PART VI
HOW TO STUDY A SONG
歌をどう学ぶか
熟練者にとって、歌を学ぶという作業は機械的なものである。おそらく彼は、自分がそれをどのようにやっているのか自覚しておらず、分析という手続きを経て、はじめてそこにたどり着くことができるにすぎない。しかし、初心者のためにそれを簡明なものにすることは、可能である。
推奨すべき規則はさまざまあり、以下にしかるべき順序で示していくが、それらはすべて、二つのメイン・ルール ―― それぞれ目的と手段、すなわち解釈 (interpretation)と技術 (technique)を表すもの ―― に帰属するのである。
歌うこととは、音楽的な楽句(フレーズ)と文学的な文(センテンス)とを、二頭立てを一組(ダブル・ハーネス)として御することであり、その二頭は、その歩みぶりを見事に披露してみせるだけでなく、標識(ポスト)の内側にとどまっていなければならない。両者のあいだには生まれつきの反目があって、一歩ごとにその標識を危うくする。もし御者が自らの仕事を修めていなければ、彼は破綻をきたすであろう。目的 ― 解釈 ― のために、彼が手段 ―― 技術 ―― を意のままに使えることを、われわれはここで前提としておかねばならない。
メインルール I. (目的)。
Classify your song (自分の歌を分類せよ); 言いかえれば、それがいったい何についての歌なのかを、見きわめよ。
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メイン・ルール II (手段).
Find your fundamental rhythm and absorb it.(自分の根底となるリズムを見いだし、それを体に染み込ませよ。)
この二つのうち、第二のものは ―― そこ(二番目)に置かれてはいるものの ―― 実のところ、最も重要である。本書を通じて、音楽こそが肝心であり、そしてリズムこそが音楽のなかで肝心なのだ、と説き続けてきた。ルールIのいう歌の美的な意味 (aesthetic meaning)も、その解釈 (interpretation)も、このリズムに依存しており、それを自らの主として仰いでいる。とはいえ、それら(意味と解釈)がリズムなしには独立して存在しえないにもかかわらず、リズムはあくまで、それらの目的に至るための手段にすぎず、学習においては二番目に来なければならないのである。
歌はまず分類されねばならない。というのも、リズムの扱い方は、その歌の雰囲気(atmosphere)と、それに伴う気分(mood)とに、調和させられねばならないからである。
たとえば、もしその歌が「リズミカルな歌」に分類されるなら、リズムが全権を握り、声の色(tone-colour)や、折々の語句描出(word-illustration)といった、外から得られるあらゆる助けを利用する。これに対して、もしその歌が、たとえば「雰囲気的な歌」に分類されるなら、気分こそが状況を支配し、リズムは ― そのルバートの従者たちを引き連れて ― 全体の構図を、親しげに、しかし欠くべからざる形で支える者として、加わってくる。それはいわば、まったき一家の内輪の営みであって、そこでは家長(かちょう)が資金を出し、一同の楽しみに加わりながらも、その進行を指図することはしないのである。
歌い手に、まず歌詞(テキスト)を研究せよ(規則I)と勧めることは、もし音楽の呼び声がこれほどまでに人を惑わすものでなかったなら、余計なお節介と思われることであろう。歌い手は先を急いで飛びつき、歌詞と並べてみれば到底もちこたえられぬような、純粋に音楽的なだけの効果を、ぺらぺらとまくし立ててしまう。そして、うまくいかぬと落胆(らくたん)し、自らの「やっつけ仕事(slap-dashness)」の落ち度を、音楽のほうの不備のせいにしてしまうのである。彼は、それと知らぬまま、言葉のない歌を一種の絶対音楽(absolute music)に仕立て上げ、そこに標題(プログラム)を与えるための名だけを添えてしまったのだ。
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作曲家が自らの歌詞に忠実であることは、信頼してよい。だが、それだけでは、歌い手のために歌を第一義的に分類してくれるわけではない。たいていの歌は、みずからその正体を明かしてくれる(=おのずと分類される)。しかし、もし歌い手がいくらかでも迷うことがあれば、あの主要句(マスター・フレーズ)(17ページ)が、ほどなく現れて、彼に進むべき道を示してくれるであろう。
リズムを頭で理解するだけでは十分でない。それは体に染み込ませられねばならない(規則II)。歌い手にとって、それをゆるやかな四分の四拍子だ、あるいは速い八分の六拍子だ、あるいはその他何であれ、と感じ取るだけでは十分でない。それは、彼のあらゆる効果や描出(illustration)が、そのリズムの魔力のもとに服(ふく)し、その定める枠の内側にとどまるほどまでに、彼の感覚を隅々まで浸(ひた)しきっていなければならない。さもなければ、歌は、音楽を付け足して飾り立てた、ばらばらの所見(しょけん)の羅列(られつ)に成り下がってしまう。これは、困難を回避するかどうかの問題ではなく、意図された一つの方針(ポリシー)なのである。
SUBORDINATE RULES
従属ルール
1. 歌を、まず大まかに覚えよ。
歌い手は、はじめのうちは、効果(effects)のことで思い悩む必要はない。覚えていくうちに、それらはもちろん、次から次へと彼の心に飛び込んでくるであろう。それらはたいてい音楽的な効果であり、直観的なものである。そして、もしそれらが真(まこと)にたしかなものであれば、忘れられることはない ―― しかるべきときに、また立ち現れてくるのだから。
2. それを暗譜せよ。
もし目が印刷された譜面の上にあるなら、効果にも、抑揚(リルト)にも、磁力(マグネティズム)にも、描出(illustration)にも、その他の何ものにも、割(さ)ける感覚は残っていないであろう。まず歌を大まかなまま暗譜し、しかるのちに、それに磨きをかけていけばよい。
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3. まずは音楽的に磨きをかける。
解釈というものは、いざその段階に至れば、すべてが歌詞の劇的な描出(dramatic illustration)なのだろう、と思い込んでいる初心者は、必ずや失望する運命にある。彼の施す効果の半分は ― いや、それ以上は ― 純粋に音楽的なものなのである。このことは、単にベル・カント系統の歌に当てはまるだけでなく、あらゆる歌に当てはまる。
歌い手は、暗譜した各フレーズを細かく取り上げ、それぞれが音楽的に ―― ルバート、クレッシェンド、ディミヌエンドといった点で ―― 何をなしうるかを見きわめよ。彼は、歌詞を音楽へと人為的に翻訳したものに、決して惑わされてはならない(「一貫性(Consistency)」p. 182を参照)。それはおそらく、作曲家が ― もし彼が自らの仕事を心得ているならば ― すでに最もよくやり遂げていることであり、そして、一貫したフレージング(consistent phrasing)のほうが、歌い手にとっても歌にとっても、些末な描出よりも重要なのである。
4. フレージングを歌詞に調和させよ。
ここからが、いよいよ面白くなるところである。偉大な歌においては、調和させるべき仕事など何もない。そこでは(音楽と歌詞は)、良きにつけ悪(あ)しきにつけ、永遠に一つに結ばれており、その結びつきを味わい眺めることこそ、音楽教育の主要な財産の一つなのである。歌い手が歌詞に調和させねばならないのは、彼自身のフレージングなのだ。
音楽は、その抑揚(lilt)のなかに、みずからの効果を内在させて担っている。歌い手にとって真の生が始まるのは、彼が、自らの音楽的な探究の成果を、自分自身の描出(illustration)の目的のために用い始めるときである。ここにこそ、個性(individuality)が入り込んでくる。
彼はいまや ― 物語を語り、絵を描き、雰囲気をほのめかし、人物を描き出し、劇を演じ、あるいは情景を呼び起こすことができる。音楽によって高められた詩(poetry)の言葉によって。だが、そのいずれもが、歌の(fundamental)リズムの枠の内側 ― すなわち標識(ポスト)と標識のあいだ ― になければならない。音楽的な楽句(フレーズ)がまず研究されねばならないのは、まさにそのためなのである。
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もし根底のリズム(fundamental rhythm)が、ある描出を音楽的に許容しないのであれば、いかなる声の手練手管をもってしても、それを本物らしさへとごまかし込むことはできない。歌い手には、意のままに使える手段が、たっぷりと備わっている ―― 声の色(tone-colour)、語句描出(word-illustration)、クレッシェンドとディミヌエンド、ルバート、休止(pauses)、クライマックスとアンチ・クライマックス、そしてその他あらゆる、劇を支える助けの数々が。 その偉大なゲームを、正々堂々と戦い、そして ―― 歌を、一つのまとまりとして歌いなさい。
歌とは、ささやかなものである。それはひとときのうちに終わってしまい、初めのしくじりを埋め合わせる暇(いとま)などない。どこであれ、いかなる目的のためであれ、歌をあまりに長く止めてしまえば、注意は歌から歌い手へと逸(そ)れていく ―― そうなったとき、歌は死ぬのである。規則3と規則4とが、彼のために、その技法の様式(あるいは複数の様式)と、クライマックスあるいはアンチ・クライマックスの箇所とを、ともに定めてくれるはずである。
5. 歌の伴奏を体に染み込ませ(absorb)よ。
これはメイン・ルールII (p. 92)の一部である。伴奏は、単にピアノに向かう者の仕事なのではない ―― それは歌い手の仕事でもあるのだ。もしその半分が欠け落ちてしまえば、歌を一つのまとまりとして歌うことなど、不可能になってしまう。あらゆる効果は、伴奏者と合意され、リハーサルされねばならない。そして、歌い手と伴奏者とが、互いに等しい持ち分をもって、ともに全体へと寄与せねばならないのである。
要約すれば ―
歌の雰囲気(Atmosphere) を見いだせ;
歌を一つのまとまりとして 歌え;
歌を、語るとおりに 歌え。
さて、これらの規則を、個々の実例に当てはめてみることにしよう。紙幅の都合により、その数は限られたものにならざるをえず、また著作権上の理由から、それらは ―1曲を例外として ― 古典から選ばれねばならない。そのうちの2曲は、模範プログラム(230ページ)に含まれているものである。「一から、すべてを学べ(Ex uno disce omnes)」。
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影法師(DER DOPPELGÄNGER) F. シューベルト
(この歌および以下の歌々においては、作曲家がいっさい責任を負わぬ多くの発想記号が、〔著者によって〕書き入れられている。これらは、あくまで方法を示すための手引きにすぎず、分析の結果を事後的に当てはめたものであって、著者個人の読み方を例示するために用いられたものである。学徒は、それらのいずれをも ― 自らの、歌を一つのまとまりとして捉えた構想に合致するのでない限り ― 決して自分のものとして採り入れてはならない。)これ以外のいかなる助言も、本書のまさにその信条 ― 個性こそが最大の要諦である、と説き続けてきたその信条 ― に背くことになるであろう。ただし、このこと(=真似をするなという戒め)は、語句描出(word-illustration)や、テンポ・プリモへの復帰には当てはまらない。それらは解釈一般に属する事柄であって、どの歌においても従われるべきものだからである。)
《影法師(Der Doppelgänger)》は、切り詰めること(economy)の勝利である。その長さは、わずか二ページばかりの音楽にすぎない。それは、簡素な和音に伴われた、いくつかの簡素なフレーズから成っている。にもかかわらず、そのわずかな小節のなかには、悲劇の劇的なクレッシェンド(dramatic crescendo of tragedy)がある ―― 音楽史上、いまだかつて肩を並べるもののなかったそれが。そして、それこそが、この歌を「世界最高の歌」とみなすにふさわしいものたらしめているのである。
では、われわれの規則を順に取り上げ、それを当てはめてみよう。
メインルール I. 曲を分類する。
歌を通読し、その情景を心に思い描く。
その男は、かつて恋人が住んでいた家の前に立っている。彼は、まるで催眠術にかけられたかのように、あの日々、夜ごと彼女の姿を見た、あの窓を見つめている。今宵、その窓は暗い。おそらく家は、もう空なのだろう ―― だが、誰に分かろうか。追憶の苦悶が、彼を万力のように締めつけて放さない。
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彼女はとうの昔に去ってしまった。だが、家はそこにある ―― 昔とそっくり同じままに。そして、そこには一人の男が立ち、それを見上げて凝視めている ―― 昔とそっくり同じように。苦悶のあまり、その手をよじり合わせながら ―― 昔とそっくり同じように。
月が現れる。彼は、その男の顔を目にする。彼は恐怖のあまり叫び声をあげる ―― その顔は、彼自身のものなのだ! 彼は打ちのめされ、そして苦い嘲りの言葉とともに、みずからの哀れな幻を呪う ―― 過ぎ去った日々、まさにこの同じ場所で、彼が味わったすべての苦しみを、その幻の姿でもって嘲り笑いに来た、その哀れな像を。そしてついに、追憶の ―― かつての幸福な時(tempo felice)と悲惨(miseria)*の ―― 重みのもとに、「昔日に(in alter Zeit)」という言葉のところで、彼の頭(こうべ)は両手のなかへと崩れ落ち、彼は、トランプで組んだ家のように、がらがらと崩れ落ちるのである。
【*】この対句は、ダンテ《神曲》地獄篇の名高い一節 ―― 「Nessun maggior dolore / che ricordarsi del tempo felice / ne la miseria(悲惨のなかで、幸福だった時を思い起こすことほど、大きな苦しみはない)」(地獄篇 第5歌、フランチェスカの言葉) ―― を踏まえたもの
ここでは、主要句(マスター・フレーズ)をわざわざ探すまでもない。
だが、それはこれである ――
In diesem Hause wohnte mein Schatz.
(この家に、わたしの恋人は住んでいた。)
そして
So manche Nacht in alter Zeit.
(逐語訳すれば ―― 昔日の、幾夜となく。)
これが、追憶(Reminisence)以外の、どこに属しえようか。しかもそれは、悲劇の雰囲気(atmosphere of tragedy)に、すみずみまで浸(ひた)されており、雰囲気的(Atmospheric)であることにおいても、ほとんど引けを取らない。追憶を歌う他の多くの歌と同じく、この歌は現在時制で書かれている ―― だが、それは劇的現在(dramatic present)であって、歴史的現在(historic present)ではない。すなわち ―― 歌い手が歌うそのさなかに、舞台にかけられ、演じられていく悲劇なのである。
彼にとって、なんという好機であろうか! 追憶と、雰囲気と、劇と ―― そのすべてが一つになって、わずか二ページの音楽のなかに凝縮されているのだ!
メイン・ルール II。 根底となるリズムを見いだせ。
《影法師(Doppelgänger)》のリズムは、目で見るものではなく、感じ取るものである。それを歌い手の感覚のうえに、物理的に刻みつける手立ては、どこにもない。簡素な和音は、垂直に置かれ、ただ一つの強拍(ダウン・ビート)を与えるのみである。だが、そのリズムは、一頭の虎のようなものなのだ。
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最初の二十四小節のあいだ、それ(=虎のようなリズム)は、身じろぎもせず、うずくまっている。「da steht auch ein Mensch(そこにもまた一人の男が立っている)」という言葉のところで、それは、忍びやかに前へと動き始める。二度 ―― 「vor Schmerzensgewalt(苦痛のあまり)」の言葉のところと、「meine eig’ne Gestalt(わたし自身の姿)」の言葉のところで ―― それは、いままさに躍りかからんとするかに見える。だが、終わり(=とどめ)が訪れるのは、「so manche Nacht(幾夜となく)」に至ってはじめてのことなのである。最初の、前へと滑り出す動きから、最後の跳躍(the final leap)に至るまで、リズムは、じわじわと、しかし容赦なく、前へ前へと押し進んでいく。歌い手も伴奏者も、そのリズムを、自らの存在そのもののうちへと、染み込ませきっていなければならない。
全体の劇的効果は、最初の二十四小節における、そのリズムの ―― 意識下(subconscious)の ―― 厳格さと、それに続く、クライマックスへ向けての、じわじわとした高まりとに、かかっている。試みに、「da steht auch ein Mensch」の言葉を、ほんのわずかでも速すぎる、あるいは遅すぎる速さで歌い出してみなさい。そうすれば ―― クライマックスのために取っておくべき速度の余力が、もはや残されていないか、さもなくば、歌を前へ進めようとする無理な努力が、肉体的なクライマックス(physical climax)を、あまりに早く招き寄せてしまっているか、そのいずれかになるであろう。
従属ルール(SUBORDINATE RULES)
(規則1と規則2は、どの歌にも等しく当てはまる。)
3. まず音楽的に磨け。
この歌における、純粋に音楽的なだけの効果は、実際上、皆無である。これは本質的に、解釈の歌(a song of interpretation)であって、その音楽的な効果は、美的な効果・劇的な効果と、あまりにも固く結ばれているために、それらと一体をなしているのである。この理由から、われわれはこの規則(ルール3)と、次の規則(ルール4)とを、まとめて取り上げることにしよう。
4. フレージングを歌詞に調和させよ。
最初の二十四小節のフレージングは、「静かな淵(ふち)(“quiet pools”)」に属している(p. 43を参照)。そこに、いかなるリズムの流れがあろうとも、それらはすべて、水面下にある。水面は、ガラスのように滑らかである。
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半ば意識を失ったような、その平坦な水準(the dead-level of semi-consciousness)が、これらの小節を支配していなければならない。それらの小節を通じて、男はひたすら一点を見つめて凝視めつづけている。ここには、ルバートの入り込む余地はない。ただ一度、第11小節において ―― 「mein(わたしの)」の語のうえに、ppで歌われる、ごく小さなテヌート、すなわち「押し(push)」が ―― 彼の心臓の、ひとつの鼓動を暗示する。そしてこれに続いて、第21小節で、「demselben(その同じ〔場所〕)」の語のうえに、いくらか長めの、同様の「押し」が置かれる。これは、第一の押しを音楽的に裏づけ(p. 74を参照)、同時に、現在と過去とを、心理的に結びつけるのである。だが、それを除けば ―― 出来事のきざしも、情動のしるしも、いっさいない。
「da steht auch ein Mensch(そこにもまた一人の男が立っている)」からは、音楽と劇とが、その男の顔を見たいという焦燥の感覚をもって、じわじわと前へ押し進んでいく ―― それと気づくことの恐怖を貫いて、「so manche Nacht(幾夜となく)」のクライマックスへと、クレッシェンドしていくのである。そしてそこで、堰き止められていた悲惨の水が、堤を粉々に打ち破り、そして記憶が ―― 「in alter Zeit(昔日に)」―― 溺れ果てて、その奔流のうえを、流れ下っていくのだ。
声の色と、技法の様式もまた、手に手を取って進む。最初の24小節は、(p. 148で)言及された、あの様式 ―― ベル・カントとディクションとの、かの特異な結合であり、「悲劇の麻痺(anaesthesia)のなかで、外界に対するいっさいの意識が、失われてしまったかに見える」、あの様式 ―― に属している。言葉は、半ば語られ、半ば歌われ、生けるとも死せるともつかぬ単調さをたたえている。「da steht auch ein Mensch(そこにもまた一人の男が立っている)」において、技法は、まったき純粋なディクション(diction pure and simple)へと転じる ―― 男が、意識へと目覚めたのだ。行動が始まる ―― これらの言葉は、息の下から、ほとんど押し殺した囁き声で、シーッと吐き出されるように歌われる。これはただちに ―― 「und ringt die Hände(そして、手をよじる)」で ―― 朗唱(declamation)へと転じ、その声の色は、激しい苦悶を表すものとなる。そして、ふたたび同じ過程が繰り返される ―― 「mir graust es(わたしは慄然とする)」から「Gestalt(姿)」へと、語法から朗唱へ。その声の色は、戦慄の身震いをもって始まり、叫びをもって終わる。それから、「du Doppelgänger(この影法師よ)」からは、凝縮された、痛みの憤怒が湧き起こる(朗唱、その声の色は、肉体的に凝縮したように響く)。そしてそれが、肉体的なクライマックス ―― 「so manche Nacht(幾夜となく)」―― へと導いていくのだ。そこで、すべての堰(せき)が、押し流されてしまうのである。
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ここで、歌い手は、(F♯)を、ffで ―― 音の美しさと両立しうるかぎりの、精いっぱいの大きさで ―― 歌わねばならない。そのために彼は、それ以前の二つのフォルテ、すなわち「Schmerzensgewalt(苦痛のあまり)」と「Gestalt(姿)」のうえの二つのフォルテを、それぞれ、やりすぎないように、特別な注意を払わねばならない。彼は、最後の「manche Nacht(幾夜となく)」のために、余力を残しておかねばならない。さもなければ、彼は、自らのクライマックスを、先取りしてしまうことになるであろう。
そのあとに、はっきりとした間、すなわちクンスト・パウゼ(Kunst-pause=表現上の休止)が来る。それから、あらゆるものが、まったく一変する ―― 技法は、まったき純粋なベル・カントへ。声の色は、純然たる哀感へ ―― 歌い手は、その役者(actor)の、孤独な姿を、いたわしく思わねばならない。そしてリズムは、事実上ほとんど自由に(ad libitum)。EからHへと下行するポルタメントをもって ―― これは、彼のこうべが、両手のなかへと沈み込んでいくさまを示すためのものである ―― そして、全体にわたるディミヌエンドとともに、空しさの感覚、無へと消えゆく感覚、消え入るような虚無への感覚をもって ―― 後奏の、その最後の音の、最後の一瞬に至るまで。
歌い手には、語句描出(word-illustration)の機会が、数多く与えられている。それらは、斜体(イタリック)によって示してある。
5. 歌を、一つのまとまりとして歌え。
もし歌い手が、休符の間も心のなかで歌い続けるべきときがあるとすれば、それは、まさにここである。あの冒頭の「宿命づけられた」和音が奏でられる、そのはるか前から、彼は身構えて、あの窓を見つめていなければならない。そして、歌の始まりからクライマックスに至るまで、歌われるすべての音、奏でられるすべての和音を通じて、彼はひたすら凝視めつづけていなければならない。
《影法師》は、歌い手と伴奏者とが、その読み(reading=解釈)を、二人ともそらんじてしまうまで、リハーサルされねばならない。伴奏者は、なかんずく、冒頭の和音が、清冽(せいれつ)に奏でられるよう、心を配らねばならない。ほんのわずかでも和音を割って弾く気配があれば、それだけで、あの隠れたリズムは損なわれてしまう。それらの和音は、竪琴の音色ではなく、深く響く鐘の音色をもって、「宿命づけられた」響きを立てなければならない。伴奏者もまた、自らのクレッシェンドとフォルテを、クライマックスのための余力を残せるよう、加減しなければならない。
この歌は、事実上、全篇がレチタティーヴォ(叙唱)である。
2026/07/20 訳:山本隆則
