【ガルシア家】
父;Manuel Popolo Vicente Rodroguez Garcia , 母;Maria Joaquin Sitches 妹; Maria Malibran, 末の妹;Pauline Viardot-Garcia
【ガルシア年表】
1775 父マヌエル・ガルシア,Manuel del Popolo Vicente Rodriguez Garcia(1775-1832)誕生。
1780 母マリーア・ホアキーナ、 Maria Joaquin Sitches (1780-1854) 歌手、ダンサー誕生。
1805 誕生 Manuel Patricio Rodriguez Garcia、1805年5月17日、よく言われるようにマドリッドではなく、カタローニアのZafraに生まれる。
1808 妹、マリア・マリブラン Maria Felicite Garcia(1808-1835 メッゾ・ソプラノ) 誕生
1808 パリ
1814ー1816 ナポリ
1815 ガルシア10歳、70歳近いGiovanni Ansani(Niccolo Porporaの弟子)からレッスンを受けイタリアの歌唱法の古くからの伝統を受け継ぐことが出来た。実質的なレッスンは、父から20歳になるまで続けられた。
1816 ー1825 パリ、ロンドン
1816 父ガルシアは、ナポリを離れ、家族と共にパリに引っ越す。
1823 末妹 ポーリーヌ Michelle Ferdinande Pauline (1821-1910, メッゾ・ソプラノ) 誕生
1824 1月、一家で英国に再び戻る。
1825 ガルシア一家はニューヨークとメキシコシティーに、イタリアオペラとして最初の公演を行う。
1829 思春期の声変わりの時期に歌ったことや、若すぎる時期に大役を歌うことで、声に損傷。26歳で舞台活動をやめ、軍の病院で働く。
1835 パリ・コンセルヴァトワールで歌唱の教授に任命される。
1840 パリの科学アカデミーに Memoire sur la voix humain 「人の声の記録」を提出。Traite 「論文」出版。(Garcia 1984 はこれの再版か?)
ガルシア息子は1840年代に父の指導書を出版しており(イギリスでは1857年に短縮版が印刷されている)、彼の指導書からは19世紀初頭にロッシーニの歌手の一人が行っていた歌唱スタイルをほぼ正確に知ることができます。[Robert Toft: BEL CANTO p.17]
1841 Ecole de Garcia: Traite complet de l’art du chant 「ガルシア楽派:歌唱芸術の全論文」出版。The Memoire は、前半部分に収録された。
1847 第2部を加えて再版。
1848 パリにこの年までとどまるが、政治的な混乱を避けて裕福な保護者に従いイギリスへ行く。
1854 9月のある日、パリを訪れたとき、パレ・ロワイアルで喉頭鏡のアイデアを思いつく。ガルシアは、喉頭鏡の創案者ではなく、始めて autolaryngoscopy (自動喉頭鏡)を使った人とされる。
1855 「王立協会会報」(第VII巻)に「人の声の生理学的な観察」”Physiological Observations on the Human Voice” を提出。5月に出版。
1895 まで、Royal Academy of Musicで教えた。
1906 101歳で死ぬまで、個人的なレッスンを続けた。
(自伝的資料は、Mackinlay 1908; Paschke 1986-7; garcia 1984, ii-xi; Mackenzie 1890, 128; Timberlake 1989-90 )
彼の姉妹、Maria MalibranとPouline Viardot を含め、Jenny Lind , Mathilde Marchesi, Henriette Nissen, Sir. Charles Santley, Antoinette Sterling, Julius Stockhausen, Johanna Wagner(Richard Wagnerの姪), etc.
私は、皆さんが自分の歌を私のように厳しく批評できるように、知性を目覚めさせることを心がけています。自分の声を聴きながら、頭を使ってほしい。
困難を感じても、それを避けてはならない。必ずマスターすると心に決めてください。多くの歌手が難しいと感じたことをあきらめてしまう。彼らはそれを捨てて、もっと簡単にできる他のことに目を向けたほうがいいと考える。彼らのようなことはしないでください。
ある人が外で私に会い、『ハムステッド・ヒースへの道を教えてくれませんか』と言ったとします。私は『あなたと一緒に歩いて行きましょう』と答えます。私たちは出発し、私は彼のそばについて、『ここは通らなければならない道だ。あそこを曲がってはいけない。それは間違った方向へ行く。私の指示に従えば、必ず目的地に着きます。私はこの道をよく知っています』。
もし彼が道を間違えたとしても、それは彼の責任であって、私の責任ではありません。スラム街に行くのを阻止することはできません。私ができるのは、『あそこに行ってはいけない、それは間違っている』と言うことだけです。彼は私のアドバイスに従うか、従わないか、本人の意思に従うしかない。
また、とても急な坂に差し掛かったとき、彼が「私には登れない。難しすぎる。疲れるからやめよう」と言ったとしたら、「ヒースに行きたいなら、登らなければならない。目的地に行くには、それ以外に方法はないのだから」と答えるしかない。しかし、もし彼が怠け者で、自分の努力で登ろうとしないのであれば、私は彼を持ち上げて肩に担ぐことはできない。