[Lilli Lehmann, HOW TO SING 1902/1993 Dover edition] p.42

 

Head Voice
ヘッド・ボイス

頭声は、最も深いバスから最も高いソプラノのすべて声で若さを表します ― それは、ありとあらゆる声の各々の音に上音を提供していることは言うまでもありません。共鳴のない音声は年老いた声です。若さ(新鮮さ)の魅力は、あらゆる音声で響く上音によって与えられます。高さ、若さ、声の新鮮さ=[e]と[i]。

そのように、あらゆる音声を「伝える」ことができ、容易に高い声に達するのに十分な高さを維持できる頭声(頭腔の共鳴)を利用することは、難しい技術です、しかしながら、それなくしては歌手は声の永続性をあてにすることはできません。多くの場合知らないうちに用いられ、不注意、誤ったメトードまたは無知によって失われてしまいます、そして、それはめったに回復されることができませんが、仮にできたとしても、時間と苦労と忍耐の最大の犠牲を払わなければなりません。

純粋なヘッド・ボイス(第3のポジション)は 、本来の薄さのために、 男女を問わず、ほとんどすべての歌手の継子として無視されてきました。その継父母は、ことばの最悪の意味で、男性と女性のほとんどの教師たちです。それは口峡柱の完全な低下によって生成されます、その一方で、鼻の後ろの口蓋の最も柔らかいポイントは、非常に高くまるで頭の中へ、最も高いポジションへ引き上げ、頭の上で[i]母音をイメージします。【訳注:口峡柱を完全に低下させて軟口蓋を高く上げることは不可能では?】

舌の後ろは高く、喉頭もまた、その感覚では、舌の下で高くしなやかに立ち上がっています。【訳注:後半の英訳は、the larynx also, in the sensation of it, stands high and supple under the tongue.】すべての器官は弾力性があり、締めつけや誇張があってはなりません。

(編集中)ソプラノと同様テノールでも、ある程度のピッチまで、頭声は、胸の共鳴と混ざっています。テノールにとっては、胸声がかなり酷使されますが、これは当然のことです、しかしながら、ソプラノにとっても、往年の輝かしい妙技よりも表現力が必要とされる(ワグナーの作品の影響が、特に言葉の意味の解釈において最も重要になったので)ので、賢明な混合(mixture)は推奨されるでしょう。
ヘッド・ボイスも、また、それ自体が限定された声区と考えてはいけません。
高い中音域の先行する音声を押し出した後に、頭声が突然に単独で聞こえるならば(私は、胸腔共鳴または口腔共鳴とつながっていないと言います)、それはもちろん著しく薄くて、中音から、なんらかの突然に決まった場所に跳躍するような不都合が目立ちます。
声の生成において、「声区」があってはならないし、作られてもならない。音声はその全ての音域を通して均一に作られなければならない。
私は、これによって、胸声でも頭声でも歌ってはならないと言っているのではありません。
逆に、熟練した芸術家は、様々な表現手段を自由に使えるすべての方法を持たなければなりません、また彼は、要求される表現に応じて、広く多様な共鳴の質を持った単音を使用することができるかもしれません。
これもまた、勉強中に気を付けなければならないことです。
しかし、これらの研究は、個人の特徴や才能に応じて、個々のケースに合わせなければならないため、良い教師によってのみ授けられ、導かれることができます。

ヘッド・ボイスは、その重要性が正しく理解されるとき、男女すべての歌手の最も有益な財産となります。シンデレラのように扱われたり、最後の手段として扱われたりするのではなく― 遅すぎて結果が伴わないことが多いので、一度失ったものを取り戻すには時間がかかりすぎるから—他の誰にも負けない守護天使、ガイドとして大切に育てていかなければなりません。その助けなしでは、すべての声は輝きと運声力を欠き、脳のない頭のようになってしまいます。絶えず他のすべての声区の助けを借りることによってのみ、歌い手は声を新鮮で若々しく保つことができます。頭声の慎重な適用によってのみ、私達は最も疲労する要求を満たすことができる持久力を得ることができます。頭声を用いるだけで、私達はすべての声で全音域の完全な均一化をもたらし、その音域を広げることができます。

これは、彼らが高齢に達するまで声を若く保つ歌手達の大いなる秘密である。偉大な努力が要求されるすべての声は、それがなければ確実に失敗に至るでしょう。それゆえに、モットーは、損なわれることのないパワーを保つために常に練習また練習でなければなりません 。練習は、歌手にとって、声に新鮮さをもたらし、筋肉を強化して、あらゆる音楽作品よりもずっと興味深いものとなります。

私の説明の中で私がしばしば同じことを繰り返すのは、それは無意識ではなく意図的なものなのです、その理由は、もちろんこのような主題の難しさと、多くの歌手が、そのような主題について知る価値があると思い、一度は急いでこのような論文に目を通せば、それで十分と思うような表面的で怠慢な歌手が多いからです。

点線は、ソプラノとテノールの声の感覚を示す。

歌唱技術の難しさ、声の管理の難しさ、さらには第二の自分である自分の器官や間違いの難しさをほんのわずかでも知るために、人は絶えず本を読み、絶えず自分自身で勉強しなければなりません。

声の現象は、一つの音声を出すために、ごく狭い空間で結びつけられる様々な諸機能が複雑に絡み合ったものですが、その諸機能は、聞くことしかできず、ほとんど感じられません、しかし、実際には、ほんのわずかは感じられるでしょう。したがって、私に場合も、単一の機能の説明を繰り返し、相互に関連づけながら、渦巻きのように、出発点に戻ってくることしかできません。

歌っているときには、発声器官に属する軟骨や靭帯、腱などの様々な活動を感じることはなく、それらが連携しているとしか感じられません、その働きの正しさは耳からしか判断できないので、歌いながらそれらのことを考えるのはばかげています。科学的な知識があるにもかかわらず、私たちは練習中、声の感覚に注意を向けざるを得ません、意識することができるものは、呼吸器官の触知可能な機能、鼻の位置、喉頭の位置、口蓋の位置、横隔膜のアタックの位置、そして最後に、頭腔の共鳴感覚など限られた感覚だけです。完璧な音色は、これらすべての機能、つまり、私が説明しようとする感覚と、耳だけが行うことのできるコントロールの複合的な操作によって得られるものです。

これは、自分の声を聞くことを学び、常にそうできるような歌い方を身につけることがなぜそのように大事であるかという理由です。

感情的な大きなストレスの中にあっても、自制心の力は決して失なってはなりません、あなたはいい加減に歌ってはならない、それは不用意である、またはあなたの力を超えて極端な限界に達するまで歌ってはいけません。それは、粗暴さと同じことで、あらゆる芸術から除外されなければなりません、特に歌唱芸術において。リスナーはあらゆる音声、歌い手のあらゆる表情、そしてお望みとあればより多くのものが与えられるという感覚から快い印象を得ているに違いありません。

強さを粗暴さと混同してはなりません、その2つが互いに手を取り合ってはなりません。ずば抜けた才能の持ち主ならば、多分他の人の力が及ばないところまで越えていくことが許されるかもしれませんが、別の人にとってはご法度です。それは常習化することはできないので、一つの現象に限定されるのがベストです。さもなければ、たちまち、せいぜいそこから遠くない露骨な現実主義の段階に行ってしまうでしょう。粗暴さは、たとえ最も偉大な特別の歌手の場合でさえ、それは禁じ手なので技巧的な正当化には決して至りません。

一般大衆は、解釈芸術からその嗜好を形成するために、善良で高貴なものだけを目の当たりにするべきです。 その前には、粗野なものやありふれたものがあってはならず、手本にすることでそれが正当化されると考えるかもしれません。

喉頭の低い位置は、母音[u]を発音することによって、また、高い位置は、母音[e]と[i]を発音することによってたやすく得ることができます。喉頭、舌、口蓋のなにか1つを考えるだけで、それぞれを互いに密接な関係に置くのに十分なことがよくあります。私が高い声域で歌うときはいつでも、舌を使って、喉頭が上がり、斜めの位置をとるのをはっきり感じることができます、しかしながら、それはただ舌のより接近した結合を意味するだけではなく、喉頭全体が下がったり柔らかくなったりしていることを意味しています。とはいえ、頭の先から爪の先まで緊張のエネルギーは増加しています。

動きは、もちろん非常にわずかです。それでも、喉の中のすべてがまるで縦方向に伸びているように感じます。

 

2020/05/06 訳:山本隆則