1400
1496 : 15世紀の発声教育については、Franchinus Gaffuriusが1496年に出版した『Practica musicae』に記されている。『歌手は、特に神の秘儀で歌うときには、声を大きく歪ませたり、馬鹿馬鹿しいほど強く叫んだりして音を出してはならない、特に、宗教的な秘儀で歌うときには。 また、ビブラートのかかった横笛のような音も避けなければならない。なぜならば、これらの音は真のピッチを維持しておらず、その連続的な揺れは他の声とのバランスのとれた調和を形成することができないからである。』
1450?: Josquin des Prez ~1521 作曲家。1471~1484年の間システィナ礼拝堂のカントルであった。ルイ12世の宮廷で第1歌手を務める。
1500
1528: バルダッサーレ・カスティリオーネ Barldassare Castiglione (1478~1529) の『宮廷人』における記述。「音楽の味わいは独唱に尽きるのであって、数多くの歌声に耳をわずらわされることなく一人の声の身を聴く時にこそ、演奏者の技や旋律に集中して、どのような細かな誤りをも逃すことなく聞き分けることができるのです。合唱の場合にはおおぜいの声が互いに干渉するのでこうは参りません。それにしても、ヴィオールの伴奏に支えられた朗唱ほどに美しいものはありますまい。その効果がいかに美しく詩をひきたたせるかは驚き以外のなにものでもありません」(カスティリオーネ『宮廷人』第二の書[天野恵訳、東海大学出版会]
1542 : スコアの印刷が始まる。チプリアーノ・デ・ローレのマドリガル集。
1551 : Giulio Caccini ~ 1618 ローマもしくはティボリで生まれ、1560年代半ばにコジモ一世に才能を見出されたテノール歌手で作曲家、フィレンツェで教育を受け、歌曲集《新音楽》1602年の序文は、当時の歌唱法と演奏慣習を理解する上で不可欠の資料となている。[水谷彰良:イタリア・オペラ史 34]
1555:Lodvico Zacconi ~1627 歌手、ヴェニスの教会合唱団の指揮者、と同時に作曲家、著作者、司祭、そして発明家という真のルネッサンス人。Zacconi は音楽史に於いて、多声声楽曲(poliphonic song)がソロの歌である当世風の音楽(the art a la modo)に取って代わり、ソロ・シンガーの名手が合唱団や無伴奏合唱曲(part-song)の歌手の階級から出現し始めた時代に生きていた。 1592年の彼の著書 Prattica di musica 〈音楽の実習〉の中の「よき音楽を作るために選ばれるべき声のタイプについて」というタイトルを持つ章でキアロスクーロに相当する記述をしている。
1561: Jacopo Corsi ~1602 バルディ―のカメラータに対立するサークルの中心人物。ペリ、リヌッチーニ、モンテベルディや詩人のタッソーがそのサークルの常連となる。
1561 : Jacopo Peri ~1633 作曲家、テノール。ぺリは、バルディのカメラータのメンバーではなく、ヤーコボ・コルシの一員。1598年に史上初のオペラと言われる《ダフネ》を作曲し自らアポッロ訳を創唱する。セヴェーロ・ボニーニ『音楽に関する考察(1649/50)によると「聞き手の心を揺さぶり、頑なな心の持ち主にも涙を流させる」としょうさんされている。[水谷彰良:イタリア・オペラ史]
1562 : 東方教会では12世紀から使われていたカストラティが、システィーナ礼拝堂に登場したのは1562年になってからである(1555年にパウロ4世が、礼拝堂から既婚男性をすべて解雇し排除する勅令を出したことが後押ししたのかもしれない)
1573 : カメラータ。フィレンツェのジョバンニ・デ・バルディの私邸に1573年頃から87年頃まで集まり諸学問に関する議論を戦わせた知識人、文学者、音楽家のサークル。
1581 : カメラータのメンバーであるヴィンチェンツォ・ガリレーイ(1520-1591) は、作曲家、著述家、音楽理論家、音響学者であり、天文学者ガリレオ・ガリレイの父親だった。振動する弦の物理的特性に関する彼の系統的な実験(音程の振動数の比は弦の張力の平方根に比例することを証明した)を、古代ギリシャの音楽劇を復元するために行われた。彼は、ハドリアヌス帝の覚えめでたき作曲家であるメソメデスに触発され『Dialogo della musica antica e della moderno 古代の音楽と現代の音楽についての対話』という画期的な論文を書いた。その中で、当時普及したいた対位法音楽を批判して『モノディ』という新しい様式を擁護している。モノディとは、いわば、魂の言葉がそのままあふれ出た語りの歌で、古代ギリシャ人によって発明されたが、その後西洋文明から消えてしまったという。この論文はイタリア人作曲家たちに対する挑戦状であり、その結果誕生したのがオペラである。
この新しい音楽観の普及は、印刷楽譜の増産によって促進された。1600年から1630年にかけて、イタリアの印刷所から200巻以上の歌曲集が出版された。
1589 : 《女巡礼》のインテルメーディオが、メディチ家宮廷音楽家である、カッチーニ、マルヴェッツィ、バルディ、ペーリ、カヴァリエ―リなどによって作曲、ヴィットーリア・アルキレーイの主役で上演される。
サンピエトロ大聖堂で、教皇がカストラティの採用を正式に許可した。
1592 : Zacconi、PRATTICA DI MUSICA utile et necessaria si al conpositore per comporre i canti suoi regolatamente, si anco al cantoreを出版。Zacconi はビブラートの連続使用を推奨しており、これをtremoloytoと呼び、『このトレモロは、わずかで心地よいものでなければなりません。大げさで強引なトレモロは疲れてしまい、人を悩ませます。 その性質は次のようなものです。 その性質上、使用する場合は習慣化され、パサージュ(装飾)の作業がしやすくなるまで、常に使わなければならない[強調:ザッコーニ]。 この動きは、もしそれがただ迅速に、力強く、激しくできないのであれば、行うべきではない。』
1592年当時、ザッコーニはオペラを想定していなかった。バシリーとトージは、劇場だけでなく、教会や偉い人の部屋で歌う人たちのために書いたのだが、そこでは(フーガ的な教会音楽は別として)彼らが細部までこだわった装飾が歓迎された。
1598 : フィレンツェのコルシ邸で最初のオペラとされる《ダフネ》初演、作曲家のヤーコボ・ペーリはマルヴェッツィから歌と作曲を学んで宮廷音楽家となったテノール歌手でもあり、アッポロ役を創唱し、「聞き手の心を揺さぶり、頑なな心の持ち主にも涙をながさせる」と称賛された。 台本はオッタービオ・リヌッチーニ(1562~1621)。
1600
17世紀初頭には、まだ「歌手」という職業すら明確に定義されていなかった。多くの歌手が楽器を演奏し、ある者は伴奏をし(ある者は自分で作曲した)、またある者は歌と演奏を交互に行った。ジュリオ・カッチーニは歌手として、またリュート奏者として有名であった。彼は自作の音楽を作曲し、単一の声を際立たせることで新しい音楽として注目され、最初のオペラのひとつを作曲した;彼の娘たちもまた歌い、作曲した。初期のオペラに登場した他の人たちは、教会に付属する聖歌隊のメンバーであった。また、1608年のモンテヴェルディの『アリアンナ』のタイトル・パートを担当するために緊急召集されたヴィルジニア・アンドレイニのように、歌える俳優や女優であった人もいる。
1600 : 《エウリディーチェ》フランスのアンリ4世と、メディチ家のマリア姫の結婚のため作曲される。リブレットはリヌッチーニ、作曲は、ペーリとカッチーニの2つがあり、フィレンツェ派の劇場様式による。
1602 : Giulio Caccini の歌曲集である“Le nuove musiche” (1602) は、拡張された序文が付いており、その中で、新しい独唱曲に使われるために多くの詳細な歌唱技術を取り上げている。カッチーニは、「豊かで自然な声 (voce piena 〈豊富な〉e naturale) で歌うべきであり、ファルセット(le voci finta, 偽りの声)をさけなさい…彼自身を他の人に合わせることなく。」 彼は、バルディのカメラータのメンバーであり、スティーレ・ラップレンゼンタティーヴォ(モノディ様式)の理論的基礎を築いた。カリスマ的な歌唱が成功の不可欠な要素であったと言われる歌手仲間の作曲家たちとは異なり、カッチーニは、自分の楽譜には、自分以外の歌手による演奏を成功させるための情報がすべて含まれていることを強調している(作曲家が「自分の」音楽を支配し、将来の歌手が加えるであろう新たな工夫を制限しようとした初期の例である)。この時代以降の演奏の歴史は、作曲家と演奏家の創造性のバランスが微妙に変わりながら歩んで行く。
1607 : モンテベルディ《オルフェオ》マントヴァで上演される。マルゲリータ・ゴンザーガ=エステの宮殿で、おそらく10メートル×30メートルもない部屋で行われたことがわかっている。
この作品には、カストラートが3つのエピソード・パートを歌ったが、重要な主役はテノールのフランチェスコ・ラージが務めた;晩年のヴェネツィア・オペラ『ウリッセの祖国への帰還』(1640年)には、明らかにカストラートを必要とする役はなく、主役はバリトンだった。
1632 : Francesco Provenzale ~ 1704 作曲家、教育者であり、ナポリ楽派の先駆者。ニコロ・グリマルディ(ニコリ―ノ)の師匠。
1637 : 3月6日、ヴェネツィア市に最初の商業的オペラハウス サン・カッシアーノ劇場が誕生する。最初の公開オペラは、フェッラーリとマネッリによる『アンドロメダ』で、1637年の謝肉祭の際に上演された。それまでのオペラが招待制の私的なものであったのに対して、このオペラはコメディアの上演に使われていた劇場に観客がお金を払って席を確保するという意味で公的なものであった。それでもなお、劇場は富裕層のためのもので、劇場は貴族の一族が投資として購入した後、興行主が経営と運営を任された。
1643 : 1690年頃までのイタリア・オペラで歌った女性たちの中には、悪名高い者もいたが、それほどの傑出した者はいなかった。他の女性たちは、モンテヴェルディの『ポッペアの戴冠』(1643)のオッターヴィア役であるアンナ・レンツィを賞賛する本を編纂した男性たちのように、自分たちの立派さを宣言するために男性の保証人を必要とした。(Rosselli : The beginings of opera p. 92)
1660 : Alessandro Scarlatti ~ 1725 オペラに於けるナポリ楽派の始祖。
1653 : or 1654 Pier Francesco Tosi ~1732 ソプラノ・カストラート、 作曲家、ソロ・ヴォーカルの教育法に関する初期の重要な文献“Observations on the Florid Song or Sentiments on the Ancient and Modernaliano”を、トージが70歳を超えた1723年にボローニャで初めて出版する。“messa di voce”の命名者。その後(1742年)、イギリスに移住したドイツ人、ヨハン・エルンスト・ガリアード(Johann Ernst Galliard)による英訳版が出版され、イギリスや北米の声楽教育界では、”Obervations on the Florid Song(装飾の多い歌唱に関する考察)”として長く知られている。1757年には、J.H.アグリコラによる解説付きのドイツ語訳 ”Anleitung zur Singkunst” 【『歌唱芸術の手引き』東川精一:訳、春秋社】が出版されている。
1659 : Francesco Antoio Pistocchi ~1726は、1700年頃にボローニャの声楽楽派を設立する。華麗な技術において、弦楽器の演奏の熟練度に匹敵するものだった。彼はアントニオ・ベルナッキ Antonio Bernacchi (1690~1756年頃)の師匠であり、ベルナッキはヘンデルのお気に入りのカストラティであるセネジーノ Senesinoとカレスティーニ Carestiniの師匠でもある。
1668 : Benigne de Bacilly (c. 1625-1690) は” Remarques curieusses sur l’art de bien chanter”(上手な歌の技術に関する興味深い発言)(Paris, 1668) の中で、カデンツと揺れ(tremblement,トレンブレム)を区別した。バシリーは、歌手のカデンツは「自然の賜物」であり、時に遅すぎたり速すぎたりするものだと指摘し、きれいな声とは、「その明るさと甘さ、そして何よりも、通常それを伴う素敵なカデンツ(ここではビブラート)のために、耳をとても喜ばせるものである。」と述べた。
1683 : Alessandro Scarlatti ナポリで活動を開始し、後期バロック・オペラの様式を確立する。
1685:Bernacchi, Antonio Maria ~1736、Pistocchiの弟子でManciniの師匠。
1686 : Nicola Porpora ~1768 。 ナポリ楽派は、声を持続させ(カンタービレ)、動かす(カバレッタ)能力を教育学的目標にしていた。(これらの技術は次の世紀のカバティーナ/カバレッタ・アリア様式で顕著なものとなる。)ポルポラの教え子には、カファレッリ Caffarelli とファリネッリ Farinelliという2人の有名なカストラート、そしてミンゴッティ Mingotti とガブリエリ Gabrielliという高い評価を得ている女性ソプラノがいた。
1686 :インノケンティウス11世 (ローマ教皇)は、修道院や孤児院に住む女性は、たとえ血縁関係があったとしても、男性から歌を習ってはならないと定め、1705年にもこの禁止令は更新された。
1700
初期のオペラでは、装飾の準備のほかに、声楽の表現力、そしておそらく演技力が求められた;オペラでは、室内楽や教会で必要とされる声の大きさを遥かに凌駕するような、特別な種類の声は必要とされなかったパリ、ナポリ、トリノの大劇場では、1790年までにオーケストラの人数は60人ほどに増えたが、それらはほぼすべてガット弦楽器と木管楽器で、現代の同等品よりもソフトなサウンドであった。金管楽器は特殊効果のためのものであり、軽い声でもよく通っていた。[Rosselli 2000 p. 88]
1705 : Farinelli (Carlo Broschi)~82、Porporaの弟子。 Manciniは、彼の息の精通した技巧を称賛して言いました。『何事にも目立つことなく、適切さと蓄えられた息をどのように維持し取り入れるかという知の技巧は、彼を持って始まり、そして彼を持って終わる。』
ファリネッリがポルポラから習ったとされるエクササイズには、驚異的な息の使い方を身につけるためのルッテ・ヴォカーレがすでに存在していた。(R. Miller)
1710 : Caffarelli ~83 ガエターノ・マジョラーノ(1710年4月12日-1783年1月31日)はイタリアのカストラート、オペラ歌手で、芸名はパトロンであったドメニコ・カッファーロから取った。ファッリネッリと同様、カッファレッリもニコラ・ポルポラに師事した。カッファレッリは、歌に夢中になるあまり去勢を希望した、記録に残る稀な例である。10歳のとき、祖母が所有する2つのブドウ畑の収入を与えられ、文法と、特に音楽を学んだ。 彼は師匠ポルポラの愛弟子となり、その師匠は若いカッファレッリを6年もの間、1枚の練習曲集で勉強させ続けたが、やがてこう宣言したと言われている: 「行け、息子よ: もう教えることはない。君はヨーロッパで最も偉大な歌手だ」。
1714 : クリストフ・ヴィリバルド・グルック Christoph Willibard Gluck ~ 1787
1714:Gimbattista Mancini ~1800 イタリアのソプラノ・カストラートで声楽の師匠。ナポリでレオナルド・レオに、ボローニアでアントニオ・ベルナッキに師事した。1774年に出版されたマンチーニの≪装飾の施された歌唱に関する実践的省察≫における口峡についての記述は、口蓋弓(palatine arch, arch of the palate)を含めて10回あります。また、後の多くの著者達も口峡又は口峡柱を記述する際にマンチーニのこの書から引用しています。
1720頃:ベネディット・マルチェッロ著、「当世流行劇場 18世紀ヴェネツィア、絢爛たるバロック・オペラ制作のてんやわんやの舞台裏」小田切慎平・小野里香織 訳、未来社、2002年。
1723 : 著名なベル・カンティストであったトージは、「歌手が楽器奏者に勝っているのは言葉であるという事実を無視すべきではない」と書いている。トージは、母音がすべて完成してからでなければ、声楽の生徒に言葉を使うことを許さなかった。
1727 : ファリネッリは、1727年にボローニャで、20歳年上の有名なカストラート、アントニオ・ベルナッキと出会った。 オルランディーニの《アンティゴーナ》の二重唱で、ファリネッリは声の美しさとスタイルの洗練を余すところなく発揮し、数々の名人芸を披露して大喝采を浴びた。臆することなく、ベルナッキは若いライバルのあらゆるトリック、ルーラード、カデンツァを繰り返したが、それらのすべてをより均等に演奏し、自分の変奏を加えた。 ファリネッリは負けを認め、ベルナッキにグラツィエ・ソプラフィネ(「超絶技巧」)を教えてくれるよう懇願し、ベルナッキは承諾した。
1732 : 教師ピエル・フランチェスコ・トージ歿。彼はロンドンとドイツで成功を収めたが、亡くなった時には、そのキャリアはとうに過去のものとなっていた。彼の最も貴重な財産はベッドと散弾銃と銀時計で、正味の財産はほとんどなかった。
1741: 実験的な声の生理学は、1741年に、Antoine Ferreinによって、摘出された犬の喉頭の公開実験を通じて始められた。Ferreinは、生きている人でのピッチの上昇が主に声帯のさらなる緊張と伸長によって達成されることを明確に確認した。輪状軟骨と甲状軟骨の前方の接近によって、声帯が長くされて声のピッチが上昇することを記述している。
1746 : Domenico Corri ~ 1825 W. クラッチフィールド W. Crutchfield (12,p.293)は、ドメニコ・コッリ が「実用的な例を提供するという点では、おそらく最も価値のある唯一の理論家である」と述べている。1810年のコメント『声の芸術はさまざまな個性がある ― 神聖なもの、深刻なもの、喜劇的なもの、アナクレオン風のもの、カバティーナ、ブラブーラなど―そして、各々のスタイルが異なる才能と訓練を必要とするが、さらに真のイントネーション、声の膨らみと弱まり、言葉の完全なアーティキュレーションは、すべてのスタイルに不可欠である。』
1750~1762 : ジャン=ジャック・ルソー(1712 – 1778)『言語起源論 — 旋律と音楽的模倣について』、1852年パリ・オペラ座で『村の占い師』初演。
1755 : L’art du chant (歌唱芸術) の1755年版に歌手であり著者の Jan-Baptiste Bérar は次のように書いています;『声について考えられる歌唱技巧のすべては、喉頭の正しい上げ下げと、良き吸気と呼気作用から成る』彼のメソッド本の中で、垂直の喉頭の位置についての記述が多く、彼はピッチと母音に合わせて、絶えず変化すべきであると感じていた。
1762 : Girolamo Crescentini~ 1846 イタリアのソプラノ・カストラートで弟子に、Scafati, Garaude。
クレッシェンティーニは、”Raccolta di escercisi per il canto”:『 歌の練習曲集』(1810)のフランス版でvoix éclante (明るい声)と voix sourde (暗い声)に言及した。歌の技巧とは、首のゆるみと息の上の声である
1770 : ミラノから妹に宛てた手紙(1770年1月26日)の中で、モーツァルトはテノール歌手のOtiniについて、「彼は歌が下手なのではなく、むしろイタリアのテノールのように重く歌う」と述べている。
Burneyがこの年にイタリアを訪れる頃には、カストラートの制度は、教養のある人々の間に不調和と羞恥心が一般的になっていたようだ。しかし、カストラティの数がすでに完全に減少していた直接的な理由は、イタリアの親たちが、息子たちが素晴らしいボーイソプラノ声を持っていても手術を受けさせないという一連の決断をしたことだった。これらの決断は、ヴォルテールが執筆していた1730年から40年頃(一部はそれ以前にも行われていたかもしれない)に行われたもので、ヴォルテールや他の風刺作家や「啓蒙的」思想家について耳にしたことのある人はほとんどいなかったが、1630年から40年頃にそのような人たちに匹敵する人たちは、それを問題視することなく去勢を選んでいた。「Rosselli 54]
1771 : アンセルム・ベイリー(Anselm Bayly p.60)は書いています、レチタティーヴォは「表現力豊かでエレガントな話し方であり、(歌手は)雄弁家がどのように(言葉を)発音するかを自問し、文法的なつながりを保ち、重要でない言葉の短い音節をアポッジャトゥーラなしで軽く強め、強調された(言葉の)部分に激しくない適度なエネルギーを与える」と指摘しています。
1774: Chiaroscuro という語が初めて、マンチーニの“Pensieri e riflessioni patiche sopra il canto figurato”で使われた。その中で、マンチーニは、ゆっくりした音階をいかに練習するかという教えを与え、そして次のように言いました。「このエクササイズは歌唱のためのどのようなスタイルにも必要なキアロスクーロによって色づけされたカンティレーナ(叙情的旋律)を形づくる真の表現で、いかなるパッセージも自由に色づけすることを[生徒に]マスターさせるだろう。」(Mancini 1967, 42)
また、声区の問題に関して、「歌手の卓越した技巧は、彼が胸と頭の2つの異なる声区を合わせる多少の困難さを、聴衆や批評家に気づかれないようにすることである。これは限りない改良によってのみ獲得することができる:しかし、これは単純で自然なやり方では容易に習得することはできない。器官の強さの大小によって生まれる欠陥を修正するための研究と努力が必要である。そして声をむらなく一様に響かせ、喜びに満ちたものにする操作能力と効率的使用を手に入れる。これはほんのわずかな生徒だけが達成し、ほんのわずかな教師だけが、実際的な規則、或いは、実行の仕方を理解しているにすぎない。」
また、マンチーニ は、呼吸の節約とメッサ・ディ・ヴォ―チェの問題に触れています。彼は次のよう言いました、『成功のために最も必要なことは、息をいかに維持するか、そしてそれをいかに取り扱うかを知ることである』(Mancini 1967, 62)。彼が主張するメッサ・ディ・ヴォ―チェは、ブレス・マネージメントにおいて高度な訓練を必要とします;『私は繰り返す、生徒は、次に述べる事柄を少しも習得できないならば、メッサ・ディ・ヴォ―チェを実行できると思い込んではならない。それは息を維持し強化し、そして息を取り戻す技である:これはひとえに、声の正しい、そして必須のグラデーションの天賦の才能に左右される』(45)。マンチーニはメッサ・ディ・ヴォ―チェの重要性を繰り返し述べ、それは『歌に重要な美点を与える』そして歌手に『いかなる欠点もなく保持し、グラデーションする』ことを可能にする。その中には、美しい歌唱の『技巧以上の秘密』がよこたわっている。
1775 : 父マヌエル・ガルシア Manuel del Popolo Vicente Rodriguez Garcia(~1832)誕生。セヴィリアの靴屋の息子として生まれた。
1775 : Jean-Baptiste Berard or Jean-Antonie Berardは、L’art du chantを出版、技術的に必要なこととして、胸郭を外側に持ち上げ、横隔膜を下降させ、息の放出をコントロールすることを提唱しており、国際的なイタリア楽派と一致している。
1775 : Vincenzo Manfredini (1737-1799) 『 Regole armonich 』を著す(1775)
1778 : モーツアルトのパリからの手紙;「それから歌手たちは — いや、それらの人々は歌手などと呼べる代物ではないのだ、彼らは歌ってなどいない、叫ぶのだ、のど声で、また変な鼻声で — そして彼らの歌!神よ!!イタリア語のアリアを歌うフランス人女性の歌など、絶対に私に聴かせてくれるな。彼女がフランスのゴミのような金切り声を上げるのは許せるが、良い音楽を台無しにするのは許せない!耐えられない。」
1779:Alexis de Garaude ~1852 フランスの作曲家、教師、歌手。Crescentiniの弟子。
1784 : パリに、「王立歌唱学校、École Royale de Chant」が創設される。この学校はやがて王立音楽学校に組み込まれ、さらに95年開校の「音楽と朗誦の学校 Conservatoire de Musique et de Déclamation 」(パリ国立高等音楽院の前身、通称パリ音楽院)に合併された。[プリマ・ドンナの歴史 I 水谷彰良]
1790~1820年まで、パリ・オペラ座は約1,700人を収容するリシュリュー通りの劇場で上演された。その後、1821年から1873年まで、オペラ座は約2,200人を収容するサル・ル・ペレティエに移転した。サン・カルロ劇場は3,300席だった。
1794:Luigi Lablache ~1858 Luis Lablache(また、Luigi Lablacheとして知られている)はロッシーニの3人目の『天才歌手』であった。そして、万人が認める、当時の最高のバスの声の所有者だった。1818年にナポリのTeatro San Carlino でデビュー。『ドン・パスクワーレ』を含むドニゼッティの8つの役を創唱し、ベッリーニの多くの役を演じる。ロンドンでビクトリア女王の歌唱教師を務める。
1797 : Gaetano Donizetti ~1848
1797 : Franz Schubert ~ 1828
シューベルトの歌曲をどのように解釈すべきかについて、今日では非常に奇妙な見解が存在します。ほとんどの歌手は、大げさに抑揚をつけたり、舌っ足らずな言い方をしたり、情熱的に叫んだり、スピードを落としたりして、ドラマチックだと思われる歌い方で歌えば最大の成果が得られると考えているようだ:私は、パーティーでシューベルトの歌曲が歌われると発表されると、いつも恐れてしまいます。なぜなら、熟練した歌手でさえ、そして彼らなりに音楽的教養を身につけた紳士淑女でさえ、哀れなシューベルトに対して残酷な罪を犯すのが普通だからです。
私は彼の歌を100回以上聴き、伴奏やコーチをしました。とりわけ彼は、リタルダンド、モレンド、アッチェレランドなどを明確に指示する数少ないケースを除いて、常に最も厳格な均等なテンポを守っていました:さらに彼は、解釈において暴力的な表現を決して許しませんでした……
特にシューベルトでは、真の表現と深い感情がすでに旋律に含まれており、伴奏によって見事に引き立てられているのです。メロディーの流れや規則正しく動く伴奏を妨げるものはすべて作曲家の意図に反し、音楽的効果を破壊する行為なのです。[Leopold von Sonnleithner]
1798 : ローマ教皇ベネディクトゥス14世は、女性に課していた劇場舞台の出場禁止を撤回する。ローマでは、ローマ教皇庁が女性の舞台出演を禁じ、この禁止令は1798年まで守られた;女性は貴族の宮殿の半密室で歌い、公共の劇場では若いカストラティが女性の役を歌った。
1800
1801 : Vincezo Bellini ~1835
1802 : Gaetano Nava ~ 1875 1817年から1824年までミラノ音楽院に通い、オルランディ、レイ、ピアンタニダ、フルデリチの指導のもと、歌、和声、作曲を学び,1837年に、彼は音楽学校でソルフェージュの教授の任命され、11年後には合唱と和声の教授に昇進し、その地位は亡くなるまで保たれました。彼の弟子の間で傑出した人が、偉大な英国のバリトン、チャールズ・サントレーです、彼はいつもナヴァの教育の才能に対して感銘を与える証言をしている。
1803 : コンセルヴァトワールは歌唱にける包括的なメトードの著作で有名でした。Bernardo Mengozzi (1758-1800)は、コンセルヴァトワールの発声メトードのための資料を編纂しましたが、この計画が完成する前に亡くなってしまいました。この著作はHonoré Langlé によって編纂され1803年にMethode de chant du Conservatoire de musique として出版されました。メンゴッツィは、イタリアの伝統的、特に有名なカストラートAntonio Bernacchiの教えに基づいたメトードはすべてに時代の音楽に適応されると主張しました。1830年代になって、メンゴッツィの本はAlexis de Garaudé(1779-1852)によって改定、捕捉され、Méthode complète de chant と改名されました。Garaudéは、パリの有名なカストラートGirolamo Crescentiniの弟子で1816年から1841年までコンセルヴァトワールで教えていました。
1805 : Garcia II (Manuel Patricio Rdriguez Garcia)~ 1906
1806 :Gilbert-Louis Duprez ~ 1896
1806 : 12月5日付けの「モニトレー・ナポレターノ」紙において、当時ナポリ王であったナポレオンの兄ジョセフは「女性の声を男性に与えるために去勢者を作るという野蛮な慣習を見るにつけ、陛下は激しい怒りをお感じになっていた。そこで陛下は11月27日の勅令により、去勢者の入学は厳に認めない旨をお命じになった。」と報じている。
1810 : 1810年のドメニコ・コッリから1857年のマヌエル・ガルシアまで、演奏のための曲の準備方法は驚くほど一貫していた。歌手たちは、曲をリードする情熱を知るために、まず言葉の意味を学び、文章の中で展開されているそれぞれの感情を吟味することで、どの感情を目立たせるべきかを決めることができました。句読点を観察したり、重要な単語に印をつけたりして、どこが強調されているかを知るようにした。これにより、歌い手は言葉の感情を自分のものにすることができるようになり、テキストを口述することで、歌自体にどのような表現をすべきかが明らかになりました。そのためには、自然な形で表現することが大切です。 表現手段を慎重に用いることで、それぞれのパッセージに必要なエネルギーやペーソスを与えることができました。
1813 : Giuseppe Verdi ~ 1901
1813 : Francesco Lamperti (父)~1892 『A Treatise on the Art of Singing』は年代不明だが、1860年以降に出版されたと推定されている。F. ランペルティの歴史的なイタリア楽派への最大の貢献は、19世紀のイタリア楽派の基本的な教訓であるアポッジョの呼吸管理の基礎となるルッテ・ヴォカーレ(伊、 Lotta vocale)の記述である。
一定の音を維持するためには、空気をゆっくりと吐き出す必要がある。この目的を達成するために、呼吸器(吸気)の筋肉は、その動作を継続することによって、空気を肺の中に保持しようと努め、その動作を呼気の筋肉の動作に対抗させる。これをlutte vocale(声の闘い(vocal struggle))と呼ぶ。この均衡が保たれているかどうかで、声が正しく発せられるかどうかが決まり、それによってのみ、発した音に真の表現を与えることができるのである。
1814 : 高音コロラトゥーラのスペシャリストであったジョヴァンニ・ダヴィデ Giovanni David は、天然痘を克服し、声にさらに力が備わったと言われ、「そして今……彼は頭声(ファルセッティ)をほとんど完全に忘れてしまったので、さらなる成功を収めるだろう」と評された。
1815 : Garcia(Jr), 10歳、70歳近いGiovanni Ansani(Niccolo Porporaの弟子)からレッスンを受け古くからのイタリアの歌唱法の伝統を受け継ぐことが出来た。実質的なレッスンは、父から20歳になるまで続けられた。
1816 : Francois Magendie, 『Precis elementaire de physiologie(基礎生理学)Paris』、マジェンディは彼の研究の多くで用いられた方法、すなわち犬の生体解剖に頼った。彼の最も重要な研究は、かろうじて「実験」と呼べるものであった。血管を切断しないように甲状軟骨の上で犬の喉を切り開き、犬が遠吠えを続ける間、声門を観察した。マジェンディの結論は明確で揺るぎないものだった。声門の唇が接触していなければ、音は出ない。マジェンディは、低音では声門のひだが全長にわたって振動し、高音になるにつれてひだの一部が小さく振動するのを観察したと報告している。
1819~1822 : Garcia (父)『Exercise pour la voix』を著す。
体勢は直立し、肩を後ろに落とし、腕を後ろに組みなさい。そうすることで胸が開き、顔や体の形を崩すことなく、明瞭で力強い声を出すことができます。
…歌手は決して急いで歌い始めてはならず、常にゆっくりと音を立てずに息を吸うようにしなければなならない。そうしないと、聞いている人に不快感を与えたり、歌手を傷つけたりするからである。…喉、歯、唇は、声が妨げられないように十分に開いていなければならない。この3つのうちのどれか1つにでも厳しく注意を払わないと、喉声や鼻声などの悪い症状を引き起こすことになる。さらに、口に適切な注意を払えば、歌に不可欠な、残念ながらほとんどの人が持っていない、完璧で明確な発音が可能となる。
1821 : Mathilde Marchesi ~ 1913 『Theoretical and Practical Vocal Method』や『Ten Singing Lesson』は、マルケージの声楽教育に対する組織的なアプローチを証明しています。マルケージは、イタリア式モデルに改良を加え、歌唱時には顎を低い位置に下げ、ほとんど動かないようにすることを提案した。彼女が教師として成功したのは、『最初にテクニック、 その後で美学 』という言葉に象徴されるように、システマティックなアプローチの結果であったと思われる。
1821 : John Sims Reeves ~ 1900
1823 : ガルシア家の末妹 ポーリーヌ Michelle Ferdinande Pauline (1821-1910, メッゾ・ソプラノ) 誕生
1824 : Richard M. Bacon(p.73)、「リーディングやデクラメーションの効果は、トーンの質、抑揚、強調、そして完全な停止や休止によって生み出される。歌うことは、同じ作業因子をより大胆に使用することで、これらの効果を高めることに過ぎない。両者の原則は同じである。」「すべての楽曲は、その感情を発した人物を暗示している。したがって、私たちはこの人物を想像し、そのような感情を生じさせるであろう性格と状況とを結びつけることによって、その情熱の激しさの度合いや態度の特殊性を決めなければならない。これは擬人化であると同時に、この芸術の詩でもある。私たち自身が置かれたかもしれない似たような状況を想起するように努めることによって、また、そのような状況が、現実のものであれ模倣的なものであれ、同じような影響下にあるのを見たかもしれない正反対の性格の人物にどのような影響を与えたかを想起することによって、私たちは、感情の一般的な作用と特殊な作用の両方において方向性を与えられるだろう。」(R. Toft 6-7)
1825 : ガルシア一家は何人かの他の歌手たちとともに、ロッシーニ『セビリアの理髪師』のオペラで、新世界へ最初のイタリアオペラの訪問団として、ニューヨークとメキシコシティーを訪れる。当時、ニューヨークのコロンビア大学でイタリア語を教えていた、ダ・ポンテとモーツアルトのオペラを上演しようとするが果たせなかった。
1826 : 1780年代から1800年代にかけて、繊細な陰影のあるペーソスで一躍スターとなったカストラートのジローラモ・クレセンティーニは、他のイクレッシェンティーニは、ロッシーニ風のアリアの最後の部分であるカヴァレッタを特に嫌っていた。カヴァレッタは、それ以前の、しばしば内省的な部分で築き上げられた感情を吐き出すものであり、ギザギザで急速なボーカルラインを見せたり、金管楽器や太鼓の音を強調した大音量のコードの連打で終わったりする。タリアの批評家同様、ロッシーニが管楽器による「多くの音の積み重ねと過剰な騒音」で声を溺れさせたと非難した。
1829 : パリでは、イタリア・オペラがついに確立され、その劇場は最もファッショナブルな場所となった。ロッシーニの音楽に対するヨーロッパの熱狂が最高潮に達した1824年、作曲家はパリに移り住み、細心の注意を払いながら、イタリアとフランス両方の本格的なオペラの主宰者としての地位を築こうとした。そこでの彼の仕事は『ギョーム・テル』(1829年)に結実し、フランスとイタリア両方の過去の多くの実践を総括し、統合しながら、事実上19世紀のグランド・オペラを生み出した。[ Rosselli :The beginnings of opera 95]
1830 : Garudéは書いています、『テノールの声にいつも用いられた頭の声は無限の魅力を持っていた。人は、強さと純粋性でそれを始めなければならない、そして、気づかれない程度にそれを胸声と結合しなければならない。』彼の音楽的実例は、これらの変換音はE4からF#4、すなわち、passaggio(変換調節区間)の音であることを示しています。彼は言いました、『胸声を少し上に広げる、或いは胸と頭の声を結合するためにテノールはvoix mixte を使い、それによって『1つの声区が他の声区に少し加わる。』知的なテノールは『声区を変えることなく』或いは『ハードタイプの変換』(それによって声区間のあからさまなブレイクを予想できるようなタイプ)をさけて特定のフレーズを歌うために、このテクニックを上手く使うことができます。彼の音楽上の実例において、ミックス・ヴォイスはBb4まで上昇します(Garude 1830, 22)
G.B.Velluti(1780-1861)は1830年まで、事実上唯一のカストラートとしてヨーロッパのオペラ界で活躍し、一流の作曲家たちが彼のために書いた唯一のカストラートであった(1813年『Aureliano in Palmira(パルミラのアウレリアーノ)』のロッシーニ、1824年『Il corociato in Egitto(エジプトのコロシアム)』のマイヤベーア)。
1831 : この年は、Gilbert-Louis Duprezが初めてギョーム・テルを歌い、ヴォワ・ソンブリーとウト・ド・ポワトリーヌを発見したと主張した年である。
1831 : 7月革命1周年の日に、ヌーリAdolphe Nourrit はパンテオンで『ラ・パリジェンヌ』を歌い、聴衆を感激させ、一緒に歌い始めた:『男たちは泣き…女たちは気を失い、年老いた者たちは心の奥底で感動を覚えた。』
1832 : Garcia II はヴォワ・ソンブリーにいち早く着目し、1832年にイタリアで初めて耳にして以来、指導してきたという。
1832 : Giovanni Sbriglia ~1916 . 書面でのアドバイスは残されていませんが、優れた弟子を持ち、ヴォーカルペダゴジーに影響を与えたナポリのテノール。Sbrigliaは1852年にサンカルロでデビューし、1860年のニューヨークではアデリナ・パティとの『La sonnambula』でデビューした。Edward de Reszke とその弟のJean(Duprezにも師事)、そしてLillian Nordicaもズブリッリアのスタジオの出身である。
Sbrigliaは、19世紀後半から20世紀のゲルマン派に特徴的だったBauchaussenstütze(腹壁の外への突き出し、ベリー・アウト)に反対しました。Magaret Chapman Byers によって書かれた記事”Sbriglia’s Method of Singing”によって彼のメトードを知ることができます。
1835 : Garcia IIは、1835年にパリ・コンセルバトワールの歌唱教授に任命されたとき、イタリア楽派の歌唱法が十分定着し、広く且つ明確に組織化された環境の一員となった。
ボローニャのBernacchi(1685-1756) のSysteme de la grande methode de Bernacchi;「吸気はショックなしで、そして、腹部を突き出すことなく、生み出されるべきである。持ち上げられなければならないのは胸だけである。吸気は、のみこむこと、或は空気をのむことよりもむしろ吸い込むことにあらねばならない。歌手が呼吸を節約できればできるほど、喉頭での空気を必要としないので、丸い音を出すことができる。そのため、私たちは次のようなルールを推奨している。 話すときの呼吸では、腹部は突き出ているが、歌うときの呼吸では腹部は引き込まれるべきである。話すときには胸は急速に上下するが、;歌唱中は、吸い込まれた空気がより長くもつように徐々に持ち上げられ、降ろされなければならない。」
1835 : マイヤベーアは、『レ・ユグノー』の最終幕を変更しようとするヌリAdolphe Nourrit の絶え間ない欲求に最大の苛立ちを覚えたと記録しているが、後にヌリの助力に最大限の感謝を表明している。
1837: テノールDuprezがParis Opera の『ウイリアム・テル』で、胸のハイCによって新しいイタリア流歌唱スタイルをもたらす。デュプレッ(最後のzは発音するらしい)” Souvenirs d’un chanteur(ある歌手の思い出)” (Paris, 1880 かなり信ぴょう性に欠けるものらしい)、p. 75-6の中で、アーノルドの第4幕のアリアの「男らしいアクセント、崇高な叫び」(’ces males accents, ces cris sublimes’)に我を忘れ、なんの意識的な努力もなく、ウト・ド・ポワトリーヌがただ起こったと書いている。ガルシアは『テル』におけるデュプレのハイCに触れているが、それは暗い音色(timbre sombre)というよりも、むしろ、胸声区に於ける明るい(clair en registre de poitrine)音色の例としてである。( Traite complet, 9)。
1837: Johann Müllerによって着手された実験を通して、大きな前進が成し遂げられた。彼は切除された死体の喉頭をフレームの中につるし、声帯の位置、緊張と振動、と同時に、さまざまな空気圧力の使用の測定可能な変更ができるようにした。Müllerは、それで以下の結論に達した。
(1) 気管気流によって動かされるとき、内転した声帯は人間の声の音と全く同様の豊かで純粋な音を生成する。
(2) 仮声帯と喉頭蓋の喉頭の準備(laryngeal preparation)があるかないかで、有意な差を作る。それらが存在するとき、音はより大きくてより豊かな音を生成した。
(3) 声のピッチは声帯の緊張を増やすことによって上昇する。Müllerは、一方の声帯間の振動と、他方の音楽的な弦またはきちんとはりつめた膜との間の振動の差に気づいた。
(4) 2つの主要な声区(胸声とファルセット)の差は、はっきり見られた。Lehfeldt(1835)が、最初にストロボスコープで、これらの2つの声区で特徴的な振動パターンを観察したあと、Müllerは以下の方法で振動差を記述した。胸音の場合、声帯は活発な方法で、全ての息にわたって広い可動域で振動する;ファルセット音の生成において、振動は声帯内の縁に変わる。
(5) 声帯の緊張が取付けられた重しによって等しくて保たれたとき、増加した空気圧は声の音程を約5度上げた。
(6) 喉頭蓋の下降は、音をより暗くて少し低く聞こえさせた。
1838 : デュプレの前任者アルフォンス・ヌリの妻は、若いデュプレの偉業に肩を並べようとイタリアに行ったが失敗に終わり、それまでの15年間で、イタリアのテノールの声は 「フルート 」から 「ホルン 」に変わったと書いている。
1839 : Giovanni Battista (Giambattista) Lamperti ~1910
1840年頃、発声メカニズムに関する出版物が爆発的に増えた。フランソワ・マジェディ(Francois Magedie)による新しい実験方法の発声への応用、筋肉と神経の根本的な機能の急速な発展、フェリックス・サヴァール(Felix Savart)とピエール・マルゲーニュ(Pierre Malgaigne)による従来の常識への興味深い挑戦などにインスパイアされ、1830年以降、発声に関する出版物が急増した。この研究状況は、1843年に科学アカデミーが「人間の発声のメカニズムに関する」最優秀作品と「発声器官の比較構造に関する」最優秀作品の2つのコンペティションを実施したことで頂点に達した。
また、バリトンも同様に、1840年頃に独特のオペラヴォイスとして頭角を現し、しばしば悪役や支配者の役に起用された。それまでは「歌うバス」、つまり神父や重い父親のようなコロラトゥーラを歌える者として知られていた。
1840 : Luigi Lablache (1794 ~1858)は、Chappellによって出版されたA complete method of singing for the bass voice … with illustrative examples, exercises & progressive studies in vocalization.(バス・ヴォイスのための完全な歌唱法……実例、練習曲、発声の進歩的な研究を含む。)を書いて、その中で、口についてのアドバイスをしています:口は笑いのポジションで、しかし、しかめっ面なしで保たれなければならない、唇の間のスペースは、人さし指の端が入る余地があるぐらい充分に開いていなければならない。あごは、すべての事例で、間違って言われたように、互いと直角のままままであってはならない;、しかし、弟子の口は最も自然なポジションで配置しなければならない。舌は自由に浮遊した状態を保たれなければならない、口の中で可能な限り最も小さな空間を占めるぐらいの位置になければならない。
1840:Scafati, Domenico~1890 イタリアの教師&テノール歌手。Crescentiniの弟子。
1840 : Diday and Petrequin, “Memoires sur une Nouvelle Espece de Voix Chantee,” Gazette Medical Paris, 8, 305.
1840年に、DidayとPetrequinは、上行音階での開いた歌唱は、喉頭の上昇と共鳴管の短縮を伴なうことを実証することができた。対照的に、カヴァーされた歌唱は、深い吸気に伴う喉頭の低い位置によって、特徴づけられる…この共鳴管を長くすることによって、カヴァーされた歌唱は開いた歌唱より、音をより豊かにする[Luchsinger & Arnold 1965 p.103]と、ルフジンガーは肯定的にとらえているが、このメモワールには、後半でデュプレに対する個人攻撃のような記述もあり、それに対してガルシアJrは抗議の手紙をガゼッテに出す。1830年代後半は歌唱理解の歴史において流動的な時期であり、長年信じられてきた確信が疑問視される時期であったことが理解できる。それらのコンテキストによって、ガルシアは『Traite complet de l’art du chant』を出版。彼は、Traité (論文)の第2部で繰り返して言っています、『音質は、管がよく響く波に与える変更によって決まるだけではなく、これらの振動が生まれる場所によっても決まる;つまり、声は、声門でその第1の性質を受け入れ、それから咽頭と口腔の数多くの変更を受け入れる。』
ガルシアJrは1840年代に父の指導書を出版しており(イギリスでは1857年に短縮版が印刷されている)、彼の指導書からは19世紀初頭にロッシーニの歌手の一人が行っていた歌唱スタイルをほぼ正確に知ることができる。[Robert Toft: BEL CANTO p.17]
1840年頃以降、力強さの要求はテノール歌手から他の歌手へと広がっていった。ヴェルディの初期のオペラのヒロインたちは、『ナブッコ』(1842年)のアビゲイルのように、速く、激しく、鋭く歌い、ロッシーニ以上に世界中で人気を博したヴェルディは、レチタティーヴォを削り、アクションを速め、時には声部を金管楽器で二重化することで、イタリアの作曲家たちをリードした。
1841 : ガルシアJrは、1841年4月12日に、彼の Mémoire を科学アカデミーに提出したとき、声区の違いを説明するために何人かの生徒に実演させた。『振動の仕方によってもたらされる各々の変更は異なる音質を生み出す、そして、伝達管が受けた各々の変更は元の音質を変更する。』(Garcia 1847, 1:16; 1984, 29; イタリック体はGarciaによる)またガルシアは、声が上昇するにつれて、喉頭の高さにニュートラル・アプローチを採用している歌手の声が上昇することを観察した:『喉の峡部[壁]を構成するすべての部分は、喉頭と声の漸進的な上昇に対応して、漸進的な収縮の過程をたどりながら、一緒になる傾向がある。実際、口蓋帆(軟口蓋)は下がり、舌は正中線に沿って後方に向かって下がるが、両側が持ち上がり、口蓋帆に近づく。』
ガルシアの論文から、喉頭を下げた状態(ヴォワ・ソンブリー)は1830年代には目新しく、それ以前には知られていなかったことが分かっている、このことはガルシア以前の発声について一定の仮説を立てることを可能にする。(John potter 1998 p. 53)
1846 : 喉頭発声の起源への更なる研究はDodart(1706)とLiskovius(1814-1846を見よ)によって着手された。これらの著者は、人間の声がフルートの音のように生成されると信じていた。彼らは、声のピッチは開きのサイズと推進気流の強さで決まるということを発見した。開きがより小さくなるとき、そして、空気圧力が増加するとき、音程は上昇する。
1847 : ガルシアは、喉頭鏡の発明以前の1847年版 Traitéにおいてすでに書いています: 『声門唇は、後端が合わせられるとき(披裂軟骨の突起の内側を合わせることによって)も、あるいはこれらの端が離れているときも、同じように振動することができる。最初の場合では、音はすべての輝きでもって発せられ;後の場合は、声は鈍い音質になる』
1849 : クレシェンティーニたちは、ロッシーニが歌手に大声を出させることを非難していた。1849年、ロンドンの指揮者マイケル・コスタは、新しく支配的となったヴェルディ楽派は「声をダメにし、歌は今や……単なる叫び声で成り立っている……(中略)……楽園の予感を聞いたあの日々はどこに行ってしまったのだろう」と苦言を呈した。
その後、19世紀後半になると、教師や批評家たちはワーグナーの不満やロッシーニの牧歌的な時代への回帰を口にするようになった。
1848 : Lilli Lehmann ~1929
1849:William Shakespear 6月16日英国クロイドンに生まれる。王立音楽学校に学び、後ドイツに渡りライネッケのライプツィッヒ音楽院で研究しました。そして最後にイタリーに渡り、ミランでランペルティについて声楽の研究に没頭し、帰国して王立音楽学校の教授となりました。『歌唱法』と云う本を出しています。(『声楽三十講』テトラィツーニ著、小松平五郎訳の訳注)
1850 : Francesco Tamagno ~ 1905 ヴェルディの《オテッロ》1887年、でオテッロ役を創唱する。ヴェルディが『オテロ』にタマニョを抜擢したのは、まだこの役を書いている最中のことだった。1905年、タマーニョが亡くなった直後の『ニューヨーク・タイムズ』紙:タマニョは英雄的なテノール歌手としてキャスティングされました。彼の声はクライマックスで最高潮に達し、澄み切った響きとなり、高音を自然な話し方で簡単に弾き出したのです…彼の声は、五線譜の下のCから上のCまで2オクターブに及び、A、B、Cは並外れた音量と音色だった。彼はそれらを完璧なまでに楽々と鳴らし、保持していました。
1855 : この年にガルシアは喉頭鏡で始めて発声中の喉頭を見たとされる。ガルシアの独創的なローヤルソサエティへの研究発表 ‘Observation on the Human Voice’《人間の声の観察》(1855年のローヤルソサエティ会報の中に発表された)において、ガルシアは喉頭の観察と解剖を通じて明らかとなった、喉頭筋の繊維の綿密な観察に基づいて、喉頭の生理学に際立った詳説を提示した。
Dr. Louis Mandl が腹式呼吸を擁護する研究報告をGazette Medicaleに発表し、たちまち世界中に広まる。マンドルの悪影響はいまだにベリー・アウトとして残っている。
1858 : Giacomo Puccini ~ 1904
1859 : 2月17日、ローマ、アポッロ劇場でヴェルディの《仮面舞踏会》初演。初演の後、ヴェルディはその当時の興行師に書いた。「私のオペラに出た歌手たちは歌うのではなく、吠えるのだ。私はほえない犬を探すために、スコアをもってさっさと逃げ出そうと何度思ったことだろう。」
1861 : Emma Seiler の所見は最初1861年にドイツで出版されました;英語の翻訳、The Voice in Singing (1868)は何版かを重ね、Curwen(1875)、Lunn (1878)、Mackenzie (1890)、そしてCurtis (1909)などによって引用されました。
1862 : 音響理論の基礎はHerman Helmholtz の記念碑的書物、On the Sensations of Tone によって築かれた。この本の初版は1862年のドイツで、1885年に Alexander J. Ellis によって英語に翻訳された。(日本では、2014年に「音感覚論」として銀河書籍から辻伸浩のすぐれた翻訳で出版された:山本)その中で、シンガーズ・フォルマントに当たる声の響きを「小さな鐘の澄んだチリンチリンと鳴る音(clear tinkling of little bell’s )」と言った。
1863: Dutroche(1806、Merkelの引用(1863))とMagendie(1816、Merkelの引用(1863))は、ピッチの変化に於ける声帯筋の重要性を発見した。これらの筋肉が収縮するにつれて、声帯の伸縮性は増やされ、高音の生成に寄与する。
1866: バティストによって出版されたパリ・コンセルヴァトワールのメソッドの新版にマンドルの手によって書かれた注釈を含む呼吸に関する章が加えられた。
1866 : パリ言語学会は、言語と音楽の起源をめぐる空理空論にうんざりして、この問題を取り上げることを禁止した。
1868: ロッシーニ没。死後、彼の手紙は多くの一流歌手に回覧され、コメントを求められた。ロッシーニはその手紙の中で、歌手がオペラを創造することを拒否していた。それができるのは作曲家と台本作家だけであり、歌手は解釈することしかできない。歌手が装飾を施したとしても、それは創造とは言えず、損害を与えるかもしれない、というのだ。
1872 : Garcia’s Complete School of Singing 出版。声帯の記述を、はっきりと声帯の軟骨状部分と膜状部分の違いについて指摘しています: 『今後注意しよう、声帯は全体の長さを通じて同質ではない:後部2/5は、軟骨の延長によって、そして前部3/5は筋肉によって形成されている』
1873:Enrico Caruso ~ 1921 エンリコ・カルーソは1914年にリンゲストに、自分の母音が『声帯の下』からきていることを思いうかべたと語っています。また、声帯で息を押すように感じたことはないが、声帯の下で歌ったとも述べている。
1873 : Herbert Witherspoon ~1935.
1875 : Emma Seiler ”The Voice in Singing”を出版する。
1876 : Dr. Louis Mandl はHygine de la Voix (1876)の中で、歌唱における良い呼吸コントロールのための新しい用語を示しました。マンドルはパリの生理学者で、彼の著作はランペルティ派によって彼らの歌唱手引書に取り込まれ引用されました。彼は、呼気筋と吸気筋との『声の闘争(vocal struggle)』を表すlutte vocale という用語を作り出しました。
1877 : Allexander J. Ellis (彼れはヘルムホルツの弟子であり翻訳者)は、影響力のある Pronunciation for Singers (1877) など、何冊かの重要な本を書いた。この著書で、彼はヘルムホルツの声の共鳴の記述を、発声音源と声道の相互作用によって起こる音響現象あることを確認した:『すべての楽音とすべて歌われた母音は、それらが歌われる音の単一の部分音群の相対的な音量によって決定される音質を持つ。そして、この相対的な音量は、空気が直接振動本体で刺激されることによって、部分的に決定され、そして、振動本体によって刺激された空気の振動が、外気に達する前に伝えられる腔の空気の共鳴によって、部分的に決定される』(Ellis 1877, 9)
1880 : Julius Stockhausenは1880年フランクフルトアイマンに彼自身の流派を創設しました、そして、ガルシアを基にした重要な歌の論文はドイツとイギリスの両国で1884年に出版されました。
1882 : Amerlita Galli-Curci ~ 1963
1883 :ロッシーニの友人でセミラミーデのAssur役を歌ったイタリアのバリトンの弟子であるアメリカの歌手Sabria Dawは彼女の著作Artistic Singingで、ハミングに対する3人の芸術家のアドバイスを回想しています:
私の優れた師匠であるバディアリは、口を閉じる練習は声を台無しにすると言って、私に真剣に警告しました(バディアリ)
歯で歌う習慣やハミングの練習ほど人を傷つけ、進歩を遅らせるものはない(ラブラッシュ)
それは声に対して行う最悪のことであり、台無しにするものであり、いつでもどこでも非難さ れるべきである(ガースター)
1884 : Julius Stockhausen (1826-1906) GarciaII の高弟、 『Method of Singing』を著す。
1885 : Mathilde Marches、 coup de la glotte の主要な擁護者の1人、はガルシアを称賛して言いました、『女声における彼の考えとその発展の結果は私にとって啓示でした、そしてそれは私自身の将来のキャリアの基礎となりました…たとえいかなる方法であってもガルシアの教授法に近づけるイタリアの教師はいません』(M. Marchesi 1887, 25, 29)。彼女自身の発声マニュアル、Méthod de chant théorique et pratique:理論的実践的歌唱法(Ecole Marchesi: マルケージ楽派)、初版は1885年パリ、後に重版される。
1886: Lennox Brown & Emil Behnke 『Voice, Song and Speech』初版。
1887 : Franziska Martienssen-Lomann 〜 1971 Der wissende Sänger 1963 (『歌唱芸術のすべて』1994年 荘智世恵、中澤英雄共訳 音楽之友社)
1889 : Emil Behnke『The Mechanism of the Human Voice』出版。
1890 : Sir Morrell Mackenzieは喉頭医、ヴィクトリア女王の臨床医『bedside baronet』で、同時にロンドンの有名なHarley Streetの最初の個人開業医でもあった。彼の有名な著書The Hygiene of the Vocal Organs《発声器官の衛生学》は7版を重ね、初版は1886年、第7版(1890)はガルシアの批判に対するマッケンジーの答えを含み特に重要。coup de la glotte を『喉頭への空気の到達とそれを受け取る声帯の調節との正確な一致』と述べた。同時アタックを背景にする、マンドルとベーンケの権威によってガルシアのcoup de la glotte の最も重要な意味は失われた。ガルシアによって説かれた、短い声門は、Mackenzieによって『stop-closure』とよばれ、その現象は高い音だけで起こるという。(Mackenzie 1890, 56-7,257-77)。
1892 : バーナード・ショーは1892年に、「イタリア人のポーター、隊員、ゴンドラ乗り、氷の荷車に積まれた雑貨屋など、ハイ・Cを叫ぶことのできる者を選び出し、英雄的な役柄に押し込め、世界中を轟音とともに駆け巡らせ、あらゆる都で、強力な汽笛を備えたスチームローラーのように、凋落したドラマの死体の上を通過させる……」と書いている。
1893 : Clara Kathleen Rogers (1844-1931) “The Philosophy of Singing” を出版。クララ・ドリアの名で歌ったイギリスのソプラノ。1871年に渡米し、ボストンで歌唱教師を務め、1902年からはニューイングランド音楽院で歌唱の教授を務めた。歌唱上最も崇高な問題である、魂、心、感情などを扱った心理的、哲学的論考。
1894:Manuel Garcia II, “Hints On Singing“ 出版
1895 : Joseph Joal、マンドルの腹式呼吸に反対して“On Respiration in Singing”を出版する。ベリーイン、ベリーアウトの論争が具体的に書かれていて非常に面白い。
1897 : 『local-effort(局所努力)』と『no-effort(努力なし)』の2つの陣営が知られるようになりました。1897年にニューヨークの発声教師で著者のEdmund Myerは、19世紀の歌唱法は科学者から育ったもので、歌い手からではないと言い、歌唱の『新ローカル・エフォート派』をリードしました(Myer 1897 1897, 20)。かれは、このような局所の活動は『野蛮な行為の名残である、それゆえ声の使用のすべての原則に反して有害である』と主張しました。彼は『発声器官の自然で自動的な調節は良い発声の結果であると信じられる、そして発声器官においては干渉しないこと、または、局部のコントロールしないこと』であるべだと言いました。
1899:Gaetano Nava(1802~1872) Practical Method of Vocalization for Bass, or Baritone 出版。この本の中で、口のポジションについて、このように語っています:「優れた歌の流派が定める規則は、上の歯が下の歯のすぐ上に来るように口を開き、少しの不快感もなく、ほとんど微笑みながら、その位置で自然な適性と優雅さを保つことである。」
1900
1902 : Lilli Lehmann, Meine Gesangskunst 初版、1924年に英語版がRichard Aldrichの訳によって出版される。 20世紀初頭の大ソプラノであるGalli-Curciは、「Lilli Lehmannの本(”Meine Gesangskunst” 1902)は歌唱についてのこれまでに書かれた最も重要なものに思えます、それはどのような細かい説明に於いても全く完璧です。彼女は声を知るためのすべてを実際に理解する偉大な芸術家です。もっとも、訓練された歌手のみが彼女を完全に理解することができ、彼女のレッスンから最も豊かな利益を引き寄せることができると思います。」 Richard Millerは、主観的かつ具体的で、いくつかの伝統を取り入れており、最終的には生理学的、音響学的な検証によって、彼女の個人的な発声法を正当化しようとしているように見えるが、その多くは不正確であるため、流派によって分類することは容易ではない。
1905 : Francesco Lamperti(父) A Techniques of Bel Cantoを出版。
1906 : 「一般的に、練習の初期段階では、子音を放っておくことが多いが、1つだけ例外がある–L の文字である。 これは、良い音を出すための自然な位置として、昔の師匠のほとんどが推奨している。」 [Henderson, The art of the singer p. 53]。
1907: 歌の先生には、とにかくいろいろなタイプがいた。1907年と1909年の年鑑には、ミラノに57人、ローマに37人の名前が掲載されている。1また、1907年の時点で、パリ・コンセルヴァトワールのテノール歌手はヘッド・ヴォイスで歌わされていた。
1907 : Basel (Switzerland) のJacquet は、「pneumatic differentiation cabinet」を用いて、実験した。そのcabinetの中では、被験者が、その中に座って、外界と管を用いて呼吸でき。送風装置を用いてチャンバの内圧を変化させて、大気圧より低い圧にしたり高い圧にして資料を得た。内圧を変化させたときの安静状態での被験者の一回換気量を計測し、初めての弛緩圧曲線を得た。
1909 : ガルシアのcoup de la glotteをめぐる大論争。戦線ははっきりと、堅固な声門閉鎖によるcoup de la glotteが良き歌唱の鍵であると考えるGarcia-Marchesi派と、誤用と言われるcoup de la glotteに対する防御手段としての、ゆるいオンセットとリラックスした喉頭を擁護するCurtis, Lunnその他との間にひかれた。
1910 : no-effort楽派は世紀の変わり目の後まで隆盛をきわめた。David Alva Clippinger、シカゴの歌手であり合唱指揮者は言いました、『最も重要な身体感覚は、いかなる努力も存在しないことだ』(Clippinger 1910, 4; Monahan 1978, 181)New Light on the Old Italian Methodにおいて、David C. Taylorはlocal effortのすべての形について語りました。『喉のつかみを緩めることによる間違った行為をやめなさい、そうすれば自らそれ自身が調和し明瞭になります。』
1911 : Dr. Schilling, “The Mechanism of Covering The Tone” (1911) カヴァーされた歌唱に於ける喉頭の下げられた位置に関する証言。「さらに、カヴァーされた歌唱の本質は、喉頭蓋の上昇、そして、舌根と喉頭蓋の間の空間を広げることからなることが明らかとなった。」
1911 : ヘルムホルツ、ケーニッヒ、ウィリス、ウィートストン、アプム、ベルなどの研究により、母音にはそれぞれ固有のピッチがあることが示された。 母音の自然な共鳴では、ee は頭の中で最も高く、ah は音階の中間に位置し、oo は共鳴の中で最も低い [Fillebrown, 1911] 。
1912 : 「開いた」母音と「カバーされた」(または閉じた)母音のPielkaの研究(1912)を引用する;「男性歌手は、すべての母音をc1の下で完全な純度によって歌うことができる。発声器官はその場合、主に喉頭の上昇によって、開いたポジションである。c1のこのニュートラル・ポイントより上で、カヴァリングのテクニックが、純粋な母音を生成するために必要とされる。カバリング・テクニックを通して母音音色をより暗いタイプへ移すことは、主に喉頭を降ろすことによって達成される…」
Pielkeは、開いた歌唱時に、第2倍音が優勢になることを観察した、一方で、カバーされた歌唱は弱い第2倍音を示した。反対に、カヴァーされた歌唱は、強い基音と豊かなスペクトラムのより高い倍音によって特徴づけられた。[ Luchsinger & Arnold 1965 p. 103]
1914 : エンリコ・カルーソはリンゲストに、自分の母音が「声帯の下」で発せられることをイメージしていると語った。彼はまた、声帯から息を押し出すような感覚はなく、声帯の下で歌っていると述べている。
1916 : David C. Taylorはlocal effortのすべての形について語りました。『喉のつかみを緩めることによる間違った行為をやめなさい、そうすれば自らそれ自身が調和し明瞭になります』(Taylor 1916, 84-5)。彼は声の科学を全く認めませんでした、そしていうには『声の訓練の科学的な方法は全く失敗している。この事実は証明なしで立証されなければならない。この問題は、実際に関係するすべての人にとってよく知られていることだ』(70)。むしろ彼は良き体と心の耳だけを要求する『ナチュラル』な歌唱を擁護しました。
1925 : マイクロホンとアンプを活用する電気録音技術が登場する。『私は、我々の声がだんだん小さく小さくなっているという事実を遺憾に思う… …[そして、マイクによる]音質または特異性のない小さい声は、機械的な手段で補強され、そして、前の時代の、長年の考察と研究してきたものの代用となる。…まったく、我々は、将来の世代で、目の前のマイクに助けを求めるようになるかもしれない…』(ヘンリー・ウッズ『わが音楽人生』1938年より)
一方でマイクによって大きな歌唱スタイルが変化したのがアメリカンポップスに於けるCrooningのテクニックである。ビング・クロスビーの初期のレコーディングは、1920年代のダンスバンドで娯楽的な位置づけでしたが、1931年までに彼はクルーナーの表現力を深め、前面に押し出し、恒久的な歌の革命の先駆けとなった。
1923 :Douglas Stanley ”The Science of Voice” 初版、1932,1939,1948, 1958の5版へと再版されている。出版社は、Carl Fischer, New York. Cornelius L. Reidの師匠、面白いが独断的。
1925 : Witherspoon、『Singing』を出版。 「正しい動作が生まれないときは、歌う代わりに、単に言葉を『発音』するようにしなさい」[ p.107]と提案している。
1926 : プッチーニはRosa Raisaのために『トゥーランドット』を作曲した。ロンドンとブエノスアイレスでライサと共に歌ったカルーソは、彼女を『世界で最も偉は大なドラマティック・ソプラノ』だと評価していました。ライサはライサの師であるバルバラ・マルキージオは、1860年にソプラノの姉とともに『セミラミデ』でデビューし、ロッシーニに「魂に響く歌の持ち主」と評された。
1931 : William Earl Brown 『Maxims of G.B. Lamperti』ブラウンがG.B.ランペルティの学生でドレスデンでアシスタントをしていた1891年から1931年にかけて集められたもの
1934:Bartholemew は上手なオペラ歌手は3000Hz近傍にエネルギーを集めることが必要であることに気づいた。(後に、シンガーズ・フォルマントと呼ばれるもの)
1938 : Flagstadの舌に関する声明、キルステン・フラッグスタートとのインタビューで、彼女は舌の位置について語りました。彼女は[ng]を「声の銀の糸」と呼びました。彼女は、[ng]がより大きな音を出すための音響的な中心を作り出すと述べました。ŋ
1942 : 声門圧搾は1942年にJoel Pressmanによって調査され、彼は高音の歌唱において声帯振動は声門の前方2/3に限定されることを発見した。これはよく『Pressman’s damping factor』と呼ばれる。
1942 : 千葉勉、梶山正登 共著 『THE VOWEL – Its Nature and Structure』が東京開誠館から英語で出版されるが、対米回線のため世界の音声学界から無視される。日本語の翻訳、「母音 その性質と構造」訳:杉藤美代子、本多清志は、2003年に岩波書店から出版される。
1947 : 発声教育学(vocal pedagogy)という用語は、次のように解釈することができる:歌唱芸術の発展、練習、実践に関する原則、規則、手順の集合体、および歌唱における発声のための個人の生まれ持った能力を、所定の学習課程または技術的規律によって訓練する過程。[Fields : Training the Singing Voice 1947, p.16]
1949 : William Vennard, “Singing“ 初版 第2版1950年、第3版1964年、第4版1967年
1950 : Franklin Kelsey, “The Foundations of Singing” Flanklyn Kelseyはガルシアのクー・ドゥ・グロッテが広く誤解されていることに対して『声帯の完全な閉鎖の確立と維持は歌におけるカギとなる問題である…それを教えられない者は真の歌を教えることはできない、なぜならば、それは、歌手が思い通りに、有害な音にならないために、空気を含まない音声で歌い始めるための唯一の手段であるからだ(Kelsey 1950, 14 強調はKelseyによる)。『それほど多くの偉大な歌手がcoup de la glotteを練習し、推薦したからには、答えはきっと、すべてはどのように成されたかに掛かっているに違いない』と、彼は主張しました。
1952 : 1952年、歌手と俳優の治療を専門に研究する高名なイギリスの喉頭医Norman PuntはHenry Holbrook Curtisのcoup de la glotteに対する拒絶に共鳴し、それは声帯上に、通常左右相称の小さな良性腫瘍の小結節の原因になると信じていました。かれの治療法はリラクゼーションでした:『我々は再び強く訴えます、もしあなたが高音を静かに歌えたとしても、それを決して歌ってはならない、あるいは、このような音は多くて週に2~3回にとどめるべきである。もちろん、実際このアドバイスに厳密に従えば、オペラのレパートリーにいくらかの不都合が生じるのは十分理解しています。しかし、我々はこれを助けてあげることはできない。我々は助けるために努力し、そして助言します。天は彼らが必要とするものを知る!』(Punt 1952, 54)
1954 : Franklin Kelseyは書いています、『もし、Manuel Garcia が、coup de la glotte(声門の打撃)の呼び名を考える際にcaresse(軽く触れる)de la glotteをあてていれば、その後の多くの誤解は防げていただろう』(Kelsey 1954, 56)
1955 : Stevens & House’s Rule 舌の高さ、舌の前進、唇の形状の3つの変化によるF1,F2,F3の変化についての研究。
1956 : 母音の個別性に関して、Young (1956, p. 25)は次のように述べている。「異なる母音は、2つの空洞の共鳴の組み合わせが異なることから生じる。すべての母音は、その母音の上下の音の高さ、いわゆる 『フォルマント 』を持っており、喉と口の共鳴がそれぞれこの2つのフォルマントに対応するときに聴こえる。」」
1958 : Janwillem van den Bergはベルヌーイ効果は発声の間にも働いていると説明しました。Van den Bergは発声の『筋弾力線維性空気力学』理論を提案し、声帯振動は筋肉と空気力学の組み合わせとして説明されている。
1958 : 12月、マリア・カラスは『Arts Magazine』のインタビューに応じ、フレーズの抑揚についてこう語っています:
すべての音符、すべてのフレーズには正確な意味があり、それは会話のように実に多様です。声のトーンを変えることなく、様々な感情を表すのを聞くなんてぞっとしませんか?ハイフェッツやパデレフスキ、その他多くの偉大な芸術家たちのように、あらゆる音楽の役割を完璧に学び、演奏しなければなりません。私たちは、彼らのようにフレーズを正確に調整(modulate)しなければなりません。もし私たちの声が楽器と同じ規律に従えないなら、歌うべきではありません。[J. Anderson, 21 Inflection, Tip 243]
1960 : Gunnar Fant, “Acoustic Theory of Speech Production” 初版。線形音源フィルター理論の先駆けとなる。
1964 : William Vennardは、息によって発声を始める手段として『イメージのh』を用いるとき、『この研究に於ける他のいかなるアタックよりもガルシアによって述べられたcoup de la glotteに最も近づく。音が始まる前に1/4秒の間息の流れが存在するが、その息の音を耳は感知できない、何故なら量が少なく流れがスムーズだから。この瞬間的な息の流れは声帯を素早く吸い上げるので、息がそれらを打つ感覚がする…これは、ガルシアがcoup de glotteについて話すとき、彼が心の中に抱いていたアタックであると著者たちは確信している』(17-18)
1965 : 『[リラクゼーション]とは通俗的な考えであり、正常な生理的機能の誤った理解に基づいており、それが広く誤用されている…「リラックス」すること…は一般的に活動性の不在を意味する。』といい、歌唱に於ける声の機能は…はるかに複雑であると指摘し…『実際には心と体とよく調節された筋肉の緊張などを、注意ぶかく待機することは、通常の機能的な体のための特徴であり…使用中であろうと停止中であろうと、筋肉はすべて正常な状態にある;完全なリラックスとはただ死以外にはない』(Brodnitz 1965, 90)。
1967 : Carl e. Seashoreは、『音楽心理学』( p. 46)のなかで次のように述べています。
「ビブラートの美しさは、音のすべての属性における正確かつ均一なものからの芸術的な逸脱に見られます。」
1967 : D. Ralph Appelman, “The Science of Vocal Pedagogy” 初版
1968:『声帯が可能な限り緊張させられ長く引き伸ばされたとき、音程のさらなる拡張は異なるメカニズム、すなわちダンピング(制振)によって成し遂げられなければならない。声帯後部は非常に堅く閉鎖され、振動には参加しない。その結果振動する声門の長さはかなり短くなる』(Zemlin 1968, 195)。
1973 : Morton Cooper は『伝統的な視点は、リラクゼイションは声のリハビリに優先しなければならないか、伴わなければならない。』しかしながら『正しい音程、声の焦点、音質、音量などを定め、維持するプロセス、そして息の支え自体は緊張のプロセスである』(Cooper 1973, 71)
1987 : John Sundberg, “The Science of The Singing Voice” [歌声の科学、ヨハン・スンドベリ著、榊原健一監訳、伊藤みか、小西知子、林良子 訳、東京電機大学出版局、 2007年]
「おそらく喉頭の高さと発声の間にも相互に関係があると思われる。例えば、喉頭が上昇しなければ、音源はより安定した動作をするであろう。その一方で、あくびの声に典型的に見られる気息性の性質から推論されるように、喉頭の下降は、しばしば、声門の外転と関連づけられる。これにより、「歌手のフォルマント」を獲得するには、喉頭を下げるだけでは十分でないとわかる。』(歌声の科学、134ページ)
1994 : Ingo R. Tize , Principles of Voice Production [音声生成の科学、発声とその障害 新美成二 監訳、田山二郎 今泉敏 山口宏也 訳、医歯薬出版株式会社、 2003年]
1998 : Zemlin, ”Speech and Hearing Science : Anatomy and Physiology ” 第4版出版。初版は1968 年。[ゼムリン、言語聴覚学の解剖生理 舘村卓:監訳 浮田弘美、山田弘幸:訳 医歯薬出版株式会社。 2015第1版第5刷り] ]
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