CHAPTER IV

Resonance – Action of the Vocal Organs – Pronunciation 
共鳴-発声器官の活動-発音

共鳴

おそらく、声の誤った放出は言うまでもなく、さらに呼吸の疑問ですら、この比較的新しい化け物よりひどい混乱と不確定性を引き起こした物はない、それは、共鳴である! にもかかわらず、共鳴は単純で容易に理解される現象である。
声帯によって上へ送られる弱くて単純な、ほとんど「音調のない音」は、それが達することができるすべての腔に伝えられて、ある種の響または反響する過程によって、音楽的な歌声または話声に変えられる。
完全な有機体としての発声器官を検討するならば、我々は、声帯より上(つまり、喉頭から上)の領域に限り、それらを二部トランペット(two-part trumpet)のたぐいに例えることができるとに気づく。喉は、咽頭部で口と頭の2つの「ホーン」へ分岐するチューブである。声帯は「振動体」であり、喉はチューブである、そして、口は第1の共鳴体であり、頭と鼻の腔は第2の共鳴体である。
我々は意のままに第一の共鳴体の形を変えることができる、故に、その音価を変えることができる、そして、上の共鳴体(それは固定されている)の形を実際に変えることはできないが、無理のない手段で、使用する範囲を変えることができることを再認識する。つまり、我々は一つの共鳴体と他の共鳴体の割合を変えることができる、そして、第一のつまり口の共鳴体の形を明確に変えることができる。我々は、これらの共鳴体の一方又は両方を、別々に、又は、それらを使用する割合で「ふさぐ」或いは、変更すると言えるかもしれない。(二部トランペットのアイデアは極めて親愛、且つ惜しまれる友人H. H. Curtis博士による。彼は声の共鳴について多くのことを我々を教えた。

例えば、口の共鳴を「止める」ことによって、「音声」が変わるだけではなく、特定のスピーチ・フォームができあがる。例えば、「休止状態」に最も近い位置にある母音AHから、舌をある程度前に持ち上げること、A-の母音になり、さらに舌の持ち上げをより高くすることでEの母音(英語の)になる。つまり、AHをĀまたはEに変えるほど、口の共鳴を「止め、stop」たり、あるいは、舌を上げて口の共鳴体のサイズを小さくして形を変えることで、AHのサウンドがĀまたはEに変わる。同様に、舌だけではなく、口蓋、口峡、口蓋垂、唇によって共鳴を「止める、stop」か、変えることによってスピーチのために口の共鳴体を変えることができる。我々は喉のチューブの共鳴を、喉頭蓋(舌に向かって起き上がったり、喉頭の上にかぶさったりする)によって、舌を後ろに引くことによって、そして、喉頭を上げたり降ろしたり、その他もろもろのことによって変える、又は、「止める」ことができる。さらに、我々は口蓋、口蓋垂と口峡によって、頭と鼻の腔の共鳴の使用を可能性のある無数の割合で、または口の共鳴と組合せるか、ほとんど完全に口の共鳴をカットすることで変えることができる。

同様に、口蓋などによって、ほとんど完全に鼻および頭共鳴をカットすること、又は、ほとんど完全にそれを「止める、stop」ことができる。スピーチの変化が共鳴で生じると、同調する変化が声帯活動に生じることは立証された事実である。そして、それは「因果関係」の違いであったり、共鳴器の使用における発話の変化によって起こる反射の違い、いわゆる「リアクション」である。

共鳴体1と2、口と頭を2つのパートに分けてトランペットと見立てることで、人間の声の色や響きや質や音程や音量の変化が無限に可能であることを知ることができます。非常に稀な音を除いて、実際に一方の振動子が他方の振動子から切り離されることはないと考えるのが自然であり、したがって、歌唱行為の間、2つの共鳴体は実質的に常に鳴っており、一方の共鳴体を他方から切り離した場合にどのような結果になるかを容易に発見することができる。しかし、主要な事実は、歌唱行為の間、2つの共振体が互いに異なる割合で常に使用されているということだ。我々には、3番目の共鳴体、胸とおそらく全身の共鳴体がある。しかし、確かに、後者は共鳴体としての我々の分析の能力を越えている。しかし、実際に歌ってきた我々のすべては、極めて明確に、胸の響きと振動を感じてきた。胸部には、私たちが呼吸したり、声帯に必要な空気を供給するための「ふいご」や肺があるだけでなく、共鳴器でもある。声帯または振動体の下にある共鳴器は、上に向かう空気の流れとは逆の方向にあるので、「間接的な」共鳴器であると言えるだろう。今や、我々の二部トランペットのチューブの延長によって、すべてのこれらの共鳴体は連結されている。我々は、他の2つ(口と頭)でよりも1つ(胸)で多くのものを意のままに使うことができる。これらの共鳴体はつながっているので、それらの3つの共鳴体を同時に、そして常に使うことができ、また使っている。つまり、すべての音には、胸の共鳴、口の共鳴、頭の共鳴があり、これらの共鳴は、音程、音色、音質、音量などの目的のために、お互いの比率を変えている。ならば、この変化や変化の連続に適用される法則がなければならない。トランペットの真鍮のように胸を一種の共鳴板と見立てれば、歌声の各音には胸、口、頭の共鳴があり、これらの3つの共鳴は各音のためにそれらの比率を互いに変えていることが、実際的な目的であると常にいえるだろう。もし、この見解を受け入れるならば、他の何を受け入れることができるのかわらないとしても、声区という実に不合理な教義という、古代からの悩みの種を永遠に取り除くことができる。人間の声には1つの声区しかなく、ただ3つの異なった質、胸の質、口の質、頭の質がある、そして、これらの音質は単に上で言及した3つの部分での共鳴(resonation)によるものである。

胸部共鳴は、深さとオルガンのような音質を与える;口部共鳴は、声の「叫び」、「大声の」音質、輝かしい、刺し貫く、原色、声に明らかな芯を与える;頭部共鳴は、口部共鳴の「叫び声」の輝きと、胸部共鳴の深さと暗さの音質を減らし、響き、甘さ、柔らかさを真の音楽的な、共感する、「人間の」音に与える。しかし、無限の表現を可能にする真の完璧な音色は、どれが優位であっても、どれが弱くても、3つの共鳴のすべてを必要とすることは、強調してもし過ぎることはありません。

先に述べたように、これらのことが真実であるならば、作用の法則があるはずで、これらの3つの共振の相対的な作用と、それらの比率に何らかの一貫性を持たせる法則があるはずだ。音程が高くなるにつれて、胸の共鳴が少なくなり、口の共鳴が大きくなり、頭の共鳴が口よりも高い比率で大きくなる。しかし、口は常に、「力の中心」、活動の中心、声の芯、真の発音器官、そして、中心的共鳴体であり実質的声の形成者であるが、その補助的な共鳴体である、胸部と頭部に依存している。それらなくして音楽は存在しない。これが人間を動物から隔て超越させる。それが言語を可能にし、悠久の時を経て言語を発達させて歌を可能にしたのだ。

それゆえあらゆる音が3つ全ての共鳴体の共鳴を持っているという事実を受け入れるならば、半音の各音程が、新らたな声区を構成すると認めない限り、声に声区が存在することを否定しなければならない。もしそれを認めるならば、もっと多くのことを認めなければならない。我々は半音以下の音程を鳴らすことができるので、声区の数は無限となり、そのような議論では何の利益も得られない。声区の存在を否定することははるかに簡潔でありより賢明である。それは、上記で示されたように、3つの根本的共鳴体によって生れる3つの支配的な音質の認識に由来する。

音響法則の一つに、「音程の異なる2つ音声は、同じ共鳴体の中で同じように共鳴させられない」というものがある。声にはそれぞれの音程に合わせた多数の共鳴器が用意されていないため、既存の共鳴器を互いに変化させて使用するだけで、声のすべての音に対して新たに完全に調整された共鳴器が提供される。これは、音程のことだけではなく、音質と音量、そして話し方の問題でもある。

おそらく、我々は実際に声を「前方に」も、「後ろに」も、または「上に」も「下に」も、あるいはどのような「場所」にも「置(place)」かないことが分かるだろう。我々は、どのような音を出したいか、どのような感情を表現したいかによって、あらゆる「場所」で歌う。ある「場所で(place)」で歌おうとすることは、ただ音色と表現に制限を強いているだけである。(太字強調:山本)

発声器官の諸活動

発声器官、つまり発音、音程、音質、音量、音色、その他と密接に関連のあるそれらの器官の働きは、人間の声に於ける共鳴と呼ぶものと密接に関連し、さらに摂食と嚥下行為そして呼吸行為にも関係している。
しばらくの間、呼吸活動を忘れて、話す・歌う、食べる・飲み込むと言った活動について、一般的に考えてみよう。
これらの活動は、2つの「活動の系統群」、スピーチと音声のさまざまな形態の為のものと摂食と嚥下のさまざまな連携作用の為のものとに分けられる。

しかし、我々は、これらの器官とそれらの活動を定めている協働の法則に全く考慮しないで、局所的で別々の筋肉活動とコントロールに対する無数の指導、示唆と「要請」を読んだり聞いたりする。

生徒たちは、舌を局所的に平らにしたり、歯に押し付けたり、後ろに巻いたり、さらには後ろの部分を「こぶ」にしたり、「溝」にしたり、横に「広げ」たり、あごを緩めたり、後ろに引いたり、口蓋を局所的に上げたり、喉頭を上げたり下げたり、唇をトランペットのようにしたり、笑い顔を誇張したりするように教えられる。これは、様々な音声器官を支配する交感神経作用があるという事実を全く考慮せず、これらの器官の作用を支配する法則に全く無知な状態で行われている。

我々がのみこむとき、喉頭は上がり、喉頭蓋襞が喉頭の上で折りたたまれ、気管への食物の通過を防ぎ、さらに同じ目的のため披裂軟骨が前に押し出され、舌は食物が喉に入らないように後ろに引き戻され、そして、口蓋は喉の後部壁に上方と後方に上がり飲食物が鼻腔に行くのを防ぐ。それはすべて、完全に自然な協働の活動であり、これらの器官の自然な機能の一部である。嚥下行為中に話したり笑ったりしてこの行動を妨げると、発声器官のこれらの嚥下行為の連携作用を妨害することになりむせてしまう。

歌ったり話したりする行為は、飲み込む行為とは正反対である。

喉頭はピッチの上昇に伴い、自然の位置に留まり、その後部が後方、下向きに徐々に回転する、舌は上方向前方に進む、声門は披裂軟骨の回転で声帯が接近することによって閉まる、喉頭蓋は様々な程度で舌を背にして起き上がる;口蓋は決して後方にでなく、前方へ動き、音の高さとともにわずかに上がる。口峡は、ピッチの上昇に伴い、上端で「前方に向」き、徐々に接近する、そして、口蓋垂は、完全に、または、ほとんど完全に消えるまで上昇する。(強調:山本)これもまた完全に自然の連携動作である。これらの2つの一連の自然な行為が混同するか、混乱するとき、食事中に食べ物でむせるか、歌やスピーチで、音声を「のみこむ」か、または、歌唱でいろんな他の誤った特徴があらわれる。これらの器官が極めて敏感で、特に口蓋が容易に刺激されすい起立力のある組織でできていて、さらにサウンドと空気に極めて影響されやすい、そして、器官全体がほとんど無数の神経によってめぐらされているので、極めて容易に間違った方に行く可能性があることは不思議なことではない。言い換えると、我々はこれらの器官の自然な機能を妨害する、というよりは、それらは非常に密接に関連しているため、互いに干渉しやすく、そこに歌手の最大の困難が横たわる。

我々が1つの器官の活動または連携作用の1つの要素を局所的に強調しすぎるならば、その器官の活動が1つの部分となる連携作用を妨害するだろう。上に言及される局所的行為を、全体的な連携作用に正確に一致し、求められる結果への正確な割合で行うことは明らかに不可能である。残念なことに、我々は局所的に音声生成器官の多くをコントロールしたり、動かすことができる。歌手は、「局所的」指導に従って、それによって利点が得られるようにみえるが、いずれ近い内に、彼が1つの誤りを別のものと交換するだけであることが、あるいは、元の誤りがさらに悪化しているかもしれないことに気づくだろう。

歌唱における発声の器官の活動が特定の傾向に従うならば、法則がなければならない。我々は、この法則を2つのやり方で組み立てよう:
(1)一般に、歌唱に於ける発声器官の活動は、嚥下における活動と正反対である。
(2)一般に、ピッチに応じて後部で下降している喉頭(それはそれ自身の軸を中心に回転する)以外は、歌唱の発声器官の活動は、上方、前方に向かう。唇は、特別な注意を必要とする。(これらの法則は、この本の第2部で、より詳細に説明されるだろう。)
それは前記した、発声器官の活動が協働(coordinate)であるということからわかるだろう、つまり、それらは互いの関係に於いて、そして、互いの依存の仕方に於いて動く。それらは、ピッチ、共鳴の変化、音質、ボリュームとスピーチまたは発音のために機能する。それゆえに、舌を平らに保ち続けることや、口蓋を上げること、口峡を広げること、そして、喉頭を上げたり、降ろしたりすることなどを、「局所的な力、local effort」によって実行することで、どれくらいの害があるかを想像するのは簡単である。発声器官の活動は互いと調和してなければならなず、それらの自然法則に従わなければならない、そして、あらためて、これらの自然な協働作業を妨害することなく生徒がいかに歌うかを学ぶことができるいくつかのやり方または教育の方法を見つけなければならない。なぜならば、例えば舌の場合、その器官を平らにして、さらに他の発声器官の活動に正確に対応してそれを平らにするために、舌に注意を集中させることは明らかに不可能である。これは、局所コントロールを防ぐための一番良い最も明らかな論拠である。
それゆえ、歌唱が人間の他のすべての自然な機能または行為または能力と異ならないことがわかるだろう。すべては、個人の生まれながらの順応性に依存する長くて忍耐強い努力によって習得されなければならない。我々は、男性または女性が特定の行為のための生まれながらの能力を持っていると言うのは、彼/彼女が他の多くの人より少ない努力でその技術に熟達するようになるからだ。我々は、乳児期から、ぶつかったり、落ちたりしながら歩くことを、多くの馬鹿なつじつまの合わないことを言って話すことをゆっくり辛抱強く学ぶ。それはすべてが身体的でも心理的でもない。
それは精神的で、想像的で、意志的で、技術的で、模倣的である!それはあらためて協働(coordination)である、そして、我々は何年かの努力がなければ、成功のためのいかなる真の手段もない。しかし、歌うことに於いては、長年の進歩と知識、原因と判断力のために、少なくとも時間を節約し、単なる「経験的な」多くの部分を省くことができる。その結果、我々は、スピーチのフォームとそれに伴う技術をかなりの程度すでに体験しているので、スピーチよりさらに少ない時間で歌唱の技術を習得することができる。我々はさらに、表現、想像力、意志力と、おそらくその中でも集中力において、多かれ少なかれ経験している。しかし、我々は、自然の作用を修練している、つまり我々は、すでにある何かをただ訓練しているだけであり、不自然な科学を「学んで」いるわけではないという事実を絶えず心がけていなければならない。そして、我々は、自然がそれ自身として機能し促すような、或いは自然についていかなるものも付け足さないシステムによって歌うことを学ばなければならない。あらためて、実際的な「歌う衝動」を高め、視野と独創性における想像力を育て増大させることによって、その機能を果たす器官と同様に技功的と呼ぶそれらの働きに、我々は新しい衝動と成熟を与えるだろう。
この方法で我々を助けるためのいくつかの確かなガイドがなければならない、そして、最高のガイドが耳であることは分かる、それは最後の頼みの法廷と言えるかもしれない。しかし、目もまた我々を助けることができる、ゆえに、歌唱には、「目に見える」誤りと「耳で聞こえる」誤りと言えるものがある。気をつけなければ、「目に見える」誤りに対して注意し過ぎることによって、過度な局所的力を誘発することがわかるだろう。耳は、それゆえ、目が描き出すのと同じように、歌唱のための主たるガイドである。一方では、我々が局所的力を決して使用してはならないと言うことは不合理だろう、なぜならば、正しく使われるならば、それは大きな助けとなりうる、しかし、それは教育または学習の真の基礎となりえないし、またなってはならない。
上で忘れてはならないことのすべては、技術とは発声器官を定める自然法則への完全で習慣的服従の単なる結果であり、それに行為を制御するイマジネーションを加えることである。
その議論は次のように進むかもしれない、これがそうであるならば、歌唱に於いて我々が求める技術を得るまで、歌唱でただ良い音楽を保たなければならないという格言を受け入れよう。そのわけは単に、我々は歩くことや走ることができるまでは、ハイハイしなければならないからだ!
音階を歌うことよって、我々はイマジネーションの広がりと要求を制限する、我々は発声器官のことを気に留めなくなる。我々はいわば、表現のより進んだフォームを試みる前に、基本的な母音と音声で普通に音のラインに沿って歌う。バイオリン奏者またはピアニストがそうするのとまったく同じように、我々は、それに対する真のコントロールを得るために、楽器として我々の器官の使用を修練する。そして、唯一の違いは、歌手と彼の楽器が1つのものであるということである。

これが事をより難しくするとは思っていません、それどころか、反対に、よりやさしくなると私は信じています。そして、私は、歌手が声のアスリートのようになるまで何年も「単純な(five-finger)」エクササイズに制限しようとは全く思いません。彼の生徒には彼の事情と通性がある、そして、すべては生徒の固有の音質を捜さなければならず、すべて同じ法則に必然的に従わなければならないが、従うことを学ぶために、すべて同じ時間がかかるわけではないし、または必ずしも同じ手段を用いることはないだろう。
歌唱を教える際に共通感覚の必要性を認めて、自然法則を扱っていることを知るとき、我々は、その方法(ただよく流行っている、そして絶えず流行ってきた方法)の中にはっきりと誤った理論を見つけることができる。
私は、有力な歌手達が、特定の局所的なことを「する」ことによって真の利益をえることはめったにないと信じるだけではなく、そのようにすることによって彼らを害し、前進を阻止していると私は信ずる、この本の第2部でとられる例を除いて。例えば、歌手に喉を開けろと言ってはいけない。何故なら、そんなことはできないし、喉のどこを開ければいいかわからない、そして、彼はいつも部分的にしかうまくいかず、それをやることによって喉の緊張を招くことになる。同じ理由で、歌手に舌を平らにすること、それを前に押すこと、或いは、口蓋を上げること、また下げること、喉頭を降ろすこと、などと言ってはいけない。そのようにする試みは、多くの場合、彼が修正しようとする誤りより、より悪い別の誤りをもたらすだけである。連携に於けるこれらの局所的誤りの全ては、我々が見ていくように、より安全で自然により忠実な他の方法で修正されることができる。
呼吸法と発声器官の活動に関する部分を再検討するとき、いわば、機械の2つの部分を組み合わせると、音声に関する呼吸法則と発声器官の活動法則が組み合わせられて新しい法則を作ることがわかる。
というのは、呼吸力の強さは、音声のピッチとボリュームに相応している、そして、発声器官は、一般にピッチとボリュームに応じて上方向、前方に動くので、発声器官の活動は呼吸作用の強さと比例している。あらためて、それは、連携作用であり、吸気行為の最初の瞬間から始まり、「呼吸-支持」の最後の瞬間で終わる。
我々は第II部で、吸気行為があらゆる必要な行為のためにそれを自由な活動の状態にし、全発声器官をリラックスし解放することによって、「我々に歌う準備をさせる」方法を見るだろう。
我々はその時、発声パイプが音声のピッチとボリュームに比例して正確に変化するのを検討し、; これらの変化が、確かな法則に従うのを、そして、それらが呼吸力の変化(それら自身の法則に変化したもの)を伴い、部分的に生じることを見る。

発音

発音は、スピーチと同様に歌うことにおいても最も重要である。
美しい話し声と完全な発音は、完全な歌手と同じくらいまれである。
完全な発音の鍵は、全く純粋で簡潔な母音形成であり、完璧なクリア・カットと「迅速」で、妨げられない子音である。スピーチにおいて単に、明確かつ正しく、フレーズまたは一言を発音する試みは、いくらかの言葉を高音で発音するような歌唱に於いて、いかに困難を克服しなければならないかは驚くべきことである。我々は皆、高いBフラットでの言葉「zersplottre」を歌うために何時間も練習したJenny Lindの話を知っている。彼女は、その言を完全かつ楽に発音することができるまで、何度も繰り返し発音したので、最後にはそれをわけなく楽に歌った。

口が我々の主たる「発音者」であるので、歌唱での口の使用はこの上なく我々の技術にかかわりを持たねばならない。
発声器官、したがって「発音している」器官が、音声に応じて一定の法則に従うならば、そして、「ふさがれた」共鳴の原理(我々が見たように)に基づいて機能しながら、発音している器官が言葉の形成のために一定の変化を完了しなければならないのならば、その時どのように、これらの2つの作用が干渉なしで同時に起こることができるか?
それらは、そうしない。いくらかの簡潔な例をとろう。
音声とスピーチの第一の母音AHを、最低音から最高音まで歌うならば。我々がどんなに完璧に歌っても、母音は一定の変化または変更を行うことにすぐ気づくだろう。
しかし、我々は、いくらかの注意と集中した聞き取りの後で、この音域のある音声が、他のどんなものより完全なAHの音を出すことがわかるだろう。
つまり、中声域の「標準」音のいくつかの音が完全なAHと言われるものを鳴らす、そして、それより下と上の音が、やや異なるAHを鳴らすとに気づくだろう。同じ「テスト」で他の母音を歌うと、結果が同じであることに気づくはずだ。 それでは、もう一つの「テスト」をやってみよう。
低い音域のある音で、何か文(5つか6つの言葉)を歌いなさい、続いて、中間の音域で同じ言葉を、そして、あなたが歌えるほとんど一番高い音声で再び同じ言葉を歌いなさい。「中間」ピッチで言葉を歌うことが、他の両方よりもずっと楽であるが、あなたは高いピッチで言葉を歌うことが特に難つかしいことがわかるだろう。
なぜか? それは、発音の法則と音声の法則が同じではないからだ。(我々がII部で見るように)、音声(つまり、ピッチ、ボリューム、音色など)の法則が定められ、そして、共鳴体はこれらの法則に正確に従わなければならないから。しかし、スピーチ・フォームの法則、同じくそれらの要求の基は、しばしばピッチとさらに音色に敵対し、それらに道を譲らなければならない。言い換えると、その音質を失うことなく母音音声を変更するだろう、しかし、ピッチは変わらない。そのように、我々は母音変更の原理を得る、そして、この本の第2部でそれに関する法則を定めるだろう。子音は短くて支えられないのだが、それらが示すそのような困難は容易に克服することができる。
主要なことは、高音である言葉を歌うのが難しい理由を知ること; 我々がその理由を知れば、困難を解く方法を知ることができる。
イギリス人およびアメリカ人歌手の発音で最も大きい困難の1つは、それらの言語の特定の母音の「消音」に起因する。英語のOは、消音OOで終わる。我々は、O-OOと言う。
A-はEで消える、IはEで消えて、実際にAHとEからなる。これらの消音が伸ばされるとき、「田舎」じみた発音になり、少しでも誇張されるならばひどく不愉快なものとなる。それ故、またある種の間違った発音がひどく広まっている、例えば、子音「h」の間違った概念に起因する「sheall」のように。同じく、我々は「rejoice」を「rejeoice」と聞く、なぜならば、子音「j」の間違った概念のため。イタリア語は、純粋で単一のサウンドに関する問題で利点を持っている、なぜならば、「消える」ことは彼の舌に存在しない。
母音の変更、そして、音声のための発声器官の完全な活動は、我々の発音を傷つけない、又は、ぼやけさせない、又は、発音と発声を害しない。それどころか、歌唱の自然の法則(それはわずかな変更を生じる)への服従は、我々がこの教義を認めることによってのみ可能で、その結果は、それらの「中間の標準」フォームで音声に合わせて母音を強制するより、発音の法則にはるかにより自然で自発的で真となるだろう。多くの歌手が高音で調子外れに歌う原因は、おそらく後者の母音の強制である。それはまた、いかに多くのヴォードビル歌手が、あらゆる言葉のあらゆる音節を聞かせ、理解させることができるけれども、依然として不快な響きでひどい音声を生成することを、説明する。
おそらく、古い教義からの「発声方法」の中で最も大きい変化は、唇の使用法にある。古いアイデアは、わずかに微笑むように唇を作って歌うことであった。なぜ? 何故なら、舌と他の発声器官の自然の活動と密接に関係があるので、結局、ほとんど全ての言語音にとって、それが唇の自然の形であること、そして音声のために最高のものであることが分かったから。近年になって、ほとんどとまではいかないが多くの教師によって反対の形が勧められるようになった。歌手は暗い、丸い、「大きい」音声を求めてきた、それで、丸くされた唇がこれらの音質を与えるために想定された。トランペット・リップスは、自然や協働の法則に対する配慮なしではやり始めた。私は、20年前、声の真の共鳴は前歯の外側と唇の内側の間の空間にあると、言い触らした1人の教師を覚えている;それによって、歌手はこの空間を大きくするように、できるだけ外へ唇を「突き出す」ことを教えられた。
実のところ、ほとんどあらゆる言語音は笑いによって、明確で純粋に発音することができる、しかし、口を突き出した唇で発音することは、ほんのごくわずかにしかできない。唇のこの間違った位置は、おそらく他のどんな誤りより、粗末な発音と発声のせいでより多くのことをしなければならない。口が、自由で自然に開くことが出来れば、半分-笑顔、わずかな笑顔(それは笑顔またはしかめっ面を意味しない)で唇は開かれる、そして、唇は求められる形によって、わずかな変化で、自由に言葉をつくる助けをする。

[Witherspoon, Singing.  1925  p.21-31]