ジョン・ロッセッリ
2001年1月16日にケンブリッジで死去したジョン(ジョヴァンニ)・ロセッリによって、英伊学術界は、社会経済史から政治ジャーナリズム、音楽学に至るまで幅広い専門知識を持つ、最高の著者を失った。

1927年、反ファシストとして有名なカルロ・ロッセッリとそのイギリス人妻の息子として生まれたロッセッリは、まずフランスで育ち、1940年のドイツ侵攻後にイギリスへ、そしてアメリカへと渡り、フィラデルフィア近郊のスワースモア大学で人文学を主席で卒業した。戦争が終わり、彼はイギリスに住むことを決めた。英国陸軍でトリエステ港の交通を監視する軍曹として勤務した後、ケンブリッジのピーターハウスでPhD(哲学博士号)の取得に励み、論文「ウィリアム・ベンティンク卿と1811~1814年の英国によるシチリア占領」でサーウェル賞を受賞した。

1951年、リベラル政治の分野で英国を代表する新聞『マンチェスター・ガーディアン』(現在の『ガーディアン』)のスタッフとなる。ここでリーダー・ライターから特集編集者へと昇進し、オペラの批評家としても活躍した。1964年に辞職し、サセックス大学の歴史学講師としてアカデミックなキャリアをスタートさせたが、その間に博士論文を長編伝記『Lord William Bentinck: the Making of a Liberal Imperialist, 1774-1839』(1974年)に発展させ、シチリアからベンガル総督としてのベンティンクの活躍に至るまで、質の高い独創的な著作を積み上げた。このことがロセッリをベンガルそのものへの関心へと導き、ベンガル語の流暢な話しことばと書きことばを身につけた。

最後にロセッリは音楽学に目を向け、著書『チマローザからヴェルディまでのイタリアのオペラ産業:インプレザリオの役割』(1984年)、『19世紀イタリアの音楽と音楽家』(1991年)、『イタリアオペラの歌手:ある職業の歴史(Singerrs of Italian Opera)』(1992年)によって、これまで顧みられることのなかった分野を切り開いた。これらに加えて、『ニュー・グローヴ音楽・音楽家辞典』(1980年)への寄稿や、1987年に刊行された『イタリア・オペラの歴史』(EdT, Torino)への貴重な貢献がある。これらすべての研究に、彼は訓練された歴史家の規律をもたらし、その結果、彼の見解は常にバランスが取れており、傾向性がない。最後に、ケンブリッジ大学出版局の音楽人生シリーズに3冊の伝記が加わった: ベッリーニ(1996年)、モーツァルト(1998年)、ヴェルディ(2000年)である。ベッリーニ(1996年)、モーツァルト(1998年)、ヴェルディ(2000年)である。長さは控えめだが、それぞれが学識と洞察の宝庫であり、対象について新たな視点を提供している。その最初のものは、作曲家の最後の数ヶ月に関する新鮮な発見を含んでいる。

1989年に妻が亡くなった後、ロセッリはまずケンブリッジに、次にシエナ近郊の村に、そして最終的にはフィレンツェに移り住んだ。彼はジャコモ・プッチーニ研究センターの科学委員会への招待を快く受け入れてくれた。悲しいことに、彼は最後の病気で、その後の会合に出席することができなかった。
深い道徳心と知的強さを備えたリベラルな人物で、ある同僚は「心の貴族」と言ったが、彼はその膨大な学識を軽々しく身にまとっていた。彼の文章は明快で要点をついており、ユーモアに富んでいる。献身的な家庭人であった彼は、勉強になり、楽しい仲間でもあった。イタリア・オペラの分野における彼の研究は、常に基本的なものであり続けるだろう。

ジュリアン・バッデン
『プッチーニ研究』2000年2号より抜粋