js1

Julius Stockhausen は、ドイツのバリトンであり教師。
音楽家の両親(父はハープ奏者で作曲家、母はソプラノ)のもとに生まれ、10代は、ピアノ、オルガン、ヴァイオリン、チェロなどを勉強した(ライプツィッヒ・コンセルバトワール)。19才 で、パリ・コンセルバトワールにうつり、ピアノをHalle, 声楽をガルシアIIについて学ぶ、4年後、ガルシアと共にロンドンに渡り勉強を続ける。

【著作】Method of Singing. (1884)  Translated into English by Sohie Loewe.

[Berton Coffin, Historical Vocal Pedagogy Classics p.37]
Dietrich Fischer-Dieskauが彼のテクニックと解釈の源を尋ねられたとき、教師の両者ともJulius Stockhausen(Manuel Garcia IIの生徒)の生徒であり、ほとんどの答えがStockhausenとGarciaの著述において見いだされることができると、彼は答えた(Sugg 1973)。
Garciaファミリーと一門の歌手達(彼らは、基本的にオペラと関係していた)と対照的に、Stockhausenは、リートと最も深く結びづけられていた。
実際、彼の娘による彼の伝記は、Julius Stockhausen:ドイツ・リード歌手、と名付けられた。
1848~1868年に、彼の活動は、ヨーロッパの音楽的な中心のほとんどのに及んだ。
彼は、「美しき水車小屋の娘」の初演を行った; 「詩人の恋」の初演はBrahmsのピアノ伴奏で行なわれ;そして、Brahmsは彼のために「マゲローネの詩」を書いた。
Stockhausen、JoachimとBrahmsのトリオは、この期間中、広範囲にわたって演奏会を開いた。彼は1856年から1859年までパリにオペラ・コミ-クにいたが、しかし、彼の主要な声楽活動はリサイタルとオラトリオの中にあった。彼は、Brahmsのドイツ・レクイエムの初演で歌った。Mathilde Marchesiと同様に、彼のGarciaテクニックの普及活動は、非常に重要である。
George Grove卿(1965)は、Stockhausenの談話で次のように語った。「声の豊かな美しさ、スタイルの気高さ、完全なフレージング、親密な共感と、特に、言葉が彼の歌唱を素晴らしい結果へと導くために結合されたすべてを与えられた ― 本来、言葉の識別に対する彼の最も重要な主張の一つ ― わかりやすい方法」。 これらの要点の全ては、Stockhausenの歌唱メソッド(1884)で、言及されている。 彼はFrankfurt am Mainで多くの有名な歌手達を教えた、その中には、Hermine Spies, Anton van Rooy, and Karl Scheidemantel等が含まれ、すべて優れた歌曲歌手であった;最後の2人は第一級のオペラ先覚者でもあった。Max Friedlaender(「リーダー」の有名な編集者)は、Garcia IIとStokhausennの生徒であった。

Stockhausenは、歌うことには3つの要素があると述べた:
1. ピッチ  ―  正確でなければならず、喉頭から、耳によって管理される ;
2. 力  ―  大きいか小さいか、多かれ少なかれ肺が与える振動の幅によって生うまれる ; そして
3. 音質 ー 調音[声道]の腔でその生成の方法によって決定される、そして、その変化は、母音のフォーメーションを通して、唇、舌、軟口蓋と喉頭蓋によって喉頭の中で構成する。
彼は、これらの3つの要素が、歌唱芸術のテクニックの全てを形づくる発声の6つのタイプに於いて、互いに働いていることを、彼の著作で示めそうとした。
音声は、純粋でなければならない(正しい音程で)「…音の純度[彼は母音の純度を言っていない]は、絶対的な必要性と言って良いだろう。声の力は相対的である、そして、音質は固有である。」
Julius Stockhausenは、音質は、ある程度喉頭からの振動のタイプによること、そしてそれは声区として知られていると言及した。
[pa]のサウンドは胸声区の発声を、[ba]は中声区の発声を助ける。
音声の純度は声を支えること、音声を伝えて、結びつけること、そして、装飾音の演奏、そして、エクササイズに関わる。声の力と音質は、それらが内的感情と調和しているとき、表現に関わる。
StockhausenはE. Seilerに賛同して、美しい音声が歌声の技術の第1の最も重要な基礎であり、それだけが、その最も高い完全性に於いて、歌の表現に達するために変化する感情の通訳として仕えることができるという。
彼は、音声のフォーメーションをテクニックに先行させ、そして、単なる演奏のために美しさを決して犠牲にしない流派に対する忠誠を明言した。
この芸術家-教師は、調音と声帯と表現の作用の研究に於いてGarciaよりも更に先へ進んだ。
[私は彼の母音と子音の観察を、現在のIPAシンボル(私は歌で言葉と音楽の組合せを促進するために、重要な扱いをするだろうと信ずる)に書き換えた。]
彼は、母音と子音は歌うことに於いて、スピーチにおいてと同じくらい分離できないと言った。
「子音の発声は、まばたきが目でされるのと同じように、ほとんど声帯でなされる。」
彼は、歌手のアルファベットのすべての音が研究されなければならず、すべての母音の形の研究が音声の美しさにとって不可欠であると信じた。
開いた母音[a、e、U、au、u、yとI ]等は、弱い声を強化することができ、閉じた母音[e、u,yとi]等は、硬い声に柔らかさと丸みを与えることができることを観察した。
Stckhausenは、母音アタックは、[pa]、[ba][ma]でのアタックと同じように変えられなければならず、そして、これらの音での唇に気をつけることによって、歌手が喉頭での発生のコンセプト(a concept of the occurrence)を形づくることができると、指摘した。これは、Garciaの声門打撃の量を定め、そして彼は喉頭の低下によってなしとげられるという。そうでなければ、音は貧弱で、薄くなるだろう。
Stockhausenは、昔のイタリア人の笑顔は、まったく過去のものでり、[o,u,とy]は、唇は後ろに引き、[i] と[a] は、唇を前に突き出して後部で歌われるべきてあると、信じた。そうしないと、顔面の異なる表情で明確に母音を生成することは不可能だろう。
彼は、メッツァ・ヴォーチェの音階練習がスムーズな音声を身につける最高の方法であると信じて、初めのうちは、子音[d、r、m、f、s、l]が、声を出さずに ― ささやきで ― はっきり発音されることを提案した。その後で、声と子音が一緒に使うことができる。
実際、彼は述べた。「人は最初にドレミファで歌わなければならない、そして、声の放出が音節の使用によって完全に妨げられなくなったときにのみ母音で歌いなさい。母音アタックは、しばらくすれば喉音でもなく鼻音でもない音質を持つだろう。」
[言わせてもらえば、[r]ははじかれなければならず、[l]は明るくなければならない、どちらも米語の音ではない。]
Stokhausenは、6音音階(ヘキサコード)の限られた音域で歌の練習を開始するのを好んだ。音階練習する際に、喉頭はスピーチのときより低くなる。彼は後に、難しい言葉による歌は、初めのうちはドレミファ音階で歌わなければならないと述べた。
半分の呼吸[mezzo respiro]には横隔膜呼吸で十分なこと、そして、完全な呼吸[respiro piena]のために、肋骨の拡張は不可欠であること以外、呼吸についてはほとんど何も言及されていない。
彼は、d1からf#1への音は、すべての声に共通して、この領域の近くはパッサージオの問題、または、声区の変更とブレンドがあることを指摘した。これは、上行するときには閉じた母音によって、下降では開いた母音によって達成することができる。
同じ音上の母音[u、I、a-、I、u]の進行は、messa di voceを促進するだろう。通常、Stockhausenは、messa di voceは2つの声区の助けを借りてのみ実行されることができると述べた、例外は、f2を越える、高いソプラノの頭声区;bの下のバスの胸声区である。声区のための彼の命名法は、Garciaのものと同様だった。
歌唱の6つのスタイルのうち、音楽的なフレーズが演奏される主たる方法は、tenuta di voce(音は「等しく且つ中庸の力」で維持される)である。別のデュナーミクと芸術的なテクニックが効率的なのは、このテクニックと相対的である。
発声の第2のタイプは、ポルタメントである。それによって、「歌手は、完全な支配の下で呼吸と発声器官を獲得する」。次第に強く、または、次第に弱く、ポルタメントが等しい力で演奏されることもできるので、これはmessa di voceの助けによって最もうまく獲得することができる。[そして、Tosiが言ったように、「それら自身を仕上げたいものは、技術の法則よりこころの命ずるところに耳を傾けなければならない。」 ポルタメント自体は、基本的に声区をブレンドする傾向がある。
レガートの、走句は、呼吸なしで、単一の母音上でのみの果たされる。[h]は、音の反復を明快にすることのみに用いられる。パッセージを上がる際ののデクレッシェンドと下行パッセージのクレッシェンドは、声を均一にすることを助けるだろう。
スタッカートまたは鋭い発声は、音がわずかな声門打撃によって出し始められて、すぐさま止められるテクニックである-このように、それぞれ音値はわずかに短くなる。「発声のこのスタイルでは、生徒は主に彼の注意を閉鎖筋[喉頭の]に集中させる。」「…スタッカートのために必要とされる瞬時の吸気は、我々が笑ったり、すすり泣く際にごく初期の幼児期から練習している。」スタッカートは、軟らかい母音アタックでなしとげられる。
マルテッラートは、継続的な呼吸流を有するレガートに関係するものであるが、マルテッラートにおいては、横隔膜の筋肉がそれぞれの音に新たな衝動を与えるものである。 「声帯の接触は決して遮られず、振動は決して止まらない。」 彼は、マルテッラートが男性の胸声区と女性のファルセット[中声]区で最も良好なことを、そして、それが重要なエネルギッシュな表情を与えることを見いだした。 彼は、より軽くてより明るいスタッカートは、別の声よりソプラノによってよりたやすく演奏されると感じた。両方のスタイルが練習されるとき、彼は非常に遅いスタッカートとより速いテンポのマルカートを演奏することを推奨した。 彼のマルテッラートは、女声でa2にまで、男声はe1まで行う。彼は、より充実したより十分なしなやかさを生み出す高音のマルテッラートを練習することが有益であると、述べた。
彼の発声の6つのタイプの用例とエクササイズは、広範囲にわたる。
結論として、Stockhausenは、良い声と強いイマジネーションは、良い歌手になるために十分ではないと述べた;それらは芸術的歌唱の前提条件である。そして、それは根気強く、注意深い勉強によってしか達成することは出来ない。
「教育を受けていない歌手(呼吸のコントロール、または、しなやかさ、あるいは、発音の違いが不足しているもの)から彼を常に区別するものは、彼はすぐに彼より前の芸術的な作業の意味を知覚して、その解釈のためにそれに必要な手段の完全な指令によってその中に入るということである。」
そして、我々の作曲家の友人のために、私はこの最後の引用を加えなければならない:「音楽は常にその主たる供給源を歌の中に見いだした、そして、これは中身のない鳴る音(empty jingle)と意味がないノイズ(meaningless noise)に変質することから器楽の音楽を保存してきた。」
そう、彼はHamburg Philharmonische Konzertgesellschaft(1863-1867)のコンダクターでもあった。

[フラツィスカ・マルティーセン=ローマン著 「歌唱芸術のすべて」 p.131]
ガルシアの最も優れた弟子であったシュトックハウゼンは、ガルシアのもとでの修行中、手紙に次のように書いたことがある―彼の兄弟弟子達の多くは、先生の名声を大いに傷つけている、それも無理解な行き過ぎによって、と。この無理解な行き過ぎなるものが、とくに声門打撃に関連していることは確かである。この行き過ぎがガルシアの死後にも存続し、更に損害をもたらしたことはきわめて確かである。それによって、声門打撃はますます不評を招いた。それはついには完全に追放され、一般的には今日でも追放されたままである。
彼の後継者たち、とくに音声学者達によって、ガルシアの栄誉を救おうとする試みが度々なされた。 彼が(危険なcoup de glotte にもかかわらず)弟子の歌手たちを育成することに成功した謎は、coup de glotte はまさに硬い声門打撃とは同一のものではなかったのではなかろうか、という想定によって解かれることになった。それは、イタリア人の固定しているが、柔らかい位置アインザッツに対する、ガルシア独自の名称だというのである。この位置アインザッツは、歌唱における最も健康的で、最も正しいアインザッツであると見なされてきたし、こんにちでもそう見なされなければならない。

ドイツの声楽理論は、それ以前は(たとえばヒラ―の1774年、1780年1791年の書物やその他の著作で:Johann Adam Hiller (1788-1804)はドイツの指揮者・作曲家。歌唱学校をつくり、音楽関係の著述もかずおおくした。ライプツィヒのゲヴァントハウスの初代指揮者。)一般的理論的教示を、まだ独自の個性もなく与えていただけであったが、ガルシアの弟子シュトックハウゼンの1886年の主著と共に、生理学的な方向付けを持った発声訓練(喉頭の低い位置)を全面的に擁護する側に立った。しかし、この本は実用的価値においてはシュミット(Aloys Schmitt (1788-1804年)はドイツのピアノ奏者・オルガン奏者・作曲家。)の《Grosse Gesangschule fuir Deutshland (ドイツ声楽大教本)》の陰にすっかりかくれてしまった。シュミットの本はすでに1854年に出ており、シュトックハウゼンのものよりはるかに卓越した作品だたのである。(p.141)

シュトックハウゼンは・・・疑いもなく、喉の安定性、喉の構え、喉の開きの重要性を鋭く認識した人物で、この認識に基づき、喉頭の深い位置という、その当時としてはまったく〈新しい〉理論を告知したのである。彼自身がその理論に伴う行き過ぎに責任があったかどうかは、調べることは難しいが、そのようなことはありそうもない。それにしても彼は、「種よ、我をわが友人より守り給え、わが敵に対しては我みずからが守りますがゆえに」と言う有名なお祈りを、毎日唱えなければならなかったことであろう。と言うのは、彼の友人、彼の熱狂的な信奉者、かの助手とで詩たちがこの理論から、喉を人為的に深く押し下げ、それに付随する諸々の極端事を固定化するという唯我独尊のどぐまを作り上げてしまったからである。このような危険な行き過ぎによってもたらされた乏しい実りは、声楽界で〈シュトックハウゼン法〉の評判を著しく下げてしまったので、何十年間も〈喉頭の位置〉という概念は、あとうかぎり黙殺されることとなった。
・・・シュトックハウゼンの教えたことは、それ自体では新しいことではなかった。それはきわめて古い声楽的英知に基づいていた。ただ〈深い位置〉という言葉のみが新しく、あまり幸運ではなかったのである。少なくとも、それは熟達者のための秘密の合い言葉にとどまるべきであった。 (p.159-160)

[We Sung Better I,  Singer’s Tip No.217]
Garciaは私にトリルを教えたそして、それは全員を驚嘆させ、非常に単純な手段によるものであった。生徒は、ナイチンゲールのビートをコピーしなければならなかった、喉頭は、まるで音声自体がそうなるように上下した。この動きを強化するために、3度、4度、5度の音程で練習します。これは自然にトリルを生成する唯一の方法である;私は1ヵ月でほとんど疲労すること無くそれを学んだ; 毎日、3回の休憩を挟んで30分の稽古をした。

[James Stark, Bel Canto  p. 16]
Julius Stockhausen coup de la glotte の記述もまたガルシアに倣っています:『ヴォーカル・アタックは、声門が閉じた状態の声唇によって作られ、次に声門の隙間を通して空気の適度の破裂、あるいは、排出が起こる。それは明瞭でためらいがあってはならないが、荒々しいものではない。その堅さの程度は、表現しようとするものによる』(Stockhausen 1884, 9)。ガルシアと同じくシュトックハウゼンもcoup de la glotte を唇の[p]の形に例えました。彼は『一旦音が出始めたならば声帯の活動を変化させない』ことを主張するとき、彼もまたオンセットとそれに続く音の連続性を指摘し、そして付け加えて、声門オンセットは『貧弱で細い、そして中音域ではしばしば喉っぽく響きのない』音を防ぐために、喉頭の低下を伴わなければならないと述べました(xii 119)。

[James Stark, Bel Canto  p.77]
Julius Stokhausen も又Garciaの声区概念に習い、2つの声帯振動の仕方(胸声とファルセットに関係する)と同じく3声区(胸声、ファルセット或は中声、そして、頭声)を受け入れた:『男声は、2声区のみを使う、胸とファルセット。きわめてまれにテノールは頭声を使うかもしれない。通常、女声は3声区を使うが、唯一の例外は、非常に高いソプラノで、ファルセットと頭声だけを使い、胸声区は使わない。女声の主たる声区はファルセットで、男声は胸声区である。」彼の声区結合の論述において、彼は声門のセッティングではなく声道についてのみ語った。彼は、変換区間の諸音の喉頭位置の固定を奨励して言う、『胸声とファルセット声区の融合は、上昇中は暗い音色の使用により、下降中は明るい音色の使用によって成し遂げられる。この例のおいて、喉頭蓋のはたらきは明白である。」(Stockhausen 1844, 13, 44 も見よ)

Richard Millerは、Historikal overview of voice pedagogyの中でシュトックハウゼンをかなり批判的に記しています。

ユリウス・シュトックハウゼンは1826年7月にパリで生まれ、1906年9月にフランクフルト・アム・マインで亡くなりました。シュトックハウゼンは、1845年からパリ・コンセルヴァトワールで理論を学び、個人的にはマヌエル・ガルシアに声楽を学び、1849年にはガルシアを追ってロンドンに渡りました。シュトックハウゼンは、後にゲルマン・北欧・北米の声楽教育に影響を与えたにもかかわらず、主としてオペラを得意としませんでした。彼は、1852~1853年の間マンハイム劇場の第2バリトンでした。シュトックハウゼンは、主にオラトリオやリートのレパートリーで演奏活動を行っていました。1856年にウィーンで行われた「水車小屋の娘」の公開演奏は大成功を収めた。ブラームスとシュトックハウゼンが初めて共演したのは1861年、ハンブルクでのリサイタルで、シューマンの「Dichterliebe」を含むプログラムを演奏しました。その後、シュトックハウゼンがブラムスを差し置いて、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団やシンガアカデミーのディレクターに抜擢されても、2人の芸術的な連携は妨げられなかった。1868年、シュトックハウゼンはブラームスの「ドイチェ・レクイエム」のバリトン役を初演しましたが、広々としたドラマチックな作品は、シュトックハウゼンの声には不似合いだと思われた。シュトックハウゼンを意識して書かれたのが、この作曲家の注目すべき「マゲローネ」シリーズです。シューベルト、シューマン、ブラームスのリートでは、歌手はスタミナと繊細さという2つの要素が同等に要求されます。シュトックハウゼンは、いくつかの教育機関で歌の教師を務めた後、1880年に自分の歌の楽派を設立しました。1884年には『Gesangsmethode』(24)が出版され、『Method of Singing』と訳されました。

シュトックハウゼンの出版は、ゲルマン・北欧の発声楽派や北米の教育学のかなりの部分に影響を与え続けているという点で、或いは、マヌエル・ガルシアの教育学的方向性に対するシュトックハウゼンの解釈(および彼の弟子たちの解釈)の正確さに疑問を投げかけるものでもあるという点で、声楽教育学の歴史において重要な一歩である。シュトックハウゼンが18世紀から19世紀にかけてのイタリア派の教義から大きく逸脱した点は、歌唱時の喉仏の位置を常に低くすることを提唱したことにある。シュトックハウゼンの「低い喉頭」がどの程度のものかは不明だが、彼は通常の話し声よりも低い位置にあることを勧めた。それ自体は、高貴な姿勢と静かな息の更新を求め、その中で限られた喉頭の下降が起こり、それを維持するという、イタリアの歴史的な教育方針と矛盾するものではありません。しかし、シュトックハウゼンの信奉者の多くは、シュトックハウゼンが、喉頭を下げたあくびの姿勢を保持することが歌の発声に最適であると教えたと解釈している。彼は、あごを下すことを奨励し、楽しい顔(微笑むような)の表情を回避していたため、イタリア楽派の特徴である上声門の声道の柔軟性が損なわれていました。しかし、シュトックハウゼンは鼻音と咽頭音の両方の音色を明確に禁止した。意識的に咽頭壁の拡張を誘導しながら、咽頭の音色が膨らむのをどのようにして避けることができるかを想像するのは難しいので、シュトックハウゼンのコメントは様々な教育上の解釈を引き起こすかもしれません。

シュトックハウゼンは、後舌母音と混合母音では唇を後ろに引き、/e/と/a/では唇を前にすぼめるように要求した。これらは、伝統的なイタリアの学校の「si canta come si parla(人は話すように歌う)」の格言を否定したものです。それでも、シュトックハウゼンは、イタリアの教育学の伝統に沿って、上昇する音程パターンには閉じた母音を、下降する音程パターンには開いた母音を使うことを推奨していました。

シュトックハウゼンは、respiro pieno(フル・ブレス)で肋骨を十分に広げることを要求していたとはいえ、息の管理には最小限の注意しか払っていなかったこともイタリア楽派とは異なる点です。彼のパッサージオの声区点は、ガルシアのそれと同じような位置にあります。彼は、ランペルティにとって大事なメッサ・ディ・ボーチェの使用を提唱しました。現代の教育者は、ユリウス・シュトックハウゼンが得意としていたゲルマン系の新興レパートリーの演奏や、各国の音の優先度に合わせて、伝統的なイタリア楽派の原則を厳しく適応させたと結論づけている。シュトックハウゼンがイタリア的ではない技術的な工夫をしていたことを考えると、パリ・オペラ・コミックに3年間在籍していたとき(1856年~1859年)、シュトックハウゼンがイタリアやフランスのオペラのレパートリーの発声やディクションをどのようにこなしていたのかが気になります。

訳:山本隆則