鎖骨呼吸; Clavicular Breathing
鎖骨呼吸は現在では幾分混乱して理解されているようです。
現在では鎖骨呼吸は肩呼吸と混同され、吸気で肩を上げ(Scapular breathing; 肩呼吸)呼気時にそれを落とすように下ろす、走り疲れて肩で息をする時のような呼吸のことのように思われています。それは、アメリカのバス歌手で、後にメトロポリタン歌劇場の総支配人にまでなったWitherspoon が、1925年に”Singing” と言う本を出版し、その中でClavicular 鎖骨呼吸を”the breath of exhaustion”消耗の呼吸と言ったのが始まりかもしれません。ちなみに、残りの2つは、Diaphragmatic 横隔膜呼吸を “the breath of life” 生活の呼吸、最後に、Costal or rib 肋骨呼吸(肋間呼吸)を、”the breath of activity” 活動的呼吸 auxiliary breathing 補助的呼吸と言っています。
20世紀の代表的な発声教授であり数多くの書物の著者 Richard Miller (1926-2009) は、ヨーロッパの4つの楽派、イギリス、フランス、ドイツ、そしてイタリアの発声教育の傾向を書いた興味深い本(National Schools of Singing, 1977) の中で、4つの国の楽派に於いて、呼吸法は主に鎖骨呼吸と胸式呼吸、腹式呼吸の3つの方法に分けて議論されるが、鎖骨呼吸はただ非難の対象でしかなく、まじめな議論は胸式呼吸と腹式呼吸についてしか行われないと書いています。
しかし、19世紀には、女性歌手はきついコルセットを着用していたため多くの歌手が鎖骨呼吸を用いていたようです。リリー・レーマンの”pancostal breathing“もこれに当たります。男性歌手の中にも”Sbriglia Belt“や、Melchior がメットの楽屋で取られた有名な写真の例のように幅広いベルトを使用していました。
当時も歌のための呼吸法は、鎖骨呼吸、肋間呼吸、腹式呼吸(最も新しく1855年以降)の三つとされていましたが、もし鎖骨呼吸が、Withersopoon やRichard Miller が言うように、走った後の肩呼吸なら議論の余地なく歌唱のための呼吸法とは言えません。
最も、鎖骨呼吸に関する肯定的な説は、全呼吸は鎖骨、肋骨、横隔膜呼吸を必要とするということである[Kofler, 1897, p.40]。さらにコフラーは、「呼吸のすべてのメソッドのうち、鎖骨呼吸或は高い呼吸は、最も大きな効果で最も少ない空気量を提供する」ことを認める[1897, pp. 35-36]。大部分の著者は、鎖骨呼吸のテクニックにはっきりと反対する… [Monahan, The Art of Singing p.53 1978]
1895年にJoseph Joal によって書かれたOn Respiration in Singingにも、けっしてベストの呼吸法ではないが批判されるほど害のある呼吸法ではないと弁護されています。この本の中には、興味深い統計があります。Joal は、1885年から当時の有名な男女85名の歌手達がどのような呼吸法を用いているかを調査しました。その結果はつぎにようなおどろくべきものです;
23人の女性歌手の内;鎖骨呼吸は9人、肋間呼吸(胸式呼吸)は14人、つまり腹式呼吸は0人。
男性歌手62人中;鎖骨呼吸は11人、肋間呼吸(胸式呼吸)は32人、腹式呼吸は19人。[Joal, On Respiration in Singing p.124]
Mandlに代表される腹式呼吸派は、自分たちの敵として肋間呼吸ではなく鎖骨呼吸を,また、女性歌手のコルセットの着用を徹底的に非難し、新しい科学的な呼吸法として腹式呼吸を奨励し、たちまち世界中に広まってしまったのです。特に、ドイツでは低い息の位置を重要視する傾向があり、一般的にドイツ楽派などとも言われます。
1970年代のドイツを代表する2人のバリトン、フィッシャー・ディースカウとヘルマン・プライは、全く違うブレスを用いていたことが一目瞭然で分かりました。ディースカウはほとんど鎖骨呼吸と言っていいほど、胸を高く保持していたのに対し、プライは両腕を伸ばして前でしっかりと組み可能な限り低い位置をキープしていました。残念なことに、あれだけ魅力的なプライの声は、晩年の録音を聞くとフラットして、音の保持が困難になってしまいました。
注目に値する意見として、数多くの名歌手達を育てた名教師Paola Novikova (1896-1967) を引用しましょう。
「横隔膜の代わりに鎖骨の支えに頼ることによって、コロラトゥーラ歌手はボリュームをカットした。このように、すばやい放出の容易さを可能にした。昔は、バスからソプラノまでのすべての声で、これを行った。」
[Coffin’s sounds of Singing 1976, p. 33]
【コメント】
この誰もが否定する鎖骨呼吸を擁護するような見解を長々と書く理由は、今の日本の発声教育に於いて常識になってしまった、腹式呼吸信仰のせいです。
鎖骨呼吸は極端な胸式呼吸と言うことも出来ます。わたしは、鎖骨呼吸が最も優れた呼吸法であるとは言いませんが、少なくとも腹式呼吸よりはましだと思っています。
歌唱に於いて、呼吸が果たす機能は、動力源です。良く響く高い倍音(フォルマント)の多い声は、声帯レベルに於けるしっかりした締まりを必要とします。そのしっかりと閉じられた声帯を振動させるためにはそれにふさわしいエネルギィーが必要です。そのエネルギィーが息の圧力です。この圧力と声帯の抵抗力との間に生じる平衡(equilibrium)が保たれたときに初めてのどの自由が実感されます。
この声帯下圧を実際に感じるためには、腹式呼吸より明らかに胸式呼吸法のほうがより簡単に感じることができます。声帯自体に供給される圧力は、声帯から離れれば離れるだけ強くしなければなりません。鎖骨呼吸は、声帯の最も近いところで圧力を保つのでより少ない圧力でもエネルギィーを生み出せます、しかし反対に圧力がかかりすぎるために声帯の抵抗力と平衡関係を取ることが難しくなります。
ガルシアに一言お願いしましょう。
質問: どの呼吸が良いのですか?
答え: The thoracic (胸式呼吸) [Garcia, Hints on Singing 1894]