[Harry Plunket Greene: Interpretation in song]
MAIN RULE III
(c) 質感の同一性
p. 142
あらゆる歌曲はそれ固有の雰囲気を持っている。またその作曲の素材を貫く質感も持っている。書かれた歌曲におけるそのような質感は内在的かつ文学的なものである。それを外的かつ声楽的な解釈において保持することが、歌手の務めの一部である。それを外的に真に伝えるためには、当然まず内的にそれを理解しなければならない。もし彼が様式の巨匠であるならば、質感は歌曲全体と不可分なものとなり、まだらな出来栄えは安っぽい職人仕事に等しいものとなるだろう。しかしそのような内的な知識は、歌われたときに歌曲を一貫した全体とするために、外的な実践によって補われなければならない。歌う声と語る声との間の質感の同一性は、文学的テキストのそのような真の表現に不可欠であり、その音楽的解釈におけるまだらな出来栄えとは相容れない。
ある歌曲や旋律句を純粋な発音で歌うことに困難を感じる歌手は、自分の声の中で労なく歌え、その音質に満足できる一つの音を選び出し、その音で問題の行や詩を朗誦するという方法が優れた計画であることに気づくだろう。以前に彼を悩ませていた困難はおそらく声楽的なものであって、発音に関わるものではなかった。そして主題を別の媒体に移し替えることで、それらの困難は一時的に消えてしまう。発声の悩みと制御されない呼気圧が、歌曲の中で彼を正しい軌道から外してしまい、それとともに発音の純粋さも損なわれてしまっていたのである。その朗誦された音においてはこれらの不安は存在せず、また思考を乱すような長いフレージングもない。その結果、彼は言葉について考える時間を持ち、それらを新しい環境に移し替えた後の音の常識と質感に注意を払うことができる。
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したがって、楽に朗誦するとき、彼は歌う一つひとつの言葉が、純粋な発話における場合とまったく同じ音の質感を持つように心がけなければならない。その発話とは、純粋な弁論術の規則と両立する限りにおいて、日常会話の言葉にできるだけ近い発話である。もし少しでも違いに気づいたならば、まず行を一語一語語り、次にそれを歌い、正しくなるまでその過程を繰り返すがよい。そして耳がその一致に慣れるだけでなく、それに献身するようになったとき、言葉を質感ごとすべて歌曲へと移し替え、新しい読みが自分のものとなり、立ち止まって考える必要がなくなるまでそこで繰り返すがよい。それによって得られる力の感覚は彼を驚かせるだろう。好意から、あるいは彼の声の美しさゆえにものうげに拍手を送っていた聴衆が、突然彼に注意を向け始めるだろう。なぜなら彼は彼らに、彼らが理解できる言語で語りかけ始めるからだ。歌における言葉は、人間に与えられた最も心を動かす賜物である。歌いに出かけながら言葉を家に置き忘れてくる歌手は、火薬、弾丸、詰め物、雷管を持って狩りに出かけながら銃を忘れた男のようなものだ。
英語圏の歌手は最も健全な精神を持ち、おそらく声楽的にも最も恵まれた才能を持つ。もし彼が自らの責任と機会を理解し、視野を広げるならば、彼はいつでも地方主義から抜け出し、世界においてその地位を占めることができるだろう。クリスマスカードやチョコレートの箱をそこそこの出来栄えで、しかも手早く描ける能力は、肖像画の傑作を成し遂げる保証にはならない。美しい声は美しい声であるに過ぎない。手の拍手はただの手の拍手に過ぎない。
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その一方が夕べに他方と出会い、郊外的な愛の言葉をささやき合うこともあるかもしれない。しかしその結合から生まれた子は国家に何ももたらさず、概して退廃したものとなる。
この第二部に述べられた規則を辿ってきた者は、それらの規則が、その働きにおいても訴えにおいても、いかに相互依存しているかに気づいたことだろう。その訴えは、聴き手の原始的な本能と均衡のとれた理性に対する気質的なものである。そしてその手段はリズムと言語である。リズムが方向において水平であり、その標語が「前進せよ」であるならば、歌曲は決して止まってはならない。言語がリズムの身体的な訴えと同様に知的な訴えをなすべきであるならば、その言語は歌手と聴き手双方の言語でなければならない——俗悪な時代錯誤と臆病な回避の妥協物ではなく。歌曲が知的な全体として扱われるべきであり、その歌曲が常に動き続けているならば、知的な歌手もまたそれとともに常に動き続けなければならない。歌われたすべての小節において、また歌われない小節においても、歌手とその言語は歌い、生き、動き、その存在を持ち続けなければならない。
最後に彼は、これらの規則の身体的な実践——ルールIの把握、ルールIIの常在の備え、そしてルールIIIの流暢さ——が、吸い込む息の量の多さではなく、吐き出す息の量の少なさこそが肝心であるという認識に依拠していることを、忘れないようにしなければならない。
2026/04/23 訳:山本隆則
