舌は、喉頭のすぐ上に位置し、下あごのほとんどの部分を占める筋肉の塊と言えます。それ故に、舌の緊張はすぐに喉頭に悪影響を与えます。舌は、歌唱中や話しているとき,最もよく動く発声器官と言えるでしょう。その仕事を果たすためには決してその動きを邪魔してはなりません。しかしながら、舌の感覚中枢は、表面の味覚中枢にしかなく、舌の緊張は本人にとってはなかなか自覚できません。 それを修正するためには、発声中に鏡を見て舌の表面に全くしわや不自然なくぼみがないことを確認することが必要です。
日本の発声教育の現場では、舌根をやたらと下げさせ、軟口蓋を上げさせる方法が今だに広く推奨されています。これは、軟口蓋と舌根を拮抗させて、喉を開けているつもりなのでしょうが、それは口の奥を開いているだけで喉を開けることにはなりません。
軟口蓋は喉頭と拮抗させるべきで、舌根を下げると,舌自体に過剰な緊張を与え、その真下にある喉頭の自由を奪い、押さえつける結果になります。舌は通常、リラックスしているときは口の上に位置します。睡眠中、正常な鼻呼吸をしているときに舌がどこにあるか思い出してみましょう。
まず、舌が歌唱に於いて担う仕事は、調音、つまり、声道の形を変化させることによって正確な母音を生成すること、そして子音を生成することであります。例えば、〈イ〉母音は上あごの前方と舌を接近させなければならず、〈ウ〉母音では、軟口蓋に向かって舌を上げなければ正しい母音を生み出すことはできません。この基本的な知識を知るだけで、舌根を下げる行為が間違いであることが分かるはずです。

しかし、やっかいな問題は、上記の説明は話し声や、楽な音域での歌唱における場合に当てはまるものであり、高音部での歌唱においては調音の法則に音高の法則を加味しなければなりません。つまり、全ての母音において、低音と高音では母音の形に修正を加えなければなりません。この問題は、カヴァーリングなどの発声上重要なテクニックの必然性を生み出します。
声帯振動は母音の変化、音程の変化などの影響を出来るだけ受けないことが望ましいのです。

最も重要なことは、共鳴器(調音器官)と発振器(声帯)つまり、調音と発声はそれぞれ独立した動作であるという概念です。

【いろんな証言】
口は笑いのポジションで、しかし、しかめっ面なしで保たれるべきで、唇の間のスペースは、人さし指の端が入る余地があるぐらい、充分に開いていなければならない…舌は自由に浮遊した状態を保たれなければならない、口の中で可能な限り最も小さな空間を占めるぐらいの位置になければならない。[Luigi Lablache, A Complete Method of Singing 1840]

リリー・レーマンは、舌を高くすることをはっきりと推奨しています。
舌の先端は前歯にあったっているか、あるいは歯よりも下にあるように感じる。私は舌の先端をぐっと低くし、そうすることによって、舌を前の方に押し出すようにして高く盛り上げる。
舌が平らになっていると舌全体でのどを押さえつけるので、舌は高く盛り上がっていなければならない。生まれつき舌に深い溝をつくる人がいるが、そのような舌はのどを押さえつける。そのような溝はなくなるようにしなけらばならない。[Lehmann, Lilli.  Meine Gesangkunst; 訳 川口豊 p.70]

2017年に出版されたKenneth W. Bozemanの”Kinesthetic Voice Pedagogy”は、一見、オーディオ装置のマニュアルのような薄っぺらな外観を持っていますが、21世紀の発声教授法において、必須となる音響学に基づく非常に優れた書物です。その中でボーズマンは繰り返し舌の扱いの重要性を述べています:

舌は、母音とピッチが許す範囲で高さと前面に保つようにマップされなければならないのに対して、「後ろの部屋の床」(それは舌とあごの後下部の喉頭の底面にある)は、低く、いくらか左右に広がっているのを感じられなければならない。後ろの部屋の高さと深さの感覚は、口のすぐ後ろの口咽頭部での間違った空間感覚を加えることなく、達成されなければならない。口咽頭の後ろの壁は、緩められて、実際に耳の前にあると感じられるようにマッピングされなければならない。

彼の用いる、非常に有益なメタファーである、声道を前と後ろの部屋に分けるTwo Room Metaphorは、舌背の高さを必要とします。また、リリー・レーマンの過激とも思われる意見を21世紀の科学によって、その正しさを証明したともいえるでしょう。