THE PHILOSOPUY OF SINGING
歌唱の哲学

by Clara Kathleen Rogers
Part 1.

第1章
THE PURPOSE OF EXPRESSION IN ART
芸術における表現の目的

人間が神の最高の表現であるように、芸術は人間の最高の表現です。なぜなら、芸術は人間が創造的である唯一のものであり、創造者である人間は神の控えめな同義語となるからなのです。表現することは、潜在的な受胎が熟している人にとって必要なことであり、妊娠期間が完了したときに子供を出産することが必要なのと同じことなのです。作品が完成するまで、芸術家は自分の力の本質を知ることはできません。そのとき初めて、彼はそれを見つめ、あるいはそれを聞くことができるのです。そのとき初めて、彼は自分自身の考えの本質を熟考することができるのです。そのとき初めて、彼は宇宙の創造主のように、それは良いことである言うことができるのです。

芸術には2つの種類があります。ひとつは、芸術家が自然のハーモニーを評価し、理解していることを、その多種多様で変化し続ける形態で、正確かつ巧みに表現することです。この種の芸術は、(それが実現する限りにおいて)自然に忠実であるという特徴を帯びており、自然によって制限されていると言えるかもしれません。これを私たちはリアリズムと呼んでいます。それは本当のことであり、物事の外的秩序に関しては真実ですが、それ以上のものはありません。

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もうひとつの芸術とは、芸術家が自然の中で神について感じたことを表現することです。神を感じれば感じるほど、彼の芸術はより高貴で崇高なものになるのです: 彼は、自分自身にとっても、自分の同類にとっても、まさに神の通訳者なのです。私たちがこのような芸術をインスパイアされたものと呼ぶのは、創造主の驚異的な作品すべてについて、私たち一般人が見聞きし、考え、感じることを、程度の差こそあれ、ただ単に再現しているのではなく、わけもわからずその種類が異なっていると感じるからなのです。それは、私たちの活動的で物質的な生活では馴染みのないことを、私たちに語りかけているのです。そのような芸術の源は、より深く純粋なものであり、偉大な神秘について真実を語り、未知なるものとの関わりをもたらし、感覚的なもののまったく外側にあり、それを超えたエクスタシーの可能性を描き出してくれるものであると感じさせます。 その感覚は、人間自身の偉大な運命の夜明けの知覚なのです。それは人間の魂における日の出そのものです。

つまり、神の直接的な通訳者となることは、他の誰よりも芸術家の最高の特権なので す。というのも、芸術は魂の情動を表現するものであり、その魂は人間における神の最高の表現だからです。月の光が太陽の反射光であるように、芸術における人間の表現力は、その根底にある観念とともに、神の反射力なのです。

音楽は芸術の最高の表現であり、それは表現の形式があらかじめ定められることによって制限されない唯一の芸術だからです。

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造形芸術では、モデルはすでに自然によって形作られています。芸術家は、自然の崇高さや美しさを感じるものを表現するために、自然の形に従わなければなりません: しかし、音楽においては違います。ここで彼の感情は、口に出すために、恣意的でも規定されたものでもない形で身を包んでいるのです。ワーグナーは言っています。『 音楽と他の芸術との関係は、宗教と教会との関係と同じである』と。そしてこのことは、音楽の最高の側面、つまりその表現において真実で純粋な音楽に当てはまります。しかし、音楽が既成概念に縛られるようになると、もはやこの区別は意味をなさなくなります。なぜなら、音楽においては、型にはまった形式は造形芸術で踏襲される自然のどの形式よりも、作曲家の感情にとってはるかに大きな制限となるからです。音楽の形式は、それが感情に適合して初めて完璧なものになるので、その感情は絶対的なものでなければなりません。それなら、我々は音楽家を評したショーペンハウアーと同じように、『彼らは理性が理解できない言語で最高の知恵を語っている』と言えるのではないでしょうか。

歌うことは音楽の最高の表現であり、魂の感情を最も直接的に表現するものであるからです。声は、意志に対して絶対的な自発性をもって反応できる唯一の楽器であり、歌い手によって自然法則が優位に立つことが許されている場合、意志とその乗り物との間の磁気の流れを断ち切ったり、逸らしたりするものは何もありません。声は、私たちの肉体から切り離された唯一の楽器であり、魂そのものに執着する唯一の楽器なのです。

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歌いたいという本当の衝動は、無意識のうちに発声しようとする魂の感情なので す。それは、魂が、そのメッセンジャーである心を通して、声を指示することです、 『私の力をサウンドに変えてください。それを知ることができるように。』

なんと素晴らしい使命ではないでしょうか! 魂の無言の言葉を声に出すこと! そして、私たちの中には、お互いを喜ばせるためだけに、つまり時間を楽しく過ごすために、あるいはそれによって社会の一員としてより望ましい存在になるために歌う者たちがいると考えましょう! 歌を単なる達成感や娯楽、付加的な恵みとしか考えない人たちがいることを考えること! この神から与えられた手段は、心の奥底を明らかにすることです! どのように、我々はそれをそれほど過小評価して満足できるのでしょうか? 歌わなければならないから歌うという人だけが歌うべきだという事実に気づかないのは、本当に嘆かわしい無知です。歌で感情を発散させる衝動に駆られたことのない人は、自分の声を巧みに表現するために訓練しようとしても無意味なだけです。歌いたいという自然な衝動がないのは、表現の道を歩もうとしないようにという自然の確かなシグナルなのでしよう。また、そのような衝動に欠けている人たちは、自分の奥深さを自由に表現することを妨げられたり、閉ざされたりと感じるべきではありません。プラットフォーム、つまり演壇はないのですか? 魂の秘宝のためのこれらの出口は、なんと壮大なのでしょう! それとも造形芸術? 歌えない私たちの隠された力を表現するものがあってもいいのではないのでしょうか?

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確かに造形芸術は、歌のように神のメッセージを瞬く間に外界に伝えるものではありませんが、表現の過程がより手間のかかるものであれば、表現そのものはより永続的なものであると言えます。造形芸術は、時を超えて真理の永遠のモニュメントです。それらは、真理のメッセージを受け取る準備ができていない嘲笑者、エゴイスト、盲人よりも長生きします。そして真理は、待つ者、そして鍵を持つ者のために、安全に保存されたまま、内に閉じ込められたままなのです。創造主はすべての存在に、その感情や知覚力に適した表現手段をお授けになりました。だから、他人の道に割り込んで自分の道を踏み外すのではなく、自分の道を歩むように心がけましょう。芸術における表現は、芸術家にとって必要なだけであって、職人にとって必要なものではないことを忘れてはなりません。また、すべての表現は芸術だけによるものではないことも忘れてはなりません。職人も芸術家と同様に、神の真理を自分の作品や生活の中で感じるものを表現することができますが、自分が感じる以上のものを真に表現することはできないので、自分の手仕事に満足し、その作品の素晴らしさによって自分自身を表現することを学ばなくてはなりません。私たちは皆、真実を歌うために、真実を宣言するために、真実を描くために、真実を大理石に刻むために生まれてきたのではありません。私たちの中には、真理を生き、そうして生きることによって、私たちの種族への祝福となり、神の愛を彼らに伝える真の通訳者となるように生まれた者もいるのです。

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人工的なもの、つまり『内面的で霊的な恩寵のない、外面的で目に見えるもの』ほど、芸術を急速に堕落させるものはありません。そして、その特定の表現形式の必要性を直感的に感じることなく、自分自身のため、自分自身のより高い成長のため、それ以外の目的もなく、単に職業として、あるいは生活の手段として芸術を追及することほど、やる気を失わせるものはほかにありません。単純な功利主義から、あるいは成功や人気だけを目当てに、あるいは何の需要もないところで、その芸術がもたらしてくれるかもしれないパンや魚のために自らを捧げるのはやる気を失わせます。第一に、私たちは神から授かった真の表現形式を求める自然な衝動を、それがどのような表現形式であれ、無視したり抑制したりすることになります。第二に、私たちは中途半端で無気力で物質的なやり方で仕事をする習慣を身につけているので、その影響はすぐに生活のあらゆる行動に現れます。私たちはしだいに、知的に発育不全になり、障害者になり、刺激に乏しく鈍くなり、重く魅力に乏しくなり、自分自身にも他人にも不満を抱き、辛辣でとらわれがちになり、嫉妬深く、寛大でなくなり、他人の業績に過度の批判をするようになります。これらはすべて、人生における倒錯した目的、高みにおける低い目標のあらわれだといえるでしょう。しかし、これだけが悪ということではありません。それは、芸術そのもののレベルを低く設定し、その確立に貢献しています。高邁な理想をありふれたレベルまで引きずり下ろしてしまいます。

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それは、真の芸術が私たちにとってどんな宝物であるかを忘れさせ、私たちの探究のまなざしをより物質的なものに向けさせようとします;少なくとも私たちは、これらの芸術がその種の本物であると感じてしまうからなのです。もし法則が法則を破る者より長生きするものでなければ、芸術の殿堂はとっくに粉々に砕け散り、エゴイズム、虚栄心、利己心、真実への不誠実さといった芸術破壊者たちの足下に踏みつけられていたことでしょう。しかし、これがすべてではありません。歌で自分自身を表現するという、神から授かった天賦の直感を持ちながら、その表現手段である声が整っておらず、歌い手の感情を直接的に、自発的に、あるいは真実に発声するという使命を果たせない人たちがいます。歌い手は、表現しようとする理想的な感情と、発声によって表現される感情との間に食い違いを感じ、失望と落胆を覚えざるをえなくなります。『私は自分の天職を間違えている』というのがその訴えです。『歌っていても満足感は得られないし、他の人が私の歌を聴いて楽しんでくれることも期待できない。私はピアノや バイオリンを習い、詩人や俳優、ジャーナリストになります。私は法律か医学か政治を志すか、あるいはビジネスの道に進むつもりです。』すべて無駄です。歌で自分を表現するために生まれた者は、下手なピアニストやヴァイオリニストにしかなれないし、詩人や俳優にもなることができず、ありふれたジャーナリストになってしまいます。弁護士や医者として失態を犯し、ビジネスでも成功することはないでしょう。行動の原動力となる本当の熱意はないのだから、精神的な覚悟が熱意の代わりをしなければなりません。

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そして私たちは皆、経験から、あることに対して決心することは、その目的に対する真の愛と達成したいという熱狂的な願望の、原動力としては不十分な代用品にすぎないことを知っています。このような条件下では、最初のタイプに関連して挙げたような、人生における倒錯した目的の症状の一部、あるいは全部も明らかになるでしょう。つまり、芸術における特定の表現形式に対する生得的な愛情や直感的な必要性を感じないにもかかわらず、便宜上それを受け入れている人たちのことです。歌で自分の感情を表現する本能が生まれながらに、あるいは神から授かったものでありながら、その声に対する準備ができていない者は、自分の天職を弱々しく放棄して、中途半端な気持ちで他の天職に就いてはなりません。まず、自分の発声器官にどのような欠陥があり、それが自分の感情を直接、自然に発声することを妨げているのかを突き止め、そのような障害が取り除かれるまで、知的に、真剣に、粘り強く、希望を持って取り組まなければなりません。必要であれば、自分の楽器を実質的に再調整し、自分の魂からのメッセージを外界に直接伝えることができるようになるまで、その楽器を鍛え上げなければなりません。第二に、自分の感情を歌で表現できないのは楽器そのものの欠陥ではなく、むしろ自分のさまざまな器官間の調和の欠如によるものであると感じたら、まず、それらの器官が互いにどのように関係しているかを認識し、それから、それらの器官間の調和を再び確立するためにあらゆる努力をしなければなりません。

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繰り返しますが、芸術のためでなくとも、自分自身のために、この征服のために必要かもしれない仕事に、自分の愛と熱意をすべて注がなければならないのです。なぜなら、表現への自然な衝動を無視するならば、習慣的な惰性であれ、仕事を果たす上での中途半端さであれ、それによって衝動そのものを消滅させ、その衝動の源である意志によどみをもたらすからです。自然法則は、生命は作用と反作用によって維持されることを定めているので、われわれの潜在的な力を表現する作用が抑制されれば、その力自体に必要な反作用も欠落することになり、これは潜在的な力の死、あらゆる成長、あらゆる高次の発達の死を意味します。もし私たち自身が表現することを否定すれば、表現することはすぐになくなってしまうでしょう。このように、神自身の道具である自然を通して、長く忍耐強い暫定的な表現の連続の後に生み出された意識ある人間は、表現という永遠の生命の法則が満たされないことによって、自ら破滅をもたらすかも知れません。自然が、無機的な生命から有機的な生命という最終的な勝利の表現に至るまで、その無限の多様な概念において、神の力を無意識のうちに、これほど見事に開花させてきたとき、人間–神ご自身の言葉の最もふさわしい受容体であり器官である魂–は、その言葉を表現することを怠ることによって、自分のものであることを無視するでしょうか?  彼はまだ生まれていない魂を、その隠された深みで耐え忍ぶことが出来るでしょうか? 残念なことに、そのようなものが残忍さに逆戻りしてしまうのに、あの高貴な構造を細胞から細胞へと築き上げていくのに要したほどの時間はかかりません!

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これはまさに自己消滅です! 唯一の許されざる罪。信じてください、これ以外に死はありません! それゆえ、まだ若く、神の力の最高の表現を、ひとつの音で発声するには技量が足りなかったときに、自然がそうであったように、最初は暫定的に自分自身を表現することが不可欠なのです。自然の声は永遠に訓練されてきました。表現器官を完成させるために、十数年の短い歳月を惜しむべきでしょうか?それとも、偉大な業績を達成するプロセスは遅々として進まないからと落胆しているのでしょうか?

芸術が最初に両手を差し伸べてくれたからこそ、芸術に近づき、信仰と希望と愛と宗教をもって、ひざまずきながら芸術に取り組む人たちは、自己のことも、芸術への傾倒から生じるであろういかなる結果も考えず、ただ芸術を通じて真理を発声し、芸術の真の目的、そしてそれとともに自分自身の人生の最高の目的を果たすことだけを考える–そうした人たちは、力、成長、インスピレーション、そして愛の祝福を本当に知ることになるでしょう。

自分の魂が歌うことを求めているから歌うのであり、表現の技量不足によって真の聖なるものが失われることのないよう、自分の芸術の言語を習得するために長い間真剣に取り組む歌手にとって、その成果が不足することは決してありません。付随する現世的利得もまた、そこにあるに違いありません、 なぜなら、このような芸術は、稀少であると同時に説得力があるからです、そして、私たちの仲間は、それなしではいられないのです。その到来を予告する前触れも、私たちが歓喜に沸き、優しさに涙することを告げる光り輝く文章も必要ないのです。

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それを耳にしたとき、私たちはそれに気づくはずです。なぜなら、その音は私たち自身の内なる真実の音と共鳴し、そこに私たち自身の言葉にならない願望を感じるからです。

しかし、それはあくまでも理想に過ぎないという声が聞こえてきそうです。そうですね、と私は答えます。しかし、理想とは、現実に対する私たちの無意識的でより繊細な認識以外の何ものでもありません!そしてこの章を書くにあたって、私は今日の理想が明日の現実となることを心に強く念じています。

 

2023/07/16  訳:山本隆則