THE PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱の哲学

Part 3

第3章
ACTION IN INACTION, OR THE TRUE RELATION OF PASSIVITY TO ACTION
インアクションにおけるアクション、あるいはアクションに対する受動性の真の関係

この論文に示された法則を実践的に適用する上で、最も難しい作業のひとつは、歌唱に使われる各部分の、意識的に指示された作用や調整と、自然に任せたときに自然が完璧に調整する、無意識的あるいは不随意的な作用との違いを、歌い手に知覚させることであることがわかりました。言い換えれば、意志が直接各部分に作用するのではなく、自然の法則を通して間接的に作用するとき、意志は目的に向けられるのであって、過程に向けられるのではありません。もしあなたが『身体をリラックスさせ、自然の法則に対して受動的であり続けさせなさい』と言ったとしても、ごく普通の人にはその意味が十分に伝わるとは思えません、 しかし、自分の心理の不可思議さの一端にすでに気づいている、特別に思慮深い学生にとってのみ、重要な意味を持つことになるでしょう。

しかし、この問題について何も考えたことがなく、自分の大きなつまずきの原因となっているものが何であるかも知らないにもかかわらず、自分の心理に対して絶えずつまずき、落胆し、絶望している人がたくさんいます。

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この最も捉えどころのない法則について、もう少し詳しく説明しましょう。

我々は皆、血液の循環、消化のプロセス、話すときや歌うときの声帯の合わせ方など、肉体的な器官には不随意かつ無意識的なある種の活動的プロセスがあることを知っています。

また、我々がコントロールすることはできませんが、他にも望めば意識することができる不随意的なプロセスもあります。例えば、心臓の鼓動や脈拍、軟口蓋の盛り上がり、口蓋垂が吸い上げられるなどなどです。

繰り返しになりますが、自然のプロセスには第三の分類があり、それは、もしそうすることが許されるなら、指示なしに作用します、しかし話すときや歌うときの舌や喉頭のさまざまな動き、調音するときの唇、舌、歯のさまざまな動き、息を吐くときの軟口蓋の盛り上がり、膨張と収縮における呼吸筋の働きなどの個々によっても調節することができるものです。

さて、歌い手がこのような後者のプロセスを意識するようになり、またそれを調整しようとすることは、歌い手にとって最大の危険の一つです; なぜなら、それらを意識したり、調節しようとしたりすることは、完璧な音作りのための最も重大な妨げとなるからです。

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しかし、もしあなたが歌い手に、身体は受動的であるべきで、舌や喉、口、体幹のどの部分も意識的に調整したり調節したりしてはいけない、と言ったとしたら、それは歌い手がほぼ常に固定された姿勢をとることになり、そうすることによって歌うときに必要な自然で無意識の調整のいくつかが妨げられることになります。このような誤った解釈がもたらす影響は、各部分を意識的に指示しようとすることによってもたらされる影響と同じくらい深刻なものです。

受動性とは、能動性の反対を意味する以上のものであることを忘れてはなりません。真の受動性とは、作用することも作用されないことも等しく準備ができているのですが、そのいずれにおいてもイニシアチブを取らないこと、作用するのではなく、作用されることだと言えます。

私たちは、歌うプロセスのいくつかについて、自然を信頼せざるを得ません。例えば、最初の、そして最も重要な行為である、音を出す際の声帯の接合について考えてみましょう。この声帯の接合は、間接的に起こります。言い換えれば、歌手は声帯そのものに向けられた意志の行為によって声帯を合わせることはしないし、することもできません。しかし、『私は歌いたい』という心的な肯定によって、声帯は自然に、無意識のうちに合わさり、その結果として音が出るのです。

これを我々のタイプに取り入れなければなりません。ここでは、声帯は受動的に指示を待っていますが、合図があれば瞬く間に活動を開始する準備ができています。柔軟で、機敏で、固定されておらず、凝り固まっているわけでもなく、発声に於ける接合のために合図があるまでじっと動かずにいるのです。

これこそが受け身の本当の意味なのです。

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この言葉は、無気力、惰性、消極性を意味するものではなく、行動を否定するものでもありません; しかし、それは積極性を伴わない準備態勢を意味します。

歌において最高の可能性を達成しようとする者は、まずこの各部分の完全な受動性を達成しなければなりません。なぜなら、全体的な調整が自然の法則に任されて初めて、各部分は互いに完璧に調和した関係で機能するからです。

楽器全体が受動的な状態にある例として、楽器のピアノを考えてみましょう。そこには、音楽的な響きを生み出す潜在的な能力がすべて備わっており、ハンマーとダンパーは作動する準備ができており、弦は奏でられる準備ができています。しかし、それは終末の日までそこに立ち続け、決して音を出そうとはしません。しかし、ほんの少し指に触れただけで即座に、ハーモニーとリズムを生み出します。それは、完璧な自発性の体現なのです。それは動かないが、同時に動く準備ができており、静寂に包まれているが、同時に楽音を奏でる準備ができています。

私たちの楽器、つまり身体は、この点においてピアノのようでなければならないのです。ピアノがそれ自身のメカニズムの法則の下にあるように、私たちの声楽楽器もそれ自身の自然の法則の下になければなりません。

私たちのこの声楽楽器は、ピアノや他のどんな楽器よりもはるかに素晴らしい造りをしていて、あらゆる面ではるかに完璧です。しかも、外部から不器用な指で演奏されるのではなく、演奏者と楽器が一体で あるように思えるほど、楽器と密接に関連する力によって内側から演奏されるのです。

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しかし、この楽器とその魂が同一であるように思えるという事実は、人間の声の最高の美点であると同時に、すべての混乱を引き起こす原因でもあります。歌い手は楽器を演奏しようとする意志と楽器そのものを混同し、肉体的な力と精神的な力の間に致命的なもつれが生じてしまいます;その結果、まるで分断された家のように、肉体的な力と精神的な力の間に致命的なもつれが生じてしまうのです。

誰にでも、『意志を使いなさい』と言うと、意志を筋肉だと思っているかのように、すぐに体を硬直させ、姿勢を正すというのはよくある事です、これは、私たちが物質的な力と精神的な力の違いを理解するのがいかに難しいかを示しています。

この違いを認識するためのよいトレーニング方法は、床に身を投げ出して重力に身を委ね、身体のあらゆる部分の不必要な緊張をすべて解きほぐし、そのうつ伏せの状態で情熱的なフレーズ、あるいは喜び、熱意、愛、憤りなど、あらゆる種類の強い感情を帯びたフレーズを歌うのです。このような練習は、能動的な意志と受動的な肉体という、私たち自身の有機体における最大の謎に通じる上で、大いに役立つでしょう。

歌で最高の表現を得ようとする者は、まず身体の完全な受動性を獲得しなければならない。なぜなら、歌に使われる各部分は意志に瞬時に反応し、その調節全体が自然の法則に任されて初めて、互いに完璧に調和した関係で働くからです。

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唇も、顎も、舌も、軟口蓋も、口蓋垂も、肺も、横隔膜も、歌い出しの合図があれば、多種多様な形で動き出す準備をしておかなければなりません、 しかし、それまでは静止してリラックスしていなければならず、意志がこれらの部位のどれかに直接作用してはなりません、そうしないと完全に混乱状態になるに違いありません。

理知的な練習によって、自分の能動的な意志に対して受動的であり続ける習慣をすでに身体に確立している歌い手にとって、音の生成は衝動的な欲求や命令の発露のように思えますが、その発声は彼自身の意識的な身体的行為ではありません。その音は、彼の表現欲求に応えて、彼のために突然、積極的に打ち出されたように聞こえるでしょう。

その理由は、生理学的に見ても明らかです。それは、すでに説明したとおり、実際の声門のトーンアタックやストロークが不随意筋によって行われるからです、 つまり、意志は声帯そのものに向けられるのでは なく、音生成のために息を送り出す過程にも向けられるのでもなく、最終的な目的や効果、つまり音そのものにのみ向けられるためです。つまり、声の響きで表現しようとする欲求が、原動力として心的・身体的有機体を支えているのです。 そして、これらの有機体に直接的または間接的に作用する意志は、その親である欲求の最初の現れなのです。

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それは、表現としての音を求める欲求が、意志を行動に駆り立てるのです; そして、意志、すなわち心と身体という執行器官の最高の統治者が命令を下し、それが実際それぞれの器官によって実現されるのです。

したがって、私たちの意識のある部分は、与えられた命令の成就を待つという態度にあるに違いありません。この成就を待つという態度こそが、受動性、あるいは、その意味が完全に理解されるまでは、言葉としては矛盾しているように思われるもの、つまり、インアクション(不作為)におけるアクション(行為)なのです。

 

2023/08/14 訳:山本隆則