PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱の哲学

by Clara Kathleen Rogers

1893

 

“芸術は真実であり、真実は宗教である。” 

W. M. Thackeray

”すべての思考は感情から始まる。
大いなる塊の中にその根源は隠されている、
そして、思考に至るまで絞り込まれ、栄光のうちに立つ、
不動のピラミッド”

James Russell Lowell

 

CONTENTS
目次

序論

Part 1
歌唱の哲学

I. 芸術における表現の目的
II. 歌唱における感情
III. 歌唱におけるマインド
IV. 歌唱における身体
V. エネルギーの集中による自発性
VI.自動作用

Part 2
メカニズムとテクニック

I.メカニズム
II.ブレッシング
III. 呼吸時のノド
IV.無声のエクササイズとその練習方法
V.レジスター
VI.テクニックの5つの要点
(1) トーン・アタック(起声)
(2) ”ポルタメント “と区別される “レガート ”
(3)  『MESSA DI VOCE』または『CRESCENDOとDIMINUENDO」
(4)  母音:声区との関係、ヴォーカル・スケールへの影響
(5) 子音

Part 3
APPLICATION AND ELUCIDATION OF THE PHILOSOPHY OF SINGING
歌唱哲学の応用と解明

I. ドラマチックな表現と感情との関係
II. 情動のスケール
III. 無為の中の行為、あるいは受動と行為の真の関係
IIV. リズミカルな呼吸とその歌唱との関係
V. 芸術における個性
VI. 教えることについて一言
VII. ステージ・フライド:その原因と治療法
VIII. まとめ

 


Introduction
序説

この小さな本には、私の芸術家としての全人生を集約した信念が込められています。

私まず第一に、自分自身のために書きました。自分の結論が何なのかをしっかり認識するためには、それを形にして表現するしかないと思ったのです。
私の芸術生活は、私の心を揺さぶる美と完璧さのようなものを常に表現できるような保証を得るための絶え間ない闘いであり、そのために充分な発言をすることはめったにできませんでしたが、同じ問題を抱えている人が他にもいるに違いないと私は考えています。

このような満たされない気持ちを抱えた人たちに、私が真の表現法則を探求してたどり着いた結論が役に立つかもしれません。したがって、私の本を一般に公開するにあたっては、特にこれらの人たちに向けて書くことにしたのです。

私が直接、あるいは間接的に現在の結論に至った暫定的、推測的な理論のうちの半分を挙げるとすれば、それだけで、クォート版の数冊を埋めるに十分な資料が必要になります。しかし、あらゆる理論やアイデアをふるいにかけ、確固たる基本的な真実を推測のもみ殻から分離すると、それらがいかにわずかなものに圧縮されるかに驚かされます。

それゆえ、これは小さな本に過ぎないの です。しかし、それは小さなものであっても、個人的な魂の最も雄弁で直接的な表現であるだけでなく、偉大な普遍的な魂そのものの表現でもある、最高の局面での歌の芸術を支配する真の原則を、四半世紀にわたって絶えず模索し続け到達してきたことを表しています。

この論考は、「人生の哲学」とも「歌の哲学」とも呼ぶべきものです。「歌唱法」を探している読者の中には、後者よりも前者の方がタイトルとしてふさわしいと考える方もいらっしゃることでしょう。そこで、なぜ私が「歌の哲学」と呼んでいるのかを、できるだけ簡単に説明します。

神の表現である人生の真の目的、人間の表現である芸術について、私が学んだこと、感じたこと、認識したことはすべて、音楽芸術の研究、とりわけ歌の研究を通じて得られたものです。したがって、私が感じた真実を、それが最初に私に姿を現したその形で表現するのは自然なことです。

私は常々、一つの芸術や科学を支配する法則を真剣に、忍耐強く、愛情をもって探した者は、やがてすべての芸術や科学に属する真理の中心に到達し、そこから物事の真の関係や統一性が明らかになると信じています。この共通の中心に到達すると、予期せぬ類似や 相応関係などが次々と意識に現れ、最初は到底理解できないように思えた事柄も、次第に理解できるようになるのです。

結局のところ、本質的に1つの芸術があり、それは表現芸術なのです、それと同様に本質的に1つの科学があり、それは生命の科学なのです; そして、物事の周縁のどの地点から入るかは問題ではなく、中心部に到達するのに十分な距離であれば、その中心部で、残りのすべてのものが放射状に広がるユニットを見つけることができるのです。例えば、歌の研究は、真の熱意と究極の表現に到達しようとする強い意志を持って追求すれば、必然的に心理学や形而上学を考察することになり、芸術と倫理の関係も当然明らかになるはずです。

前世紀の歌い手たちは、真実と表現の美しさにおいて、現代の歌い手たちを凌駕していたと教えられますが、心理学は何も知らず、異なる器官の関係について思い悩む必要はなかったと言えるかもしれません。しかし、前世紀の歌手たちが自分自信の心理について悩まないのは、悩むことが無かったからでしょう。

私たちは、この100年の間に人間の意識が急速に成長したこと、私たちの精神的な発達が絶えず活発になっていること、新しい知覚や認識力が、私たちの存在の年ごとに早まり、芽生え続けていることを認めなければなりません。したがって、実際、現代の人間は、100年前の人間よりもはるかに高度に組織された存在であり、この事実は完全に自然で、進化の仕組みに従っているものなのです。

しかし、最近獲得した精神的能力を、身体や本質的な意志やエゴと調和させる方法を学ぶまでは、この精神的成長の効果は、私たちの均衡を乱すことになります。私たちは、思春期を迎えた少年が、急激に喉頭を成長させるのと同じような状態に、精神的におかれていることに気づきます。彼は、自分の声をコントロールするために、新しい状況にすぐに適応することができず、奇妙にうめくように上下に飛び跳ね、男のような深い音色になったり、子供のような高い音色になったりして、本人もひどく動揺しています。

声に対するこの独特の影響は、おそらく、喉頭の筋肉よりも軟骨の方がより急速に成長し、恒久的な再調整が行われるまで、筋肉が軟骨に対する制御を失うことに起因すると生理学者は語っています。*

しかし、喉頭の例えに限って言えば、筋肉より軟骨が不均衡に成長することでこのような障害が発生するのであれば、人間の器官を動かす大きな中心あるいはバッテリーである心が不均衡に成長し発達する際に、どれほど深刻な障害が発生すると予想されるでしょうか? 心と体の間の一時的な均衡の欠如が、今日、いわゆる神経衰弱という苦痛な形で現れているのではないのでしょうか? これは少なくとも合理的な推論として認められるのではないでしょうか。言い換えれば、精神的な能力や活動の不均衡な成長は、青年の体格における喉頭の不均衡な成長とまったく同じように、生物全体に作用するのです。相反する状況をつなぎ合わせ、調和させようとする過度の緊張によって、反作用による神経系の弛緩が誘発され、その結果、生理的・精神的リズムの一部が中断され、バランスを失うことになるのです。これは推測に過ぎませんが、事実であり、しかも完全に偶然の産物というわけでもないのです。

しかし、先人たちの話に戻ると、彼らが神経衰弱に悩まされなかったのは事実であり、その理由は、彼ら自身の心理に悩まされなかったからなのです。つまり、彼らは19世紀に生きる我々よりもシンプルに組織されており、その結果、我々よりも純粋な感覚と調和していたのです。

私たちの祖先においては、意志は、動物において本能と呼ばれるものに、より近い衝動で行動し、意識の複雑さが行動の自発性を妨げることなく、動物と同じように直接的な行動をとっていたのです。このように、精神的な進展度が私たちのような段階に達していない前世紀の歌手は、表現力において確実に私たちを凌駕していたのです。彼らは『どのように歌うんだろう』と悩むこともなく、発声プロセスの抽象的な知識もなく、ただただ歌ったのです。

19世紀の私たちと違うのは、私たちはすでに発声のプロセスについて多くの抽象的な知識を持っており、その知識は日々増えているにもかかわらず、私たちは歌わない、ということです。

それでも、私たちは手探りで進みます。ある人は、昔の歌い手が持っていたとされる表現の秘訣に、いつか出会えるかもしれないと期待し、ある人は、真の歌の芸術が失われたことに絶望し、嘆いています。一方、私たちは皆、歴史を懐かしみ、カタラーニ、ルビーニ、マリブラン、パスタ、グリジ、タンブリーニ、ドンゼッリ、アルボーニ、ラブラシェ、ペルシアニなど、そして、当時はマイナーだったけれど、誰が見ても、もし彼らが現在生きていたら、今いるどの歌手よりも優れていたであろう歌手の業績を考え、その芸術の勝利の美は何だったのかを自分に思い起こそうとします、しかし、私たちはそれを実現できるという希望はほとんど持っていないのが現状なのです。

しかし、その古き良き時代の芸術を再現しようとするのは無意味なことです、 なぜなら、その秘密は、人間が到達した精神意識の特殊な次元や 状況にあったからです。この状況は、これまでに存在した、あるいは存在しうるものと同程度に強い表現衝動を伴いながら、私たちの中で表現の自発性を阻む精神意識のレベルには妨げられていなかったからなのです

したがって、精神的な進化は、たとえ先人たちのように芸術で美しく表現することを可能にするような立派な目的のためであっても、その足取りをたどることはできないので、次に、新しく獲得した精神意識と魂の表現衝動をいかに調和させて完璧な均衡をもたらすかを考えなければなりません。

人間の高次の性質を発展させる最大の要因である芸術が、実際には退廃的な状態にあることは考えられません。なぜなら、宇宙における神の最も偉大な表現、すなわち人間の完全な魂を知覚し認識するためには、芸術、あるいは芸術による人間の高次の性質の表現に頼らざるを得ないからです。

芸術は、今はまだ下降線にあるに過ぎませんが、やがて再び、かつてないほどの高みへと登っていくことになるでしょう。次の飛躍のために深呼吸をしたり、次の勝利のために力を蓄えたりしているのです。その一方で、私たちは自分自身をありのままに理解することを学び、さらに高い成長と発展を遂げるための手段として、新たに授かった意識を使わなければなりません、 しかし、私たちが今しているように、意識の向上を軽視し、私たちの最高で最も直接的な表現の邪魔をするようなことがあってはなりません。前世紀の歌い手たちが無意識のうちに成し遂げたことを、私たちが意識的に表現する時が来たのです; そして、私たちの栄光のために、私たちが表現するものは、拡大された意識と広い知覚の結果として、これまでに表現されたものよりも壮大で高いものでなければならない、と云うことを覚えておきましょう。

私はあえて、芸術の最も偉大な時代はまだ来ておらず、最も偉大な歌手はまだ聴かれていないという予言をします; 宇宙における神の表現が、その究極の勝利の表現である人間の不滅の魂に到達するまでに多くの段階を経てきたように、人間の最高の表現である芸術もまた不滅のものとなるでしょう、相対的に不滅なのではなく、絶対に不滅なのです。

私はここで、来るべき時代に響くであろうキー・ノートを叩いているのです。後世の人々がそれに同調し、ハーモニーを満たしていくことができますように。

 

2023/06/08 訳:山本隆則