学校の演劇部や、一部の劇団などで腹をつきながら「あ、い、う、え、お」などと発声練習をしている光景がよくみかけられます。腹式呼吸をつかってお腹から声を出してるつもりなのでしょうが、こういう練習法は、日本の常識、欧米の非常識です。ヨーロッパ人から日本の俳優達はどのような発声練習をしているのかを尋ねられたとき、腹をつきながら声を出しているなどとは恥ずかしくて絶対にいえません。
腹式呼吸を論じる際にまず理解していなければならないことは、日常的に使われている腹式呼吸(横隔膜呼吸)と発声技巧のための腹式呼吸は、名前だけが同じで全く逆の機能を果たすと言うことです。

日常的に使われている腹式呼吸: 筋肉運動には、自分の意志で動かすことが出来る随意運動と、意志とは関係なく働く不随意運動、例えば心蔵や腸の動き、の2つに分けられます。呼吸運動は呼吸中枢が自発的な呼吸のリズムをつくり出すことによって不随意運動を可能にしますが、大脳の運動野からの信号によって随意的な運動を起こすことも出来ます。

腹式呼吸で最も中心的な働きをする横隔膜は膜状の横紋筋で、緊張することによって降下し胸郭が上下に大きくなり、吸気活動が成立しますが、横隔膜には自力で上昇することはできず、主に腹筋の助けをかりなければなりませ。
しかし、腹筋には不随意的な活動は出来ないので、睡眠中や安静にしているときには、呼気作用は吸気筋の緊張が解かれたときの反動によって起こります。また、胸式呼吸の中心的な働きをするのは肋間筋ですが、肋間筋は主に随意筋として働くので、意図的不自然な呼吸とされるのです。つまり、日常の呼吸である腹式呼吸は呼吸していることを忘れるぐらい、全く自然に、楽に呼吸しているのです。 無意識で、自然に、呼吸が出来るという事実は、我々が生きていくうえでの必須条件です。それをウイザースプーンは、the breath of life といいました。
それゆえ、腹をつきながらの「あ、い、う、え、お、」は、上記の腹式呼吸を意図的に強調、或は、強引にしたもので、腹式呼吸の最も優れた機能である自然さは損なわれて、呼気時の過剰な息による声帯へのトラブルの原因になります。声を出してる呼気時に、呼気筋の過剰な使用を促進することになります。

では、発声技巧のための腹式呼吸とはどんなものでなのでしょうか?
呼吸法に関して、まず最初に徹底的に理解していなければならないことは、発声時(呼気時)にいかに息の消費を節約できるかということです。換言すると、息のエコロジーです。 ヨーロッパに於ける発声のための呼吸に関する最も基本になる概念であり、あらゆるテクニックは、この概念の上に構築されていると言えるでしょう。

発声技巧のための腹式呼吸も息のエコロジーのために考えられた方法で、発声時(呼気時)に横隔膜の上昇を出来るだけ遅らせる為の技法なのです。つまり、発声時である呼気作用に、吸気作用を強調することによって息の消費量を出来るだけ少なくしようとするのです。
発声時には息を吐いているわけですから、当然横隔膜は弛緩して上昇します。横隔膜の上昇を遅らせるためには、発声時にも横隔膜を緊張させ続け下げようと努力しつつけなければなりません。横隔膜にはそれ自身を下げる能力があります。通常、下がる動きは吸気時に起きます、正確に言うと、下げるから吸気になるのです。しかし、呼気時(声を出してるとき、息を吐いているとき)にも下げようとすれば下げることが出来ます、かなり不自然な行為ですが。
その結果、この呼吸法を実践している歌い手は、吸気時に腹を突き出し、歌っている最中にもその姿勢を維持し続けるため、かなり不細工な格好になることもあります。
この吸気時に腹を突き出す呼吸法は、ベリー・アウトと呼ばれ、1855年にMandl という当時権威のあるフランスの医師によって医学雑誌に発表され、瞬く間にドイツや、アメリカに広まった呼吸法に過ぎないのです。

欧米の発声教育界に於いても、ベリー・インとベリー・アウトのどちらが優れたテクニックであるかはいまだに議論が分かれます。しかし、日本で行われ、また日本人に信じられている腹式呼吸は、決して声を出すための呼吸法ではありません。 わたしは、この件に関して、絶対ベリー・インを支持し、ベリー・アウトはむしろ危険な呼吸法であると信じています。
「声の出し始めは、決して身体を動かしてはならない、静止した状態から出さなければならない。」この言葉は、昔から言い伝えられた発声術の鉄則です。