舌根を下げて軟口蓋を上げる、とはよく言われることで、また不幸にもそれを信じている生徒が多くいます。これは日本の発声教育における怪しげな指導法の中でも最も不都合なものです。
これは母音についての無知からくる大間違いです。そのように指導する先生等は、母音がどの様に作られるかを知らないのです。母音生成時の声道の断面積と母音のスペクトルとの関係を初めて解明した、この母音研究のパイオニアとして今も世界の音声学界で記憶されている2人の音声学者が『THE VOWEL – Its Nature and Structure』を出版したのが1942年です。不運にもこの貴重な研究は戦争のため欧米に伝わるのに時間がかかりましたが、今でも関連論文には必ず引用されています。
舌の仕事は、調音、つまり母音をつくるために、声帯から口先まで(声道)の形を作ること、いくつかの子音をつくることで、そのためには自由に動ける柔軟性が無くてはなりません。
例えば、「い」の母音は、舌の前方を硬口蓋の前方に接近させなければ「い」母音を発することは出来ません。「え」母音は舌がそのまま中間点まで下がり、「あ」母音になってやっと舌の形は平らになります。この「あ」母音の舌の形がそのまま後方にスライドして喉の後ろの壁に接近すると、今度は暗い「あ」母音になり、それを中間点まで上げると「お」母音、更に後ろの上に進むと「う」母音になります。つまり5つの母音で舌を下げることはありません。日本の発音教育では、正しい母音は正しい唇の形から生まれると教えますが、唇も大事な調音の道具には違いありませんが、唇は声道の形と協力し合って、或は、声道の形を作る結果、唇の形が決定されるのです。
つまり、舌を下げて「い」や「う」の母音を発音することは拷問に近い苦行となり、「K]の子音を発することは不可能となります。
このポイントに関する昔の名歌手達の証言では、特にソプラノが高音を出すとき、舌の後ろの方を高くさせることが必須としてあげられています。Tetrazzini, Lehmann