THE PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱の哲学

by Clara Kathleen Rogers
Part 2

Chapter VII

HOW TO STUDY
勉強の仕方

『アタック』、『レガート』または『ソステヌート』、『メッサ・ディ・ヴォーチェ』または、音の膨張と減衰、母音と子音の発音という見出しで引用されているいくつかの簡単な法則を本当にマスターし、習慣的に行なわれている歌手は、今日ではほとんどいません。

私たちが耳にするのは、アタックはよくても、真のレガートというものがわからず、音を持続させたり膨らませたりすることにまったく失敗している歌手かもしれません。また、レガートは最も効果的に使うが、トーン・アタックに欠陥がある人の声も聞きます。そしてまた、アタックやレガートが良くても、母音や子音の発音が不明瞭で、何語で歌っているのか推測の域を出ない人もいます。

これは、完全なテクニックを習得する前に、歌のテクニックを非常に多くの異なるプロセスの組み合わせとしてとらえ、それらを個別に習得しなければならない、ということを教えられていないからです。

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ある先生はアタックに重点を置き、別の先生はアタックとは関係ない呼吸に重点を置き、別の先生は音の支えと強弱に重点を置き、別の先生はアーティキュレーションに重点を置く….といった具合です。このように、ある優れた資質は、別の資質を犠牲にして培われるのです、 そしてこれらの関連するプロセスの分化の総和は不完全なままなのです、したがって、一人の歌手が完璧なテクニックを構成するためのすべての特質を体現することはありません。

これらの分化したプロセスはすべて、互いに密接に関係しており、それぞれが完全に認識され、正しく成長したならば、これらの完成されたプロセスの作用、反作用、相互作用によって、一方が他方を支え、こうして歌の技術的プロセス全体が永続的にまとまっていくのです。しかし一方で、これらのプロセスのうち1つか2つしか完璧に行われないのであれば、適切な相互作用は生まれず、結果として永続性も結束力も失われたままとなってしまいます。

このような必要なプロセスの一つひとつを習得することが歌手の側にできないことが、声の早すぎる崩壊をもたらし、それを常に観察し、嘆き悲しまなければならないのが私たちなのです。

それぞれのエクササイズについて、適切な順番でいくつか例を挙げてみましょう。

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スペースを節約するため、それぞれのエクササイズは1つのキーで行い、歌手の声域に応じて他のキーに移調するようにします。

また、発声とは無関係の音によって耳が混乱しないように、伴奏なしで練習することをお勧めします。

それぞれのエクササイズを歌う前に、ピアノのキー・ノートを叩くだけで十分でしょう。

座って練習するよりも立って練習する方がよいでしょう。なぜなら、立って練習するのが、体の自由な動きにとって最も好ましい姿勢であり、さらに、すべての音の発声に行き渡るべき、生き生きとした生命のスピリットをより感じやすくなるからです。

身体は直立し、バランスが取れていなければなりません。また、胸を大きく広げるために、肩は少しも力むことなく、自然に後ろに反らせておかなければなりません。

NO. 1. – トーン・アタックのためのエクササイズ

自然な広さで、無理に伸ばさない程度に口を開けてください。舌を口の底に平らに寝かせて受動的にします(平らに固定するのではなく、口の中に液体を流し込んでゼリー状にしたように)。これらのエクササイズや すべてのエクササイズにおいて、最も厳格なリズムを守り、3拍子で区切られた音を歌い、音に2拍、ブレスに1拍の余裕を持たせます。各音符間の抑揚は非常に穏やかにし、体を十分にリラックスさせます。

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上記の一連の練習で、私は決して、さまざまな音の組み合わせをすべて歌い尽くしたと明言しているのではありません; しかし、私が挙げたような例を、はっきりと明瞭に、そして美しい楽音で歌うことができる人であれば、これらの練習に含まれていない他のすべての組み合わせを歌うことに何の困難もないだろうと私は確信しています。

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この練習システムを忠実に追求すれば、生徒はひとつのプロセスを完成させることが、他のプロセスに大いに役立つことがわかるはずです。

さて、最後にもう一度、これらの練習や他のすべての発声練習において、耳が唯一の安全なガイドであることを歌手に思い出させましょう; 耳は肉体的な面における歌い手の良心であり、従って、単純な母音であれ単語であれ、耳が完全に認めない音は決して受け入れてはなりません。

もし出された音が、歌い手に完全な満足感や楽しさを与えられないとしたら、それはその瞬間に歌い手が出すことができる良い音ではないという確かなサインなので、完璧な満足感が得られるまで、何度も何度もその音を繰り返さなければなりません。

音のメカニズムがこれほど綿密に観察され、自由に議論されるようになって以来、歌手は音そのものに全神経を向けるのではなく、喉や体のさまざまな動きに注目するようになりました; もし音が満足のいくものでないなら、発声のプロセスに気を配ったり、干渉したりしても、何の役にも立ちません。意志が新たな衝動に突き動かされ、耳が要求するものをその器官から得るのは、耳が聴こえるものとは異なるものを要求することによってのみであり、しかもそれは、望ましい結果を生み出すために発声器官の部分で起こっている具体的な変化について、歌い手がまったく意識することなく行われるからなのです。

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一方、発声器官のどこか、あるいはそのモーターである呼吸にさえ歌手の注意が向けられると、音に対する感覚や、音に含まれる美しい要素や悪い要素に対する知覚はますます弱くなり、本来持っていた音の美しさに対する感覚はますます鈍くなり、ついには完全に消え去ってしまいます。

前にも述べたように、私たちの意識は、一度に2つの異なるものに適用することはできません; したがって、歌や呼吸のメカニズムに気を使おうとすると、純粋に機械的になり、その結果、音質の多様性や色彩に対するより繊細な知覚を失うことになります、それは、私たちの意識が耳に帰属することによってのみ存在し、成長することができるからなのです。

聴覚を働かせないということは、聴覚を働かせる習慣を徐々に奪っていくということです。一方、聴覚を働かせ続ければ、聴覚は日ごとに研ぎ澄まされ、より鋭敏になり、より分析的になります。

最後に、歌を歌うすべての人たちに、決して形だけの練習をしないように忠告しておきましょう。練習とは、退屈で面白くないもの、できるだけ素早く終わらせるべきものと考えるべきではありません;むしろ、美しくリズミカルで、調和の取れた関連性のある動作の一種であり、それによって私たちは、最も深い真実の感情を表現する力を得ることができるのです。

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このように考えれば、単なる機械的な訓練に堕落していたものが、私たちの潜在的な可能性を完全に認識させる、崇高な願いへと高められることになるでしょう。

 

2023/07/09  訳:山本隆則