1837年、Gilbert-Louis Duprezと名乗るフランス人のテノールが、作曲家自身が見守る「William Tell」のパリ・オペラ座の舞台上で、一声でテノールの発声に大革命を起こしてしまいました。パリのオペラ界で人気を2分していたAdolphe Nourrit(Manuel Garciaの父の生徒)を自殺に追い込み、その作曲家であるロッシィーニに「去勢された雄鶏が絞め殺されたような声」と言わしめた声が、「胸のハイC」と云われるものです。
ファルセットを用いず胸声区のままでハイCまで引き上げるという、男声の極限の発声法は、オペラ作品に於けるリアリズムの要請と、それに伴うオーケストレイションの厚さ、また、オペラ劇場の大型化など様々な要因によって必然的な結果と言えるかもしれません。

このドラマティック・テノールの誕生は、その後ヴェリスモ・オペラの台頭や、何よりも、エンリコ・カルーゾの出現によって、ますます盛んになり、テノールはリリカルな声が敬遠されるようになりました。ジーリは、Dr Tomatis(耳鼻咽喉科の医師)との対話で、彼は高音をファルセットのフォームで出していると告白した後で、この秘密は、彼が死ぬまで決して漏らさないようにと命じたそうです。それ程、当時のテノールに対する要求は強い声で、胸の声でないとテノールではないという風潮になってしまいました。400年を越えるオペラ発声の歴史に於いて最も変化した声種は、テノールの声だと言えるでしょう。しかしながら、テノール自身によって起こされたこの革命はやがて彼ら自身に大きな重荷となったのもまた事実です。

デュプレ、カルーゾー、その他のドラマティック・テノールの系譜の流れの中から、その方法論を確立したのがアルツーロ・メロッキという教師だったのです。では一体メロッキ・メトードとはどんなものだったのでしょうか? 以下の論文は、メロッキの晩年の弟子Salvatore Li Vigniの息子Gioacchino Lauro Li Vigni(メロッキ派のテノールで、2004年にメト・デビュー、その他世界中の劇場で公演している)によって2007年に書かれたものです。

メロッキ・メトードの内容もさることながら、20世紀中盤のオペラの中心地で、どのようなことがレッスン室の中で行われていたのかを知る上でも非常に興味深い論文となっています。

Arturo Melocchi (1879-1960)ミラノ生まれの発声教師。Giuseppe Gallignani のもとで、 Regio Conservatorio di Milano で学ぶ。ファシズムをさけて3年間香港、ロシア、フランスで教える。

 

The Melocchi Method

私の人生で劇的なメロッキ・テノールの声がいつもそばにあった事が思い出されます。父(故Salvatore Li Vigni)は、Pesaroで晩年の最後の年にArturo Melocchiについて勉強した。メロッキについての逸話と話は、私にとってはほとんどベッド・タイム・ストーリーのようなものだったのです。メロッキと彼のメソッドについての話と解説は、年ごとに増えていきました。最初のうちは、それはイタリーで、テノールが新しいデル・モナコになるために求められたものでした、そして、「affondo(沈める)」のような技術的な考えが、発声教育界でよく知られた専門用語の一部となりました。メロッキは、ほとんど神話の偶像のようなもの、ドラマティック・テノールの神秘に関するグランドマスター、テノールを本来のまぎれもない力に変える歌唱の新しい方法の発明者になりました。デル・モナコとコレッリがオペラの神々の神殿で彼らの座に着いたので、メロッキもまた重要な歴史的な人物になりました。

GIOACCHINO LAURO LI VIGNI


メロッキ・メソッド

私の記憶と研究によるこの簡潔な報告から何かが起こるならば、私は、Arturo Melocchiが伝統的なイタリアの技術的な考えをもとに彼のメソッドを作り上げたことが明らかになることを望みます。そして、この伝統から著しく誇張され逸脱する2、3の例を除いて、彼のメソッドは、ヴェリズモ・テノールの出現の結果として生じた発声美学の重大な変化と同様に、伝説的な偉大なナポリのテノールによってカルーソーの時代と言われるテノール発声の革命の自然な結果として見られなければなりません。

Pollsは、フランコ・コレッリが依然として今日最も人気のあるテノールの1人であることを示しています。多くの若いテノールは、コレッリ、デル・モナコ、そしてこの十年の偉大なスピント・テノール達が、どのように発声テクニックに接近したかを理解しようとします。その結果として、メロッキは、彼らの発声訓練に於ける彼の役割のため、おおいなる関心の的になりました。

Stefan Zucker、Jerome Hinesその他によるフランコ・コレッリのインタビューは、メロッキのメソッドに関して身近な物になっただけで不幸にもほぼ信頼すべき類いのもの、そして、決定的な言葉はありません。これらのインタビューは、メロッキの概念の表面的な紹介以上の何かを提供する手段とはならなかったのです。

Arturo Melocchiと低-喉頭テクニックとの関係は、ウェブ上の検索で簡単に見つけ出すことができます。実際、テクニックを語る人々の中では、まるでメロッキがそのテクニックを創案したかのように、メロッキと抵-喉頭テクニックはほとんど不可分のものとなっています。多くの誤りと同様に、何かがかなり長いあいだ語り続けられるならば、人々はそれを信じ始めます。これは、歌唱に於ける低-喉頭テクニック到達法を発明するメロッキ、の事例と同じです。メロッキが低-喉頭テクニックを「創始した」と言うことは真実ではありません。

私の個人的な教師は、多くの教師について学んだテノールでした。彼の経験に於いて、その中でメロッキはおそらく最も影響力のある1人でした。父(テノールSalvatore Lauro Li Vigni)は、この主題に関する私の多くの知識の情報源でした。しかしながら、私は、メロッキのメソッドが示す、伝統と標準からの逸脱の実際の程度を明らかにするために、イタリアの歌唱の伝統と、私がメロッキについて教えられた教育を徹底的に比較しました、そして実際、メロッキの考えは、多くの人が主張するほど新奇な、突然の変化では決してないことがわかりました。私は、その主題に関する私の調査に、明確な見解を伝えたいと願います。メロッキが考えたこと、彼がスタジオで行ったこと、そして、発声訓練に関する彼のアイデア等々に関する、簡潔で有益なヴィジョンを提供しようと思います。また、メロッキが実際に教えたものとデル・モナコが行ったもの(特にデル・モナコの50年代以降)とを識別しようと思います。調査で分かったことは、2つが必ずしも一致していないので、この違いがきわめて重要であると思います。

-「私はあなたに声を与えよう」-Melocchi-

多くのメロッキの生徒は、狂信的なデル・モナコの模倣者でもありました。したがってメロッキの考えのわかりやすい像を描くときに、メロッキの指導とデル・モナコの発声の間の相違を識別することはきわめて重要になります。明らかにメロッキはテノールに、デル・モナコ-タイプの発声領域に跳躍させる技術的な枠組みを与えました; しかしよく考えれば、強力な発声楽器を開発することと実際の歌の芸術性― デル・モナコがモデルとなるケース ― の間に違いがあるという結論に達するでしょう。 美学的かつ技巧的な選択とこれらに対する責任は大部分歌手にあり、教師にはそれ程ありません。 教師というものは彼らが育てた有名な生徒によって有名になります、そして、 ― 大抵そのスタジオ出身の有名な弟子の歌手 ― の声のモデルに基づいて、教師が新しい生徒に解説することは当然のことでしょう。メロッキのドアをたたくほとんどのテノールはデル・モナコの足跡に続きたいと言う欲求に突き動かされていると言ってもさしつかえないでしょう。

メロッキは私の父によく言っていました、そして、水の波紋のようにその考えは父の生徒に伝えられました:「私はあなたに声をあげましょう。どのように歌うかを見つけ出すのはあなたの仕事であす。」メロッキは、実際、彼のテノールに技術的な枠組みを与え、まさしくこの哲学を成し遂げた、しかし、彼らに合った歌唱を実践する自由は奪わなかったと私には思われます。

メロッキの生徒の多くはデル・モナコがやったことをしようと技術的な努力をし、新たな世代の歌手が生まれるまで彼の真似をしました、そして、教育者達は、このデル・モナコの模倣が実際、メロッキ・メソッドそのものであると決め込んでしまったのです。私は、その思い込みに疑問を呈します。しかし、メロッキが弟子のテノール達に、彼らのヒーロー(デル・モナコ)を真似しようと思わせたことは、芸術的な選択をさせたとは言えないことは、彼のまさにアプローチの欠点と認めなければなりません。教師は、生徒が芸術性を考慮しながら彼らのテクニックを発達させるのを手伝うべきです。そして、歌唱は声の大きさや個人崇拝を単なる目的とすべきではありません。あるいは少なくとも、それによって条件付けられる全ての技術的アプローチの限界まで、これらのことに集中するべきではありません。しかしながら、メロッキが行ったことはその時代の枠の中で見られなければなりません。ヴェリズモ・レパートリーの美学は、ベル・カント時代の上品でに抑えられた出し方よりもむしろ、ほとんどが生で、原始的で、制約されない感情を放出させます。

しかし又、メロッキがデル・モナコの模倣に対してきわめてうるさかったことは大いにあったでしょう。私の父が何度も語ったように、彼は、芸術的にだらしなかった生徒を破門したことはよく知られていました。この問題は、正確には知られないままです。

これらのことを踏まえて、私は、1940年代からの初期のデル・モナコのレコーディングは、後のレコーディングに比べて、特に声の最上部で並外れた歌唱の容易さと流れを示しているという事に注目します。我々が教師の影響を正しく知るためには、彼の教師によって最初に教え込まれたデル・モナコをより詳細に観察することが関心の的となるのです。後のデル・モナコは、この教師の技術的な枠組みを受けとって、それを彼自身のもにした歌手として見なければなりません。それで、我々がメソッドを判定する試みにおいて、デル・モナコに対するメロッキ・メソッドの直接の影響を正しく分析するのであるならば、我々は最も初期の録音を聞かなければならないでしょう。

デル・モナコの30年を超えるキャリアは、それ自身で最も高いレベルの技術的な熟達の証拠であることに疑いの余地はなく、それらの事実は、彼の能力を記述する際にしばしば使われる狭量な敵意を沈黙させます。

デル・モナコの模倣者達は、大部分は、かれのレコーディング・キャリアの頂点である、50年代と60年代の有名なデル・モナコの模倣者でした。メロッキの技術的な枠組みと、それぞれの歌手がデル・モナコを模倣してこのテクニックを適用したやり方との相違を評価することもまた重要です。

おそらく、聞くことは言葉より直接的です。ここに1948年にデル・モナコが歌った「O Paradiso」の初期の録音があります。私はこの録音と、1951年のOtello以降のものとの違いを聞き取って下さい。

オーディオ・クリップ#1:Mario del Monaco:o Paradiso

もちろん、歴史は決してわかりやすい描写ではありません。私は本論文をメロッキ・メソッドの決定的な評価にするつもりはありません、しかし私は、父が私にしてくれたメロッキスタジオのレッスン記録の報告、そして、メロッキと勉強した歌手達が私に直接手渡してくれた資料やいろいろ集められた報告に判断の基礎をおいています。

-メロッキと伝統的なイタリア楽派-

低い位置の喉頭で歌う考えは、もちろんArturo Melocchiが考案したものではありません。それはイタリアのきわめて古くからの伝統の教義です、そして科学はそれがリラックスされた共鳴によって歌うことを学ぶ重要な側面であることを示しました。もちろん、我々は、強制的に下に抑えつけられた喉頭とそうでないものを区別することと同様に、低位置の喉頭と、その可能な限り低い位置にとどめるように調整されたものを区別すべきです。発声に於いてそれらの結果は、非常に異なります。

伝統的に、イタリア楽派において、歌手は「sulla posizione dello sbadiglio― あくびのポジション」で歌うことを求められました 、そして、それは、「gola aperta」または「開いた喉」を可能にし、喉頭の自発的な低下と咽頭の拡張を伴う事は間違いありません。

…初心者にとって、口を広く開ける練習をし、その上で、後ろであごを降ろすことを確実にすること。開いた喉が実際にどうなるかを感じるためだけに、一切声を出さずに、日に何度もこれを行います。2,3回エクササイズをしたら、あなたはすぐにあくびをし始めるでしょう。あくびのとき、または、一口の水を飲み始める際に、喉は大きく開いている、そして、それが正しい感覚で、歌手はそれを再現することを学ばなければならない。[Luisa Tetrazzini 歌唱の技巧 11ページ]

Enrico Carusoは、メロッキの方法論の考察のためにきわめて関連することを言いました。

正確で純粋なアタックをするために、前方だけではなく、後ろから意識的に喉を開けようとしなければならない、何故ならば、喉は声が通らなければならないドアであり、それが充分に開いていないならば、そのまわりで充分に声を引き出そうとしても無駄である;また、喉は呼吸のための出入口である、そして、それが閉ざされているならば、声は他の経路を捜すか、その中で静まりかえるだろう。

口を広く開くことが、喉のためにも同じことをするだろうと思ってはならない。十分に技巧に精通しているならば、口を目立つほど開けなくても、ただ呼吸の力だけでも完全に喉を開けることができる…[Enrico Caruso ― 歌唱の技巧(26ページ)]

喉頭の引き下げ筋の動作が、あくび(sbadiglio)の始まりで活性化することが、そして、また、深い吸気がこの動作を助けることが示されています。また、現在も含めて、過去の歌手の報告を読めば、低い喉頭は、しばしば正しい呼吸の支えの結果として報告されています。呼吸の力のおかげで、喉はリラックスして、開いていて、受動的なままで、そして、喉頭は自然に下がります。

十分に訓練された歌手は、喉頭の引き下げ筋と挙筋のほとんど避けられない拮抗作用を克服することを学びます。そして、能動的に「下に押し下げる」感じよりもむしろ、低い領域での喉頭の弛緩した感じとなります。したがって、歌手は、能動的でエネルギッシュな降下でなく、むしろ拮抗作用の不足によって、喉頭の低いサスペンションを感知します、そのサスペンションは、固定された、或は最も低いポジションのことではなく、むしろ柔軟で動的(dynamic)なものです。

より低い喉頭は、実際に声帯を伸展して、テノールが比較的楽により高い音域にのぼることが出来る最も重要な輪状甲状筋組織の喉頭の傾斜動作を助けてくれます。また、Sundbergによって明らかにされたように、より低い喉頭はシンガーズ・フォルマント・エネルギー ― 声の伝統的なイタリア語「squillo」、「risonanza alta」または「リング」 ― のチューニングのための重要な条件となります。

私は、読者がメロッキ・メソッドのこの側面を客観的に正しく調べることが出来るので、この情報がこの文脈において最も重要であると思い、そして事実と誤った逸話や憶測とを区別します。

強制的な低い喉頭(拮抗作用で満たされたもの)で歌う結果は、大抵共鳴の減少、全面的な声の硬直、そして、流れる発声の欠如、すべては喉の過度の筋肉の堅さとなります。また、このシナリオに於いて、流れる発声の不足は過度の内側の圧縮によって埋め合わせをすることにつながるか、声を押す結果になります。そして、それは実際のボリュームを減少させます。声は弱められ、そして、高音は輝かない。これらの発声の間違いは、彼の生徒からのあらゆる報告によると、メロッキにとって決して容認されませんでした。コレッリは、Zuckerとのインタビューにおいてまさしくこれらの結果について話し、彼らが気管支炎になったか、全面的に共鳴が不足しているように聞こえるこの技術的な欠陥に影響を受けた歌手の特徴を述べました。

喉頭のメソッドについて、あなたは発声器官をきわめて十分に知っていなければならない、なにができるか、そして、どこまで行けるかを。例えば、私は、彼らが気管支炎を患ったように聞こるポイントに、彼らの喉頭を押しさげた何人かの人の話を聞いた。このテクニックによって、あなたは声帯に損害を与える可能性がある。それを教える多くの人々は、生徒に破壊の原因といっていいほどの声を強制する。[Stefan Zucker interview of Franco Corelli – www. belcantosociety.org/pages/corellipage3.html]

コレッリがこの文脈において、彼がこのメソッドを適用している「教師達」を引合いに出すとき、メロッキについてではなく、むしろ彼らが行っていることを知らずに使っている教師等について論じている点に、私は注目します。

40年代と50代初期のデル・モナコは、極めて強力な共鳴と流れで、彼の声の最盛期と言っていいでしょう。ビブラートは速く、そして、特に初期のデル・モナコは、力みのない典型的な声で、不自然につくられたものではありません。これが、強引に下げられた喉頭の典型的な拮抗作用と締めつけで満たされた声のように聞こえるでしょうか?

コレッリが述べるように、うまく教えていると主張する多くの教師は、生徒に喉頭を強引に下げさせているのは事実です。コレッリは同意する。

メロッキの技術的なアプローチと、伝統からのその逸脱を理解することによって、間違った発声の原因である鋭敏さの欠如や、デュナーミクを変える無能力が、メロッキ・テノールの特徴としてあまりにもしばしば考えられる原因を、我々が正しく識別しなければなりません。

喉頭が非常に低かったと言うことで知られている彼のテクニックについて、デル・モナコに話した人々の逸話があり、それによって、デル・モナコが喉頭を下げることを強制したと推断されます。この推測は、特に後のキャリアにおいて、デル・モナコが力強い歌手であったことによって促進されたに違いありません。たしかに、デル・モナコの喉頭は低かった、そして、テノールもそのように云うでしょう、しかし力とは全く別の問題です!

私の父は、メロッキが喉頭を積極的に降ろすことについて彼と話した記憶は全くなかった、という逸話を私は証拠として提示したとおもいます。喉頭が低い理由は、すべて発声のタイプ、メロッキ・メソッドの典型である― 呼吸の支えとサウンド ―で決めるべきことです。

-メロッキの信条-

元メロッキの生徒への質問は、メロッキ派の考えの特質と声の功績に於ける基準となるテクニックについて、いくつかのほとんど独断的な考えの記憶を明らかにしました。
La Posizione dello sbadiglio:喉は、あくび(sbadiglio)の位置で開らかれ、リラックスしていなければならない、あるいは、何人かは、「あくびの始まり」と言うのがより良いとします。深い「う」母音は、咽頭が、声が最大の空間を見つけ出して、より高い音域で正しく開けることができる位置にとどまる決め手になります。喉の開口部は「morbido、柔らかい」ままでなければならず、それは、「しなやかである」または、力みがないことを意味します。咽頭の開きが上喉頭(epi-larynx)の開きと混同されてはならないことをはっきり言っておかねばなりません。そして、そのことは後に説明します。

マスクに声を置かないこと:声はマスクから生じない、むしろ、アッポッジオが見いだされる喉頭領域から生じる。声は、音域の上昇と同じくらい「下に踏み抜かれる(staving down)」ように感じられる、そして、声帯の下の加圧された息の柱に「appoggiandosi」またはもたれる。その最大限にリラックスして開いた咽頭による、喉頭領域での声と深い呼吸の結合の感覚を維持することは、 ― より大きなボリュームまで声を開きます。この発声法の持続は、喉頭を受動的に下に保ちます。

低い喉頭は、呼吸支えの結果であると同時に、探し求める音の直接的な結果でもあります。人は、自動的に音を見つけるために、喉頭を低くしません。エネルギッシュな吸気による喉頭のポジショニングは、「開いた喉の響き」を生成するために充分ではありません。

メロッキは、開いた喉の響き ( sound)(「響き ( sound)」という言葉の強調)に導く条件の1つとして、あくびを強調しました。開いた喉の響きは、音声生成のある特定の感覚-フルヴォイスが、拡張されてリラックスされた咽頭腔で、自由と流れを感じる歌手の自己受容性経験以外の何ものでもありません。

あくびの位置での歌唱は、開いた喉の響きを達成するための要素であったが、喉頭の領域から低く生じる声の発想も重要だったと同時に、一方は他方の見解無くしては役に立たず、イタリアの伝統と完璧に一致しています。

メロッキによると、呼吸は、喉頭で筋肉によって止められるようにではなく、むしろ喉頭領域で音によって対抗するように感じられなければなりません。筋肉によって止められている息の感覚は、圧迫された発声の感覚であり、反対に後の方(音に対抗する感覚)は、正しく集中する流れの発声の感覚です。

メロッキによると、音声は、喉頭域から生じるように感じられ、そこで音声は声帯を閉じさせる喉頭下の息の柱の上にもたれ、やすやすと強い共鳴を生みだします。メロッキは筋肉で呼吸をふさぐことの正当性を信じなかったし、実際、呼吸をふさぐことを全く擁護しませんでした、むしろ、上へ向かって移動する息に対して精力的に音を圧縮するフィーリング-最大の開きの喉における集められた音を擁護しました。伝統からの逸脱は、この過程を誇張することでした。メロッキのやり方は、この過程の拡大された、オーバードライブ・バージョンでした。それにもかかわらず、筋肉は、柔らかくなければならない、或は、押しつけられてはなりません。

今まで、メロッキは、言及される誇張を除いて、非常に伝統的なイタリア楽派の教育者のように聞こえます。The Voice of the Mindの序文として使われたインタビューにおいて、Herbert Caesariによって集められたBeniamino Gigliの言葉を我々は読むことができる。
カエザーリによれば、ジーリは一言一句正確に次のようにいいました:

私は歌い始めるやいなや、横隔膜と肋骨のすべて、呼吸方法とその動きのすべてを忘れ、喉頭の下に正しく蓄積された空気の上で歌う。
[H. Cesari、The Voice of the Mind – Introductory Lesson 27ページ]

Lauri Volpiは、彼の本Voci ParalleleのAntonio Cotogniを扱っている章で、共鳴を「eco sonora」または「反響」の開発に集中する、コトーニの教育メソッドについて語りました。これは、「呼吸管(tubo pneumatic)」(気送管または気管)に「tubo risonatore」(共鳴管)を挿入して、正しい音を生成するために2つをつなげることで達成されます。その音は、加圧された空気の安定した柱にもたれます。

歌っている間、首の血管を硬化させて、顔が赤くなる人たちは、あらゆる音の放出を間断なく強制しており、彼らは息をする方法も、息の放出量を判断することも知らないし、歌われた発声現象に於いて協働している組織体のいろいろな部分を調和させることも知らないことを示している。つまり、彼らは、放出の瞬間に共鳴管に気送管を挿入する方法を知らない。これらが別々のままであることは、空気流の伝達と振動体によって生成された音の放射を妨げて、倍音を豊かにすることができない。[Giscomo Lauri Volpi – Voci Parallel p. 200-201]

栄光に満ちたイタリアの発声の歴史から、これらの2人の声の巨人の技術的な考えを検討すると、「息の対抗するサウンド」についてのメロッキの考えが、新しいものではないことが分かる。

Jerome Hinesは、メロッキについて関心が深く、多くのことを述べています。彼は何度もコレッリと面談して、メロッキのメソッドを理解し、さらに適用しようとしました。私には、彼がこの事に関して、しばしば誤解していたように思われます。彼は、実際にパバロッティやタッカーのような他の歌手達、またはカルーソーの著述でのアッポッジオ(または、声を声帯の下の息にもたれる)に関する考えに直面するとき、彼は飛躍して、これらの考えをメロッキ派と呼んでいます。そして、パバロッティやタッカーがメロッキ-タイプ歌手であると結論し、メロッキが生まれるずっと前に、アッポッジオの考えは伝統的なイタリア楽派の発想であったことにどうやら気づいていないようにおもえます。彼はまた、しっかりした声門の閉鎖が著しく欠如していた時期に、声を取り戻すためにメロッキ・メソッドを使う試みが実際にいかに役立ったかを記述しています。

-典型的に認められる欠陥-

前にも言ったように、多くの人々は降ろされた喉頭がメロッキの教えの欠点と考えます。彼らは強弱変化、レガートに於ける難点、しばしばドライブされた音等々の技術の不足を喉頭の強制的ポジショニングに結びつけます。私は、この論拠の一行が非常に欠陥があることを読者に納得させたいと願います。しかし、それでは、何がこれらの明白な問題を引き起こしたのでしょうか?

これらの問いに答えるために、我々はより深くメロッキのアプローチの技術面を調べなければなりません。

メロッキは、彼の生徒に全音域を通じて絶えず喉で低く声の本体を開けるように命じました、それは、歌手が全音域を通じて軟口蓋から下に喉頭の空間まで反響する声の本体を感じることを意味します。これは正しくメロッキのアプローチの鍵となります。これは開いた喉と低い喉頭の考えの背後にある心的な目的です。
メロッキは、彼の生徒に、全音域を通じて絶えず喉で声のかたまり(the body of the voice)の底を開けるように命じました。それは、歌手が音域全体を通して軟口蓋から下に喉頭領域まで、反響する声のかたまりを感じることを意味します。これは、正しくメロッキのアプローチの鍵であり、開いた喉と低い喉頭の考えの背後にある心的な意図であります。

声は、歌手によってしばしば、音の圧または強力に振動する存在またはかたまりの類いとして感じられます。伝統的に、テノールの声は、音程の上昇とより頭共鳴の優位な声区への変換につれて、軟口蓋を越えて、頭部そしてそれが共鳴する頭腔へ増加する高い響き、或は声の回転― il giro della voceiまたは声をまげる ― を感じる道を持つと見なされてきました 。これは、他のすべての声種からテノールの声を分化させました。

メロッキのアプローチは、開いた喉で軟口蓋の下に声がとどまり続ける感覚を生み出した。ジーロを見出すと言う伝統的な意図は、メロッキのメソッドの要素ではありませんでした。

ラウリ・ヴォルピは、「咽頭に落ちて、首と軟口蓋の間に止まった」音に対して警告しています。このより重い声区の方法は、それどころかメロッキ・メソッドの基本でした。

メロッキ・メソッドによる発声の強力な結果は、スピント・テノールの美学を変えました。この過程はカルーソーの時代から始まりますが、メロッキはこの方向での発声をめざましく発展させました。

-マスク・スィンギング-

メロッキは、マスクが重要ではないことを教えました。マスクに声を置くことは、声の可能性を小さくする確実なやり方であるとみなされました。メロッキは、共鳴を得るために決して顔に声を押し当てるべきでないことを教えました。彼はよく新しい生徒に、声が生まれるところをどこで感じるかを尋ねました。もし、彼らが顔を指したならば、声が喉頭領域で生まれるように感じるべきであることを彼らに説明し始めたでしょう。

はっきり言うと、イタリアの伝統は、声を洞腔に積極的に押すことを擁護することはなく、むしろ、これを、正しい発声によって引き起こされる、自然なそして受動的な過程としてとらえていました。
以下のようなとき、声はある特定の共鳴洞腔への進路に進むとされます:
1-喉頭で正しく生成されたとき、
2- 正しい調整が軟口蓋で作られたとき、そして、
3- 軽くすること(声区でより大きなCT(輪状甲状筋)の寄与に変えること)の過程が適切に実行されたとき。
コトーニはこれについてさらに具体的に、振動の領域を区別し、特定の洞領域を共鳴するものと、他の共鳴しないもの、そして、テノールが感じるものと感じないものととに識別しました。

実際、ラウリ・ヴォルピ自身は、アッポッジオまたは息にもたれる音でなければ、「空気の流れと振動源から作られる音線が、どれほど、伝達し、倍音を豊かにすることができない」かを説明しています。[Voci Parallele p. 200]-それは、Cotogniのメソッドの自己受容性効果の簡潔な証拠となります。

同様に、メロッキは、声をマスクに押し当てることではなく、むしろそれを自由に振動させようと思っていました。特に、メロッキのメソッドは「imposto」(声の準備)の伝統的な考えとは異なっていました、何故ならば、声は通り道を軟口蓋の上に見いだすと言うよりはむしろ、メロッキのメソッドでは、声のかたまりを軟口蓋によって低く保つ感覚を生み出すからです。-まるで声のかたまりが軟口蓋と喉頭領域の間の部屋のようなものに含まれているように。

メロッキ歌手は、まさに伝統が示したように、狭く鳴り響く発声をしました、しかし、彼らは音程が上がっても胸の状態(TA(甲状披裂筋の)活性化)を軽くしませんでした。このように、声が振動するかたまりに対する彼らの感覚はかなり深いものでした。

-メロッキ:到達点であり、出発点ではない-

メロッキは、声に、そして、望ましいヴェリズモ-タイプの音質により大きな力をもたらすために音域全体を通して機能(しばしば最大限の努力を求められる)の最大限まで重い胸声区メカニズムを保つことを強調しました。これは強くて幅広い声を生みだし、その時より高い音域へ持ち越された上の中声では、音を極度にフォーカスしました。

メロッキの時代では、このたくましい響きは新しいものではありませんでした。テノールの声のこの技術的な進化は、1900年代初期に史上最も偉大で最も影響力の大きいテノールによって始まりました:Enrico Carusoです。

ラウリ・ヴォルピは、中声区の拡張、そして、カルーソーのおかげで生まれた胸声区の優位性の増加、それはヴェリズモ・テノールの特徴を示すようになり、そして、これがいかにかつての時代の指導と正反対のやり方であるかについて述べました。

Enrico Carusoの― 英雄的でも、劇的でもなく;リリックでもレッジェロでもない ―の「悲劇的なの声」の出現によって、 分類することができない声、模倣を拒み、忘れられない、真性のテノールの系列は途絶えた。19世紀の至難のオペラが生み出した広い音域の音階で訓練され、そして名人芸(コロラトゥーラ)、糸繰り(ppへのディミニュエンド)、ミックス・ヴォイス、高音と極端な拡張を求められました。そしてそれはバリトンの音域に広がらないために中声の上の音を「軽くする」基準があり、声の拡張は上の音域から始められました。「人は中声で歌い、それを拡げ、高音でかえる。」-昔の巨匠達は言うでしょう、また、歌手に忠告します、パッサージオで完全に音を開けてはならない、ファルセット ― 声の腐敗である ― を慎むように、空気の柱の圧力を一定に保って、全ての発声の均一性に慎重に専念するように。本質的に、完全なテノールの楽器が求められ、本来ソプラノ、バリトンとバスと異なります。

カルーソーの人気によって盲目にされ…テノールは、過去の栄光を忘れた。テノールは…美しくて表現力豊かな声、過去の洗練されたテクニックとは異質のカルーソー流の劇的な、音域に限界がある…ものとなった。[Lauri Volpi – Voci Parallele p. 205]

テノールの上の胸声区(B3-F4)のバリトンのような幅と暗さは、カルーソーから始まったかもしれません、しかし、メロッキはこの考えを前進させ、方法論的に、今まで聞いたことがないレベルの高い声区へこの発声法を用いてを広げました。これは喉頭がより低い理由でもあります。カルーソーによるこの太い幅はたまに聞かれますが、大部分は上の中声区のB3-F4の音域でした、そして彼のキャリアの後期にいたって、ごくまれにこの方法を上の声区まで広げました。彼のRachel quand de Seigneurの高音は、Melocchiが絶賛したのもです。

オーディオ・クリップ#2:Enrico Caruso:Rachel quand de Seigneur

この「sotto il palato(口蓋の下)」または低音部での声を深くすることと開くこと、つまり、口の後ろ、口咽頭喉咽頭の軟口蓋の下、さらに、パッサージォの上のときに感じる声は、真に保証されたものです、そして、若干の見解によると、メロッキ・メソッドの落し穴でもあります。

Zukerは、メロッキが彼のメソッドをChinaまたはRussiaで学んだ(私が確認出来なかった逸話)と主張しています。メロッキは、正当にイタリアで学びました;、そして、多くの他者のように、カルーソーによって始められたテノールの声の美学の革命によって非常に影響を受けたように思えます。おそらく、風変わりなテクニックについてのこれらの主張は、メソッドの所有とユニークさの感覚を増やそうとする企みでした。

以下は、偉大なテノールFrancesco Merliからの2つの引用である。
始めに、我々はNegriniとBorghiについてミラノで勉強した伝統的なイタリアのテノールの話を聞きます。
ミラノは、Mandolini、Moretti、BavagnoliとZannoniのような賞賛されたスタジオによる声の指導が20世紀で最も実り豊かな何人かに言及することが出来る実りをもたらす場でした。
MerliはGuardate, pazzo Son!(ばか息子)を伝統的な発声テクニックで素晴らしく歌い、1927年に録音されました。

プレー・オーディオ・クリップ#3:Francesco Merli:Guardate, pazzo Son!

10年ちょっと後の1939年のEsulateの録音を分析すると、すでに、カルーソー-タイプのベリズモによって起こったイタリアのテノール歌唱の発声革命のまっただ中にあり、メルリの響きは、より高い声区と上の中声ではっきりと肉付きがよく暗いことを示しています。

プレー・オーディオ・オーディオ・クリップ#4:Francesco Merli:Esultate

注意深く聞くと、Merliと後の偉大なOtello ― Giuseppe Giacomini(現代のメロッキ-系の秘蔵っ子) ― との類似点が認められます。ジャコミーニは後期のメルリをよく聞いたのかもしれません。

ラウリ・ヴォルピへの比較はあきらかです。ラウリ・ヴォルピは、栄光に満ちた1800年代を象徴する、impostazioneまたは、声のセット・アップを主張します;それは、フォーカスされたより軽い中声で、「sovracuto」(C5より上の音域でヴェリズモ・テノールによくある限界)への上方向へほとんど拡大がありません。
ラウリ・ヴォルピが「新しい方法」で開いた唯一の真の音は、言葉「l’uragano」のまさに最後の音であることに注意してください。

オーディオ・クリップ#5:Giacomo Lauri-Volpi:Esultate

私がAureliano Pertileに言及しないならば、怠慢になるでしょう。この時期の北イタリア楽派へのペルティーレの影響は、非常に大きかった。ペルティーレは、カルーソー、または、先のベル・カント時代のテノールから非常に異なるのドラマティック・テノールの新しい種類でした。実際、ペルティーレは正しく第1の現代的なテノールであったと主張することができるでしょう。
メロッキの歌手達とペルティーレの間にあるものは、彼らとカルーソーの間にあるのものより確かにより親和性があります。全体的に、我々がペルティーレで聞いている声の最上部-または高い声区の声は、彼の前任者のいずれよりも正しい位置に置かれた胸声です。

20年代中盤からデル・モナコの出現までの、ペルティーレがスカラ座の、そして、イタリアを代表するドラマティックなテノールであったことを、人は思い出さなければなりません。彼の名声と影響力は、非常に大きなものでした。ペルティーレは、あきらかにカルーソーとメロッキ歌手の間をつなぐ存在でした。

1930年代と40年代のイタリアに於けるテノールの歌唱と美学に於ける革命を強調するために、私はこれらの録音を提示します。メロッキがPesaroのConservatorio Rossiniで彼の在任期間を開始したのはこの時期に当たることを考えて下さい。確かに、後期のメルリだけでなくペルティーレの録音は、活動中の「メロッキ歌手達」のように聞こえます、けれども、これらの録音は、有名な教師として出現するまでに少なくとも十年先行しています。メロッキは今日このテノール革命の先導者となりましたが、これは、実際にはメロッキが有名な教師の地図にのる前の発展段階の過程だったのです。

-メロッキ・レッスンの例-

メロッキのレッスンから抜粋を聞いて下さい。

オーディオ・クリップ#7:メロッキ・レッスン

我々がこのエクササイズで聞くものは、メロッキのより広い上の中声の訓練と、それがパッサージオと高い音に影響を与える方法です。このテノールが音程を上げるとき、声は依然として中声のように響くのが聞きとれます。また、それは響きが非常に深いままで、事実上バリトンのように聞こえます。

このクリップの中のLimarilliがよくある間違いの犠牲になることに注意することは興味深い:つまり、正しい深さを見つけることなく声を暗くすることです。何人かは、リマリッリは、ここでは正しい低い喉頭で歌っている、或は、必要以上に低すぎると思うでしょう。この場合は、間違っています。彼は、喉頭を低くするのに舌を使って暗くし過ぎていますが、しかし、舌の寄与なしで正しい深さを見つけることができません。B3の下で、喉頭が高いので、響きは浅く聞こえます、そして、B3より上に上がるにつれて、舌を用いて音を深くしています。音が正しいとき、正しい息の支えによって、B3のパッサージオの上下で、正しい深さを持つでしょう。結果は、筋肉質でややかん高いままで、音の自由さがありません。メロッキは、興味深いことに、このオーディオ・クリップの終わりに、「puntare la vocale(母音を当てない)」ようにアドバイスしました、それは、前方へのプレイシングを意味します。彼はリマリッリに、「raucedine(しゃがれ声)」-炎症のため喉をきれいにする必要性ーは、彼が母音のための正しい深さを見つけられなかったことが原因であると言いました。

本質的に、彼は喉頭中の拮抗作用で歌っています。そして、後半は声を少し鋭くしようとする傾向があり、母音は舌によって前に当てられ、それから抑えつけ、そして筋肉的で暗すぎる響きを作っています。彼は、母音のためのより深い場所を捜すことを助言しています。緊張による喉頭の降下に対する指示はありません。これは、声に、暗すぎると言うよりも、暗いまろやかなビロードのような響きをもたらすでしょう。リマリッリは、マスクの位置にこだわりすぎた結果、声区を混ぜ、声を押す結果となりました。メロッキは、暗い音ではなく、むしろ喉頭を解放して、均一で、作られたものでない声で母音を深く出し始めることを求めました。

ラウリ・ヴォルピは、デル・モナコのテクニックは、音程が上がっても声は完全に同質のようであったと言ったことが記録されています。音における胸声の優位性は、メロッキ歌手が絶えず中声の形で歌っているように聞こえます。しかしながら、誰も混乱しないように。メロッキ歌手は、方法論的にパッサージオで声区を変え、OOに向かって進み、そして、適切なパッサージオで母音の圧縮を増やします。そしてそれはより前向きの共鳴と同等視されます。彼らは、「aperto」または、胸声区では音を上げません。
響きの胸声っぽさを増やす事と、胸声区で歌うことの間には、著しい違いがあります。

人々は、彼らがテッシトゥーラを扱い、その力を使って高い音に達することができるとは思わないので、これらの声はエキサイティングであったし、今でもそうです。そして、これらのテノールが恐れることなく、しばしば見た目は楽そうに彼らのゴールに到達するとき、それは全くエキサイティングなものとなります。このテクニックはヴェリズモ・レパートリーの攻撃的性質を十分に表現するでしょう。そして、それはまた聴衆に非常に感情的で直接的に訴えます。優れたメロッキ・タイプの歌手が、批評家にとってはいつもとは言いませんが、聴衆にとっては、大きな興奮を引き起こして、オペラ界の「ロック・スター」のようであることは驚くには及びません。

-Affondo-

メロッキの考えは、今日イタリアの歌手のサークルでかなり検討されている「affondo」の概念につながりなす。Affondareは、「沈めること」、あるいは、「低くすること」を意味します。それは、音域が高くなるほど、声が喉に深く沈むように想像するというアイデアである。普通は、声区を軽くするか、より頭声に優位を持たせようと感じるところですが、メロッキの胸の強い発声法では、声の本体が軟口蓋と喉頭の間にとどまっているように感じ続けさせます。

マルチェッロ・デル・モナコのアプローチのいくつかは、音声が上昇するときさらに深く喉の中に沈む感覚を擁護したように思われます。メロッキは、(声帯の)接近を保ち、声を軟口蓋の上に保つために、非常に正確な母音を強く要求しました。しばしばそれがマルチェッロ・デル・モナコのテノールでそうなるように、母音の圧縮が失われ、声が完全に暗くなるならば、声は広い咽頭の中にさらに深く沈んでいくように感じるでしょう。これは、声を押し下げ、パッサージオでの声区の混合を引き起こし、いずれは、声の衰退につながります。

メロッキは確かに、音声は喉頭域から生じるように感じるべきであると信ずる一方で、彼は明らかに、軟口蓋の方に上へ向かう動きを擁護した、そしてそれは、咽頭に深く音の本体を沈める感じではない。実際、彼のテノールは、音域全体を通じて強い声門のかたさを伴った明るい歌手でした。人は、アッポッジオ ― 息の上に音声がもたれること ―の考えと、上方向へ進路を見つけることより咽頭の中に沈んでいく音の感覚を 混同してはなりません。

-メソッド-

メロッキは、アッポッジオを一段と強めることによって、より低い声をもたらしました。声は、B3から下に、喉頭域で非常にフォーカスされるか、集められると考えられました。このモデルにおいて、空気の圧力は強く、一定であることが求められ、そして、音声は非常にフォーカスされ、まるで喉頭の下で、加圧された息にもたれているように感じられます。これは低い声で豊かな響き生み出します。母音は、喉頭を低い位置に、一定の圧力で、そして強い響きと空気の動きを保つために閉ざされた位置(closed position)に向かって変更された。この声の音域は、本来攻撃的でした。重要なことは、音声が狭くて、非常に集中されることに注意することです。
メロッキの生徒がB3-F4の音域(中声の上)に上がるにつれて、sbadighlio ― あくび位置(広い喉の範囲内での喉の最大の開きと声の最大の開きを達成するために必要な) ― を見つけることが焦点となります。広い喉と広い音声は、別のものとは考えられずしばしば同義的に使われました。しかしながら、マルチェッロ・デル・モナコの暗い音声に反して-メロッキは、ジャコミーニ流に、非常に明瞭な母音(圧縮されて、鳴り響く)を望みました。このように、喉があくびの位置にあり、そして、音声がこの音域で幅広いのに対して、音声の芯は依然として非常に集められています。

メロッキは、1音ずつ音を引き起こすことによって、このimpostazione(声の調整)を達成しました。父は、メロッキが、どのようにして保持された中声の高い音で、かなり口を閉じて、唇を緩め、少し丸くして、深いOOを、生徒に歌わせ、それから、口を開くことなく、声区を混ぜることなくOHの方へ母音を開けることを歌手に求めるかを詳しく述べました。母音の開きは、口― 軟口蓋から下に向かって喉頭の領域- というよりもむしろ「喉で」音声を開けることによって見出されるということです。

このプロセスは、低い喉頭と広い咽頭のための入門編のように働くOO(ウ)のように、中声の上の声を深くすることに導き、そして、OO(ウ)からOH(オ)への母音の移行は、喉頭を持ち上げることなく声帯を閉じる方法の発見に導く。母音はこうしてより狭くなろうとするので、OH(オ)母音は非常に閉ざされ、AH(ア)母音はOH(オ)により近づく、しかし、両方のケースに於いて非常に共鳴し、鳴り響く。これは実際、共鳴を失わない事が目的となります。

メロッキは、中声でフォーカスされた母音を保つことに関して非常に厳しかった。この意味でコレッリは、中声の母音が非常に弛緩し「たるんで」いて、母音が解放され過ぎていてゆるく、口蓋が充分に緊張していなかった、等々の点で、メロッキが認めるものよりずっと劣っていた。ジャコミーニが直接メロッキのレッスンを受けたならば、この点で、さらにより大きな批判を受けただろうと、私はおもいます。

中声(B3-F4)での母音生成のこのたるみは、しばしばパッサージオでの声区の混合と声の過度の重さにつながります。それは、コレッリに起こることはなくて、ジャコミーにはしばしば起こりました。この意味で、私の見解において、マルチェッロ・デル・モナコがこのメソッドを教えられていたときより、メロッキは伝統と一致していました。マルチェッロ・デル・モナコ流のテノール達の多くは、中声で母音の鮮明度が不足して、暗く混ざって聞こえ、その結果として時には声を押し下げました。メロッキ・テノールは、そうしなかった。この種の深い生成を求めるとき、声の焦点が合わず重くなりやすくなります。
コンパクトな母音の結果として生じる狭さの感覚と、リラックスされた開いた喉の感覚は矛盾しているように思える、そして、しばしばテノールは、咽頭と一緒に喉頭の開きを大きくするので、狭さを放棄してしまいます。しかしむしろ、音の柱は、広い咽頭内で狭くあらねばなりません。
高音でのデル・モナコをよく観察すると、前の歯をより多く見せて、前方の洞を開ける典型的な外観に気づくでしょう。デル・モナコは、これを行うことによって、声を前方へ置かなかった。彼は、より多くの響きを得るために、声をチューニングしていた。彼の目的は喉頭の下の息に対して声の本体を保つことだった、その一方で、これらの共鳴体の調整(主観的に見える)は、開いた喉の位置を失うことなく、より多くのsquilloを可能にするやや狭い音声を見つけることが出来るようにした。これらの調整は奨励されます。伝統からの逸脱は、これらの共鳴体の調整が、声の本体の感覚を口蓋を越えて上方へ向けるやり方(CT優位性)としては見られず、むしろ、軟口蓋より上に声の本体のリフティングを感じることなくsquilloを生成するように音声を集中させるやり方(CT優位ではなく)でした。声は低音部で、低くとどまりますが、よりフォーカスされ、暗くて、圧縮されています。

さて、私の父が、軟口蓋より上の広い空間に時々声が動く強力な感覚を感じ、そして、メロッキがこの声を認めたことを報告してくれたことは注目に値します。そして、それは私の父の言葉で云うと「piu’ morbido」でした。それ故、彼の正しいとする音である限り、メロッキがより強いCT優位性を認めたことは、私に明らかである。この意味で、私は彼のアプローチを、主として響き(sound)よって管理されているものとみなします。

彼らが音域を上がるにつれて、squilloを増やすか、歌手のフォルマント(それは、響き(sound)にではなく、感覚に少し軽い感じをあたえます)を調整することで、メロッキ・テノールは声が重くなることを相殺しました。開いた喉は、OO(ウ)の位置で確保され、そして、squilloは、少し軽くて、EE(イ)母音のような響きの集中した縁を見つけることによって生まれます。フォーカスされた響きは、音声に高い共鳴を保つために、喉頭下の息にもたれることであると思われます。メロッキは、フォーカスしたコンパクトなアッポッジオを見つけるために、彼のテノール達に母音EEとEHを用いました。しかしながら、フォーカスは、第2フォルマント優位のOO(ウ)の音の深さを危うくすることはありませんでした。

40年代のデル・モナコの録音を聞くことは興味深いことです。1950年Otelloのデビュー後に変わってしまった声と比べると、より軽く、明るいものでした。

よりコンパクトなOO(ウ)音に変えることで、充分な鳴りを伴って、上の声区への切り替えが起こります。F#とGは、通常、このとてもコンパクトな音です。AH(ア)とOH(オ)は明るいOO(ウ)になり、そして、EH(エ)は一層EE(イ)になり、また、とても明るくなります。Abから上へ、声はより開き、後ろの空間を広げる。そして、母音はF#とGほど息に対して圧縮されず、より開いています。EE(イ)母音は、よりEH(エ)に向います。このすべてに於いて声の鳴りが導きの杖になります。鳴りがない声は、喉の位置が正しくありません。調整には、声の一定で豊かな響きを考慮すべき必要がります。

squillo(鳴り)を達成し損なうと、最上音に過度の重さをもたらし、声を「破壊する」可能性がある。
多くのテノールは、このバランスを見つけることなく、咽頭と喉頭のポジショニング対中央圧縮(medial compression)をうまく処理することを決して学ばなかったので、メロッキのアプローチによって傷つけられました。

声は、OO(ウ)ポジションのおかげでそれ自身をカバーするので、メロッキのメソッドに於いては声のカバーに関して語られる事はありません。さらに他の母音たちが声の最上部で使われたとき、OO(ウ)母音の位置を失わないことが求められます、本質的により広い母音を生成するために舌が形を変えるとき、広くてより低い咽頭と、喉頭と軟口蓋の間の垂直の広がり(00(ウ)音に特有の)を保つことに集中されます。

このバランスは、最高音に自由な流れが可能になるのに応じて、過不足無く軽くすることや、声区を上へ軽くすることに導きます、しかし、声の力と深さは保たれさらに増やされます。

メロッキは、squilloまたは響きを増化するにもかかわらず、深さを保ったまま中声にマッチするために、胸声区の重さを減少させることによってでなく、むしろ、頭声区のより低い部分の重さを増やすことで最上部を作り上げることに集中しましたた。メロッキは、パッサージオを開けることまたは声区を混ぜることを支持しませんでした。
F#とGでのOO(ウ)母音は、この音域での力を増やすねらいを持っていいますが、それは胸声区を上方向へ持ち上げることによってではなく、やや薄いメカニズム(CT優位性のわずかな増加)で声を発するのに対して、強力な空気圧力に抵抗するテノールの能力を増やすことによってなされます。 中声を軽くするよりはむしろ、ベルカント・テノールがそうしたように、メロッキ・テノールはカルーソーの前例にならい、大いにこの音域を拡張して、頭声区の下部(F#-Ab)で力を開発させました。これは、たとえいつもB4またはSi Naturale Acuto(H)の音域に制限されるとしても、メロッキ・テノールが高い音を確保した理由です。 中声上部を広げることと頭声区下部または中声区を強化することは、不可避的に声域の短縮につながります。

メロッキは、開いた上の中声(上の胸声区)を見つけるためにOH(オ)母音で1-2-3-2-1か1-2-3-4-5-4-3-2-1のような音階を生徒に課しました、そして、開いた喉で、パッサージオ(中声区または頭声区)を越えて、パッサージオより上のOO(ウ)母音をより狭く、深くすることによってsquilloを増化させました。

今日、科学は我々に次のように教えています。OO(ウ)母音はより低い喉頭を著しく広げ、そのうえより低い喉頭を可能にする一方で、狭い披裂喉頭蓋(ary-epiglottic )開口部が共鳴体の道(声道)をシンガーズ・フォルマントまたはsquilloの生成のために合わせます。メロッキはこの関係を理解し最大限に利用しました、それに関する科学的な知識は持たなかったにもかかわらず、それを達成するためのメソッドは確かに持っていました。

低い喉頭と開いた喉によるメロッキの方法で歌おうとすることは、しばしば未熟な歌手の声を(しばしば披裂喉頭蓋開口部のたるみすぎと、極端に伸ばされた声帯(CT優位)の結果)過度に暗く、過度の重さに導きます。軟口蓋と喉頭の間の伸展は、メロッキの見解に於いては不十分なものです。しばしばリラックスされた開きの感覚に注意を集中する歌手は、披裂喉頭蓋開口部を狭めることによって引き起こされる音の圧縮の感覚を退けて、主観的にそれを締めつけであると判断します。メロッキは、非常にフォーカスされた、鳴り響く母音を強調することによって、この落し穴を克服しました。

コレッリが、ハインズとのインタビューで、口蓋のリフティングの方法について質問は注目されます。コレッリは、あくびがそれ自体で口蓋を上げる役目を果たすといいます。メロッキは同意しなかったでしょう、そして、コレッリの歌を中声での母音のたるみすぎで非難したでしょう(Limarilli LessonのレコードでのコレッリのCeleste Aidaに対する彼の批判で得ることができる)。ジャコミーニは、上の声区は、確かにメロッキをぞくぞくさせたけれども、彼の中声はさらに大きな批判を受けたでしょう。

メロッキは、開いた喉(低い喉頭音声)の強い暗さの中に埋め込まれたきわめて明るい音声を望みました。それは最大限のキアロスクーロです。その感覚は、息が通り抜けるための広く開いたスペースではなく、広い喉の中の喉頭での狭い開きでであり、そして、息にもたれかかる強烈に集められた声なのです。

-デル・モナコ-

デル・モナコは、明らかに、メロッキ・スタジオをイメージする最も重要な歌手です。
デル・モナコは、50と60年代のイタリアのテノールの最高峰として見られましたーザ・テノール。我々は、パバロッティが、80から90年代を通じて、技術的に彼のように聞こえるまたは彼をモデルとする、ますます増加する数のテノールによって与えたインパクトを持っていたのを見ることができきます。それはカルーソーの時代も、デル・モナコの時代も同じでした。

マリオ・デル・モナコは、確かにメロッキの発声モデルのゴールを説明する例証ですが、またきわめてユニークな歌手でもありました。

デル・モナコは、歌唱に於いてきわめてアグレッシブな性格でした。デクラマート唱法(アグレッシブに語るような方法)は、彼の演じる人物の苦悶とほとんど原始的な男らしさを表す彼のやり方のトレードマークでした、特に50年代中頃から後がそうです。

多く人々はこれを芸術的な間違いと考えます、しかし、このような批判は、伝統的な別のやり方のエリートで上品な技巧の形への人間性のカオスと基本的な特徴の歓迎されざる侵略としての批評として虚しく響くだけです。デル・モナコの舞台上の人物は、怒りの偶像的表現と感情のコントロール不能の類いで、この意味で、彼は、私の考えでは、過激な完全に個人的なやり方で声の芸術を表現するために、慣習と伝統を越える最終的な創造的なプロセスを成し遂げたのです。
おそらく、これはデル・モナコの模倣が、なぜ間違いなく危険な芸術的な選択であるかという主要な理由なのです。この種のマジックは真似することができず、むしろ新たに生成されなければならない才能であり、そして、その才能を持つものはほとんどいないからです。

メロッキは、このような歌いかたを彼に教えたのでしょうか? 絶対に、そして、断固とし否です!まず第一にデル・モナコの1940のレコードで分かるように、彼はいつもこのような歌いかたはしませんでした。絶えず変わるレガート、加圧による言葉の休止での保持された息とfraseggio(分節法)での必然的な爆発性、これらは、50代中頃以降の典型的な彼の歌い方です;発声に於ける極端な誇張などは、すべてデル・モナコのもので、メロッキの指導ではありませんでした。間違いなく、メロッキはデル・モナコの発声タイプを達成するためにテノールに必要なツールを提供することができた、しかし、多く歌手達が、彼らのアイドルであるデル・モナコを真似したにもかかわらず、メロッキは彼らの歌唱でこれらの技巧的な誇張を歌手達に進めませんでした。

個人的なことながら、父がメロッキのスタジオから出た後に演じた最初のオペラは、HandelのGiulio Caesareで、その他にLucia di LammermoorとPagfliacciでした。

表現法と、フレーズの作り方の実際のやり方で、多くのメロッキ・テノール(父を含む)がしばしばデル・モナコのようだったという事実は、メロッキの指導よりはむしろ、デル・モナコの美学のカルト的崇拝でより多くのことがなされたことを示しています。
70年代から生まれた多くのデル・モナコ・テノールは、デル・モナコを真似することを条件づけられている訳ではありません、その結果として違いがあることにも注目しなければなりません。ジャコミーニは、心に訴えます。ジャコミーニを聞いた人は誰でも、力だけではなく、彼の歌の驚くべきダイナミックなしなやかさに、そして、彼のレガートの素晴らしさを証明することができまし。彼は、芸術性のために努力します。劇的なアクセントは、ずっと少ない。

-フランコ・コレッリ-

フランコ・コレッリは、メロッキとのレッスンは多くはありませんでした。彼は数回訪れたでしょうが、お互いの直接のコンタクトは限られていました。コレッリは彼の友人Carlo Scaravelliから最初にメロッキ・メソッドを学んで、メロッキの考えによって強く影響されたのは疑いありません。しかし、コレッリは、デル・モナコのように、様々な点できわめてユニークな歌手でした。彼の技術的な考えは「メロッキ・テクニック」としばしばみなされますが、これが完全に正しいというわけではなりません。

彼のキャリアの始まりにおいて、コレッリはかなり口の中に声を感じていました、そして、その結果より暗い、よりバリトンぽい声(それはB4まで広がった)であったことが分かります。彼は、この声が「乱暴で」限界があるのを感じていました。

彼の演奏活動とラウリ・ヴォルピとのレッスン、そして、また疑いなく、他の歌手たちとの舞台上での経験のおかげで、彼は「 giro、曲げること」またはより明るい発声の方法(彼は「スイートな声」と呼んだ)への切り替えを学びました。声がマスクを打つ方法と、これらの感覚がより大きなバランスへ向かう直接の発声を助ける方法を、また、声を全音高く伸ばすことができることを発見しました。そして、彼が大いに重んじた何かと、Manrico、Poliuto、Calafなどのようなより高いスピントの役への野心を追求しました。明らかに、彼は伝統的な声区の価値を発見しました。

「giro」の発見が, 彼の演奏活動とラウリ・ヴォルピとのレッスンとつながるのと同じくらい、彼の初期の声の、きわめて口の中のまたは口蓋の下の感覚は、メロッキ・メソッドの影響の強力な証拠となるでしょう。きわめて実際的なやり方では、古典的ベルカント・スタイルの多くの音質を保持すると同時に、彼が、メロッキ歌手のような力を増すやり方を発見したので、スピント・テノール歌唱の進化はコレッリで新しい基準を見つけました。コレッリは、1900年代後半のパワーアップされたBelcantistaテノールなのです。

コレッリ、過去と未来への一歩:力に関して後退することなく、メロッキと比較される正しい発声に於ける未来への一歩です。しかし、コレッリは、ラウリ・ヴォルピまたはマルティネッリと比較される新しい種類のテノールです。彼の個人的な進化は、メロッキのアプローチの技術的な限界を完成させるために過去に遡る彼の視線によって起こり、その一方で、力に関するその功績の多くを保持しました。誇張(伝統的な声の美学を犠牲にして力と重さの方へおおいを押しわけて進む方法)の方へ傾いて、デル・モナコはバランスの喪失を露呈しました。コレッリは、新しい成果の多くを保持すると同時に、イタリアのスピント・テノール発声へいくらかのバランスを取り戻しました。

-結論-

Arturo Melocchiは必然の結果でした、そして、おそらく今や、カルーソーとヴェリズモ・オペラの美学の出現に影響を受けて、イタリア人のテノール発声に対する考え方が変化するプロセスに於いて象徴的な存在となったのです。彼はテノールを、時には偉大な、時にはそれ程でもない成果で、まったく聞いたことがなかったような領域に連れて行きました。

彼のメソードは、歌手がそれの使い方を理解する能力がなければ、確かに誰もかれもがあるわけではありませんが、発声障害を起こす可能性があります。レッジェーロまたはリリックなレパートリーに適している声が、メロッキモデルの典型的な、声を誇張する事を好むアプローチをすることは、まったく非常識でしょう。

イタリア歌唱の伝統的な考えの多くがメロッキのメソッドに取り入れられているということに疑いはありません、しかし、その2つの間には重大な相違があります―発声の誇張はテノールの声の力を増強することを目指します、そして、それは破壊的とまでは行かないまでも不注意に使われるならば、あるいは、その人の本来の質と正反対であるならば危険なものとなる可能性があります。

この発声モデルにならおうとするテノールは、真剣に、この歌い方の利点と難点を比較して考察しなければなりません、そして、とりわけ彼らの持って生まれた才能に対するこのテクニックの影響を検討するために、彼ら自身の声について十分に知らなければなりません。

父は、メロッキがどれほど良い人であったかだけでなく、きわめて誇り高い人であったことを、我々に教えてくれました。あるとき私の父のレッスン中に、Gaston Limarilliがドアベルを鳴らしました。メロッキはバルコニーから彼を見て、中に入れようともしないで帰れと言いました。父は、Limarilliが新進のスターであることを知っていたので、これに少しショックを受けました。メロッキが説明するのには、最近のスカラ座での彼のNormaの演奏において、私の記憶によると、LimarilliはMe Proteggeのカバレッタの最後に向かうappoggiaturas(前打音)を省きました、それがメロッキを激怒させてしまったので、その時彼を教えなかったのです。その後すぐにメロッキは死んでしまったので、おそらく二度と彼を教えることはなかったでしょう。

彼は、父に知らせることなく全音高く移調したピアノの伴奏で父が高音に対する恐れを克服するのを助けたことを、私は付け加えることができます。曲の仕上がりに応じて、メロッキは、歌唱の心理と歌手がどのようにして勇気とバランスを見つける必要があるかを、彼に講義し始めました。コレッリと他の多く人々と同じように、彼は最上音を見いだすことは、メロッキのアプローチのおかげであると考えていました。息の上にもたれる音声に関するメロッキの強調は、(テノールの正しい高い声のために絶対必要な)内側の圧縮とアッポッジオが不足した声を修復することができます。しかしながら、長期にわたるメロッキとの関係は、すべての人にとってうまくいったわけではありません、彼のやり方は、すべての声にとってうまく歌えるものではありませんでした。

父は、メロッキが声を作り上げる方法について正しく知っているが、それはすべての人にとってのものではなかったといいました。

メロッキを特徴づける1つのフレーズを思い出すならば、「私は、あなたに声を与えることはできる、それから、それで歌えるかどうかは、あなたの問題だ」。