそれをとらえ、その定式を無機的なモーターに伝えます。プロセスの違いはこれだけです。どちらの場合も結果は同じです。このように、例えば愛の感情は、”I love thee!”というフレーズでも、”ah! “という単独の音符でも、等しく真実で自然に伝えられることが容易に理解できるでしょう。

もし歌手がこの事実を心に留め、このルールを適用し、すべての音や 音のグループに対して感情を定式化し、声を行使するのであれば、彼らが身につけるであろう劇的表現の力は、まさに驚くべきものとなるでしょう。

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なぜなら、彼らはそのことによって、真の劇的表現のアルファベットに慣れ親しむことになり、そのアルファベットはやがて、弁士が言語にアルファベットを適用するのと同じように、簡単かつ無意識に適用されるようになるからです。*
このような練習によって得られる劇的表現の自発性がどれほど計り知れないものであるかは、ここで述べるまでもないでしょう。なぜなら、私たちはここで、意志の行動を指示するために、感覚を通して心に伝えるべき劇的な定式がないかのように、意志の衝動が自由で力強く作用する、擬似的なオートマティスムについて述べたからです。

そのような自発性の度合いは、まるで意志と歌う肉体的行為が一体であるかのような効果を人に感じさせます。原因と結果という別々の意識はありません。原因と結果は、存在の異なる平面に同時に現れ、ただひとつの同じものになるのです、 あるいは、感情衝動そのものと同時に、感情が肉体的に表現されると言えるかもしれません。『光あれ、そして光があった 』という一文ほど、意志と表現が一体となった自発性という完璧な印象を私たちの心に伝える言葉が今までにあったでしょうか。もしこの天地創造の行為が『光あれ、すると光が現れた』と表現されていたら、意志の絶対的な自発性、あるいは意志とその外への顕現の同時性という効果は失われていたことでしょう。


* 感情の尺度については、第2章、パート3参照

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このことは、自発性とは本質的にひとつの表現における原因と結果の両方である、という言葉に自然とつながっていきます。原因となる要素は集中したエネルギーであり、効果的な要素は表現の自発性です。

結論として、自発性は、私たちの三位一体の有機体全体を通して、目的の単一性を確立することによってのみ達成することができます。心が魂と完璧に調和するとき、その結合は真実と云う子孫を残す。

 

2023/07/29 訳:山本隆則