THE PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱の哲学

Part 3

第5章
INDIVIDUALITY IN ART
芸術における個性

芸術は本来、個人の表現であり、理想とする真理と美の総体を体現するものである以上、その形式と表現方法もまた、個人の感情と知性によって決定されなければなりません。表現技術を身につける方法さえも、本質的に彼自身のものでなければなりません。そうでなければ、彼のコンセプトとその発声の間に統一性が生まれず、その結果、表現そのものに自発性や活力が生まれないからです。これは、作曲、絵画、彫刻、詩、演劇、アクション、演説、あらゆる楽器の演奏、そして最後に、歌など、あらゆる芸術形態、あらゆる表現に当てはまります。

それゆえ、われわれの目標は、他人の芸術をいかに高く評価しようとも、また同じような卓越したレベルに到達したいといかに切に願おうとも、決して他人の真似をしてはなりません、 なぜなら、模倣は表面的なものであって、物事の核心を突くものでは決してないからです。模倣することは、せいぜい実体のない影をつかむことでしかありません。しかも、他人を模倣しようとすることは、自分自身の表現力を放棄することであり、神から与えられた真と美の概念を無視することなのです。

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それゆえ、自分自身の個性を表現するこの力を放棄することは、芸術における生まれながらの権利を売りはらってしまうようなものです。人はそれぞれ、その人特有の感情を備えており、他の人にとっては無意味なものでも、それを敏感に感じ取ることができるのです。二人の人間が同じ本を読んでも、同じように感動することはめったになく、それぞれの視点があり、一人がそうでないところにもう一人の人間が何らかの利益や喜びを見出すのです。従って、二人の人間が生まれながらにして同じように自分を表現することはなく、従来の慣習が人々を可能な限り同じにするために行ってきたこととは裏腹に、物質的にも方法的にも、どこかに違いがあるものなのです 。自然界のあらゆるものが、意志の個性、知性の個性、表現の個性の保持を示しています。それゆえ、私たちは、誤った教育観に従うことによって、自然界に示された恩恵的な進歩の仕組みを破ってしまわないように注意しましょう。5タラントを受け取って新たに5タラントを増やしたしもべのように、また、2タラントを受け取ってさらに2タラントを増やしたしもべのように、私たちはそれぞれ、大なり小なり、その種類に応じた天賦の才能を増やし、伸ばしていきましょう。そうすれば、主人が来られたとき、『よくやった、善良で忠実なしもべ』と言われることでしょう。

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この目的のために、私たちは模倣の轍を踏まないようにしなければなりません。目的を達成するための一時的な手段として模倣することは、時には役に立つかもしれませんし、より良い方法を身につけるための足がかりとして役立つかもしれませんが、それ自体に限界があるのです; なぜなら、それ自体が制限であり、人為的なものを誘発するからです。また、表現における個性にとって絶対不可欠な自由を奪うことによって、麻痺させないまでも、私たちの自然で独特な表現力を弱める結果になることがほとんどだからです。というのも、たとえ一時的な目標であっても、ある種の優れた基準を自らに設定するやいなや、熱意、努力、責任感、素朴さの欠如など、自由を妨げるあらゆる資質や条件を生み出してしまうからです。練習の際、その表現が他の誰かの表現と同じように美しいかどうかを気にすることなく、その瞬間に感じたことを表現することだけを目的とするならば、発声のたびに自分の潜在能力の一端を自分自身に要求するだけであれば、私たちは何の責任も負わず、したがって自由に表現することができるでしょう。しかし反対に、もし私たちの目的が、ある規則、モデル、基準に従って、自分自身を表現することであるならば、私たちはすぐに、ある特定の地点に到達するために自分自身を縛り付けることになり、自由という感覚はたちまち失われてしまいます。もし私たちが自由でありたいなら、表現されないものは常に未知であり続けることを肝に銘じながら、ただ自分自身を表現することを追求しなければなりません。私たちはそれを知っているかもしれないということを表現します。

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このように、発声のひとつひとつが私たちにとって喜びとなり、それが私たち自身の新たな認識をもたらしてくれるので す。繰り返しになりますが、新たな認識が新たな着想を生み、着想が新たな衝動を生み出し、表現と着想が互いに作用し、反応し続けるのです。衝動は常に前へ向かっています、 なぜなら、どんな知識にも、どんな力にも、どんな認識にも、終わりはないからです; 私たちは常に次のステップ、次の新しい光、次のより完璧な表現に従うのです。しかし私たちは、自由でとらわれのない発声のひとつひとつを喜びとします、なぜなら粗削りであっても、その瞬間は私たちのすべてだからです; なぜなら、その粗削りな表現が、次の粗削りでない表現を可能にし、一歩一歩、その種の完成された表現へと導くからです。

それゆえ、私たちの個性の発展とその表現の巧みさは、自由の中にこそあるのです。自由と模倣が互いに相容れないものである以上、模倣もまたこの理由から非難さ れなくてはなりません。

強い模倣能力がある場合、創造力の独創性、いわゆる『オリジナリティ』があることはめったにないというのは、特筆すべき事実です;2つの能力が同一人物において、ある程度まで統合されることはめったにありません。これは間違いなく、表面的なことに習慣的にとらわれている心が、中心や核心にあることに容易に順応できないからなのです。

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私たちは、口調やしぐさ、表情など、その人がよく知っている俳優の特徴をすべて完璧に再現することができるすばらしい模倣力を持っている人を知っています。この力は、彼ら自身が偉大な俳優に必要な才能を持っているという推論へと至りました;しかし、いざ試演してみると、彼らはどの場合も、自分達が抱かせた期待に全く応えることができず、彼らの演技には、本物の俳優の真似を際立たせていた魅力と力強さが全く欠けていたことが判明し、彼らのファンを大いに驚かせてしまう結果となったのです。しかし、この結果は、模倣の能力が発達しすぎた結果であり、いかなる種類の個人的な解釈もできなくなってしまったのです。他人の表現の特徴を常に再現しようとすることで、彼らは自分の表現するものを持たなくなってしまったのです。彼ら自身の個性は、他の個性の荒野の中に消えてしまったも同然だったのです。

表層に潜むものを理解し、それを具体化する現実の根底にある原理を把握する力を生まれながらにして授かっている者は、決して模倣に頼ってはなりません。

しかし、抽象的な考えや根底にある原理をつかむことができず、何事においてもより高い技術を身につけるための方法を自ら始動することができない人々が常に存在します。そのような人々にとっては、模倣が進歩のための唯一の手段なのです。

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例えば、子供たちは技術教育の多くを模倣によって身につけます。彼らは、なぜ、どのように行われるかを理解することなく、多くのことを教えられるのです。その結果、彼らの知性が十分に発達し、彼らがすでに到達している表現の巧みさを支配する法則を理解するまでに、優れた技術が自動的に身につくことが多いのです。

原則として、自然法則は、強い個性を持つ者が模倣によって技術を習得することを困難にすることで、このような道徳的自殺の危険に対してうまく対処してきました; なぜなら、個性を維持するために、彼らの存在の必要性そのものが、彼らの知性と把握力を発揮させるからです。しかし、その個性があまり支配的でない場合、教師はこの神聖な持って生まれた権利を弱めたり、破壊したりすることになりかねません。それは、生徒がゴールに到達するための多様でさまざまな道を自由に選択できるようにする代わりに、すべての生徒に同じように自分たち独自の方法を押し付けるからです。

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もし、模倣の実践が、一人前の人間の知性によって進歩する手段として捨て去られなければならないのであれば、発展や潜在的な力の完全な発現に向けて前進し、上昇していく中で、模範にどのような位置を与えればよいのでしょうか?私たちのやり方を変えたり、原因と結果の関係についての見方を変えたりするのに、お手本が直接影響することはないの でしょうか?

模範の力は、あるときは直接的に、またあるときは間接的に、あるときは意識的に、またあるときは無意識的に、改革のために一つ以上の方法で働きます。しかし、模範によって利益を得ようとする者一人ひとりが、自分が真似をする、より高次の、より繊細な表現を自分の心に浸透させ、それによって自分の意志を新たな衝動へと駆り立てない限り、つまり、自分の心がその新たな衝動に独自の形を適応させ、身体から独自の表現を得られない限り、模範は精神を養う実を結ぶことはないでしょう。

他のアーティストの演奏を聴くことは、計り知れない価値があるに違いありません。もしそうすることで、彼らの表現が私たちにもたらす真の美の啓示を発見しようとするならば、 私たちは身をもってそれを体験することができるのですから。それぞれの芸術家は、少なくとも他の芸術家にはないものを自分自身のために打ち出してきました。したがって、牡蠣の中の真珠や雑草の中の花を見分けることができれば、最も謙虚な演奏家からも学ぶべきものが常にあるのです。他の人たちの話を聞いたり、他の人たちの仕事を見たりすることは、さらに他の方法で私たちに役立っています。

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例えば、私たちはしばしば、彼らの演奏や演技の中に、私たち自身が無意識のうちにやってしまっているマンネリズムを見出します。そして、そのマンネリズムが彼らの演技に与える不快な影響に気づくことで、精神的な決意が自然と固まり、やがて自らの目的を達成していくことになるのです。芸術における疑似体験の有用性は、あらゆる物事においてそうであるように、その用途が完全に理解されている場合には否定する必要はありません。しかし、その用途が、他者の表現において私たちに訴えかけるような外見的特徴を無造作に再現することによって変質している場合には、繰り返しになりますが、それは私たちの個性を犠牲にし、私たちの真の可能性を奪うものであると言わざるを得ません。

他のアーティストのパフォーマンスを聴くとき、私たちはその感動を単純に受け入れなければなりません。その印象が楽しいものであれ、逆のものであれ、私たちは知性を働かせて、なぜ喜んだり怒ったりするのかを発見しなければなりません。これは心的な分析につながり、判断力の形成と育成を助けることになります。この判断力は、より完成された状態を目指す私たちの向上心と密接に結びついているものなので、この2つを切り離すことは決してできませんし、一方を抜きにして他方を論じることもできません。なぜなら、漸進的な向上心の反応媒体としての判断力は、それを維持し発展させるためには独立していなければならないからです。判断力の独立性は、概念や表現の独立性と同様に、個性にとって必要不可欠なものなのです。

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このような判断は、進歩のために自然の反応媒体なのです、というのは、私たちが他者の表現に美と真実を認めるものは何であれ、新鮮な精神的教材のようなものであり、私たちはそれを受け取り、消費し、消化し、そして高次の意識によって同化されるからです。こうして、他人の演奏や演技の効果を受動的に受け入れ、それによって目覚めた感情を未来の法則として受け取ることで、芸術における私たちの個性は刺激され、強化され、より高く、より完全に進化し、そのために働く私たちの意志は、行動においてより能動的になり、今や私たち自身の願望となった真理と美のさらなる何かを表現しようとするその衝動において、ますます活力に満ちたものになります;なぜなら、私たちが自発的に真理や美を認識するものは何でも、今や私たちの真理であり、私たちの美なのですから–精神的な認識は、まさに精神的な充当なのです。

しかし、私たちのこの判断は、果たして当てになるのでしょうか? 私たちは、より権威のある人たちが、ありきたりだとか、欠陥があると宣告したものを美しいと受け入れることで、しばしば間違いを犯していないでしょうか? それはどう云うことなのでしょうか? 判断は常に異なっているはずなのです、それは判断する者が立っている心的、精神的な成長の段階に左右されるからです。私たちを本当に喜ばせてくれるものを美しいと受け入れることには、決して間違いはありません。私たちにとって美しいと感じられるものであれば、それで十分なのです。私たちの今ある美意識に訴えかけるものは何であれ、今のところ、私たちが評価できるすべてを体現しているのです。そして、そのすべてを認識することで、私たちは識別の次のステップ、受容性の次の高みに進むことができるのです。

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自然であれ芸術であれ、何を美しいと感じるかは、各人が自分自身に関わることであり、誰も自分の印象を他の人に押し付ける権利はないし、自分の特定の受容レベルにない人が表現した感情を軽蔑する権利もありません。それに、芸術の絶対的な美がどこにあるというのでしょうか? 目はそれを見ず、耳はそれを聞かなかった(コリント2:9)。人間の魂は、その認識を十分にすることで、無知の闇の中で自ら築き上げた限界を突き破らなければなりません、 全人類を魅了するような美の音が、一心に賛美の喜びに包まれる前に。それまでは、美は私たちにとって上昇音階としてのみ存在し、その各音は各個人が調律されたキー・ノートに反応するだけです。例えば、子供や あらゆる未開の人々は、教養のある人の目に訴えるような落ち着いた色合いや色のブレンドよりも、荒々しく派手な色を好みます。絵の中でも、彼らは限られた経験の中で慣れ親しんだ小さなモノのグループから何かを表現するようなものを好みます。子どもは、自分が知っているモノの最も単純な絵を見せれば、目を輝かせて心を動かされます; 一方、子供にとって見知らぬものの最も単純な絵を見せたところで、ほとんど何の印象も抱かないでしょう。これは、私たちが認識の力から受ける輝きと喜びの度合いを示しています。

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時がたつと、子どもは馬や犬の絵には興味を示さなくなり、何かアクションのあるもの、あるいはちょっとしたストーリーのあるものを要求するようになり、馬は断崖絶壁を転げ落ちたり、犬はウサギを捕まえたり、子どもの命を救ったりしなければならなくなるのです。ストーリーは象徴的なものでなければならず、ストーリーそのものの背後には何らかのアイデアや観念がなければなりません。それからロマンチックな段階が始まります。荒唐無稽な危険描写、贅沢なヒロイズム、危機一髪の脱出、崇高な犠牲は、芸術や文学において、何よりも彼に訴えかけます。彼の本性がより繊細に、より高度になるにつれて、彼は自分の感情に訴えかける芸術の表現に手を伸ばします、 知性と感情とが聖なる交わりをささやき合う高みへ、さらに上へ上へと。 単純な自然や人間の生活の真の絵が、草の葉、震える木の枝、無数の海、海の上の天まで、全体を照らす神の真理の観念を彼にもたらすとき、彼の魂に響く和音が打ち鳴らされるのです。

そして、この成長する生き物は、その成長の各段階において、餌を与えられ、栄養を与えられなければならないのではないのでしょうか?確かに芸術は、宗教と同様に、神の創造物の中で最も偉大なものだけでなく、最も謙虚なものにも何らかのインスピレーションと教育をもたらす十分な広がりをもっています。

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それゆえ、芸術には、低音から高音まで、考えうるあらゆるグレードの表現が常に存在しなければならず、それは、美の音階において最も低い音にも、また最も高い音にも共鳴する人々のそれぞれのニーズを満たすものでなければならないのです。だからこそ、各人が芸術の中で、低音であろうと高音であろうと、自らの音を発しましょう。それぞれの発声は、その種類と程度に応じて、その音が同調する飢えた魂を見つけることができるのですから。

それゆえ、他のどんな権威がそれを否定しようとも、芸術において美しいと感じられるものは何でも、新しいひらめきとして受け入れることに間違いはありません。芸術の目利きを装うことを控え、その代わりに自然の選択法則に従おうとするだけで、私たちは芸術から、私たちの啓蒙と進歩のために本当に必要なもの、そして私たちが容易に同化できるものを得ることができるでしょう; 傍らにいる牛が流れる小川からどんなにたくさんの水を飲もうとも、スズメは自分の渇きを潤すだけの水を口にするのと同じことです。しかし、その代わりに、虚栄心や 軽蔑される恐れから、自分の好みでないものを口にしたり、より権威のある隣人の目で見ようとしたりすれば、消化することも同化することもできないものを飲み込むことになり、判断力はより繊細に、より高くなるどころか、未発達のままであるばかりか、自ら行動する力をまったく失ってしまいます。

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もし私たちが自分たちの音を発しようとするならば、自分の耳で聞き、自分の目で見、自分の手を使って差し伸べなければなりません。個人として表現するためには、個人として判断し、選択しなければなりません。

結論として、個性は偉大さの証であり、平凡さの特徴は個性の欠如なのです。偉大な画家も、偉大な作曲家も、偉大な詩人も、弁士も、説教者も、俳優も、演奏家も、歌手も、真理の個性的な解釈者として傑出しており、それぞれが宇宙のハーモニーの中で、かつて聞いたことのない音を声にしてきました;それぞれが人類に独自のメッセージをもたらし、そのメッセージとともに新たな祝福をもたらしてきたのです。そして、個性の力とはこのようなものであり、それぞれが同時代の人々にも後世の人々にも、順次、掟を与えてきました; なぜなら、それぞれの偉大な巨匠は、知らず知らずのうちに流派の創始者となっているからです。しかし、師匠に従う者たちは、自分たちがしがみついている真理の力によって安全な範囲内に保たれているとはいえ、道を踏み外したり、自分を見失ったりすることはありませんが、彼らの仲間に新しいものを残していくこともなく、彼らの去来を知らせることもありません。彼らの貢献によって世界が豊かになることはありません、 というのも、これらの貢献には個性がないため、ただその貢献を生み出した楽派の中に吸収されてしまうからです。彼らの仕事は、すでに土台の上にしっかりと建っている建物にとっては、余計な柱なのです、 真実は裏付けを必要とせず、美は宣伝を必要とせず、それだけで十分だからです。

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ある流派で教育を受けた者が、その流派の巨匠たちによって発展させられた芸術の基本原理を知覚し、それを選択し、受け入れられた真理の幹から自分自身のために枝を伸ばし、他者の表現の花粉を集めるならば、その認識から得られる果実は決して巨匠の単なる反映にとどまることはないでしょう。自然法則が種の分化において自らを主張するように、人間は思考と表現における分化の法則を認識することによって、自分自身と自然との間に調和を創り出さなければなりません。すべての個性は、この法則を守ることに起因します。確立された定型表現や、受け入れられている理論やアイデアの分化が能動的に表現されればされるほど、その表現はよりオリジナルに感じられます。それ以外の意味でのオリジナリティは存在しません。神の真理の普遍的な表現であるロゴスを除いては、太陽の下にオリジナルなものは存在しません。

人間の知的生活の目的は、神の真理の表現を解釈することであり、そのためには、各個人が表現しうるあらゆる分化した認識、あらゆる分化した思考が、人類(全体)に必要とされているのです。 それは、偉大な人類一族が、身代わりの一体化によって、ついにその神の表現の完全な意味を把握し、魂に太陽が昇ったとき、その強大なロゴスをユニゾンで歌い上げる勝利の大合唱に、鼓舞された衝動とともに参加するためなのです。

2023/08/25 訳:山本隆則