Adelina Pattiは、19世紀の最後の40年の間、誰もが認める歌の女王であった。
例えば、Verdiが3人のお気に入りのプリマドンナの名前を挙げるよう求められたとき、彼は答えた。『第1はAdelina;第2はAderina、第3はAdelina。』
Verdiは、彼女を『生まれついての芸術家、あまりにも完璧でおそらく彼女に匹敵する者は決していない』と言った。
腹立たしいほど、彼女はテクニックについてほとんど何も話さなかった、時折付け加えて、
Je n’en sais rien「わたしはそれについて何も知りません」
しかしながら、このコメントに時として加えた唯一のものは、
「しかし、可能な限りわたしは少量の息しか使わないようにしています。」
次の話しは、何冊かの本で紹介された有名なものです:
有名なAdelina Pattiは、パリで世界に名高い歌手であり教師のスタジオを訪問して、彼の弟子の何人かを聞いた。横隔膜の使用に関して教授によって警告された学生の1人が歌を終えたあと、Pattiは教師に向って、まったく素直に尋ねた、
『さて、その横隔膜って何ですか?私の生涯で聞いたことがありません。』
この話は、18世紀後半の科学万能の風潮が発声の教授法にも蔓延して、横隔膜信仰がはやったことに対する批判として引用される場合が多いようだ。
パッティは、マドリッドで生まれ、まもなくアメリカに渡った。7歳の時すでにニューヨークでの慈善コンサートに出演した。この時ピアノ伴奏をしたのが、後にすばらしい教師となるシュトラコシュである。
1859年にニューヨークで『ルチア』を歌ってデビュー。その後ロンドンでは18歳のプリマドンナとしてセンセーショナルなデビューを飾り、続いてヨーロッパの主要な歌劇場で次々に成功を収めた。
オペラのレパートリーは30曲あまりと少なく、自分の声に合わないものは決して歌わなかった。晩年には財を成し、イギリスの南ウエールズ地方に住み、個人で歌劇場を所有するほどになった。