[William Shakespeare:The Art of Singing]

THE VOICE ON THE BREATH p.24

「発音の自由度」と「首の緩み」について述べた後は、パッキアロッティの「息の仕方を知っている者は、歌い方を知っている」と、クレセンティーニの「歌の芸術は、息の上の声である」という言葉の後半部分を取り上げるだけである。単に息を吸うだけであれば、息をコントロールするのは簡単なので、第1の意味は、喉の自由度のためにそうしなければならないような無駄なものが出ないように、コントロールして節約することができる息の圧力に、声が完全に反応するように訓練すべきだということに他ならない。第2のマエストロからの引用は、楽器の緩みが、息の上で休んでいるような音の感覚を生じるようでなければならないという。

昔の歌手は、声帯が自然に作用しているか、あるいは、声帯が何かの拍子で正しい位置から外れて圧迫されているかどうかを、2つのサインによって判断した。第1のサインは、声が正しく生成されるとき、音は比較的少量の息だけで歌うことが出来る。これは、点灯されたロウソク、口の前の鏡、または、指に対して練習する習慣を生みだした。それは(正しいコントロールと組み合わされた場合)、ロウソクを揺らしたり、鏡を曇らせたり、過度に指を暖めたりすることなく、20または30秒間持続する呼吸圧で、完全に聞こえるかどうかを確認するためである。音が間違って生成されたならば、歌手は、コントロールすることができる以上の大きい息の圧力の使用を強いられる。結果はパフ【a puffとは声帯の一震動で漏れる息のことだが、ここでは何を意味するかは不明】で、これは大失敗とされた。このシステムで、正しい音は、最少の息の消費で最大のサウンドを生成することが判明した。科学的に、最少の手段で最大の結果を生みだすからそれらは正しい。第2のサインは、無意識のうちに行われる喉頭の働きである。歌手は喉頭の存在を意識してはならないが、喉を絞って歌っている人には、その状態を実感することは難しい。このように自由に歌っているうちに、「歌唱芸術とは呼吸の楽派である(”The art of singing is the school of respiration,”)」というイタリアの古い格言の真意や、「L’Italiano non ha gola」(イタリアの歌手には喉がない)という昔の歌手の自慢話の説明を理解することができるでしょう。

それは接近し伸ばされた声帯による息の圧力に対する抵抗のことで、それが声帯を振動させる。緩く伸ばして接触しただけで、呼吸筋がうまくコントロールできないと、息が無駄に漏れていまい、あらゆる声区の最低音で観察される。しかし、声帯では、その長さがより強く引き伸ばされているため、声帯の縁がより接近し、息の圧力に対して抵抗が大きくなり、ピッチが高くなり、音が大きくなるので、それを強化しなければならない。このように、あらゆる声区に於いて、音がより高くなるほど、必要とされる息の圧力はより大きくなり、この圧力をコントロールする技巧もより必要となる。一方では、音がより低くなるほど、声帯は相対的に緩むために音は小さくなる。この低い音を息の制御を失うことなく強めることで歌手の技量が発揮される。このような状態の声帯は、平衡を保って、いわば、息の上でバランスをとっている。それら(息の圧力と声帯)は、全く別々のように感じられる。最大の音は、最少の息で生み出される。

完璧な声を出すためには、(1)楽器の自由度、(2)息の圧力のコントロール、この2つの要素が同時に作用することが不可欠である。学生は呼吸-圧の準備することができたとしても、話そうとする音を見いだすことに失敗する、あるいは、正しく音を始めたとしても、息をコントロールすることに失敗する。

最少の息で充分に話すための声を配置(placing)*することは、息の力を増やすことと同じである、少ない息でより多くの音を出すことができるようになり、それができる人は、練習を重ねることで、自分の音をより強くし、最大の劇場に届けることができる。

声を配置(placing)する技巧に上達すると、我々は喉のスペースと舌による干渉をやめるようになる。低音が正しく話すことができるようになった後、少しずつ高音を取り入れていくと、異なる声区の全範囲を無意識のうちに簡単に出せるようになる。フレーズの開始や、音量や音程の変化、言葉の変化で失敗するならば、すぐさまやめて、そして新たな息を吸い直して、再びやりなおさなければならない。辛抱強く何度も試しているうちに、フレーズの最後の音をしっかりとした音で仕上げることができるようになるでしょう。


*シェイクスピアのplacingは、他の著者たちが使う用語法と若干違っています。一般的には、プレイシングは音の置き所、例えばフースラーが言うアン・ザッツやマスクと言われる前頭部の共鳴感覚(共鳴ではない!)などですが、シェイクスピアは発声器官や筋肉の配置のことを言っています。その配置が上手くいったときに声の響きが適切な場所でよく響くという意味では一般的なプレイシングと一致します。
つまり、プレイシングは結果的にどこそこが良く響いた感じがするですが、それに対してシェイクスピアはどのようにすればその結果が得られるかという原因について様々な注意を喚起しています。


イタリア語では、息のコントロールは声のアポッジョappoggio(支え)と呼ばれており、これに完全に応えているときの声は「アポッジアータappoggiata」又は息に寄りかかっている、つまり「ベン・アポッジアータ」(よく支えられている)と言われています。

良い歌い手は、息を力強く外へ押しているにもかかわらず、体の中に依然として残っているようである。このサインは、呼吸が制御されている証拠であることを見逃してはいけない。これに反して、悪い音において、息は外に流出するので、喉を固めたままで防ぐことしか出来ない。

あたかも心の中か想像上の音がまだあるかのように、予備にいくらかの息を残してフレーズを終えることはすべての歌手が学ばなければならない。そうすることで、フレーズの最後まで声の質を保つことができるだけでなく、前の息のコントロールをなくさないで、瞬時に新しい息を吸うことができるようになる。

Lampertiは、彼の「Treatise」のオリジナルのイタリア語版の中で、この心の中の音の重要性を強調しながら、息をコントロールしたままフレーズを終わらせる技術は、歌の落ち着き、ひいては歌手のキャリアを左右すると述べています。
このことを生徒に伝えておくために、マスターは練習曲やフレーズを歌い終わった後に、音符やターン、トリルを要求し、生徒がこの追加の音符やパッセージをきちんと歌うことができたら、フレーズを正しく終えたという証拠になるだろう。
どんな音色やフレーズでも、歌うのを止めるには、音の原因となる息を止めるのが当然です。これは、声の調子が終わりまで完璧であるように、吸気筋をコントロールして、喉と口を開いて、息の流出を終わらせなければならない;喉-スペースの収縮で息の流出を止めるのを助けてはならない、それは、音が終わると同時にせき音を伴う原因になる;、また、口を閉じて止めると、mまたはpの子音が聞こえてしまうだろう。

多くの歌手が、フレーズの終わりに息を止めているとはとうてい言うことができない。声は単に息の消耗によってなくなるが、それで最後まで何とか持ちこたえる。それゆえに、音の不足は、フレーズの終わりに特徴的である。フレーズの終わり方を観察することによって、それが開かれた喉と正しいブレス・コントロールで歌われたかどうかを言い当てることができる。

喉を大きく開けて歌う傾向や、逆に喉のスペースを縮めて発声器官を抑えつける癖は、主に話す言葉や話し方によって大きく影響を受けることがわかってきた。

最後に、声の配置と調整の正確なメカニズムについてはほとんど分かっていませんが、次のような記述があれば、それが行われなければならないことをある程度理解できるかもしれません。
(1)私たちが歌うすべての音は、高音でも低音でも、大きな音でも小さな音でも、振動する声帯の一定の長さ、幅、深さを必要とする。
(2) 振動体を含む喉頭は、息の上の正しい位置に置かれるか、バランスをとらなければならない。
(3) 音を立てずに息を吸った後、音程の中心で音を出し始めるならば、母音の鮮明度が上がり、筋肉が働き、音は何かをウオームアップするかのように、バランスを取り、節約を旨とする圧力に反応する。
(4) 普段よりも大きいか幅広い音を歌うとき、我々のコントロールを越える息の圧が必要となって、喉を締め付けてしまう、そのために声の配置を外してしまい、正しい音程と母音の鮮明度は損なわれる。
(5) 正しく生成された音は、息を正しくコントロールする必要がるが、このコントロールなしのいかなる感覚も、必要とされる自由さで音を始めるための大胆さを妨げることになるだろう。

言い換えると、(1)正しくコントロールされた息に充分に反応するすべての音は、正しく生成される;(2)このような音は、息を切らすか、息を止めるかのどちらかを余儀なくされ、結果として、息の筋肉は疲れるが、喉は疲れを感じないということになる。 (3) あらゆるフレーズに於いて、最初に出た音が悪いと、我々の力から外れて息のコントロールが効かなくなり、新たに息を吸うまで、そのフレーズの残りの音は不完全なままである。

 

2022/01/29 訳:山本隆則