[Singing: Edited by John Potter, 6 p.63]
6 Stage and screen entertainers in the twentieth century
20世紀におけるステージとスクリーン上のエンターテイナー
by Stephan Banfield
その分野および証拠
20世紀の歌うエンターテイナーたちの演奏実践は、その時代の大衆文化における重要な要素であり、それは分析と解釈を強く求めている。他の歌の種類とどのように分類されるべきでしょうか、そして、なぜ、どのようにして、これほどまでに大きな変化を遂げたのでしょうか?このテーマに関する文献はほとんど存在しません。プレザンツ(Pleasants)(1)は、現代のポピュラー歌唱の台頭を特定の視点、つまりクラシック歌唱との対立という観点から論じています。一方、オズボーン(Osborne)は、ブロードウェイにおける『ベルト唱法』について、同じ視点から継続的な批評を行っていますが、プレザンツとは異なり、肯定的ではなく否定的な意図を持っています。
1. ヘンリー・プレザンツ(Henry Pleasants):アメリカの音楽評論家、作家。
関連著作:最も有名なのは『The Great Singers: From the Dawn of Opera to Our Own Time』(1966年)。オペラの歌唱から現代のポピュラー歌唱に至るまでの歌唱史を探る書籍です。彼の著作の中で、クラシック歌唱とポピュラー歌唱の違いを深く掘り下げ、特にポピュラー歌唱の親密さや感情表現を高く評価しています。
本件での立場:プレザンツは、クラシック歌唱とは異なるモダンなポピュラー歌唱の価値を肯定的に捉え、その文化的意義や美的価値を論じた人物です。
2.チャールズ・オズボーン(Charles Osborne):イギリスの音楽評論家、小説家、詩人。
関連著作:主にオペラやクラシック音楽に関する著作を執筆。『The Complete Operas of Verdi』や『The Complete Operas of Mozart』などの解説書が有名です。また、演劇やミュージカルにも関心を持ち、ブロードウェイの作品についても批評を行っています。
本件での立場:オズボーンは、ブロードウェイで使用される「ベルト唱法」に批判的な視点を持っています。「ベルト唱法」は、大音量で感情を力強く表現するスタイルですが、彼はそれをクラシック歌唱と比較して否定的に評価しました。
しかし、どちらの著者も、一次資料や二次資料に基づく包括的な証拠を用いて、より中立的な歴史的調査を展開する機会を持っていません。言い換えれば、それはロバート・フィリップ(Robert Philip)が20世紀前半のクラシック管弦楽音楽に対して先駆的に用いた『古楽(early music)【ここでは文字通りの古楽(中世・ルネサンス・バロック音楽)を指しているわけではなく、20世紀前半のクラシック音楽を「歴史的な手法」で研究するというアプローチを指しています。 特にロバート・フィリップ*が提唱したような、歴史的資料や録音を基に演奏実践を再構築する方法論を指していると考えられます。】』の手法に相当するものです。
*ロバート・フィリップ(Robert Philip): フィリップはクラシック音楽の演奏史、特に録音技術が音楽解釈や演奏に与えた影響について分析した学者として知られています。彼の手法は、歴史的録音や資料を元に過去の音楽実践を学術的に研究するというものです。
演奏実践、その特性および変化に関する証拠を構成するのは、3種類の資料です。まず最も重要なのは録音です。次に映画(およびテレビやビデオ映像)です。映画の音楽的要素はサウンドトラックとして切り離すことができますが、視覚的要素も歌手のパフォーマンスの分析には重要です(ただし、これは本章の対象外です)。3つ目の証拠は、書面および口述による文書です。すなわち、書簡、制作ファイルおよびプロンプトブック、出版および未出版の回顧録やその他の単行本、インタビュー、新聞評論、歌の原稿およびダンスの台本などです。
この章の末尾のディスコグラフィーでは、現在のCDアンソロジーの束のような形で、歴史的な録音のサンプルが選ばれています。それには 限界もあります。トップスターであるシナトラやマドンナのCDは収録されていませんが、これは契約上の理由によるものでしょう。また、ハリウッドや最近の音楽シーンについてはやや物足りなく、1920年までのニューヨークのミュージカルシーンのすべての既知の録音が収録されているなど、初期の音楽に偏っている感もあります。それでも、録音された時期が早いほど、その時代だけでなく、失われた過去の再構築という観点において、より価値がある可能性があるのです。
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これらの初期のミュージカル舞台録音の多くは、ブロードウェイのアーティストによってロンドンで制作されたものであり、アメリカで初めてのオリジナルキャスト録音は、一般的に『オクラホマ!』(1943年)とされています。そのため、1927年のニューヨークではなく、1928年のロンドンで『ショウ・ボート』のオリジナルの音がどのようなものだったかを示す資料が残されています。[OCR/SB/1-9またはDL/5-7]これは証拠の限界を示す一例に過ぎません。もう一つの例は、ステージで演奏された時に聞こえる歌と、レコーディングスタジオで録音された歌の音が異なる可能性です。1925年頃に電気録音が登場する前は、この相違は深刻でした。一般的に、初期のスタジオ(初期のミュージカル映画でも)では、劇場のオーケストレーションの音は、ゼーゼーいう騒々しい管楽器のバンド(例えば、ベースラインにチューバを使用)に縮小されていました。歌手と伴奏のバランス、テキストの発音、動きの多分野にわたる要素、曲のテンポとエネルギー:これらのいずれも、確かな結論を導くことはできません。もちろん、映画やテレビでの歌唱には同じことは当てはまりません。音響的に言えば、サウンドトラックがパフォーマンスとなるからでしょう。ダンスホールやホールからのラジオの生中継は、この2つの間にあるといえるでしょう(ミキシング、バランス、視覚的な存在感が関係してきます)。
最初の変化
20世紀の間に英語による舞台やスクリーン上のエンターテイナーの歌い方がどのように変化したのかを単純なモデルで説明しようとするなら、2つの伝統または考え方が対立し、特定の理由により、特定の時期に一方が他方に道を譲り、時が経つにつれて具体的な方法で変化していくという答えになるでしょう。しかし、具体的に何が何と対立しているのか、最終的に敗れる側の特徴を明確にするのは容易ではありません。ただし、オズボーンにとっては、それは技術的に純粋で安定し、訓練された『統合的』な歌声の使用が、ブロードウェイのベルト唱法に取って代わられることなのです。彼は議論の中心を女性のショー・ボイスに置き、その変化を1940年代に位置付けており、それは、エセル・マーマンが『アニーよ銃をとれ』(1946年)で演じたアニー・オークリー役と、セレステ・ホルムが『オクラホマ!』(1943年)で演じたアド・アニー役(再び登場)に関連しています。
プレザンスは、この変化をクラシックからポピュラーな歌唱への移行と見なしており、後者(ポピュラーな歌唱)は、オペラの本来の表現目的により近く、19世紀にクラシック歌唱がテキスト(歌詞)から遠ざかりすぎたのに対して、テキストの優位性へと回帰していると捉えています。彼は、ポピュラー歌唱は、19世紀の歌やダンスにおいて既にパロディとして存在していたアフリカ系アメリカ人のモデルによって推進されたと主張しています。その後、このモデルは(ブラックフェイスとしてではなく【白人が黒人の顔を真似た化粧】)そのままの価値として受け入れられ、1920年代初頭以降、成功した黒人ミュージカル劇(『シャッフル・アロング』(1921年))、ラジオの発明、そして『レース・レコード』*の台頭によって、アメリカのエンターテインメント産業を急速に支配するようになりました。
*『レース・レコード』:アフリカ系アメリカ人のアーティストが録音したレコードを指します。当時、これらのレコードは黒人コミュニティを主なターゲットにしていましたが、次第に白人層にも影響を与えました。 ジャズ、ブルース、ゴスペルなどのジャンルを通じて、ポピュラー音楽の基盤を形成しました。
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どちらの理論も、エリートの声を日常語や民衆の声に置き換えるという点では共通していますが、両者を調和させるためには、単に(文化的に)「高尚」な音楽と「低俗」な音楽という区別だけでなく、演技的な話し言葉のリアリティと、歌の持つ歌手の魅惑的な声の区別という、より深い層での区別が必要となります。この最後の区別は、ミュージカルシアターの初期の録音でも明らかであるという事実から、1890年よりずっと以前から、ミュージカルの舞台には、魅力、職業、技術という二極化した分野が存在していたことが示唆されます。NYS【ニューヨーク・ステージ】の録音の大半は、1890年から1920年の間、コメディアンと歌手という2種類のミュージカルエンターテイナーのいずれかに分類されていることを示しています。その後、この2つ(コメディアンと歌手)の間の調和は、パロディを機知、愛情、そしてブルジョワ的な風刺喜劇のレトリックや感情で置き換え、またはそれを支える試みとして行われてきました。おそらく、オペラがロッシーニ以降、このような要素への支配力を失ったためでしょう。プレザンツもオズボーンも、ポップやロックの要素を持つ現代的なショーボイスへのミュージカル劇のさらなる変化には触れていませんが、この20世紀後半の第2の変化は、コメディや感傷といったブルジョワの分野から離れ、メロドラマ、生々しいパロディ、バーレスクの領域へ、さらにはアジプロ(アジテーション・プロパガンダ)の混入とともに再突入しようとする逆方向の動きによるものだと考えられるかもしれません。
女性のベルトとその先駆者達
オズボーンの『ベルト唱法』の理論は、有用な出発点として考えられます。彼は、ホルムの『オクラホマ!』のオーディションにまつわるエピソードについて次のように書いています―
彼女はシューベルトの『音楽に寄す』を歌い… [リチャード・ロジャースが] ホルムの訓練された声を聞いてどれほど興奮したか、そして彼が彼女に『まったく訓練されていない声で、子どもみたいに』何かを歌えるか尋ねたこと。ホルムが『ホッグ・コール(豚を呼ぶ声)ならできます』と答え、それを実際にやってみせたこと…そしてロジャースがそれを素晴らしいと思い、即座に彼女をエイド・アニー役に配役したこと(ただしリハーサル期間中ずっと『もっと大きな声で!』と注意され続けたが)。(5, Osborn, ‘The Broadway Voice’, p.61.)
彼は『I Cain’t Say No』から生まれた「非常にシンプルな」音を分析しています [OCR/O/5]:
この声には聞き取れるビブラートがなく、曲の限られた音域内で質感が変わることもない。低音域では弱く、高音域では大きくなるが、それは歌手がその音量の変化を自分で選んだ印象を与えるものではない。高音域のフレーズの頂点は『高い』と感じられるものの、それは中音Cの上のBやC程度にすぎず、男性の声にとっては高いが、発達した女性の声にとっては音域のごく中央に位置している。我々はこの歌唱法がキャラクターの方言における開放母音や狭い二重母音を保ちながら、E [e1] や F [f1] あたりの音域で『教養のある』歌手が行う丸みを帯びた発声を取り入れていないことに注目する。そして、薄くはあるが明確なチェストボイスの協調が、全音域にわたって(高音で予想される「断裂」の印象を伴いながら)引き伸ばされていることを観察する。この音域は快適なテノールとコントラルトのテッシトゥーラ(音域)にまたがるが、どちらかと言えば前者に近い。
これこそがベルト唱法の特性である。それは、通常『狭い』とされる女性の胸声区を上方へ拡張しようとする試みである。この方法によって、通常よりも5度から6度上の音域を取り入れることが可能になるが、その際には、強い強度と浅い調整を保ちながらコーディネーションを駆動させる必要がある… ベルト唱法が安定すると、鋭く推進力のある音が生まれる。ポジションを保持するために必要な緊張感のため、リラックスに関連する声の特質(ビブラートや、低い強度で歌う能力)、および、統合された頭声区に関連する特質(トーンの甘さ、フレージングの柔軟性、音の動きのしなやかさ)は排除される。静かなベルトや、美しいベルトなどというものは存在しない。(6. Osborne,’The Broadway Voice’, p. 61.)
オズボーンはレジスターに関する主張を大げさに言い過ぎています、なぜならホルムの基本的な音域は「I cain’t say no」ではc1からc2で、クライマックスでは半音階的にc#2とd2まで上昇し、ロジャースとハーマンの巧みな、しかし緊張感のある構成が施されています(2番目のリフレインのその時点での歌詞は「私の中の何かが折れる(something inside of me snaps)」です)。しかし、ベルト唱法がどれほど「高く聞こえる」か、そして実際にはそれほど高くないかという点について、オズボーンの主張は正しいと言えます。
それよりやや早い時期に、ジュディ・ガーランドが映画におけるベルト唱法を切り開きました。それは、親密さという点で男性のクルーンにより近い(なぜなら、劇場のパフォーマーたちがまだマイクなしで歌っていたのに対し、彼女はマイクに頼ることができたからです)。さらに、ビブラートを避けることは決してなく、それどころか、彼女のビブラートはそれ以前のほぼすべて、あるいはすべての録音された女性エンターテイナーのものよりも、より幅広く、ゆったりとしており、連続的で官能的です。しかし、a1の音程でも、それは依然として大胆でクライマックス的な響きを持っています。彼女は1936年の「テキサス・トルネード」ではb1まで歌っていますが[SSR/II/9]、1944年の「トロリー・ソング」[SSR/II/16]では、ロジャー・デンズの編曲で完璧にカバーされた音域はg#-a1です。
マーマンに関しては、彼女の「トップ」C(すなわちc2)のベルティングは、1959年の『Some people』(SSR/III/14)で有名になりましたが、1930年にはすでに有名で、『Girl Crazy』の「I got rhythm」の2番目のリフレインで6小節間継続して使用されるドミナント・ペダル*として演奏されていました(1947年にAMT/I/18で録音)。
*ドミナントペダルとは、音楽理論で「ドミナント(主にソ)」の音を持続的に鳴らし、ハーモニーに緊張感を与える技法。
この曲を4度高い変ロ長調で出版したことは、ガーシュウィンがこの曲をソプラノまたはメゾソプラノの歌唱を想定して書いたことを示しているのかもしれません。1930年代のブロードウェイの官能的な場面では、このような歌い方が一般的でした(1928年のヘレン・モーガンの「Can’t help lovin’ dat man」の録音 [SSR/I/16, AMR/I/14]を比較すると、 1928年のヘレン・モーガンのレコーディング[SSR/I/16, AMR/I/14]では、g2まで難なく高まり、しかし、低音のc♭1では失敗しています。1994年のロネット・マッキーのレコーディン[SSR/IV/18]では、5度も低い音程になっています)。マーマンの伝説的な声量は、c2 を超えると急激に弱まる傾向があり、これはバーナデット・ピーターズが b1 を超える音域で見せる特徴に似ている。アーヴィング・バーリンは、この声域の制約と劇的な状況を巧みに融合させ、『There’s No Business Like Show Business』の第3リフレインにおけるソロの d2 音について、マーマンを考慮外としました(この曲は [AMT/II/20] に1966年のリバイバル版で収録されている)。これには10音の音階がd2の音まで上昇する箇所も含まれています。彼女の金管楽器のような明るく響く声質は、1930年当時としても前例のないものではなかった。また、彼女が多用しているビブラートを差し引けば、少なくともその前の10年間にわたり、同様に前に出た音質を持つ白人歌手たちの歌声を聴くことができます。ただし、それはダンカン・シスターズやボズウェル・シスターズのような女性のクローズ・ハーモニーグループの文脈であることが多く、前者は南部風の振る舞いや発声を模倣しており、後者は真に南部出身でなのです。
*ダンカン・シスターズ (The Duncan Sisters): 南部訛りや振る舞いを取り入れたパフォーマンスが特徴。 南部らしさを演出するための意図的なスタイルで、リアルではなく擬似的な「南部風」とされている。 ボズウェル・シスターズ (The Boswell Sisters): 実際にアメリカ南部出身で、その地域の影響を自然に取り入れた。 そのため、演技的要素よりも、本物の南部文化に根ざした声質やスタイルを持つ。 女性クローズ・ハーモニーグループ 「クローズ・ハーモニー」とは、メンバー間で声部が密接に絡み合う編成のこと。 ダンカン・シスターズやボズウェル・シスターズは、こうしたスタイルの先駆者であり、20世紀初頭のポピュラー音楽に大きな影響を与えた。
このベルトをアメリカ南部の疑似的なものまでさかのぼって辿ると、歌声におけるアメリカ訛りの本来の姿が明らかになるかもしれません。そのため、それは地域的なパロディとして、方言のパフォーマンスの慣習(芸術音楽のパフォーマンスではまだ受け入れられていません)に組み込まれたと考えられます。しかし、それは単に地域性の模倣(regional parody)にとどまらず、しばしばブラックフェイス(黒塗りメイク)が用いられていました。つまり、ベルト唱法(belt)は、クーンソング*(黒人を風刺した楽曲)を歌う白人女性のヴォードヴィルスター、いわゆるクーンシャウター(例:メイ・アーウィン)から発祥したと言えます。
*クーンソング(coon song): 黒人を揶揄・風刺する内容の楽曲ジャンル。 アメリカのポピュラー音楽史において、特に1890年代から1900年代にかけて流行。 リズムや歌い方が力強く、劇的なパフォーマンスが特徴。
クーンシャウターとベルト唱法の発展 クーンシャウター(coon shouter): クーンソングを力強くシャウト(叫ぶように)するスタイルで歌う女性歌手を指す。 主に白人女性ヴォードヴィルスターが担い、メイ・アーウィン(May Irwin)がその代表的な人物とされる。
この歴史的な瞬間の証が、見事に保存されています。1910年に録音されたステラ・メイヒューの圧巻のパフォーマンス「Fifty-seven ways to catch a man」(男を捕まえる57の方法)[NYS/I/iii/3]です。彼女のアドバイスは、語りかけるような節形式(parlando strophic frame)で表現され、力強く発音され、非常に明瞭な言葉遣いで、それでも大部分は英語化されています(硬い「t」を使用)が、完全に英語化されているわけではありません。なぜなら、彼女のplagal(7)ヘ長調の音域(c12-c2)は、低いドミナントでは粗いコントラルトの質であるが、より話し言葉の修辞では甲高い音に変わります、長いa1で「plan」や「man」の南部の二重母音の発音を優先しているからです。
(7)「Plagal」は、ドミナントからドミナント(ソ-ソ)の基本的な旋律の範囲を、「Authentic」はトニックからトニック(ド-ド)のものを表します。
これらの南部の雰囲気を醸し出すベルト唱法の瞬間は、彼女が歌の中で披露する二つの卓越した民族的カメオ出演(エスニックカメオ)のうち、最初のものを予感させます。このエピソードでは、完全に語りのみで構成されていにもかかわらず、怠惰なダンディ(気取り屋)を捉える南部黒人女性(南部黒人ママ)の姿勢と声の特徴がしっかりと描かれています。おそらく、ここではミンストレルショーのユーモアが女性に転用されているのでしょうが、そのパフォーマンススタイルを男性だけのミストレルショーの記録されていない奥地に遡って投影しようとする試みは危険でしょう。
男性のコメディアン
女性コメディアンたちが歌う必要がある、あるいは歌いたいと思ったときに歌う方法を見つけたとすれば、男性コメディアンたちはその試みをできるだけ回避し、代わりにダンディな魅力や、ちぐはぐな奇抜さ、あるいはその両方の要素に重点を置きました。
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多用することを意味しました。音を平坦にし、ソステヌート(sostenuto)は用いず、ビブラートもほとんど使わないというアプローチは、ダンディは女性的である必要はないということを示すためのものであり、フレッド・アステア(Fred Astair)の1930年代と1940年代の映画では、その傾向が顕著に見られましたが、 20世紀半ばの『ヒギンズ教授』や『アーサー王』のバリトン、つまり『私は彼女の顔に慣れてしまった(I’ve grown accustomed to her face)』[UB/I/11, 1956]のレックス・ハリソンソンや『キャメロット』[UB/I/19, 1960]のリチャード・バートンにまで見られる傾向です。ハリソンの演奏はほぼすべてが語りであり、バートンの演奏は驚くほど歌い込まれていますが、それでもパルランドを基調としており、音符に合わせて歌っているわけではありません。どちらも歌手のような呼吸コントロールは持っておらず、代わりに、ルバートや、一度に数音節の抑揚のために、より柔軟な言葉のレトリックを駆使しています。
デイヴィッド・ヴァン・リア(David Van Leer)は、ハリソンとバートンが『ブック・ミュージカル*』に出演したのは、1950年代のロック革命によってポップ音楽とドラマティックなエンターテインメントが分岐した結果であると正しく指摘しています。ミュージカルはもはや、現在の人気歌手を大々的に取り入れることができなくなり、代わりに、説得力のあるよく作られたブック役に、ストレートな俳優や映画スターを起用して収益を上げる必要がありました。
*ブック・ミュージカル: 音楽だけでなく、物語やキャラクターのドラマ性に重点を置いた形式。 「ストレートな俳優」が主役を務められる説得力ある脚本が必要とされた。
しかし、彼の歴史的推論は男性だけでなく女性にも適用されていまする――『アーサー王(『キャメロット』)やサリー・ボウルズ(『キャバレー』、1966年)は、実用的な声だけで」 「十分」とされるように。一方、1920年代のブロードウェイの「スターコメディアン」に焦点を当てた研究でイーサン・モーデンが「当時、ミュージカルには歌う男性スターはいなかったが、例外として、チョウンシー・オルコットがいた」(9)と述べたことは、 男性の歌唱のエロティックな魅力は、いずれにせよ長い間文化的負担であり、特定の条件下でのみ大量消費の対象となったことを必然的に意味している。コミックとダンディズムは逆に、必ず存在し続けるだろう。
しかし、ジョージ・グロスミス・ジュニアやジョセフ・コインからノエル・カワード、さらには初期に姉のアデルとコンビを組んでいたアステアに続くまで、ほとんどすべての男性コメディアンは本物のソプラノ歌手とコンビを組んでいました。
その例として、コインの「I want to be happy」[AMI/I/11]とジャック・ハルバートの「Here in your arms」[OCR/LL/21, 1927]が挙げられます。前者はビニー・ヘイルと、後者はフィリス・バレムと共演しており、どちらもg2まで響く純粋で鋭く素早いビブラートの音色、訓練されたブレスコントロール、完璧な英語の発音、そして優れたイントネーションを誇っていました。
つまり、男性にとっての言葉によるロマンティックコメディの魅力は、女性にとっての、文字通りの歌唱という意味での魅力と相補的なものでした。
しかし、歌のエンターテインメントの歴史のこの時点でも、あるいはそれ以降のどの時点においても、性別の関係は簡単に逆転するものではなかった。なぜなら、ベルターの瞬間は威圧的になる傾向があり、おそらくそれが、ソンドハイムのサンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ(OCR/SPG/15、1984年)におけるドットとジョージ(ベルバデット・ピーターズとマンディ・パティンキン)の最高潮のデュエット「Move on」を非常に重要なものにしている要因の1つである。このデュエットでは、歌う男性とベルターの女性が平行3度とカノンの瞬間で融合し、オクターブではなくユニゾンで歌い、メロディーのクライマックスが男性に託されている(パティンキンがg1までオクターブジャンプするシーン)。
カントール歌唱
【Cantorial singing(カントール歌唱)は、ユダヤ教の礼拝における宗教音楽の一形態で、伝統的な詠唱や歌を担うカントール(Cantor、またはHazzan)によって実践されます。この歌唱スタイルは、ユダヤ教の豊かな音楽的遺産を背景に、独自の技法や感情表現を特徴としています。】
パティンキンが心から歌えるのは、彼が20世紀の支配的な文化が求める特定のタイプ――抑圧され、追放され、あるいは作られた男性像――を体現しているからであり、そのタイプには、ユダヤ人、黒人、クルーニングする若い男、そして感傷的なアイリッシュテナーが含まれます。この最後のタイプ(感傷的なアイリッシュテナー)は、何らかの理由でオルコットの後にほとんどいなくなったので、ここでこれ以上考慮する必要はありません。しかし、黒人の声はBert Williamsの観察を強要する。George Walkerと一緒の彼の経歴の初期に動く、彼は驚くほど成功した黒人のヴォードビル・コメディアンであった。彼の悲しげな話し声の共鳴は、その申し分なくはっきりした発声法で、より深い感情的なレベルを彼が優れていた無能な、女房のしりに敷かれている固定観念を通して輝かせなければならなかった。しかし、彼はこの可能性を4つの点で損なっています。まず、彼のパフォーマンスは少なくともレコードでは90パーセントがパルランドでした。それにもかかわらず、彼がこのスタイルを自在に操る能力、すなわち非常に現代的なルバートフレージング(自由なテンポの変化)、気取らない息継ぎ、全体的なタイミング感が、彼を際立たせ、後の語りかけるような歌、クルーニング、ベルト唱法などの親密なスタイルに影響を与えたと考えられます。第二に、彼が幅広い音域での抑揚を歌唱に移行させることを選んだ際、それは彼の声の高音域、つまり音響的に浅く聞こえる部分で行われた。この音域では、声が軽く、断続的で、『クーン』的母音*を用いた戯画的なキャラクターが現れる(その例として、1913年の『Borrow from Me』[NYS/iii/21] の最終節で聞くことができる)。
*’Coon’ vowels(『クーン』的母音): ミンストレルショーやヴォードヴィルで黒人のステレオタイプを強調する際に使用された発音の特徴。 これには、大げさで不自然な発音やイントネーションが含まれる。 ウィリアムズはこれを巧みに操り、観客の笑いを引き出す要素とした。
第三に、彼は録音の大部分でビブラートの使用を完全に避けた。そして最後に、彼はオーケストラ伴奏の中で、グリッサンドトロンボーン(音を滑らかに移動させるトロンボーンの演奏技法)を用い、それを模倣した(彼の代表作である1906年録音の『Nobody』[NYS/I/iii/14] や『Constantly』[NYS/II/ii/6] でその特徴を聞くことができる)。したがって、ウィリアムズはポール・ロブソンのような深遠な気高さと完全に結びつくことはなかった。もしウィリアムズのスタイルがどこかに繋がるとすれば、それは『ポーギー』よりも『スポーティン・ライフ』【軽薄で遊び人的なキャラクターに繋がる】へ、すなわちキャブ・キャロウェイやルイ・アームストロングのキャラクターへと導かれる。これらのキャラクターは、多くの人々にとって依然としてアフリカ系アメリカ人を貶めるものと感じられていた。一方で、『Shuffle Along』の共同制作者であるノーブル・シスルも、歌唱においては継続性や発展の鍵を握っているようには見えない。彼がこのショーの楽曲の一つである『Love Will Find a Way』[SSR/I/13] を歌う録音では、音声的に黒人らしさは全く感じられず、むしろ古風なサロン風のバリトンの品位を保っている。そしてその歌唱は、ユービー・ブレイクの斬新なピアノ伴奏の上で奇妙に漂っている。
*ノーブル・シスルと『Love Will Find a Way』 ノーブル・シスル(Noble Sissle): 『Shuffle Along』の共同制作者であり、黒人音楽の新しい地平を開いた存在。 しかし、彼の歌唱スタイルは伝統的で、文化的革新の象徴としての力を欠いている。 『Love Will Find a Way』: サロン風バリトン(parlour baritone decorum): 高貴で洗練された古典的なバリトン歌唱。 黒人音楽としての独自性よりも、ヨーロッパ風の品位を追求。
別の曲『Baltimore Buzz』[AMT/I/8] では、ウィリアムズのインタラクティブなポルタメントが再現されているが、彼の南部特有のなまりはなく、むしろ切れ味の良い北部アメリカ的なアクセントが特徴で、白人のダンディズム文化圏により近い印象を与えています。
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したがって、ブラックフェイス(黒塗りメイク)*とは対照的な黒人の歌唱が、舞台エンターテイメントの音や意味をどのように変化させるのかは直ちには明確ではありません。一方で、(男性の)カントール歌唱がそれを大規模かつ永続的に変革したことははるかに明らかです。この例を象徴するのが、1927年のジョルソン主演の初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』です。ここでは、ユダヤ人カントールの息子が、神から授けられた歌の才能を世俗的な舞台エンターテイメントに転じる物語が描かれています。
*ブラックフェイス(Black-face): 黒人のステレオタイプを模倣する白人のパフォーマンス。 ミンストレルショーを通じて、音楽やエンターテイメントの表現として広まった。
録音されたユダヤ人歌手の中で、カントール的な舞台伝統を象徴し、パティンキンがその系譜を引き継いでいるとされるのは、アーヴィング・バーリン、エディ・カンター、そしてジョルソン自身の三名である。このスタイルの典型的な特徴は、バリトンとテノールの音域境界にある声であり、声区やレトリックにおいて非常に柔軟性があります、ブレーク(声区の切り替わり)を隠したり長いフレーズを構築するのではなく、集中したテッシトゥーラ(持続的な音域)の中で親密な叙情的な強度を維持することでこれらを統一している点です。レガートは短いスパンで達成されていますが、イタリア風のアーティキュレーションの痕跡はすべて失われています。パルランドは依然として頻繁に用いられますが、ウィリアムズとは逆に、歌うことからの休息としてではなく、ウィットに富んだ休息としてです。また、ウィリアムズの怠けたような、だらだらした器楽伴奏は、演奏全体をより熱狂的なギアへと押し上げるラグタイム*のリズムに置き換えられています。
*ラグタイムの特徴: シンコペーション(強拍と弱拍がずれるリズム)を用いて、演奏にエネルギーと動きを加える。 パフォーマンス全体をより速く、熱狂的なテンポに導きます。
この3人の男性は全員ロシア系の出自であり、バーリンとジョルソンは旧国(ロシア帝国)で生まれました。ジョルソンは、自身の物語が『ジャズ・シンガー』のプロットそのものであり、バーリンとともにカントールを務める父を持っていました。一方、エディ・カンターは他の二人と同様に名前を変え、象徴的にその役割を受け継ぎました。シナゴーグでのカントールの声は神に向かって嘆きますが、劇場ではその声が母に、恋人に、仲間に、そして自分自身に、悲しみや笑いの涙を流しながら、時には謙虚に、時には挑戦的に呼びかけます。こうして、エンターテインメントの舞台やスクリーンにおいて、新たな、直接的な感情表現が誕生しました。そしてそれは、女性のベルト唱法と連動し、またその感情的なモデルとして機能することで、ついにコメディアンのカラフルな衣装を脱ぎ捨て、劇場用マイクロフォンの助けを借りながら、それまで『本格的に』歌う唯一の方法とされていたオペラ的な声に取って代わることに成功しました。この変革は、モダン・ミュージカルを定義する上で、間違いなく最も重要な要素であったと言えます。
バーリンとカンターは歌う際にもコメディアンの性格を完全には捨て去ることができませんでしたが、ジョルソンのメロドラマ的な表現は、間違いなく主流の話芸から借用されたものでありながら、その観客を熱狂させました。この三者の声には共通する特徴があり、特にバーリンの声はカンターのそれに似ています。また、カンターは後年の録音においてジョルソンから影響を受けました。ジョルソンのスーパースターとしての地位、そして彼がその声で成し遂げたことの意義は、いくら強調してもしすぎることはありません。その説明の出発点として考えられる二つの特徴的な現象があります。一つは、メジャーキーにおけるポルタメントを用いた上行の3^-1^のヴォーカル・カデンス(10)が強拍に置かれること、もう一つは、口、舌、唇の高い可動性です。
(10) 数字の上に付いた ^ は、その数字が表す音の音程の度合いを示します。1^ は主音、3^ は中音、などとなります。
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この3人の歌手にとって、前者(ポルタメントを伴う3-1終止)は、バロックオペラのレチタティーヴォにおける短縮された4-3終止と同様に、広範かつ標準的でありながら楽譜には記されない演奏慣習の一部となっています。例えば、バーリンが『Follow the Crowd』[NYS/III/i/15 (1914)]の終わりでこの技法を使用しているのが聞き取れますが、これは楽譜には記載されていません。【アポジャトゥーラのようなものか?】もしバート・ウィリアムズがタイトルリフレイン(楽曲の象徴的なフレーズ)のユーモアを完成させたとするなら、このクリシェはその必然性を象徴的に刻印しています。そして、バーリンが『Follow the Crowd』で行ったように、カンターも『You’d Be Surprised』[SSR/I/9 (1919)]の終わりで3^-1^のタイトルフレーズをスラーで歌い、ジョルソンも『The Haunting Melody』[NYS/II/iii/11 (1911)]やその他数えきれないほどの曲で同様に行っています(このため、誤ったアクセントが生じています)。この表現形式(イディオム)は限られた調(キー)で使用され、リスナーを声の最も熱意ある高音域に引きつけ続けます。特にCメジャーが最も一般的です。この長3度の音域は、曲中の魅力的に歌われる部分の基本的な音程の枠組みとしてしばしば機能し、感情的に高揚したボーカルラインに聖歌(chant)のような特質を与えます。例えば、映画『42nd Street』のラストで、ディック・パウエルが儀式的にグラスを掲げながら歌う、高音域(a1-f#1)のマイナー調のバージョンは忘れられないものです。 ジョルソンも時折、ポルタメントで7^-5^の進行を取り入れます。例えば、支配的な中間点(ドミナント)で用いることがあります。まさにこれが、彼が『ジャズ・シンガー』のラストシーンで実際のユダヤ聖歌『Kol Nidre』を歌う際、6番目と7番目の音で行っていることです。
このシーンは、ジョルソンの口の動きや身体言語を観察する機会を提供しますが、その結果は彼の録音された音声の中にも暗示されています。もしあなたが黒塗りのメイクをしていて、口が白く塗られた輪のような形になっている場合、その輪の表情豊かな可動性が極めて重要になります。これは、表現力を大幅に増幅する白い手袋と同様の効果を持っています。口は、笑顔やしかめっ面をしたりできる必要があり、それがため息や叫び声へと流れるように移行できなければなりません。一方で、オペラ歌手のように固定された口や低い舌、広げられた喉の位置による平坦化された喉頭には、このような表現の余地はありません。柔軟な唇の形は、口の前で母音と子音の両方を絶えず動かすことを意味し、それによって、当時使用されていた声を震わせて歌う歌い方よりもかなり一定した、ゆっくりとした、しかし幅広いビブラートがかかるようです。高い舌の位置、平坦化された口語の母音(例えば『Follow the Crowd』における「job」が「jab」、「dance」が「dants」と発音されるような形)が、アメリカ方言の歌の標準となりました。このスタイルはルバート(自由なテンポ)のアプローチと関連しており、それにより子音の発音が早められたり遅らされたりすることがあります。これにより、声のタイミングを通じたコミュニケーションの緊迫感が大幅に高まります。子音や二重母音(diphthongs)は、ベルカントのように時間的な出来事(音符やリズム)の間を分ける区切りとして扱われるのではなく、時間の流れの中で歌い続けられるのが特徴です。ジョルソンが『Mammy Mine』や『Rock-a-Bye Your Baby』[NYS/IV/ii/1 (1918)]の中で見せたように、『m』や『n』の子音を通して歌おうとしてみてく
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まず、母親が夫の死を前に神に向かって手を伸ばす苦しげなジェスチャーが映し出されます。その後、カメラは直接ジョルソンの手の位置や動き、ショットの角度へと切り替わり、彼が『Kol Nidre』を歌う場面に繋がります。そして、有名なラストシーンでは、彼が『Mammy』と呼びかけながら手を差し伸べる姿が描かれます。この伸ばされた手は、シナゴーグの詠唱におけるモルデント(装飾音)を強調すると同時に、ショーシンガーにとって拍手を誘う基本的な合図として、それ以降の時代にも受け継がれることになります。
このように、真剣な歌唱における身体言語をエンターテイメントの舞台で解放し、衰退しかけていたミンストレルソングというジャンルを永続的なモデルに変革したのは、男性のユダヤ人でした。もちろん、ブラックフェイスの口に関する指摘は女性のリップスティックにも当てはまるはずです。しかし、写真の記録によれば、リップスティックは当初、ミュージカルコメディにおける控えめで小さな口元を作り出すために使用されていたようです。それは、むしろベルト唱法の歌手ではなく、軽やかにさえずるようなソブレット(助演の若い女性役)の視覚的対応物でした。その後、リップスティックはより丸みを帯び、可動性が高く官能的な表現へと変化していったと考えられます。この傾向は、特にトーキー映画のクローズアップで顕著に現れています。そして、現在のポップスにおける唇とマイクロフォンとのあからさまな関係(場合によってはそれ以上の親密さ)に至るまで発展しています。この現象はバラエティ、キャバレー、ミュージカルを経由して進化した、20世紀の特有の現象と言えるでしょう。ジュディ・ガーランド、エセル・ウォーターズ、キャロル・チャニングを思い浮かべると、その変遷が理解できるかもしれません。『パレードが通る前に』あなたはChanningの口紅を中でほとんど聞くことができる[SSR/III/18、(1964)]、そして、彼『こんにちは、Dolly』[UB/I/21]、おそらく全くミュージカル・プレゼンテーションの、Jolsonの3^-1^韻律の理想像は述べる。楽譜よりも1オクターブ低く歌い、ウィスキーバリトンと形容される彼女のベルト唱法は、場合によってはジョルソンよりもさらに低音域に達します(場所によっては、コーラスボーイたちが彼女の1オクターブ上で歌っています)。彼女はメロディの3番目と4番目の音で低い3^-1^のスラーを用いますが、曲全体が繰り返し盛り上がる高音域の音ではこれを控えています。その部分では、バンドのプレイアウトクリシェ【バンドが楽曲の終わりを飾る典型的な演奏パターン】が独自の方法でそれを表現しています。2024/11/30
Crooning
男性のクルー二ングの伝統は、1920年代にラジオとともに確立されました。もし「ウィスパーリング」ジャック・スミスがささやき声を出すようになった原因の一つが第一次世界大戦で使われたガス弾による肺の損傷だったという話が本当なら、そのガス弾に感謝しなければなりません。クルーニングの先駆者である彼は、ルディ・ヴァレーとともに、非常に低い話し声のようなうなり声と、非常に軽い、酔わせるようなバリトン歌唱を区別するという初期のテクニックを編み出しました。これは、詩や節の間ではなく、音と音の間、さらには音節と音節の間で、パルランドと歌唱を交互に行い、うなり声から歌唱音にスライドアップさせるという、まったく前例のないものであり、より現代的な幅広いヴォーカル・テクニックと同様に、マイクが可能にする機敏さによってのみ、それを行うことができました。1925年から1926年にかけて定着したスミスのスタイルは、「ミス・アナベル・リー」[GTS/5 (1928)] で聞くことができます。
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ヴァリーのライトバリトンは特別優れたものではなく、スミスとは異なり、子音のアメリカ的なはっきりしすぎた発音と、母音のフレッド・アステアのような気取った含み笑い(例えば「This is the missus」[BBR/17, 1931])がありました。戦後の若者文化では、アステアはブロードウェイでアンプなしで活動し、ヴァレは当初メガホンを使用していましたが、マイクが何を実現できるかに関係なく、この新しい言葉が求められていました。それでも、ダンディな紳士のボーカルイメージは、ようやくコミカルなものから離れ、耳元でささやくことができるようになったことで、上品な英国調のトーンに新たな価値をもたらしました。おそらく、それはノエル・カワードを通じてだった。スミスはほとんど英国人のように聞こえますが、ミュージックホールの【ミュージックホールの】雰囲気を残している「ハーメルンの笛吹き男」[CCF/17 (1931)https://www.youtube.com/watch?v=CKLr4wDrnl0]のアル・ボリー(実際には南アフリカ人)よりも、より洗練されています。
ビング・クロスビーの初期のレコーディングは、1920年代のダンスバンドで娯楽的な位置づけでしたが、1931年までに彼はクルーナーの表現力を深め、前面に押し出し、恒久的な歌の革命の先駆けとなりました:
彼はマイクに適した歌い方を編み出し、メロディよりも歌詞を強調するためにマイクを使用した。そして、同世代で最も人気のある歌手として、クラシック音楽とポピュラー音楽の明確な分離を促した。旋律に語りかけるような、ささやくような歌い方は、力強い歌唱とは対照的であり、芸術歌曲の演奏家よりも低いヘッドボイスで歌い、子音で歌う(クラシックのアーティストが敬遠する黒人歌手の習慣)ことや、歌詞を強調するためにアッポジャトゥーラ、モルデント、スラーを控えめに使用することが特徴である。(11)
11) H. Pleasants, ‘Crosby, Bing (Harry Lillis)’, The New Grove, V: 60.
プレザンツは、ジョルソンがクロスビーに与えた影響を認めているが、子音と装飾はおそらく彼が考えているよりも、その特定の環境から多くを学んだものでしょう。クロスビーの歌声はあまりにも馴染み深いので、その構成要素を分析することはほぼ不可能であるが、明らかに彼は、説得力がありながらも威圧的ではなく、男らしいがロマンチックで、会話調でありながらも音楽的で、クラシック調でありながらも豊かな音色を持つ、というちょうどよい量のバリトン共鳴、冒頭のポルタメント、鼻音子音、倍音豊かなビブラート、そして感傷的なリズムの自由を見出しました。1946年のクリスマスに放送された『ホワイトクリスマス』[AAWS/i/9]の最初の16小節は、彼の演奏スタイルのすべてが詰まっています。テッシトゥーラは低く、Aメジャー、そしてスコアの低音部の短三度、その豊かなG#の導音は、ロブソンの音域を除いて、この章でこれまで取り上げたどの音域よりも低い。最初の4小節のフレーズは、1と2の音のグループに分けられているが、2番目は対照的に、一息で歌われています。アーヴィング・バーリンの、『クリスマス(Christmas)』『木々のてっぺん(treetops)』『輝く(glisten)』『子供たち(children)』『耳を傾ける(listen)』といった多くの印象的なダウンビートの二音節語を含んでいる。これらはすべて、書かれたリズムをそれぞれロンバルディア風リズム(Lombardic)*に変更することで動機的に統一されています。
*Lombardic(ロンバルディア風リズム)とは? 音楽や詩のリズムにおいて、ロンバルディア風リズムとは、アクセントが通常の拍とは逆になるリズムのことを指します。具体的には、短い音符の後に長い音符が続く形(例: ♪♩)で、通常のリズム(長音符→短音符)とは逆の順序です。このリズムは少し跳ねるような、または躍動的な感覚を与える効果があります。 たとえば、”Christmas” のような単語が通常は平坦に発音されるところを、ロンバルディア風リズムにすると、前の音節(”Christ”)が軽く、次の音節(”mas”)が長めに引き伸ばされて聞こえるように強調されます。このリズム的な変化が、バーリンの作曲スタイルにおいて特有の動機的統一をもたらしている、という指摘です。
いくつかの音節(たとえば、8小節の始まりを示す ‘I’m’ や ‘where’)はポルタメントで始まる。しかし、完全に省略されて残りが話し言葉のような表現(パルランド)になる音符は1つだけである。それは、4小節の区切りに位置する ‘to’(’to hear’ の中の ‘to’)である。メロディのクライマックス(音 ‘b’)は、いくつかの技法によってニュアンスが与えられている。具体的には、’n’ の子音(’onnnes’【one】 の中)を歌いながら通過すること、フレーズのすべてのリズムを付点音符で演出すること、そしてその直後に気取らない三連符のモルデントを加えることによってである(別のモルデントは ‘sleigh bells’ の ‘sleigh’ にも、暗黙的に付けられている)。リズムが効果的にシンコペーションされているのは、’in the snow’ の部分だけです。
これは決してライブの劇場音響ではなく、パッケージ化されたクルーン(croon)パフォーマンスと、ミュージカルシアターにおけるオペラ的またはヴォードヴィル的なスリルとの間に、緊張感を生み出し、長く持続させました。1934年の創設から1960年代半ばまで、AAWSコレクション【アカデミー賞の歌曲集】[I、II、III/1-6]のオスカー受賞曲のほとんどすべてが、映画の雰囲気を反映したクルーン調のパフォーマンスで歌われています。ボブ・ホープ(『Thanks for the memory』[AAWS/I/5、1938年])、ディック・ヘイムズ、ジュディ・ガーランド、ジョニー・マーサーは、このジャンルの第一人者としてクロスビーと肩を並べます。彼らの後継者としては、シナトラ(Potter(12)による分析)、メル・トーメ、そしてエラ・フィッツジェラルドやジャズへとつながる多くのアーティストが挙げられます。ディズニーは、もちろん、1930年代から現在に至るまで、同様の視覚的な魅力を保ち続けています。アニメーションのクマが歌う場合も、授賞式でマーサーが歌う場合も、映画『Song of the South』[AAWS/II/2 (1946)]の「Zio-a-dee-doo-dah」のようなパフォーマンスは、ディズニーのキャラクターの心強い笑顔と気持ちの良い目と同じくらい、私たちに心地よい感覚をもたらします。2024/11/20
クラシック歌唱
これまでのところ、20世紀のエンターテイメントの世界におけるクラシックやオペラ的な歌唱の役割についてはほとんど触れてきませんでした。しかし、アメリカとイギリスのミュージカルシアターにおいては、驚くほど長い間、オペラ的な歌唱スタイルが採用され続けていました。
20世紀前半を通じて、庶民的または中流趣味の観客が『純粋な』ソプラノ声を受け入れることには何の問題もありませんでした。しかし、その声の軽さゆえに、オペレッタやミュージカルコメディのソプラノ、特にスブレット(若く軽快な助演役として考えるべき声)は、実際の音域よりも高く聞こえる傾向がありました。
ここで注目すべきは、ラスタル(Rastall)の公式 (13) です。この公式は、音域の中心的な重心(Pitch Centre of Gravity, PCG)を特定することで、声部のテッシトゥーラ(頻繁に使用される音域)を確立する方法を示しています。
13) R. Rastall, ‘Voca Range and Tessitura in Music fro York Play 45’, Music Analysis, 3 (1984), p. 190
『ショウ・ボート』のソプラノと『ポーギーとベス』のソプラノは同じものではありません。後者は、女性役に重厚な役割があるにもかかわらず、実際には本格的な(すなわち高音域の)オペラ的な声区を扱っています。例えば、『Summertime』でクララが歌う楽譜上の最初のソロ音はf#2で、ミュージカルではこのように高い音から始まることはありません。一方で、『Make-believe』でのマグノリアのテッシトゥーラはより低く、最高音はg2に達するものの、そのPCG(音域の重心)はb1であり、『Summertime』のc#2よりもほぼ1音低くなっています。
古典的な英語オペレッタの歌唱スタイルは、第二次世界大戦後も長い間、ブロードウェイやウエストエンドで人気を保ち、受け入れられ続けました。
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1928年のロンドン録音における『ショウ・ボート』は、まるでウィーンの古典的な甘美な作品のように響きます。そして『オクラホマ!』のわずか4年前に、カーンとハマースタインは『Very Warm for May』で、たとえ風刺的であったとしても、エピキュリアンなシュマルツ(感傷的で甘美なスタイル)を提供しており、それはアイヴァー・ノヴェロが同時期にドゥルリー・レーンで上演していた壮大な作品が控えめに感じられるほどです。(例えば、カラフルな声楽技巧を持つホールス・ショーの『All the Things You Are』[OCR/VWM/2] と、メアリー・エリスの『Fold Your Wings』、あるいはオリーヴ・ギルバートの見事な『Why Is There Ever Goodbye?』[DL/15と18] を比較してみてください。)それにもかかわらず、第二次世界大戦による趣向の変化は、過剰に演技的なスタイル(キャンプ*)の排除を求めました。この変化は、アメリカではニューディール政策やハリウッドが次第にフォーク・リアリズム(大衆的な現実主義)を推奨するようになったことで先行しており、『オクラホマ!』が生まれた背景も理解しやすくなります。しかし、ホルムのベルト唱法を別にすれば、『オクラホマ!』やその後の『回転木馬』(1945年)における歌唱の大部分は、クラシックな声楽にアメリカンアクセントを加えた程度にとどまっています。それらは特に突出したものではなく、いわゆる受け入れやすい声、つまりバリトンやメゾソプラノといった声域に依存しています。
*キャンプ(Camp)からの脱却: 「キャンプ」とは、誇張された演技やスタイルを指し、感傷的かつ派手な表現が特徴。 戦争による現実的で質素な価値観への移行が、これを時代遅れとしました。
『オクラホマ!』のアルフレッド・ドレイクと『回転木馬』のジョン・レイトは、アメリカのミュージカルシアターにおける歌唱の巨人とされています。それは、この転換点(話し言葉から歌への移行)を巧みに制御しているためです。両者ともアメリカ的な子音や母音を十分に取り入れることで親しみやすい口語的な響きを持ちながらも、胸声の深みを犠牲にすることはありません。最大の成果は、レイトが『回転木馬』のベンチシーンで達成された、話し言葉から歌への完全に滑らかな移行に見られます。この場面は、この点における作曲の流動性で有名です。(注目すべき瞬間は『If I Loved You』[OCR/C3 または UB/I/2]の2分7秒のところにあります。)過去の舞台パフォーマーたちは、コメディアンでない限り、この技術を習得することは難しかったでしょう。それは、現在の多くのオペラ歌手が同様の技術をマスターするのが難しいのと同じことです。アルフレッド・ドレイクによる『The Surrey with the Fringe on Top』[OCR/O/3]の冒頭部分は、異なる課題を示しています。彼は、冒頭のe1でしっかりとした入りをするために、曲のヴァース部分をクラシック調に仕上げる傾向があります。しかし、リフレイン部分ではメロディが1オクターブ低いロジャースの会話的な繰り返し音符に移るため、彼はよりリラックスした方言の発音(「whennnItak’ you owdinth’surri」)とトーン(より鼻声で、ノンビブラート、そして少しカントリー的な訛り)に変化させることができます。『The Surrey with the Fringe on Top』におけるカーレイのプラガル調(終止形)のAメジャーのバリトン音域は、うまくサポートされ、また対比されています。一方で、『Kansas City』を歌うウィル・パーラー(リー・ディクソンがGメジャーで歌唱 [OCR//4])は、トーンが無彩色で、コメディアン、クーンシャウト、ミュージックホールのつぶやき、クルーニングを混ぜ合わせたようなスタイルで歌っています。カーレイとローリーの音域とトーンの単純なオクターブの相関関係は、『People Will Say We’re in Love』のクライマックスで、両者をF(f1、f2)まで持ち上げますが、ジョーン・ロバーツの軽やかなソプラノは、ドレイクのバリトンに比べて『Out of My Dreams』[OCR/O8, 11]で声区を移行する際に苦労が見られます。一方で、第3のバリトン役としてジャッド・フライが追加されていますが、録音ではドレイクがそのソロを歌っています。第4の男性役であるアリ・ハキムは、専らパルランドで表現されています。2024/12/01
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増幅と収容 (Amplification and accommodation)
アメリカ・ミュージカルの黄金時代は、『オクラホマ!』から『キャバレー』(1966年)までのおよそ20年ほどの短い期間でしたが、その輝きはまばゆいものでした。そして、この時期は明らかに舞台エンターテイナーにとっても黄金時代でありました。プロとしてのキャリアは、作品そのものやジャンルの寿命よりも長く続くことから、この時期の代表的なミュージカル(14)が、当時の特定のスターたちの声や、それ以前の時代から受け継いだ歌唱スタイルのタイプをどのように取り入れていたかを考察する価値があります。評価と比較のための代表的なオリジナルキャスト録音として、『ジプシー』[OCR/G (1959)]と『ハロー、ドーリー!』[OCR/HD (1964)]が挙げられます。
どちらも、卓越したベルト唱法の歌手をフィーチャーしています。『ジプシー』ではエセル・マーマンが、『ハロー、ドーリー!』ではキャロル・チャニングがその役を務めています。(マーマンの音域はgからc2までで、d♭2まで拡張することもあります。一方で、チャニングの音域はcからg1ですが、『Dancing』ではb1をフェイクで歌っています。楽譜では、彼女のパートが実音で書かれている場合もあれば、1オクターブ高く書かれている場合もあります。)このような女性たち(エセル・マーマンやキャロル・チャニング)の後ろで、男性キャストは音楽的な技術を求められることはなく、彼女たちを邪魔しないように配慮する必要があります。それでもなお、彼らは顕著なキャラクター性やコメディアンとしての存在感を持つ役者でなければなりません。しばしばミュージカル以外の映画出身であることが多く、以前に述べた主要なコメディアンたちの残響とも言えるでしょう。たとえば、『ジプシー』のハービー役のジャック・クラグマンや、『ハロー、ドーリー!』のホレス・ヴァンダージェルダー役のデヴィッド・バーンズは、どちらも不安定な声でバリトンのリフレインをぎこちなく歌う以上のことはしていません。
若い女性の主役たちは、どちらの作品でも『レジット』(正統派)メゾソプラノとガーリーなベルト唱法を使うキャラクターの組み合わせとなっています。『ハロー、ドーリー!』でアイリーン・モロイを演じたアイリーン・ブレナンは、彼女のアイルランド的な魅力を表現するために、純粋で古典的な発声を求められます。彼女は『Elegance』の中でgからf2までの音域を安定した技術で歌いこなし、声域全体がよく統合されています。この時点では、かつてのスブレット的な震えるような声はほとんど、あるいは完全に失われています。『ジプシー』でルイーズを演じたサンドラ・チャーチは、物語の核心である場面転換の瞬間までは、ほぼ同様の歌唱スタイルを保っています。この瞬間、彼女はヴォードヴィルの若手パフォーマーからストリッパーへと変貌し、純真から経験への移行を象徴する形で、歴史的意義を持つベルト唱法を披露します。一方で、彼女たちの若いサイドキック役である『ジプシー』のベビー・ジューン(ジャクリーン・メイロ)や『ハロー、ドーリー!』のミニー(ソンドラ・リー)は、オズボーンによって批判された通り、刺すような幼稚なベルト唱法を用いることでキャラクター性を表現しています。」
「『ハロー、ドーリー!』における男性パートナーたちは、バーナビー(ジェリー・ドッジ)の場合、ほとんど何も代表していないように見えますが、一方でコーネリアス(チャールズ・ネルソン・ライリー)の場合は、カントリアル【カントリアルとは、感情豊かでリリカルな歌唱スタイルを指し、ユダヤ教のカントール(礼拝指導者)の歌唱に由来。】なバリトン/テナーを代表しています。このスタイルは、すでに男性主役のショーボイスとして定着しており、感情豊かなビブラートによって声の豊かさを生み出そうとしています。しかし、この歌唱はマイクロフォンに依存しているものの、それに完全に頼っているとは言えません。しかし、『ジプシー』のタルサ(ポール・ウォレス)は、新しい現象を象徴しています。彼はまさにクルーナー(crooner)の典型です。若々しく、かすれた息遣いが感じられるバリトンのセクシーな声質は、強い身体言語を持つ男性を彷彿とさせます。彼はダンサーであり、まるでそのまま寝室へと誘い込むような魅力を持っています。このスタイルは、ブルジョワ階級向けのブロードウェイ舞台において、黒人文化に触発されたロック革命の最初の成果の一つであると考えられます。
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これは、マイクロフォンによる音声増幅が、ミュージカルシアターの舞台における発声方法やキャラクター表現に根本的な影響を及ぼすまでに、時間がかかったことを示唆しています。1957年以前には、ミュージカルのキャストの前には確かに(固定式の)マイクがあったはずですが、その開発の過程は記録に残っていないようです。ハル・プリンスの「『ウェストサイド・ストーリー』までマイクは使用していなかった」という発言(15)は、当分の間、正しいと見なさざるを得ないでしょう。(16)
15) H. Prince, Contradictions: Notes on 26 Years in the Theatre【矛盾:劇場での26年間についての覚書】 (New York, 1974), p. 165.
16) P. O’Connor, ‘Music for the Stage’, in Music in Britain: The Twentieth Century, ed, Stephen Banfield 【’ステージのための音楽’、Stephen Banfield 編『英国の音楽:20世紀』】(Oxford, 1995), p. 119
増幅技術が登場する以前、ヴィヴィアン・エリスの自伝によれば、問題はメロディの力強さというよりも、言葉がどれだけ明瞭に聞き取れるかという点にありました。リハーサルでは『永遠の言葉の戦い』(注17)が繰り広げられ、その解決のためにすべてが妥協され、さまざまな音楽的犠牲が払われていたのです。
17) V. Ellis, I’m on a See-Saw【シーソーの上で】 (London , 1953; repr. Bath, 1974), pp. 233-4; see also pp. 224-5.
それ以降、音楽性を犠牲にすることなく、言葉が聞き取れるようになることは、ショーのパフォーマーに求められる非常に多岐にわたる要求の1つに過ぎなくなりました。
プリンスは、1971年の『フォリーズ』で振付師兼演出家としてジェローム・ロビンズの伝統を受け継いだマイケル・ベネットが、踊りと歌を同時にこなすという非人間的な要求をどのように解決したかを説明しています。『彼はリハーサル中に出演者たちの歌声を録音し、本番では自分自身の声と同期して歌うよう指示しました。そうでなければ、息切れして音量を確保できなかったでしょう』。1974年におけるプリンスのこの件に対する見解は次のようなものでした:
「私は通常、この種のやり方が嫌いです。しかし、パフォーマーたちは歌声を投射する訓練を受けておらず、声を保護する方法を知っていることも稀です。一方で、観客も音を聴き取る訓練を受けていません。テレビや電子楽器の登場によって、観客は座席の奥へと押しやられてしまいました。私が初めて劇場に行ったときのことを覚えています。俳優の声に慣れるまでに5分ほどかかりましたが、その間、私は椅子の前の方に身を乗り出し、舞台とのつながりを意識的に作り出しました。それは、舞台体験への投資の一部でした。 1972年の『リトル・ナイト・ミュージック』のとき、増幅装置を使わずに上演できたかもしれない作品です。それを実行していれば、観客は舞台に向かってもっと意識を集中させたでしょう。あのとき、それを実行する勇気があればと思います。我々は、劇場をあまりにも機械化し、あまりに滑らかにしすぎて、その『ライブ感』を失う危険を冒していないでしょうか?」(18. H. Prince, Contradictions: Notes on 26 Years in the Theatre)
プリンスはテレビを非難していますが、舞台芸術が滑らかさ(slickness)に行き詰まった要因は、ミュージカル映画そのものに完全に内包されていました。もしフレッド・アステアやジーン・ケリーが映画での活動後に舞台に戻っていたとしたら、その時点で『総合芸術(Gesamtkunstwerk)』的な観客の期待、つまり多分野にまたがる滑らかさへの要求に対処する必要があったでしょう。それは『ウエスト・サイド物語』よりもずっと早い時期に起きていた可能性があります。この作品では、その滑らかさが頂点に達しましたが、それはミュージカルシアター制作が手法やメディアを貪欲に吸収し続けた次の段階だったのです。
【プリンスの指摘する「滑らかさへの行き詰まり」は、ミュージカル映画が引き上げた観客の期待が舞台芸術に影響を与えた結果です。『ウエスト・サイド物語』は、その頂点として、映画と舞台の技術的融合を象徴しています。しかし、この傾向は舞台の即興性やライブ感を損なうリスクも伴い、舞台芸術の未来についての課題を浮き彫りにしています。】
ヴォードヴィルの時代には、これらのパフォーマンスは別々のアクトで構成されていました。たとえば、コメディ、リリカル(叙情的なパフォーマンス)、バレエ、体操的な動き、官能的な演技などがそれぞれ独立していました。しかし、これらはすべて音楽を伴っており、その音楽こそが最終的に責任を負うべきものです。20世紀の後半に入る頃には、私たちは舞台でもスクリーンでも、1人のパフォーマーにこれらすべてを同時に求めるようになってしまったのです。
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ロビンズやその他の演出家は、1930年代後半以降、モダンバレエをミュージカルに完全に取り入れました。バレエは、官能的な若さや、ある程度までの模倣的な現代音楽をミュージカルにもたらしました。そして現在、ロビンズはこれらに加えて、ブランド的なメソッド演技が持つ無口でありながらメロドラマ的な庶民のヒロイズムも要求しています。ミュージカルはこれに対応する必要がありました。なぜなら、映画ではジェームズ・ディーンが、ロックンロールではエルヴィス・プレスリーが、すでにスターの新たなスタイルを確立していたからです。しかし、これが歌唱にはどのような影響を与えたのでしょうか?
この変化は、発声における努力と報酬、つまり声のエネルギーと意味の間にあった音響的なバランスを根本的に変え、さらには破壊しました。クルーニングはすでに発声の労力を減少させていましたが、新しい穏やかな状態に適した叙情的な様式や表現を見つけていました。例えば、ビング・クロスビーやボブ・ホープのシュガーダディ的な安心感、あるいは1950年代のドリス・デイによる陽気で純朴な雰囲気がそれに当たります。しかし、『ウエスト・サイド物語』でトニーを演じたラリー・カートは異なり、『Maria』[UB/I/13]ではその新しい変化を端的に示しています。彼の中のメソッド俳優、つまりミュージカルキャラクターとしての彼は、その強い感情を内面化しています。彼は韻を踏んだり、機知に富んだ表現をしたり、32小節の四行詩を作ったり、説得力があり明快な文章を構築したりするような言葉の教育を受けていないからです。彼が唯一心地よく感じられる言葉、『Maria』は、彼を舞台のあらゆる場所へと導きます。彼はこれを建物に向かって歌い、29回繰り返します。彼は自分の身体と、若々しく攻撃的なエネルギーの力を知っていますが、これが『音がどれほど素晴らしいものか』を初めて発見する瞬間なのです。彼はそれを『大声で』、そして『そっと』言います。しかし、私たちが決して信じてはならないのは、彼が歌うことを知っている、ということです。彼の官能的な勝利を表現するにはテノールが必要でした。そしてバーンスタインはそれを想定して作曲しました(b♭1のクライマックスがあり、カートはより低いオッシア(代替の音域)を選択しています。また、多くのダイナミックな指定があります)。しかし、スリムでハンサムな若いダンサーたちはテノールではなく、1950年代の白人のウエストサイドの若者たちもテノールではありませんでした。そのため、ロビンズとプリンスは役をバリトンとしてキャスティングせざるを得なかったのです。テノールの音域はそのカントリアル(礼拝的)な切迫感を要求するため依然として残されていますが、この曲は現在でも歌うのが非常に難しいものです(その音域はほぼ2オクターブに及び、最高音はa1、しかし音域の中心の重心(PCG)はb♭と非常に低い位置にあります)。マイクロフォンの助けによってこれらの音が可能になっていますが、ぎりぎりの状態です。カートは最後のカデンツァで音程が揺れ、鋭くなってしまいます。この努力の中で失われるのは、声区の統一感やトーンの一貫性という報酬です。E♭メジャーのメインセクションの冒頭で聞こえる声は、曲の冒頭部分とはまるで別人のように感じられます。キャラクターはもはや舞台のパフォーマンスとして観客に自分の声を提示しておらず、マイケル・クロフォードの『The Music of the Night』[UB/II/16 (1991)]も、この録音で既に起きたことの延長線上でほぼ完全に説明できます。それでもなお、このパフォーマンスは印象的で、非常に力強く魅惑的なものであり、このスタイルから後戻りすることはもはや不可能でした。
2番目の変化
20世紀のエンターテイメント・シンギングにおける2つの変化を異なる観点から見るなら、最初の変化が「階級」に関するものであれば、2つ目は「年齢と性別」に関するものだったと主張できるでしょう。
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つまり、最初のシフトでは、黒人と白人の区別、ユダヤ人と異教徒、アメリカ人とイギリス人、フォークとオペラ、南と北、コメディとシリアス、日常と特別なこと、そして何よりもマイクの使用の有無にかかわらず、話し言葉の地域性について、曖昧にしたり、再定義したりしました。第二の変化は、若さに成熟の資源を、無垢さに経験を、純粋さに荒削りな力を、軽快さに権威を、儚い美しさに魂の永続性を持たせることを求めました。そして、これらは常に、そして唯一、マイクロフォンの助けによって可能となりました。マイクロフォンが音響面をますます担うようになると、視覚中心の時代において、パフォーマーは観客の注意を視覚と動きに集中させるようになりました。こうして、歌う俳優(singing actor)が、演じる歌手(acting singer)へと進化したのです。この変化は性別に関するものでもありました。以前は、これらの対立的な特徴の一方が、性別の違いによって相補的な形で表現される傾向がありました。たとえば、放蕩的なダンディなコメディアンは純真なソプラノ歌手とペアを組み、クルーニングする若者(またはコーラス)はしゃがれ声のベルターと、頼りがいのある年配のバリトンは若いメゾソプラノと対を成していました。しかし、今やどちらの性別でも、すべてを表現し、持つことが求められる時代になったのです。マイクロフォンは、カップルの相補的な役割ではなく、個人の探求に力を与える『聖杯』となりました。
第二の変化には、2つの顕著な現れがありました。その1つは、男性の思春期がそれまで否定されていた性的権威の世界へとアクセスできるようになったことです。例えば、アニメーション映画『アラジン』では、主人公アラジンがトム・クルーズを思わせる容姿で描かれ、ブラッド・ケインの『One Jump Ahead』[CD/II/4 (1992)]の歌声は、枕元で囁くポップアイドルのように親密に録音されています。市場の追跡劇の中で、彼の歌唱はまったく労力を感じさせないものであり、『クール』の究極の象徴となっています。もう一つの変化は、少女の純真さと大人の女性の情熱、つまり純粋さと情熱を(どちらの方向でも)組み合わせたもので、オズボーンが『正統派(legit)を伴った女性のベルト唱法』と呼ぶものです。彼はこのスタイルを2つの形に分類しています。一つは、『ベルト唱法の音域の上にソプラノ音域を単純に付け加えようとする』タイプ。もう一つは、『同じ音域内でベルトと正統派の発声を交互に使い分けようとする』タイプです(注19)。オズボーンは、バーブラ・ストライサンドやメアリー・マーティンの『ベルト・ミックス』の達成について、またバーバラ・クックやジュリー・アンドリュースにおけるソプラノ声の保持について、いくらかのページと詳細を割いて評価しています。
トニーが『Maria』で到達する自然で必然的な歓喜の行き先、そして男性的観点での第二の変化の到達点は、ロックの叫びでした。この章ではロックヴォイスの詳細な分析には踏み込みませんが、その舞台やスクリーンでの使用は、非常に解放的でありながら、最終的には消耗的なものでもあったことを認識する必要があります。ロイド・ウェバーの『ジーザス・クライスト=スーパースター』(1970~72年)におけるイエスとユダの攻撃的でヒステリックな若者の怒り、そして『エビータ』(1976~78年)におけるチェの役柄は、マレー・ヘッドやデヴィッド・エセックス、そして中でも最も驚くべきことにクライヴ・ロウのようなアーティストたちによる、初期のコンセプトアルバムや後の舞台上での、驚異的なロック、ヘビーメタル、ソウルのパフォーマンスを引き出しました。これらのパフォーマンスは、統合されたバリトンのレトリックを基本としながら、ヘッドボイスやましてやファルセットを使うことなく、楽譜上ではa1やc2、さらには『Heaven on Their Minds』『I Only Want to Say』『Judas’ Death』[JCS/I/2、ii/、7]で即興的にd2にまで押し上げています。これらの演奏は、圧倒的な迫力を持っています。男性の声がこれほどの苦痛を受け入れるのは衝撃的でした。それは、女性たちが何十年にもわたって受け入れてきたベルトのピッチとまったく同じでした。しかし、その激しさは長続きしませんでした。今日でも、世界の人口の大半にとって、ロックの声は若者の自己表現と力強さの象徴であり、20世紀後半のショーのサウンドの変化における主要な要因となっています。しかし、劇場におけるロックの効果は、特にコンタクトマイク、ミキシングデスク、スピーカースタック、フィードバックループといった現代的な装置と組み合わさることで、政治的緊急性から『レ・ミゼラブル』や『ミス・サイゴン』のような皮肉な叱責へと急速に変化しました。『エビータ』ですら、チェのキャラクターが退屈に感じられるほどです。ミュージカルにおけるレチタティーヴォやアリオーソへのロックの扉の開放は、すでに『レント』以前に、陳腐な表現のパンドラの箱を開けていました。そして『レント』も、アダム・パスカルの必死の誠実さによってそれを挽回することはできませんでした。彼の声は、カントリアルな嘆きとロック的なしゃがれ声を混ぜ合わせた20世紀後半の典型的なショーボイスであり、それが『Goodbye Love』[OCR/R/II/12 (1996)]で頂点に達しています。
現代では、非ロック文脈においても、音響の増幅技術がショーボイスの表現に同質化の影響を与えています。それでは、この第二の変化による犠牲者である『違い』をどのように再確立するのでしょうか?ロイド・ウェバーは『ジーザス・クライスト=スーパースター』で、ヘビーロックをヘロデのショービズ的な演出で対比させることで、いくつかのパスティーシュ(模倣様式)の一つとして提示する巧妙さを持っていました。ミュージカルや映画の舞台で、ロックが音楽的なスペクトラムの一つとして扱われることで、それ以外の声も含めて、すべてが『camp【カンぺ又はキャンプ】*』的な引用符付きで聞かれるようになっています。これは、誠実さの行き詰まりからカンペが復活し、ポストモダニズムが解放的な影響を与えた結果です。
*ポストモダニズムとカンぺ、 カンぺの復活: カンぺ(camp)とは、過剰で皮肉を含む美学であり、ポストモダニズムの影響で、真剣さを逆転させる表現として再浮上。 誠実さや直情的な表現の限界が見えた中で、カンぺが新しい解放的な価値を提供しています。
ディズニーの最近のアニメーション成功作は、20世紀に好まれた記号的取引の一例を提供しています。そこでは、さまざまな時代や音色の有名なスターたちの声をキャラクター認識の固定点として使用することで、独自のフィギュラル(象徴的)な方法論を確立しています。さらに、過去の声のタイプやシーンをパロディ化することで、映画、録音、ショーといったよりアクセスしやすくなった文化的遺産が築く『博物館文化』を証言しています。そしてそれ以上に、これら模倣的要素を大都市の舞台に戻すことで参照の円環を完成させる、ということをディズニーは現在始めています。
『ジャングル・ブック』や『ライオン・キング』では、ポップやロックの声が多く用いられていますが、『美女と野獣』では、オペレッタやクラシックミュージカルの声質と演技スタイルが強烈に復活しています。皮肉な引用符がついているとしても、その影響は明白です。ポット夫人は、アンジェラ・ランズベリーによる昔ながらのベルターの声を持っています。ルミエールはジェリー・オーバックですが、オーバックがモーリス・シュヴァリエを模倣しています。ベルはオペレッタのソプラノであり、歌うのはペイジ・オハラ。彼女は古いミュージカルの『オーセンティック』な録音で名を馳せてきた人物です。その歌声と演技は、まるで『サウンド・オブ・ミュージック』でのジュリー・アンドリュースがマリアを演じ、丘の草原を腕を広げて駆け回る様子を彷彿とさせます。 リチャード・ホワイトが歌うガストンは、ハワード・キール、アルフレッド・ドレイク、ジョン・レイット、デニス・キング、そして何よりも、18世紀の衣装をまとった『New Moon』のネルソン・エディを再現しています。特に、映画の『Stout-hearted Men』が『The Mob Song』でパロディ化されています。このように、両方の主役キャラクターは互いに補完的な声楽ジャンルの遺産を引き継いでいますが、彼らは結ばれることはありません。つまり、これらのジャンルと声は意図的に打ち消し合っています。その代わりに、ベルのパルランドが登場し、古いシグナルの新しい融合を提示します。ベル自身が物語を通じて、ジャンルの多様なシグナルを解釈し、理解していく役割を担っています。
ディスコグラフィー
[AAWS] The Envelop Please …: Academy Award Winning Songs (1934-19930) (5CDs, Rhino Records, 1995)
[AL] Americans in London (3CDs) and [MB] The Music of Broadway: 1939 (2 CDs) (Box Office recordings, 1991-2)
[AMT] American Musical Theater: Shows, Songs, and Stars (4 CDs, Smithsonian Collection of Recordings, Washington DC, 1989)
[BBR] The Best of Broadway – The Revues (CD, Pavilion Records, Wadhurst, 1997)
[B20s] Bands of the ’20s, [B30s] Bands of the ’30 (2 CDs, Intersound, Roswell, GA, 1996)
[CD] Classic Disney (5 CDs, Walt Disney Records, Burbank, CA, 1995-8)
[DL] Theatre Royal, Drury Lane: The Great Musicals (CD, Conifer Records, West Drayton, 1997)
[GIGH] George and Ira Gershwin in Hollywood (2 CDs, Turner Classic Movies Music, 1997)
[GMH] The Glory of the Music Hall (3 CDs, Pavilion Records, Wadhurst, 1991)
[NYS] Music from the New York Stage: 1890-1920 (4 vols. 12 CDs, Pavilion Records, Wadhurst, 1993)
[OCR/] Original Cast Recordings: [/C] Carousel (1945, CD, MCA Records, Universal City, CA, 1993); [/G] Gypsy (1959, CD, CBS, New York, 1973); [/HD] Hello, Dolly! (1964,CD, Rca Records, New York,1989); [/O] Oklahoma! (1943/44, CD,MCA Records, Universal City, CA, 1993); [/r] Rent (2 CDs, SKG Music, 1996); [/SB] Show Boat, [/S] Sunny and [/LL] Lido Lady (1928,1926 and 1927, 1 CD, Original Cast Series, Pavilion Records, Wadhurst, 1994); [/SPG] Sunday in the Park with George (CD, RCA Records, New York, 1984); [/VWM] Very Warm for May (CD, AEI Records, Los Angeles, 1985)
[SSR] Star Spangled Rhythm: Voices of Broadway and Hollywood (4 CDs, Smithsonian Collection of Recordings, Washington DC, 1997)
[TVT] Television’s Greatest Hits (3 CDs) and The Commercials (1 CD) (Tee Vee Toons, New York, 1986-9)
[UB] Ultimate Broadway (2 CDs, Arista Records, New York, 1998) You Must Remember This … [CCF] Classic Children’s Favourites; [GFS] Great Film Songs; [GLS] The Great Love Songs; [GTS] Great Theatre Songs; [Ha] The Happy Album; [VCS] Vintage Comedy Songs (6 CDs, conifer Records, London, 1996).
2024/12/07 訳:山本隆則