INTERPRETATION IN SONG

PART III

p. 193

Expression Marks & Conclusion
発想記号とまとめ

EXPRESSION MARKS発想記号
書面による発想記号の無視

一見すると、これはまったくの異端のように思われるかもしれない。しかし、発想記号は人間のために作られたのか、それとも人間が発想記号のために作られたのか。一つだけ確かなことがある ―― 音楽そのものが偉大であればあるほど、恣意的な発想記号は少ないということだ。バッハとシューベルトは、それを恐れなかった。
楽譜を ―― おなじみの「安っぽい効果」と「過剰な凝りすぎ」で ―― 埋め尽くすのは、いかさま師だけである。作曲家の発想記号とは、その作曲家個人の発想記号であって、歌い手個人には合わないこともあるのだ。
力のある作曲家はこのことをよく知っている。そして、自らの音楽が音楽として自立するだけの強さを備えているならば、その解釈を一個人の手に委ねる ―― その一個人が信頼に値する者でありさえすれば、肝心要のところは深い敬意をもって扱われるはずだ、と確信しながら。
近ごろの歌曲には、解釈者が身震いしながら眺めるようなものが少なくない。発想記号、いや息継ぎの記号にまで穴だらけにされ、恣意的な指示でぐるりと囲い込まれ、多言語まじりの口語表現を四方八方に放射している ―― そのさまは、まるで鉄条網のごとくである。歌い手と伴奏者は顔を見合わせて微笑み、その歌を一つのまとまりとして研究し、そして自分たちのやり方で歌うのだ。
本書が何かを説いているとすれば、それは個人主義である。音楽における共産主義とは、月並みのもう一つの呼び名にすぎず、気の抜けたビールの臭いがする。熟練した働き手はその報酬に値する ―― そして芸術作品としては、手作りのものが機械仕掛けのものに勝ることが、いつの世も変わらないのだ。
力ある作曲家にとって、力ある解釈者とは、信頼するに足る人物である。作曲家は知っているのだ ―― 自らの記したすべての pianoforteaffrettandocon grazia が、模倣家にとっては必要であっても、一個人にとっては余計か、あるいはむしろ足かせになるということを。だからこそ作曲家は、それらの扱いにおいて、その一個人を縛らずに自由のままにしておく。ひとつまみの果敢さは、彼(作曲家)の語彙にあるすべての発想記号にも値するのである。

193/194

ある歌い手は、声の面でも気質の面でも、別の歌い手とは異なる天分を備えている。発想記号に厳格に従うことが、ある者には成功を、また次の者には失敗を意味することもありうるのだ。だが、ここにはこれよりもっと広い見地がある。一つの歌が、ある歌い手に与える感情的な作用は、別の歌い手に与えるそれとはまったく異なることもありうる、という見地である。歌い手の天分や限界とはまったく別に、音楽そのものの響きが、ある人を涙へと、別の人を怒りへと、さらに別の人をば笑いへとさえ動かすことがある。ブラームスの「むだなセレナード(Vergebliches Ständchen)」は、ある歌い手たちによって半ば真剣な気分で扱われ、それに応じた色合いを与えられるのだ。
別の歌い手たちには、それは同じようには作用しない。彼らにとってその歌は、ささやかな活動写真の一場面であって、(少なくとも片側には)終始ひそやかな笑いが流れ、猛烈な速さで演じられ、ものの一分で終わってしまうものなのだ。このどちらかに、もう一方の読み方を頭ごなしに採れと求めることは、自らの信ずるところを呑み込んで捨てよと求めるに等しい。

よく知られた傑作を扱うにあたって、歌い手は「伝統」と向き合うことになる。伝統には、その利点もあれば、欠点もある。どんな個人主義者であっても決して踏み越えることのない伝統というものも、いくつかは存在するのだ。それらはきわめて堅固な土台の上に築かれており、その構造物は建築的にもまことに美しいため、これに手を触れることは破壊行為(ヴァンダリズム;5世紀にローマを略奪したヴァンダル族に由来する語で、「文化財・芸術作品の(無知・無神経による)破壊・損壊」を指す。)にほかなるまい。また別の伝統 ―― とりわけテンポに関わる事柄では ―― は、偉大な解釈者たちによって受け継がれてきたものであって、そこから逸脱すべきではない。なぜなら、変えるためだけに変えるのは、愚かしいことだからである。しかし伝統は、ともすれば崇拝の対象(フェティッシュ)にまで祭り上げられることがあり、そうなると実際にはまったく無益なものにもなりかねず、いざというときに頼みとするには危ういものともなりうる。歌唱における伝統は、たいていの場合、何かしらの偉大な歌い手によって打ち立てられてきたものなのだ。

194/195

その歌い手は、声の面でも精神の面でも、仲間たちをはるかに凌ぐ天分を備えていた。そして、その人の打ち立てた伝統の水準は、その生前に彼の解釈が衆人の頭上はるかに高くあったのと同じように、死後もなお、他の人々の頭上はるかに高いところにありつづけるのかもしれないのだ。シュトックハウゼンが、あるシューベルトの歌曲を、その独自のやり方で、他の誰とも違うように歌ったからといって、あらゆる音楽院のあらゆる声楽の弟子が、当代随一のリート歌唱の巨匠 ―― その最も傑出した一個の名人 ―― の読み方を、身体的にも知的にも、そのまま採り入れられる素質を備えている、ということにはならないのだ。伝統は、歌い手に実際の身体的損傷をもたらすとまではいかずとも、数多(あまた)の才能を窒息させる元凶となってきた。偉大な解釈の伝統は、永遠に変わらぬ美であり、よろこびである。それは、すべての人が仰ぎ見、それと引き比べることができるよう、台座の上に据えられてしかるべきものだ。だが、それを決して戒律の石板になぞらえてはならない。個性と想像力こそ、あらゆる天分のうちで最も偉大なものである。役立たずの伝統は、その一方(個性)を萎縮させ、もう一方(想像力)を死に至らしめるのだ。しかし、想像力が自(おの)ずと湧き出るものであるのと同じだけ、個性もまた責任あるものでなければならない。独創を気取るあまり作曲家の記号を改変したり、気まぐれから伝統を侮辱したりする歌い手は、まやかし者であり、進歩の敵なのだ。

“Con discrezione in that and  many other things.”
「それについても、ほかの多くの事柄についても、思慮をもって」


【訳注:これは本書 Part II の「The Singing of Recitative(レチタティーヴォの歌唱)」の章で引かれた、ブラームスの言葉の再掲。
そこで著者は、ジョージ・ヘンシェル(George Henschel)の著書『ヨハネス・ブラームスの個人的回想(Personal Recollections of Johannes Brahms)』からブラームスの手紙の一節を引用していました ―― 「私の経験するかぎりでは、誰しも遅かれ早かれ、自らのメトロノーム表示を撤回してきた。いわゆる自由なテンポ(elastic tempo)は、何も新しい発明ではない。それ(=メトロノーム表示)についても、ほかの多くの事柄についても、『コン・ディスクレツィオーネ(con discrezione)』と添えておくべきなのだ」。
con discrezione(コン・ディスクレツィオーネ)はイタリア語の音楽用語で、「思慮をもって/分別をもって/ほどよく加減して」の意。

結論(CONCLUSION)

結びとして、解釈者は以下の格言を心に留めておくべきである :

一つの歌のなかに、クライマックスをあまり多く作りすぎてはならない ―― それらは互いを台無しにし合うのだから。

釘を打ち込むのに、大槌(おおづち)を振るってはならない ―― 音楽がそれをあなたに代わってやってくれるのだから。

「ばらを、ゆりを(Die Rose, die Lilie)」を歌うのにも、「魔王(Der Erlkönig)」を歌うのと同じだけの労苦を要すること、そして、いずれもが互いに劣らぬ、完璧な一個の芸術作品であることを、忘れてはならない。

195/196

多くの場合、効果の増大は、速度を速めることによってではなく、むしろ幅を広げ、ゆるやかにすることによって得られるということを、忘れてはならない ―― ただし、そうした幅の広げ方が、つねに根底のリズムと調和していることを条件とする;速度を増すことでクライマックスが達成されるのは、概して、速い歌においてのみのことなのである。

拍子記号は、破ってはならない約束を意味するということを、忘れてはならない。

ルバートを用いたなら、その分はリズムに償(つぐな)われねばならないということを、忘れてはならない。

全体像を損なうような細かい描写は避けるようにしよう。

長いフレージングは、それ自体に固有の取り柄をもつものではないということを、忘れてはならない。それが偉大なのは、リズムを引き立てるものとして、また大づかみに捉えた歌 ―― ひいてはスタイル ―― の味方としてであって、これらに添わぬときには、長いフレージングは何の重みも持たないのだ。

解釈が求められていないところで、「解釈」してはならない。

滑稽な歌のなかで、その笑いどころをわざわざ指し示してはならない。

音楽こそが肝心なのだ、ということを忘れてはならない。

伴奏者へ

前奏の交響部において、声の入りの直前にラレンタンドをしてはならない ―― ただし、それが楽譜に特に指示されているか、あるいは両演奏者のあいだで望ましいと合意され、リハーサルを経ている場合は別である。それが不意になされると、第二のMain Rule IIを守っている歌い手の歩調を狂わせるおそれがある。このことは、とりわけリズミカルな歌に当てはまる。

歌い手にとっては、あなたをせき立てるよりも、引き止めるほうがたやすいのだということを、忘れてはならない。
リハーサルを経ていない「ピアニスティックな」効果を作ってはならない。

196/197

歌い手を待ってはならない ―― リハーサルを経た解釈の一部としてである場合を除いて。ただし、その歌い手を信頼できるならば、である。

~~~~~~~~

とどのつまり、白黒つけて書き記すことなど決してできない事柄が、数多(あまた)あるのだ ―― どこからともなく訪れて、まさに本番の舞台の上、土壇場になってさえ、歌い手にその読み方をまるごと変えさせてしまうような、そうした事柄が。そうしたものは、彼の頭から舌へと遣わされる、ささやかなひそかな使者たちなのだ ―― まさに最後の瞬間に彼の耳もとにささやきかけ、あるいはほんの一瞬カーテンを引き開けて妖精の国を垣間見せ、あるいは掟を破るよう、さもなくばその場かぎりの新しい掟を生み出すよう誘う、親しげな小さな精霊たちなのである。彼は、それらを信頼してよい。それらは気質の遣わす使節であり、想像力に仕えるささやかな呼び出し役(コールボーイ)なのであって、それらが彼を呼ぶところへは、彼は安んじて従いていってよいのである。真の解釈者は、自らがそうするのにふさわしいと判じたときには、あらゆる規則を破り、これらの基準のいずれにも従わないであろう。もし彼が品位ある人物であれば、書かれざる掟を破ることは決してないであろう。もし彼が名誉ある人物であれば、作曲家を裏切ることはないであろう。だが、ひとつの戦慄は、千の正統に値するのである。

2026/06/09 訳:山本隆則