PART III
第三部
MISCELLANEOUS POINTS
補論
STYES OF TECHNIQUE・・・p. 145
技法の諸様式
and
THE SINGING OR RECITATIVE・・・p. 148
レチタティーヴォの歌唱
大まかに言って、技法には三つのスタイル様式がある。すなわち、歌の意味を表現するために声を身体的に運用する様式が、三つ存在するということである。
(1)ベル・カント。音の美しさと純粋な歌唱が第一義であり、言葉はそれらを最も明瞭かつ共感的な形で人々に伝えるための媒体に過ぎない。この項目には、すべての歌と歌唱のおよそ四分の三が含まれる。これは本来あるべき姿である。なぜなら、歌の根本的な理念とは音の美しさであり、言語を高貴なものへと昇華させることにあるからだ。ベル・カント技法は、先に言及したベル・カント唱法の流派が持つような制約を一切持たず、最も型にはまった装飾的なアリアから最も現代的な芸術作品に至るまで、歌の世界全体を包み込むものである。
ジョルダーニの《カロ・ミオ・ベン》であれ、バッハの《死への憧れ》であれ、ヘンデルの《大いに喜べ》であれ、シューベルトの《別れ》であれ、フーゴー・ヴォルフの《アナクレオンの墓》であれ、純粋な歌唱と音色とフレージングの美しさは、そのいずれの解釈にも不可欠である。特に他の様式を明確に要求する場合を除き、すべての歌はベル・カント技法を必要とするものと見なしてよい。
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(2)デクラマシオン。劇的な表現が最優先であり、声とその声の色彩は、その表現のための最も劇的な手段として用いられる。音そのものの美しさは、個々の解釈という全体的な構想の中で、その目的(多くの場合は対比として)に奉仕するために従属的な位置に置かれる。
この最もよく見られる例の一つが、デクラマトリーなレチタティーヴォに続くベル・カントのアリアである。前者の鋭い即物性とでも言うべきものが、後者が訪れたときの滑らかな理想美を引き立てる役割を果たす。偉大な劇的歌曲の多くは、全体的にあるいは部分的にデクラマトリーである。たとえばシューベルトの《影法師》や《魔王》がそうで、これらにはベル・カントの小節も含まれるものの、解釈の要は劇的なデクラマシオンにある。あるいはシューマンの《森の対話》、コルバイの《モハーチの野》、また彼の作品として率直に言って殺伐とした傑作《羊飼いよ、見よ、汝の馬の泡立つたてがみを》なども同様である。このような歌においては、力強さと男性的な活力こそが絶対的な推進力であり、それらを厳格な音の美しさに従属させることは、軟弱な印象を与えるだけでなく、解釈において歌そのものの性格を実際に損なうことになる。美しい声によって歌われるならば、デクラマトリーな歌唱は常に美しくあるべきだ。しかし力強さ、リズム、鋭さ、そして劇的な描写こそが、歌手の主たる関心事でなければならない。
(3)ディクション。言葉が第一義であり、音楽はそれを最も効果的に表現するための媒体に過ぎない。この様式には、先に言及した(p. 77)ミニアチュール(小品)的な歌曲のほとんどが属する。これらは概してテンポが速く、シューマンの《詩人の恋》中の《薔薇よ、百合よ》のような例外を除けば、それほど深い感情を伝えるものではない。
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これらは概して、明るく、諧謔的で、あるいは生き生きとした情感を持つ。シューベルトの《野薔薇》、シューマンの《信じられない、夢かと思う》(《女の愛と生涯》より)、ブラームスの《柳の木陰で》と《甲斐なき夜更かし》、アーネスト・ウォーカーの《コリンナ、五月祭へ》、スタンフォードの《本当に?》などがその例である《烏》と《足長おじさん》(歌曲集《クシェンダル》より)、ヒューバート・パリーの《影を追え》、A・M・グッドハートの《メアリー》と《クレルモン・タウンの鐘》なども典型的な例である。また民謡にもこの種のものが溢れており、《郭公》、《糸紡ぎの歌》、《ジャネットよ、聞いて》、《市へとトロット》、《急いで!時間がない》などをはじめ、枚挙にいとまがない。これらすべてにおいて、音色の美しさが欠けていてよいというわけではないが、音色を第一義とすることは、動きと意味の歯車を止め、解釈を台無しにするであろう。
多くの歌曲はこれらの様式を複数含んでいる。たとえば先に挙げた《魔王》や《森の対話》では、デクラマトリーな部分と並んで、それぞれ魔王とローレライの「誘惑する」声による純粋なベル・カントが見られる。実際、それぞれの歌曲の劇的効果はまさにその緊密な対比に依っているのである。シューベルトの《物問いたがり》では、純粋なベル・カントの歌曲の中ほどに、準レチタティーヴォ風のディクション三小節(「Ja, heißt das eine Wörtchen, das andre heißet Nein〔一方の言葉は『はい』、もう一方は『いいえ』〕」)が挿入されており、それが絶妙な効果をもたらしている。一方、コルバイの《羊飼いよ、見よ、汝の馬の泡立つたてがみを》のような歌曲では、冒頭の問いかけがディクションであることが紛れもなく明らかであるように、答えの部分がデクラマシオンであることも同様に明らかである。
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技法のスタイルがもう一つある——おそらくすべての中で最も興味深いものだが——ベル・カントとディクションを歌われる一つのフレーズの中に同時に融合させる様式である。これは《辻音楽師》のような情景描写的な歌曲に用いられる。そこでは音色は、目立たないことと両立する限りにおいて美しくなければならない。また、悲劇に感覚を麻痺させられた中で外界へのあらゆる意識が失われるかのような、内省的で深く感情的な瞬間にも用いられる。たとえば《女の愛と生涯》中の《あなたは初めて私を傷つけた》、あるいは《影法師》の冒頭小節がそうである。前者の茫然自失の無人称性と、後者の催眠的なトランス状態——感情豊かな歌手によって真に語られるとき、これらは音楽の中で最も心を打つものの一つである。歌曲の美学的な診断と、その技法的な扱いの選択は、解釈者の特権である。
THE SINGING OF RECITATIVE
レチタティーヴォの歌唱
レチタティーヴォは、三つの一般的な誤解というハンディキャップを背負って出発する。
(1)レチタティーヴォは、完全にアド・リビトゥム【ラテン語。演奏者の自由に任せる意】で歌われるか、あるいは厳格に拍節通りに歌われるかのいずれかであり、その選択は歌手の気質——自己主張が強いか引っ込み思案かによって決まる、というものである。
(2)その技法の様式は常にデクラマトリーである、というものである。
(3)レチタティーヴォとは、明示的にそのように記されているか、あるいは紛れもなく明らかに示されているかのいずれかでなければ、レチタティーヴォとは言えない、というものである。
(1)レチタティーヴォにおいて、歌手は舞台を独り占めにする。それがレチタティーヴォの与える特権であり、それと同時にしばしばあがりもやってくる。自分を導いてくれる伴奏もなく、歌手は完全に我を忘れるか、あるいは厳格な音符の長さに決して手を緩めないかのいずれかに陥る。
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一方は聴き手を惑わすほど落ち着きなく、他方は退屈極まりない。レチタティーヴォは、リズムの上では装飾的な歌曲と同様に自由裁量ではない。歌手に自由が与えられているのは音符の長さにおいてである。レチタティーヴォは作曲家によって、作曲家自身がそれを歌うであろう音符の長さで書かれている。多くの場合、作曲家の版が最善である。しかし多くの歌手は全く同じようにデクラマシオンを感じるわけではなく、自らの演技的な発想に合わせて記譜された音符の長さを合理的な範囲で適合させる十分な権利を持っている。レチタティーヴォ・セッコにおいては、これを念頭に置き続けることが難しい。というのも、伴奏は常に声を待っているように見えるからであり、それが歌手のバランス感覚にとっていかに致命的であるかは、すでに示した通りである。もしバッハの《マタイ受難曲》においてエヴァンゲリストを歌う歌手が、小節の内在するリズムを一瞬でも忘れるならば、その役は、歌曲の中で最も心を動かすものの一つであるどころか、果てしなく続くように聞こえるであろう。この自由裁量をシューベルトの《竪琴に寄せて》の以下の短いレチタティーヴォに適用し、その責任の重さを実感してみよう:
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シューベルトの音符の長さはそれ自体で十分に完結しており、改善の余地はないと言ってよい。しかし歌手がこの一節を以下のように歌うことを妨げる理由もない。
もしそれが彼個人のやり方でエロスに挑戦を叩きつけるものであれば。しかし、シューベルトの音符の長さを自らの意のままに扱ってよいとしても、シューベルトの拍子記号は彼にとって法律でなければならない。4/4拍子の小節のリズムは、全編を通じて彼の耳に鳴り響いていなければならない。表面的に見れば、彼はこう言うかもしれない。「対比はどうなるのか?リズムで私の挑戦を縛り付けるならば、続くリズミカルなベル・カントの中に含意された服従を先取りしてしまうことになる」と。
【訳注:もしレチタティーヴォにすでにリズムの拘束を持ち込んでしまうと、この後の「服従」との対比が失われると論じている】
シューベルト自身がそれを解決している。一小節ごとに、竪琴奏者が英雄的な詩脈を保とうとする葛藤が描かれている。小節を追うごとに、それは竪琴の偉大なリズミカルな和音を支配する。しかし小節ごとにそれは彼の手を離れ、和らいで愛のみを歌う。服従は完全である。そしてシューベルトが書いた中でも最も美しいものの一つである、美しいリズミカルなアリアが続く。もしレチタティーヴォがそのリズムを失っていたならば、シューベルトが伴奏の中に描き出した英雄的な気分のまさにその失墜を先取りしてしまったことになり、ディミヌエンドとその演技的な表現は一緒に惨めに「尻すぼみ」になっていたであろう。そしてやがて訪れるメロディーは、貧血を抱えたまま出発し、それ自身も不名誉なうちに朽ち果てていたであろう。
伴奏付きレチタティーヴォ〔レチタティーヴォ・アコンパニャート〕においては、歌手のリズムは伴奏によって与えられる。賢明な指揮者は、フレーズをゆったりと展開するあらゆる自由を歌手に与えながらも、フレーズそのものが「前へ進む」ことを確かにするであろう。
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バッハの伴奏付きレチタティーヴォの多く、たとえば《マタイ受難曲》のバスの《夕暮れの涼しい頃》やアルトの《ああ、ゴルゴタ!》などは、実質的にアリオーソであり、そのように扱うことができる。実際、歌手がすべての伴奏付きレチタティーヴォをアリア歌唱の一形式と見なすならば、大きく道を誤ることはないであろう。このようなレチタティーヴォは概して深く感情的であり、しばしば後に続く装飾的なアリアよりも直接的に訴えかける。それは音符の長さにおける「四角四面」という旧来の弊害と、遅いテンポに内在する結果としての生気の欠如を伴いやすい。もし歌手が(ルールIIIセクションbに従い)できる限り、音楽の音符の長さに対して話し言葉の韻律的な長さを与えるならば、最も遅いレチタティーヴォも生き生きと動き、そして人々に理解を与えることによって、その訴えはより高貴なものとなるであろう。歌手がバッハに対してより大きな敬意を払うのは、文字への過度な誠実さによって訳するよりも、精神の真実によって訳することによってである。
【訳注:「translating him with the truth of the spirit than with the hyper-conscientiousness of the letter」は、聖書の「文字は殺し、霊は生かす」(コリント人への第二の手紙3章6節)を踏まえた表現】 たとえば《ああ、ゴルゴタ!》の以下のようなフレーズがそうである。
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「汝は地上から滅び去らねばならぬ。罪なき者も、罪ある者と同様に死なねばならぬ。」
これらの音価で歌ったとき
「汝は地上から滅び去らねばならぬ。罪なき者も、罪ある者と同様に死なねばならぬ。」
伴奏が同じままである一方で、これらはバッハを傷つけることも、リズムの流れを止めることもないばかりか、言語を通じた知性への直接的な訴えかけによって、メッセージを明確なものにする。
もちろん、これを印刷することはできない。いかなる編集者も、バッハの原典の音符の長さをこのように恣意的に変更することはないであろう。これは歌手の特権であり、文書化されておらず——おそらく気づかれてもいない!この関連において、ヘンシェル博士の著書『ヨハネス・ブラームスの個人的回想』からの以下の一節は、ここに引用するにふさわしい。
【訳注:ゲオルク・ヘンシェル(Georg Henschel, 1850–1934)――ドイツ生まれのバリトン歌手・指揮者・作曲家。ブラームスと親交が深く、その回想録 Personal Recollections of Johannes Brahms(1907年)はブラームスの音楽観・人物像を伝える一次資料として知られる。】
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ブラームスはこう言っている。「私に関して言えば、思慮深く分別のある歌手は、何らかの理由で一時的に音域の外にある(その時点では声域に合わない)音符を、デクラマシオンが正確に保たれ、アクセントが損なわれない限りにおいて、楽に出せる音符に躊躇なく変更してよい。」そして著者への手紙の中で再び彼はこう述べている。「少なくとも私の経験の及ぶ限り、誰もが遅かれ早かれメトロノーム記号を撤回してきた。いわゆる弾力的なテンポはまた、新しい発明ではない。これにも、また他の多くのことと同様に、コン・ディスクレツィオーネが付け加えられるべきである。」
【訳注:コン・ディスクレツィオーネ(con discrezione)――イタリア語で「分別をもって・裁量をもって」の意。演奏指示としては「適度な自由をもって」というニュアンスを持つ。ブラームスがここでこの語を用いるのは、弾力的なテンポの使用も含め、音楽的な判断はすべて「思慮ある裁量」のもとに行われるべきだという考えを示したもの。】
ここに我々は、その時代の最高の権威からの言葉を得ている——あれにも、また他の多くのことにも、コン・ディスクレツィオーネを。「思慮深く分別のある歌手」への信頼の遺産である。その歌手は音符を変えることを求めるのではない。ただコン・ディスクレツィオーネをもって歌うことを求めるのみである。それは歌が歌の中の語りとなるように。音符の長さは、翻訳の必要に迫られて、毎日コン・ディスクレツィオーネの有無にかかわらず変更されている。翻訳者にとっての自由裁量は、解釈者にとっての放縦ではない。 もし世間がブラームスのコン・ディスクレツィオーネを歌手の権利として認め、歌手がそれを信託として受け入れるならば、冒険的精神と正統性とは二度と相争う必要がなくなるであろう。
ここでレチタティーヴォを再定義する意図がないことは言うまでもない。述べてきたことは、ひとえに歌手の耳のためのものである。レチタティーヴォ・セッコは常に風のように自由でなければならない——オペラにおいては劇的行為の必要が積極的にそれを要求する——しかし作曲家が形式上の理由から小節を韻律に合うように書いたとしても、歌手はそれを動きをもって歌わなければならない。
リズムはここでも、歌における至るところと同様に、水平(横に流れる線)でなければならない。指揮者がレチタティーヴォ・セッコを下拍のみで伴奏することはまったく正当であるとしても、それらの拍の間に来る音符は電線の上を(途切れることなく滑らかに)走らなければならない。
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これはリズムの感覚であり、規則として教条的に定めるには繊細すぎるものである。それは解釈のより内密な感覚に属するものであり、白黒の文字(紙の上)においては示唆することしかできない。
(2)これらの指揮者の下拍(ダウン・ビート)は、歌手に奇妙な影響を与える。垂直への後退は、催眠的かつ自動的に歌手の技法の様式を変化させるように見え、テキストの意味とフレーズの流れは「レチタティーヴォ」という言葉の慣習の前に崩れ去ってしまう。
《エリヤ》のアリア《もはや十分です》に直接先行する箇所において、メンデルスゾーンは「ここに留まれ、わが僕よ」という言葉のところでレチタティーヴォと記している。レチタティーヴォは実際には「彼らは打たれても嘆かなかった」という言葉から始まっているのであり、「レチタティーヴォ」という語はレチタティーヴォ・セッコが始まり歌手に自由が与えられる箇所にのみ書かれているに過ぎない。
この箇所の最初から最後まで一貫した感情は哀愁であり、様式は純粋なベル・カントである。それにもかかわらず、伴奏付き箇所のベル・カントがレチタティーヴォ・セッコの第一拍において突然デクラマシオンに転じ、言葉と状況の両方の意味を台無しにするのを耳にすることは珍しくない。この純粋なベル・カントのレチタティーヴォを、同じ作品中の《バアル》のレチタティーヴォのいずれかと比べてみるだけで、技法的な様式がいかに広い幅を持ちうるかがわかる。後者は徹底的にデクラマトリーと言えるほど十分に劇的であるが、一方が他方を必然的に含意するわけではない。
【訳注:《バアル》のレチタティーヴォ――《エリヤ》において、バアルの預言者たちがその偶像神に呼びかける場面のレチタティーヴォ。】
《マタイ受難曲》のエヴァンゲリストは、世界最大の物語を比類なき劇的形式で語る。それでいてすべての音符はベル・カントで書かれ、深く柔らかな感情をもって歌われる。地震のレチタティーヴォでさえ、デクラマシオンの様式において《バアルの預言者をことごとく捕らえよ》とは遠くかけ離れている。
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教会カンタータのレチタティーヴォはほぼすべて技法上ベル・カントであり、伴奏付きであれレチタティーヴォ・セッコであれ、ほとんど叙情的に歌われるべきである。《マタイ受難曲》におけるキリストのレチタティーヴォをデクラマトリーなものとして想像することは不可能である。これらの大部分が伴奏付きであることは確かだが、大部分はレチタティーヴォ・セッコであり、構造上他のものと同一である。しかしデクラマシオンという概念そのものが、キリストの全人格と、バッハが描いた最も愛情深いその肖像に相反するのである。
その人格の表現は真に人間的であるが、それは叱責や挑戦においてではなく、悲しみと人類への愛においてそうなのである。「汝の剣をもとの鞘に収めよ」でさえ、知識から生まれた赦しを含んでいなければならない。
【訳注:「汝の剣をもとの鞘に収めよ」(Put up thy sword into its place)――マタイ福音書26章52節。ゲッセマネの園でキリストが捕らえられる場面で、弟子の一人が大祭司の僕の耳を切り落としたのに対してキリストが言った言葉。《マタイ受難曲》第54曲のキリストのレチタティーヴォに含まれる。Greeneはこの最も命令的・叱責的に聞こえうるキリストの言葉でさえ、デクラマシオンではなくベル・カントの、赦しと愛に満ちた様式で歌われるべきだと論じている。】
レチタティーヴォの歌唱は、他のあらゆる解釈の形式と同様に、第一義的には常識によって支配される。「レチタティーヴォ」という言葉は自由、そして主として選択の自由以外の何ものも伴わない。それは恣意的には何も要求しない。
テクニックのスタイルは、言葉の常識的な意味とその書法の様式に適合されなければならない——歌手は与えられた素材に応じて着物を裁たなければならない。多くの場合、レチタティーヴォは作曲家によって単に場をつなぐために用いられてきた。
「彼は仲間とともにダマスコに向かって旅した」(メンデルスゾーンの《聖パウロ》より)などの平凡な事実の陳述に「ドラマ」を読み込むことは、コントラルトとテノールにのみ許された過剰な熱意である。
(3)レチタティーヴォとして直接記載されるか、あるいは紛れもなくそのように示されるものは、実際上オペラとオラトリオに限られる。ピアノ伴奏付きのリートや歌曲において印刷された「レチタティーヴォ」という語は稀である。
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それにもかかわらず、そのような歌曲はレチタティーヴォに満ちている。それは何ら特別な記号によって示されていないかもしれないが、それにもかかわらず感情においてはレチタティーヴォであり、そのように扱われなければならない。
シューマンの《詩人の恋》中の《夢の中で私は泣いた》は純粋なレチタティーヴォに他ならない。シューベルトの《白髪の頭》も同様であり、《さすらい人》の冒頭と末尾も明らかにそうである。《辻音楽師》と《影法師》は実質的に全編レチタティーヴォであり、前者は情景描写的、後者は劇的で、それぞれに対応するテクニックのスタイルを持つ。これらを純粋なベル・カントの《宿屋》と比べてみれば、レチタティーヴォの感覚が歌唱の中に具体的な姿を現すであろう。《彼女の肖像》においては、同一の歌曲の中に二つの様式が共存しており、実際の効果はその並置と対比、そしていわば第一フレーズの第二フレーズへの解決に依っている。このようなレチタティーヴォはもちろん暗示されているに過ぎず、その認識はほとんど秘儀的とさえ言えるかもしれない。それを内的な感受性の中で感じ取り、それに応じて扱うことは解釈者の仕事である。周囲から切り離された文やフレーズはある程度それを示唆するが、レチタティーヴォの感覚を内包しながらも、歌曲歌唱の規則に縛られつつ、レチタティーヴォの雰囲気を歌手の心に伝えなければならない純粋なベル・カントの歌曲も多い。そのようなものとして、《詩人の恋》中の《汝の瞳を見つめるとき》、あるいは《女の愛と生涯》中の《あなたは初めて私を傷つけた》がある。また劇的な部類においては、ソマーヴェルの《モード》中の《あの恐ろしい窪地が憎い》のような情感の歌曲がある。例は際限なく挙げることができるであろう。
器楽音楽にも類似の例が数多くある。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲イ短調Op.132の最終楽章への導入部(ピウ・アレグロ)は、率直なレチタティーヴォである。
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より繊細な例はシューマンの《夕べの歌》(ヴァイオリン独奏の形で最もよく知られている)であり、おそらく音楽の中で最も純粋なカンティレーナの一つと見なされてきたにもかかわらず、最初から最後まで純粋なレチタティーヴォである。
レチタティーヴォの歌唱において歌手が心に留めるべきことは、舞台を独り占めにしているということである。伴奏はほとんどライムライトに過ぎない。劇的なレチタティーヴォと器楽的な描写の独立した、そして相互依存的な扱いは、まずグルックによって示され、後にワーグナーによって神格化された。これらにおいて歌手は自らに与えられた位置を占めなければならない。しかし概して彼は、その責任をいっそう重大なものにする自由という特権を持っている。
2026/05/15 訳:山本隆則





