この書は、1902年にMeine Gesangskunst (ベルリン)で初版され、Richard Aldrich により英語に翻訳されて1924年にニューヨークのMacmillan Company から出版された。
この書は、出版当時から評価が低く、本人もすでに出版されたものを買い戻そうとしたという話があるくらいでしたが、後に、史上最も偉大なプリマドンナの一人である、ガリ・クルチ(彼女はもともとピアノで、ミラノのコンセルヴァトワールを卒業して、独学で歌を学んだという経歴の持ち主である)は、ガルシアとリリー・レーマンの本で勉強しました。ガリ‐クルチは、この本の評判の悪さを完全に否定し、リリー・レーマンの偉大さがまだ理解されていないとしてこの本を絶賛しました。
モットー:芸術的なテクニックを獲得することは常に誇張と結びつきます、なぜならば、他人に、広々としたホールで、何かのための歌手自身の微妙なフィーリングを、聞かせ、見させ、理解させるためにはそれが必要ではないでしょうか?フィーリングがより細かいほど、それはより複雑なものになります。芸術的なテクニックは、魂の審美主義を通して、美のハーモニーを獲得しなければならず、それを通してのみ、ふたたび自然が明らかになるでしょう。
My Purpose
私の目標
私の目標は、「開いて」、「カバーして」、「暗く」、「鼻で」、「頭で」または「首で」、「前方に」または「後ろに」歌う歌として知られているこのような感覚を、そして、特に完全で明確な知識に基づく私自身の感覚を、単純に、実際に、そして、わかりやすい方法で論議することです。これらの表現は歌唱での我々の感覚において一致しますが、それらの感覚の原因が未知のものである限りそれらは理解しがたいものです、そして、それぞれの人はそれらの意味に対して異なる考えを持っています。多くの歌手達はそれらを作り出すために長い生涯の間それらを試みますが、決して成功しません。科学者は歌をほとんど何も理解しないし、歌手は科学をほとんど何も理解しないためにこのようなことが起こります。わたしは、歌唱の非常に複雑なプロセスの生理的な説明が確かに歌手に十分与えられず、声の感覚に頼らなければならないと言っています。科学界の人々はいくつかの器官の正確な機能に関してまったく意見が一致せず、ほとんどの歌手はテーマに関する情報に通じていません。真面目な芸術家は誰でも、他の人がゴール(すべて歌手が、立派に、そして、美しく歌うために目指すゴール)に到達するのを助けたいと心から願っています。
真の歌の技巧は常に維持されてきましたし、それのために必要なもの全て(つまり、話し声の悪習慣によって損なわれてない健康な発声器官;良い耳、歌唱の才能、知性、勤勉とエネルギー)を持つ生まれつき才能に恵まれた個人によっていつまでも維持されていくでしょう。
昔は、8年間を歌唱の勉強に充てられました―例えば、プラーグ・コンセルバトワール。契約を得る前に、生徒の間違いと誤解のほとんどを発見することができたし、教師はそれらを修正する際に、非常に多くの時間を費やさなければならなかったので、生徒は自分自身で正しい判断力を下すようになりました。
しかし、今の芸術は、何事にも言えるように蒸気によって鍛えられなければならなくなりました。芸術家は工場、いわゆる音楽学校に、あるいは、レッスンを1日に10時間または12時間与える教師のもとに放り込まれました。彼らは2年後には能力証明書、少なくとも工場の教師の卒業証書を受け取る。後者は特に、私は国家が禁止すべき犯罪だと考えています。
以前には、長い学習課程の間に明らかにされていた、すべての柔軟性のなさと不器用さ、間違いや欠陥は、学生の公のキャリアが始まるまで、工場制度の下にいるときには現れません。それらを修正しても仕方がありませんでした、なぜならば、時間、教師、批判者がいなかったし、それを行うべき人は何も学ばなかったので、それらを聞き分け、或いは、修正できるものは何もありませんでした。
私の芸術的な良心は、技巧の助けとなるために私が学んだこと、私のキャリアの中で私にとって明確になったことのすべてを明らかにするよう、私に訴えます;、そして、私の「秘密」を捨てること、それは生徒がめったに最後まで正しい勉強の進路を追求し続けることがないので、ただの秘密と思い込んでしますものです。芸術家(しばしば名前だけの)が彼らの欠損に気づいた場合、他の人に対してそれらを認める勇気が欠如していることはあまりにも残念なことです。私たち芸術家が皆、自分の過ちや欠陥について互いに相談し、それを克服するための方法を話し合うことができるようになるまでは、私たちのプライドをポケットに入れて、悪い歌唱や非芸術的な労力がチェックされ、私たちの崇高な歌唱芸術が再びその権利を得ることができるようになるのではないでしょうか。
歌の技巧に書き込む私のタイトル
私の場合のように、これほど多くの望ましい、必要な経歴が一つになることはめったにありません。
二人の歌手の子供で、母親は音楽的に異才を放ち、ドラマティックな歌手としてだけでなく、ハープの名手としても長年活躍しました、私と妹のマリアは、彼女から極めて注意深い音楽教育と後に注目に値する声楽指導を受けました。5才の時から、私は毎日歌のレッスンを聞いていました、9才からピアノで伴奏し、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ボヘミア語で、すべての失われたパートを歌いました、すべてのオペラに精通し、すぐに歌の良し悪しの見分け方がわかるようになりました。私たちの母は、当時の著名人のオペラやコンサートを聴かせてくれるように気を配っていましたが、プラハのドゥートシュ・ランド劇場では毎年多くの著名人が演奏していました。
彼女自身、フランクフルトバス歌手Foeppelに優れた歌唱指導者として認めて、声に対する非常に大きな要求と運命の多くの打撃にもかかわらず、生涯にわたり、 つまり、彼女の77才まで、声を崇高で、美しく、若くて、強く保ち続けました。彼女は確実に声を診断することができましたが、才能と進歩する力を試すために3~4ヵ月の見習い期間を必要とました。
私は18才から、つまり、34年間舞台に立ちました。プラハでは、私はオペラ、オペレッタ、演劇と道化芝居の舞台で毎日演じました。その後、ダンツィヒでは月に18回から20回、コロラトゥーラとスーブレットのパートを歌い、またライプツィヒで、その後ベルリンでは15年間歌いました。それに加えて、かなり多くのオラトリオとコンサートで歌い、時々レッスンをしていました。
母親が生きている限り、彼女は私の最も厳格な批評家であり、決して満足しなかった。とうとう、私は独立しました。今や、15年以上がたちましたが、その中で、私はアメリカでドラマティックな歌手として8つのかなり厳しい役をこなしました。その後、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、フランス、英国とスウェーデンのすべての言語で、スターとして契約を果たしました。それでも、歌の勉強は後戻りしませんでした。私は自分でますます熱心に上を目指し、みんなから何かを学び、自分自身と他の人を聞くようになった。
何年もの間、私は歌唱に関する自分自身の重要な問題に対して、私が求めてきたものを最終的に見つけたと信じています。私が、自分自身と他の人と共に行った熱心で慎重な勉強を通して、そして、それによって同僚に示す歌唱メソッドの混沌に秩序をもたらすだろう何か;歌唱の感覚だけではなく科学に基づく何か;発声器官の正確な機能による明確な関係に、しばしば誤解を招く表現をもたらす何かを、学んだことすべてをできるだけはっきり書き留めることが私の努力目標でした。
私が今言ったことに於いて、私の声が長続きしたことを示すために、私のキャリアの概略だけでも伝えたいと思います、;、そして、私は声にかなりの無理をしいたにもかかわらず、なぜそれがそのように立派にもちこたえたのか。
短期間の歌唱で声を失いそのために歌唱教師になる人は、意識して決して歌わなかった;それは単に偶然の成り行きである、そして、良くも悪くも、彼の生徒にこの偶然の成り行きは繰り返されるだろう。芸術家のすべての条件が兼ね備えられた才能は、かなりまれである。最高の教師が何もない才能を生成することができないのに対して、真の才能はいくらかのやり方または他のもので、劣った教師とですらうまくやっていくだろう。しかしながら、このような教師は、守ることができない約束で、人々を欺くことはないでしょう。芸術家に向ける私の主たるおもいは、私はおそらく彼らの難しいが、素晴らしい専門職面に於いて手助けができるだろうというでことです。人は決して学ばない、それは、特に歌手に当てはまります。私の調査、経験と研究(それは役に立つでしょう)において、私は何かを彼らに残すことを真剣に望んでいます。私はそれを私の仕事とみなし、そして、私は真剣に改善のために努力している全員にそれを託します。
Grunewald、1900年10月31日
訳:山本隆則
Contents
目次
My Purpose
Preliminary Practice(予備練習)
Of the Breath and Whirling Currents (Singing Forward)(呼吸と渦巻く流れについて(前に歌うこと))
The Singer’s Physiological Studies(歌手の生理学的研究)
Equalizing the Voice — Form(声の均一化–フォーム)
The Attack and the Vowels(アタックと母音)
Sensation and Position of the Tongue(舌の感覚とポジション)
The Sensation of the Nose — The Nose Form(鼻の感覚–鼻のフォーム)
The Sensation of the Palate(口蓋の感覚)
The Sensation of the Resonance of the Head Cavities(頭腔共鳴の感覚)
On Vocal Position — There are NO Vocal Registers — Propagation-Form(声のポジションについて-声区は存在しない-複製フォーム)
Theodor Wachtel and the Vocal Technique of Tenors
The Highest Head Tones — Staccato(超高声の頭声–スタッカート)
The Tremolo(トレモロ)
The Cure(治療法)
The Position of the Mouth (Contraction of the Muscles of Speech)(口のポジション(話し声の筋肉の緊張))
Connection of Vowels(母音の連結)
The Lips as a Means of Expression(表現手段としての唇)
The Vowel-Sound AH of Former Days
Italian and German
Auxiliary Vowels(補助母音)
Resonant and Disconnected Consonants
Practical Exercises(実際の練習)
The Great Scale
Velocity(速さ)
Trill
How to Hold One Self with Practising
Pronunciation — Consonants(発音–子音)
My Own Practice in Singing(私自身の歌の練習)
Concerning Expression(表現について)
Before the Public
Interpretation(解釈)
Indispositions(欠点)
In Conclusion(最後に)
Note:A good Remedy for Catarrh and Hoarseness(カタルと嗄声のための良い治療法)