声楽における〈デックング〉という概念を、昔のイタリア人は知らなかった。それを知っていても、彼らはきっとそれを拒否したことだろう。このあまり美しくない言葉は、とりわけ男性において、高音域(特に高い換声点)の母音を暗く色づけることを指している。デックングを行う意図は、高音部に昇ってゆくとき、喉頭が上に上がるのを阻止することである。この意図は正しい。このことによって、かの有名な狭窄化と喉の締め付けを避けようとするわけである。自然主義的な歌唱で出現するこの喉の狭窄化は、その音響効果としては、不快な共鳴欠如と平板化をもたらす。これは若いテノールが高音部を出そうと努力するときに、とりわけ明らかである。
談話で暗母音を発するとき、自然な状態では喉頭は沈下する。そこで、高音部に対しては母音を人工的に暗色化する操作を加えることは、一応は論理的であるように思われる。事実、喉頭は下がる。しかし実際には、デックングとは声の開発を待つことができない性急さであり、まだ自然に成長していない状態を、人為的に呼び出そうとすることである ― つまり贋の商標を貼り付けることである。母音を人為的に暗くすることは、語音の前方部発音を極度に損なう。それは声の響きの丸みと安定性の一種の代用品を意味する。声の響きの丸みと安定性は、発声器官の内部的形態が与える自由な成果であり、この内部形態はある発展過程を通じて初めて獲得される。一定に止まっている内部的な広がり、内部空間の柔軟な張り、喉頭の安定したバランス ― これらのものが本物の声楽芸術家を特徴づけるのであるが、それらはまず練習によって習得されねばならない。成熟し、丸く、自由な響きが生まれるのは、歌手があらゆる母音において、ごくゆっくりと〈開いた喉〉を獲得し、あらゆる音域において〈声唇辺縁機能〉の共振が確保されたときである。そのときこそ、男性は高音部でも、まさに明るい母音も閉じた母音も、ごまかしなしに、狭さもなしに発声することを学んだことになる。
自然な道は自由へと通じている。外から貼り付ける道は不自然であり、強制であり ― 危険である。〈デックング〉はまさにドイツ的悪習となってしまった。高音部の母音を、あからさまに過度に暗色化しているドイツのバスやバリトン達は、そのことによって、高音部に於ける自由を、想像もできないようなしかたで阻害しているのである。
(マルティーンセン=ローマン著 歌唱芸術のすべて p.76)