以下の論考は、William Earl Brown のVocal Wisdom の巻頭に引用された、G. B. Lamperti の論考である。
*歌唱芸術の頽廃を防ぐこと ― G. B. Lamrerti
*エディタのメモ:これらの師匠の考えは現代の状況に適用できるように省略なしで本稿を発表する。そして、Lampertiは1893年に本稿を書いた!
最近では、声楽の技術に対するそれほど多くの熱意も多くの学生と教師もいなくなった。
そして、まさにこの時代に、この神聖な技術の衰退と、本物の歌手と、更に悪いことに、優れた歌の教師のほとんど完全な消滅が明らかになった。
これの原因は何か?どのように防ぐことができるか?歌唱の生理学への復帰によって。
セミーラミスまたはノルマを歌うことができる優れたドラマティックな歌手の不足が明らかになると同時に、我々はドンナ・アンナやオベロンを歌うことができる良い歌手の不足を見いだした。
世間一般の一部の人々は、もはや本当の声はなくなったと言い、他の人々は、もはやあらゆる才能は無くなったという。どちらも正しくない。声はまだ存在する、そして才能も、しかし変わったものは、昔の歌手によって修練されたような、呼吸、発声、そして、古典的なレパートリーの研究である。
彼らは、小さな役で聴衆の前に挑む以前に4、5年の間は勉強した。
現今では、2、3ヵ月の間ノドを酷使した後に、学生は自分をアーティストと思い込み最も難しい芸当を試みる。VerdiもWagnerも歌手に決して言わなかった:「我々の音楽を歌うために、歌唱の技術を勉強する必要はない;それは大きな声を持って、優れた俳優であれば十分である。」それどころか、Verdiが音楽の頽廃に関してナポリで議員に話したとき、彼は昔のまじめな研究に戻ることが不可欠であると言った。
しかし、Wagnerを歌うことができないドイツのテノールは重要な契約またはポジションを得ることができないので、Germanyでは、本物のソプラノだけでなくテノールも姿を消した。それ故、歌手は声を緊張させる:彼らは、 ワグナーにレパートリーを歌うために力んでしまう。
ワーグナーのオペラを歌う声の力を持たない テノールが、そのレパートリーを歌うことを完全に避けるならば、それは大いに望ましいことである。ワーグナーのオペラは、大げさな声をあげてレシタティーブを歌うことができる強力なテノールを要求する;それにもかかわらず、ただきれいで、フレッシュで、快いが、弱い声しかも持たない テノールが、ワグナーを歌うと言い張る。彼らは、以前に成された完全な呼吸、ソルフェージュと発声の研究なしで、そして、声区のいかなる理解もなくこれをする。
テノールは、最も繊細なタイプの声を備えている:それは、非常に真剣で注意深く準備された研究過程が求められる。しかし、ドイツの大部分のテノールはバリトンの発声で歌う ― 当時彼らはそれがワーグナー・テノールであると信じていたからだ ― 。彼らは中声を押しつけて、酷使された声が、時間とともに、老けて疲れた声になることを理解していない。
私は、イタリアで、Pardiniという名のテノールが72才でロッシーニのオテッロを歌ったのを聞いたことを覚えている 。彼は、まだ青年のような新鮮な声を持っていた。テノール、Stagno(私は1860年にジェノバで彼のデビューを手伝った)は最後の32年の間歌いつづけた。「Cavalleria Rusticana」は彼のために書かれた-彼はワグナーの全レパートリー、マイアーベーア、ヴェルディ、ほかを歌った;、にもかかわらず、彼は、他の、例えばNegri、CompaniniとTomagnoのように、依然として新鮮な声を維持している。
なんで、パッティとセンブリッチ夫人の声は、あのように長く保たれるのか?彼女らが声に合うレパートリーだけを歌うからだ。
1885年に、私は「椿姫」と「ルチア」でセンブリッチのデビューを助けるためにパリにいた。ある日、彼女は私に「ファウスト」が歌いたいと言った。
私は強く反対して、彼女のレパートリーのオペラだけを歌うようにしきりに勧めた。(彼女は「ファウスト」で声を害して、短い期間に何千もの他のような歌手になっただろう。)
この時代は、先入観によって動かされる:誰もかれも― ヴェルディとワグナーの音楽は声を損なうと言う 。つまり完成された声にはあてはまらない。そして、ここに歌の衰退の1つの原因がある。それを誰も理解しないだろう、それにもかかわらず、それはとても単純なことである。不十分に訓練された声(それはしなやかさも呼吸に支えられたレガートの技術も持っていない)は、当然すぐに消耗する。
比較してみよう:ピアノを強く弾く人は必ず名手ですか?いいえ、完全に芸術的手腕に発展するために、真剣な研究がその欲求に加えられなければならない。
それ故、人は どのように、― 声(最も美しいが、同時に最も洗練されて最も繊細な楽器である)が、すべてそのテクニックの研究を通じることなしで魂の情熱を明らかにするだろう、と期待することが出来るであろうか?
発声を学んでいる若い歌手達が、 文字通り、口を開く方法を知る前に、声を訓練して、それをなめらかで柔軟に作るために必要な声の真の支え(呼吸のメカニズム)を真剣に勉強することの代わりに、すぐさま歌とアリアを歌うことは、遺憾なことである。
何人かの教師達は ― 彼らが生徒の経験のなさを利用する点で ― 歌の技術の短所に対して大部分責任があります。
私の見解において、歌手が大きい声を持つことも、さらにきれいな声を持つことも、絶対的に必要でない:人はただ呼吸、発音とレガートの純度が保証されれば、あらゆる声は耳に快く聞こえるだろう。最近ほど、呼吸と音声のなめらかさ(レガート)の訓練が歌の教師によって無視されたことは決してなかった。そして、まさにこれらの2つのことは、歌手の、そして、歌唱教師の重要なポストに着くことを望む人々の主たる必要条件である。
軽いソプラノのための現代の音楽はモーツァルトとロッシーニの時代のコロラトゥーラが欠けているという事実にもかかわらず、呼吸、喉頭と音声のなめらかさ(レガート)の訓練をさらに加えることは、必須の原則である。
この研究なしで良い歌の技術は、すぐに実現不可能な夢になるだろう。歌手が呼吸をコントロールして、音声を結びつける方法を知るまで、彼は容易に― 新しい作曲家によって要求される表現のあらゆる変化を伝えることができない;音声をより長い間保つこと(バイオリンまたはチェロでそうすることができるように)、そして、歌に、ドラマティックな技巧を可能にするニュアンスと音色を与えること。
すべての発声研究の基盤は、呼吸のコントロールにある。
声の技術開発は、肺の二重の機能によってもたらされる、それは:第1に ― 音を立てずに息を吸うこと ― ;、そして、第二に、発声器官を完全に独立した状態に保つために、充分に節約出来るように呼吸のコントロールのために横隔膜を使うことである。(横隔膜は、その上に肺がのっている、歌うことにとって不可欠な筋肉である。)一旦、呼吸器官を習得するようになれば、レガートの研究を始めることができる。
レガートは、声を運ぶこと、または、1つの音声を分からないぐらいに別の音声に結合させることを意味する。1つの音声と次の間で、呼吸は中断されることなく、まるで音声が1つであるように保持されなければならない。しかし、低い音から高い音への移動に於いて、呼吸は声とは反対の方向をとらなければならない。
これらの予防措置がなければ、レガートを歌うこともできなければ、純粋なコロラトゥーラを達成することもできない。そして、そうでなければそれは不完全であるか跳びはねる(cavallina)ままだろう。呼吸のコントロールは、すべての発声の支えである。
肺の中に空気の残りがあるから、フレーズとカデンツァを終えることができる。しぼんだ肺でフレーズを終えることは、重大な間違いである。
多くの歌教師が勧める 声門打撃(乱暴なアタック)は、声に絶対的に有害である、そして、フレーズを上手く開始するためにそれを使うことは間違っている ― ;結局は、喉頭の有害で、致命的な炎症を容易く発症してしまう可能性がある。
生徒が特定の衛生学的な原理に従うことは、望ましい。
とりわけ、大きな声で喋ってはならない、食後すぐに歌ってはならない、おいしいくて別の豊かな食品を自制する、フルヴォイスによる練習、しかし、ほどよく、休みながら。好感の持てる表情を得るため、肩を決して持ち上げない等のために、鏡の前で勉強なければならない。
生徒が、舌が高いままだったり、歯を閉じっぱなしの欠点があるならば、鏡はそれを克服するための唯一の方法である。私は、人工的な手段の使用、口の中とか、舌の上、または、歯の間に物を置く等、を控えることを強く勧める。これらは、役に立たないことが経験によって充分に証明された 遊び道具である。歌において、スピーチで行うよりよく聞くために「耳をそば立てて」はならない。そのような労力によって、喉の筋肉はすぐに堅くなる。
また、初心者は多くの場合、歌っている間 に「それら自身を行かせる 」という誤りをおかす、 それが良い結果を達成すると信じているので;それは間違いである。頭は常に冷静で、心だけが暖かくなければならない。
歌の勉強のために最適な言語はイタリア語である ― 帯気音がない唯一の言語であるから。私がヴォーカリストのために選ぶ 音楽は、ロッシーニ、モーツァルト、ベッリーニ、ウェーバー、ドニゼッティ、ほかである。
歌う勉強に専心しようとする生徒にとって、最初から、声の使用とすべての呼吸の助けで確かな勉強をしてくれる教師を選ぶことは、絶対的に必要である。彼はレガートの絶対的な達人でなければならず、その展開と細部のすべてに於いて彼の知識を生徒に繰り返し教えるために実際に示すことができる。
もちろん、教師がすばらしい声を持っている必要はない、しかし、最高度に、技術的な細部を彼の生徒に与える技巧を理解していなければならない。そのうえ、相互関係の磁力が生徒と教師の間になければならない。そして、それは教師から生徒にアイデアを伝えるのを助ける。教師は、正しく修練されたメカニズムへの助けになる深い知識と、その知識を生徒に与える能力を持たねばならない。教師は、彼の知識で生徒を思うままに操らなければならない。
メロドラマ風の芸術にとっての大きな損失は、オペラ-ブッファと「セミ-セリア」(ロマンティック・オペラ)(例えば、例えば「ドン・パスクァーレ」、「フィガロの結婚」または「シャモニィーのリンダ」、その他)の消滅である。昔は、我々は真の芸術家をそのようなレパートリーで育てた。
強健な声と真にドラマティックな能力を授けられた歌手達は、― 数年間、喜劇やロマンティック・オペラで「tirocinio;トレーニング」として歌った後に、この真実を発見した 。(Tirocinio;トレーニングとは、最初から全く実際にあらゆるものを通してやり遂げることを意味する。)その時までは、彼らはドラマティックなオペラで彼らの勉めを果たすことはできない。これらの歌手は、その次に表現媒体として成熟(provetti;経験する)してゆき、完全な(profondi;深い)芸術家となる。
聴衆達は、「理髪師」、「Cosi Fan Tutte」または「フラ・ディアボロ」に飽きてしまう ― それが下手に演じられるならば。
いま、私は尋ねます、なぜ、現代の作曲家は、ワグナーかヴェルディを真似する代わりに、良いコミックやロマンティック・オペラを書かないのか?それは、歌の技巧の復活への助けとなるだろう。
多くの場合、芸術-オペラの貧弱な演奏の原因は、指揮による。「ローエングリーン」、「ワルキューレ」、「アイダ」または「オテッロ」が演じられていないとき、良い音色、良い装置または歌テクニックを気にしない。 歌手が彼らの仕事に耐えられるかどうかを見るために誰も思い悩まない。
最終的に小さなオペラでは、コスチュームは古めかしく、恐ろしい冷感症の演奏である。
オペラの効果は、まったく失われる。
批評家は、できばえを非難する。
指揮者は、正直に答えなければならない:
「私(コンダクター)は、用いられる充分な注意を持たない。我々が真の歌手についての知識と能力をもはや持っていないので、歌手は器楽編成法からの援助なしでこれらのメロディーを歌うことができない。それは、これらの演奏がなぜ実際に憐れみ引き起こすかという理由である。」
これらすべてにもかかわらず、それは、我々がさらに後退してはならないという私の堅固な確信である。若い作曲家が ― 彼らは、最初の作品で「タンホイザー」または「アイーダ」を書くことができるワグナーやヴェルディではないと理解するだけでよいのだ。彼ら自身の利益と芸術の利益のために、彼らは適度の規模のオペラを書かなければならない。マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の成功は、最もはっきりとこれを証明した。
イタリア式歌唱法(良い歌唱の唯一の真の方法)で勉強した後に、ドラマティックな音楽を解釈し、歌うことは不可能であると信ずることは間違っている 。
マリブラン、パスタ、グリジ、ゾンターク、クルヴェリとカッタラー二は、偉大なドラマティックで技術的に卓越した歌手ではなかったか? そいてかれらは、ノルマ、オテッロ、セミーラミゼで同じように卓越していた。
これらの歌手が、彼らがベッリーニとロッシーニと同時代だったように、ヴェルディとワグナーの同時代の人であったならば ― 、彼らは技術的に完全で、同時に真実にドラマティックな歌手であっただろう、そして、彼らは、「ノルマ」、「ワルキューレ」、「アイダ」と「セミーラミス女王」を同じ程度によく歌うことができたであろう。
人は、「ドラマティックな解釈」という用語と、悪趣味なデモンストレーション、または、声を強要してそれに伴う行為を誇張する高揚とを混同してはならない。不幸にも、これはしばしば現在の芸術家にも見られる。そして、彼らは自身をドラマティックな歌手とは考えていない。
リヒャルト・ヴァーグナーは、彼の著述においてマダム・シュレーダー-ドゥブリアンについて書いている、「彼女は、『声』を持たなかった、しかし、彼女は、とても完璧に呼吸をコントロールする方法を知っていた、そして、真の女性的精神を前面に押し出すことができるぐらい素晴らしかったので、聴衆は、それが歌であるとも、声であるとも思えなかった。」
正しい歌を理解する者だけが、歌で真の力と表情を得ることができる ― 彼がイタリア、フランス、ドイツの音楽を歌うかにかかわらず。音階には7つの音しかない、そして、リスナーに心地よく、声を保存するために、それらをあらゆる言語で歌うことは同程度に難しい。
これらの時代において ― 歌唱芸術の要求が曖昧になってきているとき、生理学と昔のイタリア式メトードの勉強に戻そう!
これらの意見は、もちろん、「メトード」ではない。それらは歌唱の頽廃の原因を単純に説明する ― 私が長年の経験においてそれらを観察して来たように。