以下の引用は、マルティーンセン=ローマンの『歌唱芸術のすべて』からのものであるが、非常に重要なテーマを明確にまとめています。

発声器官内のあらゆる緊張の相関関係を体験し、その後再び全体の〈中心〉であり、最重要部である喉自体が、完全に阻害されない独立した状態において、その浮動する微妙なバランス、その幸運な均衡状態を保てるように、緊張領域相互間のかの自由を獲得する ― このことはただ長い修練の道によってのみ成し遂げられる。その道の終わりに輝いているのは、喉の自由という言葉である!しかし、その道の始めに立っているのは、呼吸や全身の緊張も、母音発声と子音発生の交換も、決して〈喉を阻害〉してはならない、という道標である。
喉の自由! 根本的にはこの言葉が発声訓練の一切の技術的目標を示している。
〈自由〉と〈位置〉とはどのように合致するのであろうか? かくも対照的な2つの概念の間には、どのような結びつきが可能なのだろうか? 喉の自由というすばらしい目標に対しては、喉頭の位置などという考え方は、全然条理に合わないのではなかろうか? それでは、喉頭はああ置いたり、こうととのえたり、しつらえたりすることのできる、全く不自由な、単なる物体のようなものではなかろうか?
マヌエル・ガルシアIIの弟子であったシュトックハウゼン(1826-1906)は、極めて偉大な歌手であり、またその時代の多くの大歌手の教師でもあったが、疑いもなく、喉の安定性、喉の構え、喉の開きの重要性を鋭く認識した人物で、この認識に基づき、喉頭の深い位置という、その当時としては全く〈新しい〉理論を告知したのである。 「主よ、我をわが友より守り給え、わが敵に対しては我自らが守りますゆえに」という有名なお祈りを、毎日唱えなければならなかったことであろう。 というのは、彼の友人、彼の熱狂的な信奉者、彼の助手と弟子たちがこの理論から、喉を人為的に深く押し下げ、それに付随する諸々の極端事を固定化するという唯我独尊のドグマを作り上げてしまったからである。(太字強調:山本) このような危険な行き過ぎによってもたらされた乏しい実りは、声楽界で〈シュトックハウゼン法〉の評判を著しく下げてしまったので、何十年間も〈喉頭の位置〉という概念は、あとうかぎり黙殺されることとなった。ようやく徐々に、この概念に対する公平な見方が再び現れ、この重要な発声法上の問題に手が染められるようになった。

それでは、それは本当に重要な問題なのであろうか? 初心者段階では、喉頭はいかなる音程の変化に際しても、喉が狭まったときは上に、圧力を受けると下にという具合に、目に見えるほど活発に上下する。不安定で落ち着きのない初心者の喉は、〈i〉音のときは上にはね上がり、〈u〉音のときは喉元に消えるというように、母音のいかなる変化につれても一緒に動く。 このような初心者段階をいつまでも続けられないことは、根本的には自明のことでなければならない。
喉の安定と喉の扱いは、何百年にもわたって知られている概念である。 〈喉の扱い〉という重要な語は、音高の結びつきにおける、かの〈かくれた〉ポルタメントという要請も含んでいる。それは音高変化の際、声帯筋の突然のぎこちない動きを防ぎ、この変化を絶えず〈滑らかな〉機能で遂行するのである。シュトックハウゼンの教えたことは、それ自体では新しいことではなかった。それはきわめて古い声楽的英知に基づいていた。 ただ〈深い位置〉という言葉のみが新しく、あまり幸運ではなかったのである。 少なくとも、それは熟達者のためのひみつの合い言葉にとどまるべきであった。

未経験者、つまり弟子に、喉の構えや〈深い位置〉に関して何を語ってよいかは、その人の欠陥傾向の種類と、彼の心的態度と理解力によって決まる。初めからあまりに深く位置している喉もある。 このような場合には、誤った位置自体に対して注意を向けさせるよりも、補助的連想(たとえば、あたかも息が各音高を柔らかくゆさぶり、一緒に持ち上げるかの連想)を用いて、リラックスさせる練習をした方が、たいがいよりうまく行くものである。もちろん、効果のある補助的連想のみが、是認される。 客観的な〈正しさ〉はそれほど重要ではない。 治療効果のあるものが良いものである。声を作る上では順応と実り豊かな成果こそ問題なのである。唯一の根拠は最終成果 ― 喉の自由、バランス、緊張の調和である。

無意識的に正しく調整された喉頭の位置(それは最初いわば穏やかに〈つるされた状態〉である)へのこのような導きを、若い弟子が一番上手に獲得できるのは、彼が注意力を軟口蓋領域の発声器官形成に向けたときが多い。 というのは、喉頭は口蓋帆と正反対の動きを自動的に行うからである。 〈驚いて〉息を吸い込むとき、軟口蓋は広く高くなるが、この無理のない拡大の感覚は、その結果、喉も直ちに自動的により深く下がるという状態を引き起こす。 ただ自動的な影響関係に対する教師の無知のみが、正しいやり方の代わりに、意図的で固定的な深い位置という強制を要求することができるのである。

昔のイタリア人の英知は、深い喉の構えのを教えるように彼らに命じはしたが、彼らはしかし、彼らの声楽的教示を喉の構えと直接関連づけることはしなかった。 この事実を推測させるのは、「良い呼吸をするとは喉の奥底を開くことである」という金言のみではなく、間接的な影響関係を示す更に2つの命題もそうである。 この言葉の中には、まさしく口蓋の隆起と喉頭の沈下との間の諸連関に対する体験知が生きている。 第2の意味深長な言葉は〈胸力〉という表現で、昔のイタリア人の間ではこのことについてかなり多く語られた。 上部胸郭の隆起した安定性と、一定状態での拡張に関係するこの表現は、全体的諸連関に関する知恵の中に、非常にうまく組み込むことができる。 すなわち、隆起した胸骨が喉頭の位置に対して有している筋肉的な結びつきを、これらの世界的な巨匠たちの観察は見逃していなかった。胸骨の安定性は喉の構えの安定性と直接的な関係にある。

発声訓練の、〈自然科学的分野〉において、これらの巨匠たちの仕事ほど、内発的な自然把握の意義を明瞭に示すことのできるものはない(これは頭脳知によって固定的な基本原則を抽出することとは反対である)。これらの仕事は、その後喉頭鏡の発明によって開始され、固定化によって、自由で開放された喉の振動を危険にさらしたあの声楽的方法とは対照的である。